松平元(つかさ)が新品のチョークを握って黒板全体にカカカッと大きく文字を書いた。
そして振り向き様、席に座るクラス全体を見渡して、黒板をバンと叩いて開口した。
「誰がテンムちゃんを殺したか!?」
二月も中盤に差し掛かろうとしていた十日の放課後「皇武美殺人事件」の白墨文字を背に元は続けた。
「事件が発生したのは二日前の水曜日。あれだけ元気だったテンムちゃんが急に姿を見せなくなった。あれだけ私たちの詩吟を楽しみにしていた担任のテンムちゃんが休むのもおかしいわ。第一、一人暮らしの女教師が三日も行方をくらますなんてこれはもはや誰かに殺害されたに違いないのよ」
「松平君………」
黒縁眼鏡をクイと上げて石田三大(みつひろ)が何かを言い掛けたが元が遮った。
「待ちなさい、石田君。今良いところなんだから。犯人はそうね、このクラスの中にいる」
元はゆっくりと立てた人差し指の指先を教室中に泳がせて、やがてビシッとある人物にそれを向けた。
「犯人はあなたよ、石田君!」
「は?」
三大は白い目で元を見た。
「動機は、そうね、算数の小テストの採点で百点を取れなかった逆恨みってトコかしら。数字がきれいに書けてなかったから減点された。それを根に持ってあなたがテンムちゃんを殺したんだわ!とっとと吐きなさい。今なら罪は軽くなるわよ」
スマホのライトを三大の顔に近付けて元は不敵に笑った。
「松平君、君ね………」
「おっと、言い逃れはダメよ。それよりカツ丼でも出してあげたら白状するのかしら」
おりゃおりゃと自白を強要する刑事さながら三大で遊ぶ元に小早川吉継は苦笑いした。
「何の茶番劇だ、これは?」
確かに担任の皇武美は三日休んでいる。
しかしそれは単に風邪を引いたためで別に殺人事件に巻き込まれた訳ではない。
インフルエンザでもなくてただの風邪だから心配は要らない、と副担任の柴田克子が水曜の朝に説明していた。
学校では毎年子供の何人かは風邪で休む。教師もそんな子供と接する機会が多いので必然ウイルスに感染する。少しでも油断すれば風邪も引く。
ただでさえ激務と評価されている小学校教師はストレスも溜まるし、まして武美は一人暮らしで食事・洗濯・掃除などの家事も、体調管理も全て一人でこなさなければならない。
たまに、吉継の店である「ひすとり庵」に食事にやってくるが、店内の客は皆武美の職業を知っているので、酒も遠慮してほんの少ししか飲まない。
子供の規範となるべき教師はいつも正しくあらねばならないという田舎の目もある。
教師というのも大変だな、と吉継はつくづく不憫に思っていた。
するとここで隣の、福井から転校してきて間もない大谷秀晶が、元の三文芝居を見て唐突に吉継に問い掛けてきた。
「ねえ、ヨシ、刑事ドラマの、取り調べのカツ丼って何でみんな卵とじなの?変じゃない?」
「………は?晶まで何つられてるんだよ」
しかし指を唇に当てて秀晶は真剣に考えていた。
「だって敦賀じゃカツ丼ってたらソースカツ丼だしさ。福井県警が舞台ならヨーロッパ軒から取るのかな?」
「あのな、そんなローカル設定なんて誰も気にしないだろ」
吉継は呆れた半眼で受け答えをした。そもそも取り調べでカツ丼というベタな設定はドラマだけの話であり、実際は「利益誘導」という警察の違法行為に当たるのでありえない。
ちなみに牛のマークで有名なヨーロッパ軒は福井ソースカツ丼の元祖であり、特製ウスターソースが染みた三枚の薄めのサクサクトンカツが千切りキャベツなしの丼に乗っている。
「好みは重要だよ。私だったら卵とじなんて出されたら絶対に自供しないし」
