二月も中盤に差し掛かった十六日、ランチルームで給食を食べ終わった吉継に細川汐恩(しおん)が仁王立ちになって横から開口一番飛んでもない話を切り出した。
「それで、コバ君、一体いつになったら拙宅へおいで頂けるのかしら?お父様も色好いご返事を心待ちにしておりますのに」
ブーッと周りにいた石田三大たちクラスメートが飲んでいた牛乳を一斉に吹き出した。
「一昨日、私が厳選した贈り物をまさか拒否されるとは思っておりませんでしたけど、何がご不満なのかしら。あれ、最高級品なんですのよ。ともかく一刻も早いお知らせを。それではよしなに」
汐恩は眉間に皺を寄せて溜息を吐くと、前を切り揃えた長い黒髪をなびかせ、さっさとランチルームから姿を消していった。
それと同時に三大をはじめ吉継のクラス男子が椅子に座っている吉継を取り囲んだ。
「おい、ヨシ、今のはどういう意味だ?」
「お前、細川さんの家にって、ま、ま、まさかそういう仲なのか?」
「チョコまで貰ったのか、それも断ったってどういう意味だ。説明しろ」
背水の陣の質問攻めである。それも支離滅裂な憶測が混ざっている。
馬鹿馬鹿しさに呆れた吉継は額に青筋を立てて言い返した。
「何でそういう話になるんだよ!あれは今度の茶会への脅し!それに送ってきたのはチョコじゃなくて抹茶だ!何ならお前等が汐恩に協力してやれよ」
「………あ、俺ちょっと用事を思い出した」
「俺も」
「やべ、次の授業のプリント用意しないと」
汐恩への協力と耳にした途端、連中は波が引くように吉継から離れていった。
「この薄情者どもめ」
頬を膨らせて吉継はテーブルにうつ伏せ、担任の武美のお見舞いに行った帰りの光景を思い出していた。
「私と付き合って下さい」
まるで告白ともとれる発言に吉継は驚いたが、汐恩は直ぐに言い足した。
「来(きた)る四月一日、二日に陣場野公園・笹尾山など史跡を中心として『関ヶ原東西大茶湯(おおちゃのゆ)』が大々的に開催されるのは御存知でしょう?」
「ああ、関ヶ原は桜の木が少ないからな。花見の代わりに今年から野点の大茶会を執り行うってイベントか。母さんから聞いてる。お前の父さんがかなり出資してるんだろ?三大茶会(京都市二条市民大茶会・金沢市兼六園大茶会・松江市松江城大茶会)に負けないくらいの規模で」
「貴方のお母様は私の父と同じ『船団』の創立者ですもの。お聞きになっていて当然ですわね」
汐恩はどこから取り出したのか帆船を象ったバッジを開けた掌に見せた。
そこには「SIPPS」とゴシック文字で描かれていた。
「シップス、正式にはSEKIGAHARA IN PEACE PROJECTS(セキガハラ・イン・ピース・プロジェクツ)。貴方のお母様が音頭を取って立ち上げたのでもちろん御存知でしょう」
「ああ、もちろん」
SEKIGAHARA IN PEACE PROJECTS、「関ヶ原平和推進事業会」の頭文字を取ってSIPPSと名付けられた商工会の有志団体組織は、その発音が船のSHIPSに似ているため、シンボルマークを帆船としていた。海のない関ヶ原では無関係な象徴だが、今や船団と言えば関ヶ原で知らない町民はいない程広く認知されている。
関ヶ原町は周知の如く「関ヶ原合戦」で日本の歴史に大きく名を残している。そのため、十月二十日に近い土日に行われる「合戦祭り」のような戦いのイベントが時折行われている。
しかしながら平時や合戦とは関わりない日にちにはどうしても客足の伸びが悪い。
そこで音依は「武力を伴わない関ヶ原」のアイデアを出した。
合戦や武将に興味がない人でも気楽に関ヶ原に来て貰おうというのが狙いである。
汐恩の家は名門かつ大地主である。必然強力な音依のスポンサーともなっていた。
「それならば私のお願いも察して頂けますわね」
汐恩は端折って何かを匂わせた。
「おい、全く話が分からないぞ」
吉継は不可解に目を細めた。
「あら、今の会話からご理解頂けないとは驚きです」
「分かるか、そんなもん。俺は超能力者じゃねえっての」
【ハハハ、主は神の力を持つ依巫(よりまし)ではないか】
とすかさず二色鉛筆に取り憑いている金吾が笑って口を挟んだ。
生前の金吾中納言・小早川秀秋である。
吉継とは何の因果か主従関係の契約を結んでおり、従者である金吾の成仏を助けると契約していたのであるが、何せ気ままな武将である。吉継は、お前は黙ってろとポケットの二色鉛筆の言を苦々しくテレパシーで制した。
ふう、と汐恩は仕方なさそうに軽く頭を振った。
「コバ君、茶道の経験は?」
「茶道?ああ、嗜み程度なら」
「如何ほどのレベルですか?」
「料理に使うレベルでだ。グリーンティーはカクテルでも使うし、懐石料理に使用する事もあるからな。母さんに簡単にだけど点て方くらいは教えて貰った」
「では茶会に必要な物は何ですか?口に入れる物で」
「そりゃ抹茶だろ」
「もう一つ欠かせない物がございますでしょ?」
「茶菓子、か」
「そうです。それを私のために、その創作に付き合って頂きたいのです」
「………は?」
付き合うという意味が協力という解釈にやっと落ち着いたものの、その真意を全く無理解出来ない吉継は顔をしかめた。
「お年の割に耳が遠いのかしら?」
「お前と同い年だよ!いや、それより何で俺が茶菓子を作らなきゃならないんだ、それもお前のために」
「ああ、そうでしたわね。そこを説明しなくては画竜点睛を欠きます。これをご覧に」
汐恩はポケットから取り出した自分のスマホのメール画面を見せた。
発信者は元、件名は「茶会」となっていた。
そこには便箋に書かれた手紙の画像が添付されており、吉継はスマホを受け取るとそれを声に出して読んでみた。
「何々、『はだし状』………はだし状?」
「『果たし状』のおつもりなんでしょう。お続けになって」
汐恩は唇を歪めて促した。吉継はせっかちな元らしいな、と苦笑いして続けた。
