「それにちゃんと歴史が評価してる件もある。八代将軍徳川吉宗がある時ガラシャをこう評したそうだ。『松平の御家のかく御繁栄のことハ偏(ひとえ)に細川忠興か妻の義死より起りし』と」
「え、吉宗がそんな事を!?」
「つまり歴史的に意味があったんだよ、ガラシャの死は」
「………そうですか、無駄じゃ、なかったんですね」
「ああ、平和な世が続いた礎になったと徳川将軍に言わしめたんだ。だからもう悲しむなよ。俺だってガラシャは大好きなんだからさ」
相好を崩す吉継に汐恩の目頭がぐっと熱くなった。
「ありがとう、コバ君」
「じゃ、そろそろ細川の話はここで切り上げて食事にしようか。約束通り最高のご馳走を振る舞ってやるよ。ちょっと待っててくれな」
「はい、とても楽しみです」
汐恩は憑き物が落ちたような清々しい笑顔を吉継に向けた。
吉継はするとバックヤードからボウル一杯に入った細々と千切られて軽く塩水を掛けられ一晩おいたパン屑を、フライパンで、たっぷりのオリーブオイルと、ベーコンとチョリソーソーセージとニンニクの細切れを炒めた後に追加し、そのパンをヘラで更に細かく潰すように一緒に炒めた。
そしてパンがこんがり金色に色付いてきたらそれを木の器にこんもりと盛り、別のフライパンで焼いていた目玉焼きをそこへトッピングしてついでに皮付きの葡萄の粒も五粒ほど飾りで載せた。
「さあ、今日のご馳走が出来上がったよ」
吉継はそれを二人の前にスプーンと共に置いた。
すると途端に汐恩の顔色がみるみる険しく変わった。
「これは前に話していた残飯じゃありませんの!コバ君、端から私を馬鹿にするおつもりだったんですか!!信じられません!!何ですか、こんなもの!!」
汐恩は立ち上がって耳をつんざくような大声で息巻いて器を掴みひっくり返そうとした。
しかし吉継はそれを予想していたのかその腕を掴み平然と切り出した。
「これは残飯なんかじゃない。『ミガス』という伝統的なスペイン料理だ」
「………み、がす?」
「それも『Migas de Teruel(ミガス・デ・テルエル/テルエルのミガス)』と呼ばれてマリアさんの故郷の料理だよ。説明するからとにかく座ってくれ」
汐恩は予想外の展開に困惑したが吉継の勧めでペタンと腰を下ろした。
「汐恩がここに初めて来た時忠時さんが言ってたろ。スペインのパンは堅いと。スペインの気候は日本と違って常に乾燥してる。それにビニールとかで個別包装もしていないから元々堅いパンも直ぐにカチカチに固まってしまうんだ。でもそれは大事な食料。捨てずにどう調理するかと考えて生まれたのがミガスだ。いわばパンのリメイク料理だな。うちは父さんのパンが美味しいから残ることはないけど、今回は敢えてそのパンを乾燥室で乾かしたんだ。それに掛かった日にちが今日までの四日間だった。日本でも余った米をそういう風にアレンジする事は多いぞ」
「あ、前の冷やご飯対決の料理がそうだったんだね」
秀晶はイタリアンお焦げとライスバーガーを思い出した。
「そうそう。ま、日本の場合一般的にはお茶漬けとか雑炊とか炒飯が多いけどな。このミガスもパンの炒飯だと言えなくもない」
「なるほど」
秀晶は納得して頷いた。
「スペインは豊かな国じゃなかった。庶民は長らく困窮して食べるものにも事欠いていた。でもそんな中でも美味しく食べようと工夫されたのがこのミガスなんだ。名前こそそのままスペイン語で『パン屑』なんだけどその時には大層なご馳走だったんだよ。残飯なんてとんでもない。マリアさんは本当に自分が育った所の食事をお前に食べさせて、自分の事をもっと知ってほしかったんだ」
「………嘘です、そんなの」
汐恩は拳を握り歯を食いしばった。
「だったら何故私が病気の時そばにいてくれなかったんですか!私をほったらかしにして、細川の財産に飽かせてバカンスで遊び歩いているなどまともな母親じゃありません!」
「それなんだけどな、汐恩、誤解だ、全部」
「誤解!?何がですの!」
「あー、うん、論より証拠だな。晶、あれ、出してくれ」
吉継は急に秀晶に向いた。秀晶は頷くと持っていた鞄から一つの白い、赤い紐付きのホタテの貝殻を取り出して汐恩に見せた。
「汐恩が割ったのこういうのじゃない?」
「それですそれです。思い出しました、その憎むべき形は!」
「ちょっと興奮しないで!手に取ってよく見てよ。これただのお土産の首飾りに見える?いかにも大き過ぎるでしょ」
秀晶は強引に汐恩にその貝殻を渡した。
汐恩は心底嫌そうな顔をしつつもそれを観察した。
「あら、何かマークと文字がありますわね」
直ぐに汐恩は殻の表面に描かれた、下向きの剣形の赤い十字架と裏にRdo. de Santiagoというスペイン語を見つけた。
吉継は言った。
「Rdoはスペイン語でRecuerdo(レクエルド)の略、思い出って意味だよ。つまりそれはサンティアゴの思い出って意味さ。その貝は晶に復元してもらった巡礼の記念品だ。俺達はマリアさんの小聖堂で実物を見たから思い出したんだ」
「巡礼?」