「犯人側か!」
力説する秀晶に吉継は突っ込んだ。
「あ!あと、刑事の張り込みの食事ってワンパターンだよね。昔はあんパンと牛乳だったんでしょ。あれ、フランスの警察じゃバゲットサンドとカフェオレだったりして」
「どこのパリジャンだよ………」
「それにさ、ドラマ中に立ち食い蕎麦が出てくるけど、あれ、ザル蕎麦か、かけ蕎麦だよね。それも好きだけど私は越前おろし蕎麦がいいなあ。辛味大根がきいて美味しいの」
転校してきてから一月も経っていないのにもうすっかりクラスと、依巫仲間の吉継に馴染んだ晶は殆ど毎晩ひすとり庵に立ち寄って賄い飯(まかないめし)を共にしていた。そのためか食いしん坊キャラと化した秀晶に苦笑いしつつも吉継は説明した。
「特に麺類は地域差があるからな」
「だね。東京は蕎麦、大阪はうどん」
東日本と西日本の定番のイメージを秀晶は挙げた。
しかし吉継は仰々しく指を振った。
「ところが個人個人の好みはどうも違うらしい。去年のあるアンケートじゃ意外な結果も出たんだ。例えばうどんの印象がある四国でも愛媛は蕎麦好きって分かった」
「そうなの?四国ってみんな讃岐うどんばかり食べてるかと思ってた」
「でもない。徳島と高知も蕎麦派とうどん派は半々だったし。観光物産として勧めている食べ物と、県民食が違うなんて珍しくないから」
「ああ、愛知県人だって毎日エビフライと味噌カツ食べてるんじゃないもんね」
「福井も蕎麦よりカニとか魚の印象が強いかな。蕎麦の収穫量は全国五位なんだけど、北海道とか長野の産地が有名だから少しおされてしまってるのかも」
「むむ、越前蕎麦美味しいのに。PRが上手じゃないのかな」
秀晶は悔しげに唇を尖らした。
「何々、麺の話なら混ぜてよ」
と二人の間に入ってきたのは畔田長月である。
長月は秀晶の背中から抱き付いた。
「晶は蕎麦派なんだね」
「長月は?」
「私も蕎麦かな。インターの近くに『幸山』って美味しい店あるよ。二枚とか平気で食べれちゃう。役場側の『田しろ』もいいし。今度休みとかに一緒に食べに行こうよ~」
「あ、いいね」
大騒動&仲直り以来、秀晶と長月は無二の親友になっていた。今では仲が良すぎてベタベタである。
「ヨシは?蕎麦?うどん?」
秀晶に寄り掛かりながら長月が質問してきた。
「俺か?俺は両方かな」
「なーに、その波風立てない模範的な解答は?」
「嫌らしいジト目をするな!本当に両方とも好きなんだよ」
吉継は日本地図が書かれたプラスチック製下敷きの県を次々と指さした。
「うどんも讃岐以外に秋田の稲庭うどんとか山形のひっぱりうどんとか、栃木の耳うどん、群馬の水沢うどん、近場だったら伊勢うどんもあるし。蕎麦だったら長野の信州蕎麦ももちろん島根の出雲蕎麦、新潟のへぎ蕎麦、山口の瓦蕎麦だってある。どれも麺と出汁が違うんだ」
「へえ、蕎麦も色々あるんだね」
「比較的育てやすい植物だからな。だから日本中に広がった」
ここで秀晶が意外そうな面持ちを向けた。
「え?蕎麦って育ちやすいの?すごい大変そうな印象あるけど」
「いや、『蕎麦は土地の肥痩(ひせき)を論ぜず』って荒れ地や寒冷地でも生育する強さがある。日本は山林が多いって地理で習ったろ?」
「あ、うん、平地の面積が少ないんだよね」
「そんな山林で水田を作ろうというのは大変な労力だし、蕎麦は救荒食物(きゅうこうしょくもつ)としても勧められたんだ」
「何、それ?」
「飢饉とか災害とかに対して備える食物。他に粟、稗、麦、黍とかがあるよ。特に蕎麦は気温差が大きい寒冷地で育つし、蕎麦の実は長期間の保存もきく。『蕎麦七十五日』といって種蒔きから収穫までの期間が短くて、場所によっては一年で三回穫れるくらいに丈夫な利点もあるし」