「『四月一日・二日の大茶湯にてアンタに茶会の決闘を申し込む。字体はゆるさない。細川なんて徳川に比べれば大した家じゃない事をこの私が実をもって教えたげるわ。だから清々どうどうと勝負を受けなさい。以上!』………おい、汐恩、このお笑い文章はどこからツッコんだらいいんだ?」
〈字体×→辞退〉〈実をもって×→身をもって〉〈清々どうどう×→正々どうどう〉と国語のテストだったらバツ印が山ほど付きそうな手紙に呆れた吉継に汐恩はビシッと人差し指を向けた。
「この際誤字なんて構いません。問題は松平さんが互いの家名を賭けて私に勝負を挑んできた事です」
「じゃあまさか、お前達『茶屋比べ』で戦うつもりなのか?」
吉継は母の音依から大茶会のあらましは聞いていた。
関ヶ原大茶湯は全国から茶道の各流派が集まり、色々な趣向を凝らしてその流派のPRをする。茶の点て方はもちろん、茶道具や茶屋建築など来場客に楽しんで貰うための工夫を見せ付ける。
しかし、それだけでは単なる茶会で終わってしまい面白くない。であるから音依たちシップスが考え出したのが「茶屋比べ」というコンテストであった。
どの流派に興味を惹かれたかを投票形式で決めようとするそれは世間で大きな関心を呼んだ。
但しこれはゲームであるが各流派も面子がかかっているので負ける訳にはいかない。
まして茶屋比べは「大人の部」から「中高生の茶道部の部」、また「小学生の部」も参加が可能となっていた。しかし、大人と中高生は参加申し込みが多く集まっていたものの、さすが小学生の部は茶を習っている者も少なく皆無であった。
「その小学生の部で一騎打ちをしようと仰っているんですのよ、松平さんは」
汐恩はスマホを取り戻して神経質に足をコツコツと踏み鳴らした。
「そしてその茶屋比べの評価項目には『茶菓子』も入っています。私は茶道の作法なら負ける気は致しませんが、こと手作り茶菓子になると………」
「手作り?あれは有名処の茶菓子を使用してもいいと決められているはずだぞ。上等な茶菓子なんて全国に数え切れないくらい作られているだろう。それを使えばいいじゃないか」
「そんな事は貴方に教わらなくても先刻承知しております。それに既存の茶菓子は大茶湯のイベントの一環として全国の和菓子店が売り込みに販売ブースを設けるというではありませんか。そんな中で私の流派が同じ茶菓子を使うとあっては細川の名折れです」
「お前、ホントに負けず嫌いだな」
「当然です。関ヶ原細川家は分家といえ古より綿々と続いている誇りある家柄、沽券に掛けて庶流の松平などには絶対負ける訳にはまいりません。それに調べた所、松平さんはオリジナルの茶菓子で私に挑んでくるようなのです。なのにこちらが既存の菓子では釣り合いがとれませんし、それが理由で勝っても何の因縁を後々付けられるか。全ての面において完膚無きまでに叩き潰さなければ完勝とは誇れません」
「で、俺にその茶菓子を作れと?」
「そうです。何でも松平さんは『松野屋』の協力を取り付けて、もう既にその菓子を作り始めているようなのです」
「は?松野屋さんと戦えってか!」
「有り体に申しますとまさしく。お力添え頂けませんか?」
「無茶言うな!相手は和菓子のプロだぞ。万能な母さんなら勝てるだろうけど俺じゃ無理だ。お前もあそこの菓子食べた事あるだろ。駅前の交流館に売ってるの」
「『ふわっと関ヶ原』ですか。もちろん美味しく頂きました」
関ヶ原町駅前通りの御菓子司「松野屋」は関ヶ原における唯一の和菓子屋で創業五十年の歴史を持つ老舗である。現在二代目夫婦が関ヶ原ブランド品にもなっている「関ヶ原ちーずまんじゅう」をはじめ、各種和洋折衷菓子を精力的に創作し、どれも人気を博している。
中でも柔らかいカステラ生地の中に白あん・こしあん・チョコあんを包んで三成・家康・吉継の家紋を焼き付けた「ふわっと関ヶ原」は定番の人気商品となっている。
「じゃあ尚更あの店の実力は分かるはずだ。ウチも懐石料理の注文が入るとあそこの和菓子を使う事が多い。それだけ母さんが認めている証拠だ。第一、お前の家には何人も専属シェフがいるんだろ。その人達に頼めよ」
「既に作らせましたわ。でも既存の概念から抜け出せず私が納得出来る菓子とは程遠いものばかりでした。ですから私はコバ君にお願いしたのです。コバ君の西洋東洋の歴史文化に対する知識と料理に関する熱意には驚かされました。今日のクジに細工して、ここまで来て頂いた価値は充分にありました」
「細工?」
汐恩は武美のお見舞いに行く人選に、帽子の中に簡単な紙片を入れたクジを作って皆に引かせていた。そしてその当たりクジを吉継が引き当ててしまったのである。
「簡単な絡繰りです。当たりクジを最初から掌に隠しておいただけですから。そして最後にコバ君にそれを引かせたのですもの、当たって当然ですわ」
「イカサマじゃねえか!」
「あら、人聞きの悪い。誰も損などしていないでしょ?それに貴方の力量を観察するためですもの。これは立派な方便です。最初は料理だけだと思っておりましたけど、まさかスイーツまで作って頂けるとは僥倖(ぎょうこう)でした」
思い浮かべれば病の武美へやたらと料理を作るよう吉継に仕向けていたのは汐恩であり、何気なくじっと観察していたのにはそんな理由が隠されていたのである。
しれっと澄ました顔に「こいつ」と苛立った吉継であったが、やがて冷静に言い返した。
「とにかく断る。今日テンムちゃんに作った菓子みれば分かるだろ、クレープシュゼットにしろピーチメルバにしろ洋菓子は学んでいても和菓子は門外漢だ」
「しかし、コバ君の臨機応変の視点は必ず素晴らしい茶菓子に活かせると思うのです。それに………」
「待った。どれだけ褒めてくれても無理なものは無理だ。大体、俺はそういう公の勝負事は嫌いだし、一切戦わない。悪いが他を当たってくれ。ほら、迎えの車が来たぞ」
汐恩の言い立てようとする口を遮って吉継は国道西を眺めた。
どうみても場違いなロールスロイスが近付いてきて汐恩の前に静かに停車した。
しかし扉を開ける運転手の横で、乗った乗った、と掌をヒラヒラさせる吉継へ汐恩は、