「へえ、そんなに!」
「それに蕎麦は日本だけじゃなくて海外でも使われているんだ。フランスじゃ蕎麦粉はブレ・ノワール、黒い小麦って呼ばれてる。晶はガレットって知ってるか」
「んー、ガレットねえ………確かお菓子屋さんで見たような」
秀晶はショーケースに並んだクッキー生地の菓子を思い出したが、吉継は「それとは種類が違うよ」と首を横に振った。
「早い話が蕎麦粉のクレープなんだ。ブルトン語で『平たくて丸いもの』を意味してる。具材をその皮の上に乗せたり、折りたたんだりして食べる。フランスのブルターニュ地方じゃ天候が恵まれず土地も痩せてたから小麦の生産が難しかった。だから蕎麦を作ったんだ。それで出来た料理がブルターニュ風ガレット、いわゆるガレット・ブルトンヌだよ」
吉継は色々な食材が乗ったスマホのガレット画面を見せた。
ガレット・ブルトンヌとは蕎麦粉に水と塩を混ぜて、鉄板で片面だけを薄く焼き、肉や魚介、鶏卵などを添えて食べる、クレープの原型ともなった料理で、昔はパン代わりとして主食を担っていた歴史がある。
「ガレット・ブルトンヌは日本じゃ菓子としての方が知名度があるけどね。今でもブルターニュに行くとガレットはリンゴ酒や発酵ミルクと共に普通に料理として食べられてる」
「へえ、代用ってのはフランスも日本と同じなんだね」
「クレープリーといってフランスにはあちこちにクレープ屋があって、そこでもガレットは食事として人気だよ。それに日本でも蕎麦は万能だから農民はこぞって蕎麦を蒔いたんだ。それが各地に広がって今の蕎麦文化となった。ただ今の麺の形になったのは江戸時代からだけど、蕎麦はリジンとかトリプトファンのアミノ酸や血管を強くするポリフェノールのルチンが多く含まれていて栄養面でも優れているんだ」
「ふうん。結構健康食なんだね」
「それに晶はさっき越前おろし蕎麦の事を話してたけど、ここの近くにある伊吹蕎麦がそれに似てるかな」
「伊吹蕎麦?」
「滋賀県の蕎麦で、蕎麦発祥の地としても知られている伊吹山の麓の有名な蕎麦なんだ。伊吹山は石灰質の山で寒冷地だから甘味の強い蕎麦が出来る。それを伊吹大根って辛み大根で食べる。『伊吹蕎麦天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む』って記録もある。そこは越前蕎麦と同じ。伊吹山に近い関ヶ原でも最近『玉倉部(たまくらべ)蕎麦』を始めて、鍾乳洞の隣の食堂で食べられる。県の名水百選に選ばれていて蕎麦も美味しいから時期になったら行ってみるといいよ」
「美味しそう。じゃあ、ヨシ、その時は連れてってよ」
「え?いや、俺じゃなくてせっかくだからお母さんと行きなよ」
秀晶の母の東有子はグルメであるが、未だ関ヶ原の店をよく知らない。転校前後の一時は母娘関係が断絶していたが、お互いの誤解が解けて今では仲良し親子となり、頻繁にひすとり庵に食事に訪れていた。
吉継はひすとり庵だけでなく他の店舗の味も知って欲しいという意味で勧めたのであるが、秀晶は単に面倒事を避けたと勘違いしたらしい。
「だって、私達まだ関ヶ原に詳しくないもん。一緒にいこっせー」
のうのう(ねえねえ)とおもちゃをねだる子供の様に秀晶は吉継の袖を引っ張って、そしてニヤリと口元を緩めて呟いた。
「人助けだと思ってさ」
ドクンと赤青二色鉛筆のささった胸ポケットから脈打ちの衝撃が来た。
(晶、お前、図ったな!)
「よろしい、晶どの。吾が付き添いをして進ぜよう」
瞬く間に吉継の体に憑依した金吾は胸に手を当てて堂々と応えた。人助けが大好きな小早川秀秋の霊が吉継に霊依(たまより)しているのである。
吉継は例によって秀秋に聞こえなくても叫んだ。
(こら、金吾、だから主人の俺を無視していつも勝手に決めんな!)
「ホント!約束だからね!」
言質を取り嬉しそうに腕を振る秀晶に、吉継はドクンと再び心臓が脈動し元に戻った。
【ちょっと刑部どの、金吾を利用するなんてあなたの主人、策士じゃありませんかね?】
ヒクヒクと口元を痙攣させ吉継は秀晶の机に置いてあるMONO消しゴムに、アルス・マグナというテレパシー相互通信を経由して思わず嫌味をぶつけた。
吉継の所持する二色鉛筆に乗り移っているのは小早川秀秋であるが、秀晶の消しゴムに憑依しているのは大谷刑部少輔吉継の霊である。
【まあまあ、貴公。大目に見てやってはくれぬかの。吾からも願おう】
【………う、刑部どのに頼まれると仕方ないですね】
吉継少年は同じ名を持つ刑部を世界一崇拝している。だから急にデレッとする吉継に、アルスで立ち聞いていた主の秀晶が吉継に膨れ面を近付けた。
【ちょっと何で刑部なら直ぐOKするの?生身の私の誘いは渋ったクセに】
【いや、ほら、刑部どのは俺には神様だからさ】
「ちょっと顔、近い近い!」
グイと力任せに秀晶を引き離した長月は二人を訝しげな表情で見た。
「何かヨシと晶の様子、最近変だよ。目で会話してるみたい」
察しの良い長月はジイーと疑惑の視線を向けてくる。吉継は取り繕って問い返した。
「そ、それよりさ、蕎麦党のクロはうどんは嫌いなのか?」
「え、別に嫌いじゃないけど。チェーン店のうどんも食べるし、カレーうどんも好きだし、名古屋行くと、きしめんとか味噌煮込みうどんも食べてくるから」
岐阜は日本の中間地点にあるから個人の好みはうどん・蕎麦が半々であるが、関ヶ原を含む西濃地方は蕎麦屋よりうどん・ラーメン店の方が店舗数が多く、日常食として蕎麦はむしろ少数派である。
吉継はうどんも好きな長月にとある出題をした。
「じゃあ、ここで戦国史の問題。うどんと関係したって伝えられてる戦国武将って誰だ?」
「武将で?うどんと?」
「正確にはうどんではないんだけど、うどんみたいなとヒントを出しておく」
「へ、どういう事?」
「他県の人間はうどんって思ってるけど、実は違うって意味。さ、一分以内に答えよう」
吉継はスマホのストップウオッチを押した。
「えーっと、信長、はコンペイトウだっけ。秀吉は、うーん?」
腕組みして考えるが知識がない長月は誰も思い付かない。やがてストップウオッチの数字が0となりピピッと鳴った。
「はい、残念だけど時間切れ。答えは………」
「ハイハイ、そこの一団、食べ物の話題で盛り上がるのもいいけど、そろそろこっちの話に戻ってくれるかしら」
完全に無視され続けて呆れた元が吉継の言葉を切った。吉継達に倣って他の皆もバラバラになって勝手な雑談に興じている。元は手を二回叩いてクラスの注意を再度前に向けた。
「松平君が警察ごっこなんかしてるから悪いんだろ」
三大が大きな鼻息を抜いて質問した。
「それより何の理由で集められたんだい?」
給食のランチルームから教室に戻ってくると黒板に「放課後全員居残り会議あり、松平元」と書かれていた。委員長権限発動でクラスメートは仕方なく残っていたのだが、訳の分からない芝居に巻き込まれ、些か閉口していた。
「ハハハ、いやー、一度刑事役ってやってみたくてさ」
陽気に笑って元は状況を明かした。
「ほら、テンムちゃん、もう三日も休んでるじゃない。それで委員長の私を筆頭にお見舞いに行こうと思って。金曜日だし丁度良いでしょ」