「私は決してコバ君を諦めませんわよ」
と鋭い眼光を投げ掛けてその場を去っていった。
「ヨシ、大丈夫?」
どっと疲れてへたり込む吉継に透明術を解いた秀晶が案じた。
吉継は一言呟いた。
「やっぱ、アイツ怖い」
二月二十五日、土曜、午前八時三十分。
[CAFE HISTORIAN]と白く染め抜かれた、洒落た青い暖簾の外では、曇り空の下で白い息を吐きながら入店待ちをしている十人程の行列が出来ていた。
「ひーーーーッ」
夥しい客がひしめく「ひすとり庵」の店内で忙しさに目を回しながら大量の皿を洗う秀晶に前方の吉継は白いシェフ帽を振り向かせて微苦笑した。
「来て貰って助かるよ、晶。今日洗い場の筒井さん風邪で休みだからさ」
テーブル・カウンター・奥座敷・そして二階とどの席も満席で賑わしい店の大量注文もなんのその、吉継は目の前に並んだ五つのコンロで卵料理を次々とこなしながら平然とオムレツを焼いていた。
ひすとり庵は日中は喫茶店、夜は居酒屋兼食事処となっており、日中の営業時間は午前七時から午後二時までで、スタッフは店長であり音依の夫でもある小早川高影と、叔母の朝妃、そしてパートの女性が二人というサイクルで回している。
岐阜県を含む中部地方の喫茶店は大抵、朝、コーヒーなどの飲み物を頼めば軽食が付く「モーニング」サービスを行っている。
吉継の店では、ブレンドコーヒー・特製紅茶・カフェオレ・ミルク・100%フルーツジュース・トマトジュース・豆乳・カルピスの飲料の中から選択出来、パンも焼き立てトースト(燻製バター付き)・焼き立てバゲットスライス(二枚に燻製バター付き)と東西サンドイッチ(東はゆで卵マヨネーズサラダサンド、西は出汁巻きで無いプレーンオムレツサンド)のいずれかから選択できる。
卵料理は基本目玉焼きである。だが冷めた目玉焼きでなくスキレット鍋で熱々の目玉焼きを鍋ごと出す。それも片面焼きか両面焼きかも選べ、トッピングとしてチーズ・ベーコン・ソーセージを追加出来る(但し追加は一品につき五十円増し)。
そこにオーブンで焼いたばかりの小さなオニオングラタンスープと、関ヶ原で採れた朝採り野菜のサラダと季節のカットフルーツが足されて四百五十円という値を設定していた。
「いやあ、高影さんのブレンドは相変わらず最高だ!」
静かなクラシックが流れるカウンターで常連客の一人が上機嫌にコーヒーカップを傾けながらキッチンでネルドリップコーヒーを手際良く抽出している高影に声を掛けた。
「何言ってるのよ、あなた。朝一番で焼くこの手作りパンも絶品なのよ。村上の叔父さんさんはわざわざ長浜からこの燻製バタートーストを食べに平日毎日通ってるんだから。それに限定一斤食パンなんて早くから予約しておかないと買えない程人気なのよ」
隣で妻らしき婦人がトーストをほくほく笑顔で頬張りながら言い足した。
「ああ、パンも作るのに体力使うものなあ。だから高影さんはそんなにマッチョなんだね」
高影は二メートルの巨体の、四角い顔を会釈に黙って軽く下げた。
筋骨隆々の体付きはブルーのエプロン越しでも分かるが、その寡黙さゆえに「沈黙の巨人」とのあだ名がついている。吉継の背の高さと学校での愛想の無さは父親譲りなのである。
それでも超一流のコーヒー焙煎士でもあり、パン職人としてヨーロッパで修行を長く積んできた高影の評判は広く伝わっており、その味を求めて滋賀県や京都から訪れる客も多かった。
だからコーヒーとトースト・サンドイッチを作る役割は必然高影である。
ちなみに紅茶係とホール(接客)は朝妃が担っていて、高影に伝授された朝妃のガラスポットで淹れるリーフティーも今や人気の一つになって、コーヒーだけでなく紅茶も美味しい喫茶店という触れ込みは老若男女の嗜好を見事に掴んだ。
それゆえ多忙なカフェ・ヒストリアンはキッチンヘルプに生駒一美、洗い場とホール担当には筒井定枝を雇い入れ、五人体制で平日は対応し、土日の休みは吉継がキッチンヘルプを担当し、一美がホールに専念していた。
「オーダー入ります。オプラ一つ、フロマ一つ、デュー・フロマ一つ、BSフロマ、オムサン三つ、玉サン一つずつお願いします。あ、後はマダムを一つ」
夜の赤いエプロンとは違い、ブルーのエプロンと白いキャップで揃えられた昼用ユニフォームを着た一美がオーダー表を片手に新たに入店してきたお客の注文を吉継に伝えた。
「ダコール(了解)!」
店名の英白文字が書かれたエプロンの裾をピシと引っ張り、吉継は、お客さんに良い雰囲気を味わってもらえるよう、という父親の教えに従いフランス語で軽快に答えた。
オプラはデ・ズー・オ・プラ(フランス語で目玉焼き)、フロマはチーズ目玉焼き、デュー・というのは両面焼き、ただ、この場合フロマが付いているから両面焼きでチーズが追加となる。BSフロマは目玉焼きにベーコンとソーセージを追加したもの、オムサンはオムレツサンド、玉サンはゆで卵サラダサンドイッチの、この店における符丁である。
ちなみにここ関ヶ原は日本の文化を二分している場所である経緯から、二つの卵サンド(ゆで卵マヨネーズサラダサンドかプレーンオムレツサンド)をチョイス出来る。
そして最後のマダムは「クロック・マダム」というフランスのカフェで出てくる、スライスした二枚の食パンにハムとチーズを挟み、更に溶けるチーズを上にまぶし、そのままオーブンで焼き、最後に目玉焼きを上乗せするのであるが、これは常連客の裏メニューとなっていた。
吉継はするとオニオングラタンスープを焼いているオーブンの隙間にマダムをセットすると、三つのコンロの上に小型のスキレット鍋を三個置き、残りの二つのコンロにフライパンを二個セットして火を付けた。
そして流れるように片手でスキレット鍋に卵を割り、直ぐさま透明な耐熱蓋を載せ、その内の二つには溶けるチーズを卵の回りに振りかけ、もう一つには半焼きにしたベーコンと茹でたソーセージを添えて蓋をした。蒸し焼きにして黄身の表面を固めるのである。
そしてそれとほぼ同時にボウルに卵を割り入れ、ミルクと調味料を入れて攪拌しそれを溶けたバターのフライパンに流し込んで瞬く間にオムレツを焼き上げ、それを高影の元へと運んでいく。
高影は別にコーヒーを煎れつつ関東サンドを作りながら、そのオムレツをさっと薄切り食パンに挟み込み、ブレッドナイフで四角くカットしオムレツサンドイッチを完成させた。
それから吉継は時間を見計らって目玉焼きの火を止め一美に出来上がりを知らせ、そこに朝作っておいたサラダとフルーツをセットにし、これまた熱々のスープと共に木のトレーに載せて渡した。一美はそこにオーダーの飲み物を付けてホールへと向かっていく。
(いつもながら完璧な流れ作業だなぁ)
秀晶は皿を洗いながら一分の隙もないこの店の手慣れた連係に見惚れていた。
と、その時、高影が吉継に向いてテーブルを左手の人差し指で軽く二回タップした。
それに気付いた吉継は高影が顎を三度上に動かしたのを見て、納得した顔で父親に軽く鼻先を下げ、追加の卵料理に取り掛かった。
(……ヨシ、あの動作で、何で意味分かるんだろ)
無口の高影はいつも吉継にちょっとしたサインを送る。店のスタッフも慣れているのかそれをもう気に懸ける事は無いが、以心伝心に不慣れな秀晶は半ば呆れていた。
【主、あれは胡椒が心持ち多いから少しだけ減らせ、と伝えておるのだ】
ここで秀晶のポケットに入ってる、MONO消しゴムと化した大谷吉継が秀晶の頭の中に話し掛けてきた。秀晶も同様の方法で応じた。
【刑部はヨシのお父さんのサイン理解出来るの?】
【注意深く観察しておれば自ずから悟るようになる。彼の父君は鼻がよう利くようであるゆえ、パンを切る際にその匂いの違いに気付いたのであろう。しかしながらヨシ殿のオムレツは相も変わらず人気であるよのう】
【そう。だからこれからが本当の修羅場になるんだよね。あれ、土日限定だし】
チラリと秀晶は店の時計に目を遣った。
現在時刻は九時。秀晶が修羅場という意味は二時間後に訪れるのである。
そうしてやがて午前十時四十五分になると、店内にドヴォルザークの『新世界より』が流れ始めてた。
するとその曲に釣られて店内の客が少しずつ席を立ち始め、レジで精算を始めた。
「………来るよ、怒濤(どとう)のランチタイム」
秀晶は店の外を眺めて呟いた。既に六十人程の人の塊が列を成している。
カフェ・ヒストリアンは岐阜での流行の終日モーニングでなく。十一時にはサービスをしっかりと終了し、ランチタイムに移行する。であるからモーニングが終了すれば全員一旦会計を済まさねばならない。
すると空になった店内を確認した一美が紙の束を持ち、扉を開けて外のお客に叫んだ。
「只今より整理券を配布します。関ヶ原スフレオムレツ、または関ヶ原オムライスをご希望の方は先着順からご注文の内容と数を申し出て下さい。限定各三十皿ずつです!」
「あ、こっちオムレツ三つね」
「私、オムライス一つ」
「私らはオムレツ二つとオムライス二つ頼むよ」
一美の掛け声と共に一斉にオーダーを求める声があがり、一美は各料理の整理券をテキパキと配っていき、五分もしない内に、
「申し訳ございません。本日の限定はただいま終了致しました。他のお客様はオムレツ・オムライス以外をご注文頂くことになりますのでご了承下さい」
と頭を下げた。
えーッ、と整理券を貰い損ねた客から溜息混じりの落胆の声が漏れたが、ランチメニューには卵サンド以外の各種サンドイッチや石窯で焼く特製ピザ、手作りケーキなどがあるため誰も帰ろうとはしなかった。
吉継を見ると、モーニングのスキレット鍋を全てオムレツ用フライパンに置き換え、ボウルに大量の卵を割り入れ、オムレツ液を作っていた。
「お待たせしました。ランチでお待ちのお客様、御入店です」
一美が扉を再度開けて入店を誘導すると瞬く間に席が埋まった。
そうして爆発的に注文の雨あられが降り掛かった。
「お、終わった………死ぬかと思った」
午後二時三十分、ひすとり庵準備中の札が掛けられ、カフェの暖簾が下ろされるのと同時に秀晶は洗い場のシンクの縁にもたれかかった。
「あはは、晶、ホントに助かったよ。サンキューな」
テイクアウトでサンドイッチを持ち帰る一美らパートらに「お疲れ様でした」と声を掛けた吉継はフライパンを振って笑った。
「ヨシもお父さんもよく疲れないねー」
あれだけ働き通しでも全く疲労の色を見せない二人に秀晶は呆れて苦笑いを返した。
するとここで高影が無言で指を三回叩いてクイと顎を下げた。
「何?」
吉継は通訳して、首を傾げる秀晶に伝えた。
「料理人は体力が無いと務まらないから鍛えているんだよ、と言ってる。それにお疲れ様、ありがとう、とも」
「ああ、いいえ」
絶対この親子おかしい!という言葉を呑み込んで秀晶は短く返答した。
「それとお腹空いたろうから今日は特別のオムライス食べてきなさいってさ」
高影からカットしたトンカツを載せた皿を受け取った吉継は、なるほどと納得した顔でオムレツを焼き始めた。
「いいの!?でも夜用の卵無いんじゃ?」
オムライスが大好物の秀晶は嬉しそうにししつつも反面不安そうな表情を浮かべた。
吉継の作るオムレツとオムライスは週末のランチ限定である。それは仕入れてくる卵の量が絶対的に足りず、店内の収容人員を考慮しての事である。それゆえランチの賄いでオムレツやオムライスが付く事は滅多になかった。
「この後で使うからな。今日は卵余計に取ってあるんだ。だから心配は要らない」
「仕込みで使うの?」
「それとは別にもう一仕事あるんだ。それより、ほら、晶の昼の賄い出来たぞ。カウンターに座ってくれ」
エプロンを脱いで秀晶がキッチンを出てカウンター席に座ると吉継はニンマリした顔を浮かべて皿を出した。
「さあ、今日のオムライスランチ・ヒストリアンスペシャルだ」
見るとオムライスの上にカットトンカツが載っていて、カツにはトマトソース、そしてオムライスの回りにはサワークリームの掛かったデミグラスソースが溢れていた。