「なるほど、つまりはその連れ立つ候補を募ると仰るのね?」
と、質問を投げたのは細川汐恩(しおん)であった。
「そうそう、私はクラス委員長だから当然だけど他に誰かいないかな。行きたい人いる?行きたいなら手を挙げて!」
すると吉継を除く全員がババッと一斉に挙手をした。
「え、こんなに?!」
予想外の結果に元は驚いていた。
しかし、考えてみると何の不思議でもない。
武美は優しく明るくて学年だけで無く学校中からも非常に人気がある。独身でもうすぐ三十才になるが細身で長いロングの髪が特徴の器量好しで、授業ももちろん生徒指導にも熱心で保護者からの信頼も篤い。
縁無しの丸眼鏡もチャームポイントになっている程で、どうして独り身なのかそれが謎なのだが、一部の女性教師は何か秘密を知っているのか、それについては不思議と口を濁している。そのミステリアスな部分も武美の魅力になっているのだが、生徒が担任の見舞いに行くという状況はなかなか無い。
ゆえに皆興味津々で名乗り出たのである。
「よし、こうなったら、いっそ関ヶ原組全員で揃って行こうか!」
数人しか興味を示さないと思っていたのが好反応であったので、上機嫌に拳を上げたが、
「お待ちになって」
オーと勇み立つ元を汐恩が諫めた。
「松平さん、あなた、お見舞いの常識を御存知ないのですか?風邪とはいえ病人のお宅にそんなに大勢で押し掛けては迷惑です。そもそも先生のご自宅はアパートです。こういう時は数人が代表として訪れるのがマナーです」
「えー、でも、みんなで行った方がテンムちゃんも元気になるんじゃないの?」
そうだよ、と元を応援する眼差しの群れが一斉に汐恩に向いた。
すると汐恩は長い黒髪をなびかせ元の前に歩いてゆき、全員に振り向いて説明した。
「私は先生が気を遣われると申し上げているのです。病は気から、治りかけていると柴田先生も仰っていたなら、今は騒がずに大事に休ませてさしあげるのが一番の薬ではありませんか」
「じゃあ、何人で行けばいいのよ、汐恩?」
「三人程で充分ですわ」
「あ、そっか、三人寄れば饅頭の知恵って言うもんね」
パンと手を叩いて元は納得した。汐恩は額に手を当てて目を伏せた。
「………それを仰るなら『文殊』の知恵です」
すると秀晶がグフッと吹き出して、腹を両腕で押さえ足をバタバタ振った。
「饅頭って、元、おもっしぇんにゃ、お腹痛い、わらかしたらあかんざ」
笑いの壺に入った秀晶は大笑いを堪えるのに必死になっていた。
「あ、晶、このギャグに反応するとはさすがね」
元は赤面した顔のまま誤魔化した。汐恩はハーと深い息をついた。
「私も参ります。松平さんが主であれば一抹(いちまつ)の不安がありますので」
「は?誰が福島正則なのよ?」
「え、何ですって?」
ずれた会話に汐恩は解せない表情を元に向けた。
「だって汐恩、今、市松(いちまつ)の不安って」
「正則の幼名ではありません!それを知っている方がおかしいですわよ」
「アハハ、イチマツの不安、イチマツの!」
即席漫才コンビと化した二人のボケとツッコミにとうとう秀晶は我慢できず、うつ伏せになって机を拳でドンドン叩き始めた。
汐恩は照れた咳払いをした。
「松平さん、こんな無駄話をしている場合ではなくて。日も短いのであまり遅くなると先生も困ります。後の一人はクジで決めましょう」
手際良く汐恩は筆入れから付箋の束を取り出して人数分千切ると一枚だけ的に矢が刺さった印を書いて自分の通学帽をひっくりかえし、その中にバラバラと入れた。
「さ、みなさん、目をつむって一枚ずつ引いて下さいな」
汐恩はものの三分で全員に、強引に吉継もだが、クジを引かせた。