「それで、コバ君、一体いつになったら拙宅へおいで頂けるのかしら?お父様も色好いご返事を心待ちにしておりますのに」
ブーッと周りにいた石田三大たちクラスメートが飲んでいた牛乳を一斉に吹き出した。
「一昨日、私が厳選した贈り物をまさか拒否されるとは思っておりませんでしたけど、何がご不満なのかしら。あれ、最高級品なんですのよ。ともかく一刻も早いお知らせを。それではよしなに」
汐恩は眉間に皺を寄せて溜息を吐くと、前を切り揃えた長い黒髪をなびかせ、さっさとランチルームから姿を消していった。
それと同時に三大をはじめ吉継のクラス男子が椅子に座っている吉継を取り囲んだ。
「おい、ヨシ、今のはどういう意味だ?」
「お前、細川さんの家にって、ま、ま、まさかそういう仲なのか?」
「チョコまで貰ったのか、それも断ったってどういう意味だ。説明しろ」
背水の陣の質問攻めである。それも支離滅裂な憶測が混ざっている。
馬鹿馬鹿しさに呆れた吉継は額に青筋を立てて言い返した。
「何でそういう話になるんだよ!あれは今度の茶会への脅し!それに送ってきたのはチョコじゃなくて抹茶だ!何ならお前等が汐恩に協力してやれよ」
「………あ、俺ちょっと用事を思い出した」
「俺も」
「やべ、次の授業のプリント用意しないと」
汐恩への協力と耳にした途端、連中は波が引くように吉継から離れていった。
「この薄情者どもめ」
頬を膨らせて吉継はテーブルにうつ伏せ、担任の武美のお見舞いに行った帰りの光景を思い出していた。
「私と付き合って下さい」
まるで告白ともとれる発言に吉継は驚いたが、汐恩は直ぐに言い足した。
「来(きた)る四月一日、二日に陣場野公園・笹尾山など史跡を中心として『関ヶ原東西大茶湯(おおちゃのゆ)』が大々的に開催されるのは御存知でしょう?」
「ああ、関ヶ原は桜の木が少ないからな。花見の代わりに今年から野点の大茶会を執り行うってイベントか。母さんから聞いてる。お前の父さんがかなり出資してるんだろ?三大茶会(京都市二条市民大茶会・金沢市兼六園大茶会・松江市松江城大茶会)に負けないくらいの規模で」
「貴方のお母様は私の父と同じ『船団』の創立者ですもの。お聞きになっていて当然ですわね」
汐恩はどこから取り出したのか帆船を象ったバッジを開けた掌に見せた。
そこには「SIPPS」とゴシック文字で描かれていた。
「シップス、正式にはSEKIGAHARA IN PEACE PROJECTS(セキガハラ・イン・ピース・プロジェクツ)。貴方のお母様が音頭を取って立ち上げたのでもちろん御存知でしょう」
「ああ、もちろん」
SEKIGAHARA IN PEACE PROJECTS、「関ヶ原平和推進事業会」の頭文字を取ってSIPPSと名付けられた商工会の有志団体組織は、その発音が船のSHIPSに似ているため、シンボルマークを帆船としていた。海のない関ヶ原では無関係な象徴だが、今や船団と言えば関ヶ原で知らない町民はいない程広く認知されている。
関ヶ原町は周知の如く「関ヶ原合戦」で日本の歴史に大きく名を残している。そのため、十月二十日に近い土日に行われる「合戦祭り」のような戦いのイベントが時折行われている。
しかしながら平時や合戦とは関わりない日にちにはどうしても客足の伸びが悪い。
そこで音依は「武力を伴わない関ヶ原」のアイデアを出した。
合戦や武将に興味がない人でも気楽に関ヶ原に来て貰おうというのが狙いである。
汐恩の家は名門かつ大地主である。必然強力な音依のスポンサーともなっていた。
「それならば私のお願いも察して頂けますわね」
汐恩は端折って何かを匂わせた。
「おい、全く話が分からないぞ」
吉継は不可解に目を細めた。
「あら、今の会話からご理解頂けないとは驚きです」
「分かるか、そんなもん。俺は超能力者じゃねえっての」
【ハハハ、主は神の力を持つ依巫(よりまし)ではないか】
とすかさず二色鉛筆に取り憑いている金吾が笑って口を挟んだ。
生前の金吾中納言・小早川秀秋である。
吉継とは何の因果か主従関係の契約を結んでおり、従者である金吾の成仏を助けると契約していたのであるが、何せ気ままな武将である。吉継は、お前は黙ってろとポケットの二色鉛筆の言を苦々しくテレパシーで制した。
ふう、と汐恩は仕方なさそうに軽く頭を振った。
「コバ君、茶道の経験は?」
「茶道?ああ、嗜み程度なら」
「如何ほどのレベルですか?」
「料理に使うレベルでだ。グリーンティーはカクテルでも使うし、懐石料理に使用する事もあるからな。母さんに簡単にだけど点て方くらいは教えて貰った」
「では茶会に必要な物は何ですか?口に入れる物で」
「そりゃ抹茶だろ」
「もう一つ欠かせない物がございますでしょ?」
「茶菓子、か」
「そうです。それを私のために、その創作に付き合って頂きたいのです」
「………は?」
付き合うという意味が協力という解釈にやっと落ち着いたものの、その真意を全く無理解出来ない吉継は顔をしかめた。
「お年の割に耳が遠いのかしら?」
「お前と同い年だよ!いや、それより何で俺が茶菓子を作らなきゃならないんだ、それもお前のために」
「ああ、そうでしたわね。そこを説明しなくては画竜点睛を欠きます。これをご覧に」
汐恩はポケットから取り出した自分のスマホのメール画面を見せた。
発信者は元、件名は「茶会」となっていた。
そこには便箋に書かれた手紙の画像が添付されており、吉継はスマホを受け取るとそれを声に出して読んでみた。
「何々、『はだし状』………はだし状?」
「『果たし状』のおつもりなんでしょう。お続けになって」
汐恩は唇を歪めて促した。吉継はせっかちな元らしいな、と苦笑いして続けた。
「『四月一日・二日の大茶湯にてアンタに茶会の決闘を申し込む。字体はゆるさない。細川なんて徳川に比べれば大した家じゃない事をこの私が実をもって教えたげるわ。だから清々どうどうと勝負を受けなさい。以上!』………おい、汐恩、このお笑い文章はどこからツッコんだらいいんだ?」
〈字体×→辞退〉〈実をもって×→身をもって〉〈清々どうどう×→正々どうどう〉と国語のテストだったらバツ印が山ほど付きそうな手紙に呆れた吉継に汐恩はビシッと人差し指を向けた。
「この際誤字なんて構いません。問題は松平さんが互いの家名を賭けて私に勝負を挑んできた事です」
「じゃあまさか、お前達『茶屋比べ』で戦うつもりなのか?」
吉継は母の音依から大茶会のあらましは聞いていた。
関ヶ原大茶湯は全国から茶道の各流派が集まり、色々な趣向を凝らしてその流派のPRをする。茶の点て方はもちろん、茶道具や茶屋建築など来場客に楽しんで貰うための工夫を見せ付ける。
しかし、それだけでは単なる茶会で終わってしまい面白くない。であるから音依たちシップスが考え出したのが「茶屋比べ」というコンテストであった。
どの流派に興味を惹かれたかを投票形式で決めようとするそれは世間で大きな関心を呼んだ。
但しこれはゲームであるが各流派も面子がかかっているので負ける訳にはいかない。
まして茶屋比べは「大人の部」から「中高生の茶道部の部」、また「小学生の部」も参加が可能となっていた。しかし、大人と中高生は参加申し込みが多く集まっていたものの、さすが小学生の部は茶を習っている者も少なく皆無であった。
「その小学生の部で一騎打ちをしようと仰っているんですのよ、松平さんは」
汐恩はスマホを取り戻して神経質に足をコツコツと踏み鳴らした。
「そしてその茶屋比べの評価項目には『茶菓子』も入っています。私は茶道の作法なら負ける気は致しませんが、こと手作り茶菓子になると………」
「手作り?あれは有名処の茶菓子を使用してもいいと決められているはずだぞ。上等な茶菓子なんて全国に数え切れないくらい作られているだろう。それを使えばいいじゃないか」
「そんな事は貴方に教わらなくても先刻承知しております。それに既存の茶菓子は大茶湯のイベントの一環として全国の和菓子店が売り込みに販売ブースを設けるというではありませんか。そんな中で私の流派が同じ茶菓子を使うとあっては細川の名折れです」
「お前、ホントに負けず嫌いだな」
「当然です。関ヶ原細川家は分家といえ古より綿々と続いている誇りある家柄、沽券に掛けて庶流の松平などには絶対負ける訳にはまいりません。それに調べた所、松平さんはオリジナルの茶菓子で私に挑んでくるようなのです。なのにこちらが既存の菓子では釣り合いがとれませんし、それが理由で勝っても何の因縁を後々付けられるか。全ての面において完膚無きまでに叩き潰さなければ完勝とは誇れません」
「で、俺にその茶菓子を作れと?」
「そうです。何でも松平さんは『松野屋』の協力を取り付けて、もう既にその菓子を作り始めているようなのです」
「は?松野屋さんと戦えってか!」
「有り体に申しますとまさしく。お力添え頂けませんか?」
「無茶言うな!相手は和菓子のプロだぞ。万能な母さんなら勝てるだろうけど俺じゃ無理だ。お前もあそこの菓子食べた事あるだろ。駅前の交流館に売ってるの」
「『ふわっと関ヶ原』ですか。もちろん美味しく頂きました」
関ヶ原町駅前通りの御菓子司「松野屋」は関ヶ原における唯一の和菓子屋で創業五十年の歴史を持つ老舗である。現在二代目夫婦が関ヶ原ブランド品にもなっている「関ヶ原ちーずまんじゅう」をはじめ、各種和洋折衷菓子を精力的に創作し、どれも人気を博している。
中でも柔らかいカステラ生地の中に白あん・こしあん・チョコあんを包んで三成・家康・吉継の家紋を焼き付けた「ふわっと関ヶ原」は定番の人気商品となっている。
「じゃあ尚更あの店の実力は分かるはずだ。ウチも懐石料理の注文が入るとあそこの和菓子を使う事が多い。それだけ母さんが認めている証拠だ。第一、お前の家には何人も専属シェフがいるんだろ。その人達に頼めよ」
「既に作らせましたわ。でも既存の概念から抜け出せず私が納得出来る菓子とは程遠いものばかりでした。ですから私はコバ君にお願いしたのです。コバ君の西洋東洋の歴史文化に対する知識と料理に関する熱意には驚かされました。今日のクジに細工して、ここまで来て頂いた価値は充分にありました」
「細工?」
汐恩は武美のお見舞いに行く人選に、帽子の中に簡単な紙片を入れたクジを作って皆に引かせていた。そしてその当たりクジを吉継が引き当ててしまったのである。
「簡単な絡繰りです。当たりクジを最初から掌に隠しておいただけですから。そして最後にコバ君にそれを引かせたのですもの、当たって当然ですわ」
「イカサマじゃねえか!」
「あら、人聞きの悪い。誰も損などしていないでしょ?それに貴方の力量を観察するためですもの。これは立派な方便です。最初は料理だけだと思っておりましたけど、まさかスイーツまで作って頂けるとは僥倖(ぎょうこう)でした」
思い浮かべれば病の武美へやたらと料理を作るよう吉継に仕向けていたのは汐恩であり、何気なくじっと観察していたのにはそんな理由が隠されていたのである。
しれっと澄ました顔に「こいつ」と苛立った吉継であったが、やがて冷静に言い返した。
「とにかく断る。今日テンムちゃんに作った菓子みれば分かるだろ、クレープシュゼットにしろピーチメルバにしろ洋菓子は学んでいても和菓子は門外漢だ」
「しかし、コバ君の臨機応変の視点は必ず素晴らしい茶菓子に活かせると思うのです。それに………」
「待った。どれだけ褒めてくれても無理なものは無理だ。大体、俺はそういう公の勝負事は嫌いだし、一切戦わない。悪いが他を当たってくれ。ほら、迎えの車が来たぞ」
汐恩の言い立てようとする口を遮って吉継は国道西を眺めた。
どうみても場違いなロールスロイスが近付いてきて汐恩の前に静かに停車した。
しかし扉を開ける運転手の横で、乗った乗った、と掌をヒラヒラさせる吉継へ汐恩は、
「私は決してコバ君を諦めませんわよ」
と鋭い眼光を投げ掛けてその場を去っていった。
「ヨシ、大丈夫?」