「さて、どなたが当たりでしたの?」
ここで一人の男子が手を小さく挙げた。
吉継である。
汐恩は無表情に手を叩いた。
「あら、当選はコバ君でしたの?おめでとう」
「あの~、汐恩、俺、辞退したいんだけど。そもそも挙手していないんだしさ」
こういうイベントはもっと気の利いた人間が行くべきであって気乗りしない自分が付き添っても邪魔になるだけだと吉継は言い足した。
「ああ、それなら僕がヨシの代わりに行こう。本来ならば僕の方が適任だろうしね」
三大はここぞとばかりに胸を張り襟を正して主張した。
しかし汐恩は三大の発言を黙殺して吉継に冷酷な視線を向けた。
「コバ君は何を仰っているのかしら。皇先生はあなたの担任なのですよ。それくらいの労は惜しむべきではありません。それにクジは古来より神聖なものです。選ばれたからには文句なしに従ってもらいます。よろしいですね」
「は、はい、行きます!」
古武術の達人でもある汐恩に命じられればもはや蛇に睨まれた蛙である。有無を言わせない恐るべき目線に吉継は震え上がって即答した。
それにこれは思えばデメリットではない。武美には金吾のお節介絡みで発生するトラブルに何かと世話になっているので、ここで見舞いに行くのは更なる問題の帳消しになるかもしれない。だから不承不承ながらも納得せざるを得なかった。
が、同時に隣の秀晶の様子がおかしくなった。
「元と汐恩のめろ(女)二人か。元はじゃけらしぃ(子供っぽい)でにんならん(気にならない)けど、なんにし(なにしろ)汐恩はうつくさい(綺麗だ)し………」
「どうした晶?」
吉継は下を向いてブツブツと呟く秀晶を気に懸けたが、秀晶はケロッと明るく皆に聞こえるように言った。
「何でもない。あーあ、いいなあ、私も行きたいなあ」
秀晶の残念そうな独り言に抽選に漏れた他のクラスメートも同じ愚痴を漏らした。
汐恩は軽い溜息を吐いた。
「他の皆さんは私のスマホ動画に先生に向けて短いメッセージを入れるのは如何ですか?それでしたら先生も喜んで頂けると思いますわよ」
それはナイスアイデアだとばかりに全員が早速汐恩のスマホへ一人ずつ短い撮影を始めた。
「あー、お見舞いか。何していいか分かんねえよ」
面倒臭そうに吉継は机に突っ伏せた。
すると長月が面白そうに煽り立てた
「何で?テンムちゃんの私生活が覗き見れるんだよ。謎のベールに包まれた先生の解明になるかもしれないじゃん」
「は?私生活って」
「ほら、例えば実は彼氏がアパートで一緒に暮らしてる、とかさ」
キャー、何恥ずかしいコト言ってんのヨシ、と長月は責任転嫁して勝手に照れまくってバンバン背中を叩いてきた。
「それなら俺ら邪魔になるだけじゃんかよ、おい、元」
吉継は帰り支度する元に向いた。しかし元は大笑いしてそれを大声で否定した。
「アハハ、テンムちゃんに彼氏?絶対無い無い!」
「なんで断言できるんだ?」
「だってこんな狭い町だもん、いればSNSとかですぐ噂になってるわよ」
「あ、そりゃそうか」
教師は目立つ。更に武美のアパートは御所野の国道に近い場所に建っていて人目に付きやすい。異性が出入りしていれば誰かが発見するだろう。
「お待たせしました。参りましょう」
撮影を終えた汐恩が吉継に声を掛けてきた。
「ああ、今行く」
吉継はランリュックを背負って立ち上がると、何故か秀晶が吉継の裾をクイと引いた。
「えっと、ヨシ、気ぃ付けての」
「………?ああ」
何か言いたげな視線に不可解さを感じつつも吉継は元と汐恩と三人で教室を後にした。

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