どっと疲れてへたり込む吉継に透明術を解いた秀晶が案じた。
吉継は一言呟いた。
「やっぱ、アイツ怖い」
二月二十五日、土曜、午前八時三十分。
[CAFE HISTORIAN]と白く染め抜かれた、洒落た青い暖簾の外では、曇り空の下で白い息を吐きながら入店待ちをしている十人程の行列が出来ていた。
「ひーーーーッ」
夥しい客がひしめく「ひすとり庵」の店内で忙しさに目を回しながら大量の皿を洗う秀晶に前方の吉継は白いシェフ帽を振り向かせて微苦笑した。
「来て貰って助かるよ、晶。今日洗い場の筒井さん風邪で休みだからさ」
テーブル・カウンター・奥座敷・そして二階とどの席も満席で賑わしい店の大量注文もなんのその、吉継は目の前に並んだ五つのコンロで卵料理を次々とこなしながら平然とオムレツを焼いていた。
ひすとり庵は日中は喫茶店、夜は居酒屋兼食事処となっており、日中の営業時間は午前七時から午後二時までで、スタッフは店長であり音依の夫でもある小早川高影と、叔母の朝妃、そしてパートの女性が二人というサイクルで回している。
岐阜県を含む中部地方の喫茶店は大抵、朝、コーヒーなどの飲み物を頼めば軽食が付く「モーニング」サービスを行っている。
吉継の店では、ブレンドコーヒー・特製紅茶・カフェオレ・ミルク・100%フルーツジュース・トマトジュース・豆乳・カルピスの飲料の中から選択出来、パンも焼き立てトースト(燻製バター付き)・焼き立てバゲットスライス(二枚に燻製バター付き)と東西サンドイッチ(東はゆで卵マヨネーズサラダサンド、西は出汁巻きで無いプレーンオムレツサンド)のいずれかから選択できる。
卵料理は基本目玉焼きである。だが冷めた目玉焼きでなくスキレット鍋で熱々の目玉焼きを鍋ごと出す。それも片面焼きか両面焼きかも選べ、トッピングとしてチーズ・ベーコン・ソーセージを追加出来る(但し追加は一品につき五十円増し)。
そこにオーブンで焼いたばかりの小さなオニオングラタンスープと、関ヶ原で採れた朝採り野菜のサラダと季節のカットフルーツが足されて四百五十円という値を設定していた。
「いやあ、高影さんのブレンドは相変わらず最高だ!」
静かなクラシックが流れるカウンターで常連客の一人が上機嫌にコーヒーカップを傾けながらキッチンでネルドリップコーヒーを手際良く抽出している高影に声を掛けた。
「何言ってるのよ、あなた。朝一番で焼くこの手作りパンも絶品なのよ。村上の叔父さんさんはわざわざ長浜からこの燻製バタートーストを食べに平日毎日通ってるんだから。それに限定一斤食パンなんて早くから予約しておかないと買えない程人気なのよ」
隣で妻らしき婦人がトーストをほくほく笑顔で頬張りながら言い足した。
「ああ、パンも作るのに体力使うものなあ。だから高影さんはそんなにマッチョなんだね」
高影は二メートルの巨体の、四角い顔を会釈に黙って軽く下げた。
筋骨隆々の体付きはブルーのエプロン越しでも分かるが、その寡黙さゆえに「沈黙の巨人」とのあだ名がついている。吉継の背の高さと学校での愛想の無さは父親譲りなのである。
それでも超一流のコーヒー焙煎士でもあり、パン職人としてヨーロッパで修行を長く積んできた高影の評判は広く伝わっており、その味を求めて滋賀県や京都から訪れる客も多かった。
だからコーヒーとトースト・サンドイッチを作る役割は必然高影である。
ちなみに紅茶係とホール(接客)は朝妃が担っていて、高影に伝授された朝妃のガラスポットで淹れるリーフティーも今や人気の一つになって、コーヒーだけでなく紅茶も美味しい喫茶店という触れ込みは老若男女の嗜好を見事に掴んだ。
それゆえ多忙なカフェ・ヒストリアンはキッチンヘルプに生駒一美、洗い場とホール担当には筒井定枝を雇い入れ、五人体制で平日は対応し、土日の休みは吉継がキッチンヘルプを担当し、一美がホールに専念していた。
「オーダー入ります。オプラ一つ、フロマ一つ、デュー・フロマ一つ、BSフロマ、オムサン三つ、玉サン一つずつお願いします。あ、後はマダムを一つ」
夜の赤いエプロンとは違い、ブルーのエプロンと白いキャップで揃えられた昼用ユニフォームを着た一美がオーダー表を片手に新たに入店してきたお客の注文を吉継に伝えた。
「ダコール(了解)!」
店名の英白文字が書かれたエプロンの裾をピシと引っ張り、吉継は、お客さんに良い雰囲気を味わってもらえるよう、という父親の教えに従いフランス語で軽快に答えた。
オプラはデ・ズー・オ・プラ(フランス語で目玉焼き)、フロマはチーズ目玉焼き、デュー・というのは両面焼き、ただ、この場合フロマが付いているから両面焼きでチーズが追加となる。BSフロマは目玉焼きにベーコンとソーセージを追加したもの、オムサンはオムレツサンド、玉サンはゆで卵サラダサンドイッチの、この店における符丁である。
ちなみにここ関ヶ原は日本の文化を二分している場所である経緯から、二つの卵サンド(ゆで卵マヨネーズサラダサンドかプレーンオムレツサンド)をチョイス出来る。
そして最後のマダムは「クロック・マダム」というフランスのカフェで出てくる、スライスした二枚の食パンにハムとチーズを挟み、更に溶けるチーズを上にまぶし、そのままオーブンで焼き、最後に目玉焼きを上乗せするのであるが、これは常連客の裏メニューとなっていた。
吉継はするとオニオングラタンスープを焼いているオーブンの隙間にマダムをセットすると、三つのコンロの上に小型のスキレット鍋を三個置き、残りの二つのコンロにフライパンを二個セットして火を付けた。
そして流れるように片手でスキレット鍋に卵を割り、直ぐさま透明な耐熱蓋を載せ、その内の二つには溶けるチーズを卵の回りに振りかけ、もう一つには半焼きにしたベーコンと茹でたソーセージを添えて蓋をした。蒸し焼きにして黄身の表面を固めるのである。
そしてそれとほぼ同時にボウルに卵を割り入れ、ミルクと調味料を入れて攪拌しそれを溶けたバターのフライパンに流し込んで瞬く間にオムレツを焼き上げ、それを高影の元へと運んでいく。
高影は別にコーヒーを煎れつつ関東サンドを作りながら、そのオムレツをさっと薄切り食パンに挟み込み、ブレッドナイフで四角くカットしオムレツサンドイッチを完成させた。
それから吉継は時間を見計らって目玉焼きの火を止め一美に出来上がりを知らせ、そこに朝作っておいたサラダとフルーツをセットにし、これまた熱々のスープと共に木のトレーに載せて渡した。一美はそこにオーダーの飲み物を付けてホールへと向かっていく。
(いつもながら完璧な流れ作業だなぁ)
秀晶は皿を洗いながら一分の隙もないこの店の手慣れた連係に見惚れていた。
と、その時、高影が吉継に向いてテーブルを左手の人差し指で軽く二回タップした。
それに気付いた吉継は高影が顎を三度上に動かしたのを見て、納得した顔で父親に軽く鼻先を下げ、追加の卵料理に取り掛かった。
(……ヨシ、あの動作で、何で意味分かるんだろ)
無口の高影はいつも吉継にちょっとしたサインを送る。店のスタッフも慣れているのかそれをもう気に懸ける事は無いが、以心伝心に不慣れな秀晶は半ば呆れていた。
【主、あれは胡椒が心持ち多いから少しだけ減らせ、と伝えておるのだ】
ここで秀晶のポケットに入ってる、MONO消しゴムと化した大谷吉継が秀晶の頭の中に話し掛けてきた。秀晶も同様の方法で応じた。
【刑部はヨシのお父さんのサイン理解出来るの?】
【注意深く観察しておれば自ずから悟るようになる。彼の父君は鼻がよう利くようであるゆえ、パンを切る際にその匂いの違いに気付いたのであろう。しかしながらヨシ殿のオムレツは相も変わらず人気であるよのう】
【そう。だからこれからが本当の修羅場になるんだよね。あれ、土日限定だし】
チラリと秀晶は店の時計に目を遣った。
現在時刻は九時。秀晶が修羅場という意味は二時間後に訪れるのである。
そうしてやがて午前十時四十五分になると、店内にドヴォルザークの『新世界より』が流れ始めてた。
するとその曲に釣られて店内の客が少しずつ席を立ち始め、レジで精算を始めた。
「………来るよ、怒濤(どとう)のランチタイム」
秀晶は店の外を眺めて呟いた。既に六十人程の人の塊が列を成している。
カフェ・ヒストリアンは岐阜での流行の終日モーニングでなく。十一時にはサービスをしっかりと終了し、ランチタイムに移行する。であるからモーニングが終了すれば全員一旦会計を済まさねばならない。
すると空になった店内を確認した一美が紙の束を持ち、扉を開けて外のお客に叫んだ。
「只今より整理券を配布します。関ヶ原スフレオムレツ、または関ヶ原オムライスをご希望の方は先着順からご注文の内容と数を申し出て下さい。限定各三十皿ずつです!」
「あ、こっちオムレツ三つね」
「私、オムライス一つ」
「私らはオムレツ二つとオムライス二つ頼むよ」
一美の掛け声と共に一斉にオーダーを求める声があがり、一美は各料理の整理券をテキパキと配っていき、五分もしない内に、
「申し訳ございません。本日の限定はただいま終了致しました。他のお客様はオムレツ・オムライス以外をご注文頂くことになりますのでご了承下さい」
と頭を下げた。
えーッ、と整理券を貰い損ねた客から溜息混じりの落胆の声が漏れたが、ランチメニューには卵サンド以外の各種サンドイッチや石窯で焼く特製ピザ、手作りケーキなどがあるため誰も帰ろうとはしなかった。
吉継を見ると、モーニングのスキレット鍋を全てオムレツ用フライパンに置き換え、ボウルに大量の卵を割り入れ、オムレツ液を作っていた。
「お待たせしました。ランチでお待ちのお客様、御入店です」
一美が扉を再度開けて入店を誘導すると瞬く間に席が埋まった。
そうして爆発的に注文の雨あられが降り掛かった。
「お、終わった………死ぬかと思った」
午後二時三十分、ひすとり庵準備中の札が掛けられ、カフェの暖簾が下ろされるのと同時に秀晶は洗い場のシンクの縁にもたれかかった。
「あはは、晶、ホントに助かったよ。サンキューな」
テイクアウトでサンドイッチを持ち帰る一美らパートらに「お疲れ様でした」と声を掛けた吉継はフライパンを振って笑った。
「ヨシもお父さんもよく疲れないねー」
あれだけ働き通しでも全く疲労の色を見せない二人に秀晶は呆れて苦笑いを返した。
するとここで高影が無言で指を三回叩いてクイと顎を下げた。
「何?」
吉継は通訳して、首を傾げる秀晶に伝えた。
「料理人は体力が無いと務まらないから鍛えているんだよ、と言ってる。それにお疲れ様、ありがとう、とも」
「ああ、いいえ」
絶対この親子おかしい!という言葉を呑み込んで秀晶は短く返答した。
「それとお腹空いたろうから今日は特別のオムライス食べてきなさいってさ」
高影からカットしたトンカツを載せた皿を受け取った吉継は、なるほどと納得した顔でオムレツを焼き始めた。
「いいの!?でも夜用の卵無いんじゃ?」
オムライスが大好物の秀晶は嬉しそうにししつつも反面不安そうな表情を浮かべた。
吉継の作るオムレツとオムライスは週末のランチ限定である。それは仕入れてくる卵の量が絶対的に足りず、店内の収容人員を考慮しての事である。それゆえランチの賄いでオムレツやオムライスが付く事は滅多になかった。
「この後で使うからな。今日は卵余計に取ってあるんだ。だから心配は要らない」
「仕込みで使うの?」
「それとは別にもう一仕事あるんだ。それより、ほら、晶の昼の賄い出来たぞ。カウンターに座ってくれ」
エプロンを脱いで秀晶がキッチンを出てカウンター席に座ると吉継はニンマリした顔を浮かべて皿を出した。
「さあ、今日のオムライスランチ・ヒストリアンスペシャルだ」
見るとオムライスの上にカットトンカツが載っていて、カツにはトマトソース、そしてオムライスの回りにはサワークリームの掛かったデミグラスソースが溢れていた。
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