「そのホタテ貝の貝殻はconcha(コンチャ)と言ってサンティアゴ巡礼に欠かせない印なんだ。大抵は瓢箪と杖でセットになっている。正確にはヨーロッパホタテ貝だけどな」
「サンティアゴって何です?」
「キリストの弟子で聖・大ヤコブだよ。何か違和感があったんだ。マリアさんは、俺と晶が連れていかれた小聖堂にあった瓢箪を秀吉の旗印だって誤魔化してたけど、秀吉はキリシタンを弾圧したからカトリック教徒がそのシンボルを飾る訳がない。だから俺はその時直ぐネットで調べたんだ。そうしたらサンティアゴ騎士団の赤い十字架がついた瓢箪の画像が見つかった。それはかつて巡礼路を歩くための水筒だったんだ」
「あの、先程からその巡礼って一体何ですの?」
貝をカウンターに置くと汐恩が訝しげに尋ねてきた。
「汐恩、お前、お遍路さんって分かるか、四国八十八箇所霊場巡り?」
「え、ええ。もちろん。白装束に身を包んで金剛杖をついて四国中の弘法大師縁の仏閣をたずね歩くものですわね」
「そうだ。その四国巡礼と似たものがスペインにある。日本と違ってただ一つの目的地だけをひたすら目指して歩いていくんだけどな」
「目的地?」
「サンティアゴ・デ・コンポステーラだよ。そこはスペイン北西ガリシア州の都で、その都市はバチカンとエルサレムに並ぶキリスト教の聖地なんだ」
吉継はスマホで、いくつものルートが描かれたスペインの地図を見せた。
「その聖地巡礼の地へは主にスペインを横断・縦断する形で、自転車か徒歩で数百キロの道を時間を掛けてたどり着くのが一般的なんだ。大抵は徒歩だけどな。巡礼者は様々な思いを持ってその道を歩いて行く。巡礼のルートもフランス発、スペイン発、ポルトガル発まで色々ある。巡礼者はその証としてサンティアゴの象徴であるコンチャをリュックや杖につけていくんだ」
「その貝殻が通行手形みたいなものなんだよね、ヨシ?」
秀晶がカウンターの貝を見て再確認した。
「そうだな。でもクレデンシャルっていう巡礼手帳の方が通った経路とかが分かりやすいかな。最終地点に到達するまでに教会とか市役所とか宿とかの各ポイントに貝やサンティアゴなんかを模したカラフルなスタンプが置いてあるんだけど、通過する度にスタンプを手帳に押していくんだ。それには場所だけじゃなく日付も記されるから一目瞭然だし」
「あの、コバ君、一体何をお話しされているか理解に苦しむのですが………」
汐恩は更に困惑して表情を強張らせた。
吉継は大きくため息を吐いた。
「あのな、汐恩、そのコンチャをマリアさんが持ってた意味まだ分からないか?それはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼者が持つもので、地中海に売ってる土産物なんかじゃない」
「え?」
「マリアさんが病気で苦しんでいるお前を余所に金を使ってバカンスを楽しんでいた?馬鹿も休み休みにいえ。マリアさんはお前の病気が治るよう、手術が成功するよう祈るために巡礼の旅にスペインへ出かけてたんだよ。自分の信仰するサンティアゴに救いを求めるためにな。それもフランス国境近くのソンポルト峠から八百五十四キロもある正反対のガリシアまでの長い道程を女性の身で、たった一人で歩き通したんだ」
これがその証だとばかりに吉継はスタンプが隙間もない程埋め尽くされた古いクレデンシャルと、金色の貝殻の模様が散りばめられた赤い紙筒から取り出した、サンティアゴが挿絵されたラテン語の書類を一枚汐恩の前に置いた。
「………え、え?」
汐恩は力なく開いた手帳を見つめた。その押されたスタンプにはスタート地点からゴール地点までが分かる日付が一つずつペンで書き込まれていて、それは間違いなく自分の手術の後から一月の間の数字だった。
「もう片方のこれはコンポステーラという巡礼を終えた証明書だ。マリアさんの名前と到着した日時も記載されている」
吉継は丸まったA四紙の書類を広げて汐恩の目の前に寄せた。
「汐恩、お前は想像出来るか、八百キロ以上もある道を一人で黙々と歩いていくマリアさんの姿を。娘の無事を黙々と祈りながら十キロ以上もある重いリュックを背負って歩き抜いたその姿を。短期間で無理矢理歩き通したんだ。顔は日焼けして靴もボロボロで足もマメだらけになった。それでも懸命に細川の家に帰ってきた。そこでお前の手術成功を聞いて安心したのか倒れてしまったんだ」
「そんなの………嘘です」
手帳を持つ手を小刻みに震えさせて汐恩は吉継を見上げた。
吉継はコンスポテーラを大切に筒に戻しながら続けた。
「嘘じゃない。俺はマリアさんには内緒で忠時さんと会って全部相談した。そうしたらクレデンシャルとコンポステーラを貸してくれた上で色々話してくれたよ。マリアさんの巡礼はお前への願掛けだ。だから忠時さん以外には里帰りの意味を秘密にした。だからお手伝いさん達はそれを観光旅行と勘違いしてしまったんだ。これを見てみろ」
吉継は次にポケットから一枚の写真を渡した。
「それはマリアさんが小聖堂に隠し持ってるサンティアゴのコンチャだよ。こっそり忠時さんに撮ってきてもらったんだ。マリアさんはサンティアゴのお陰でお前が助かったと感謝し、そのお前に幸福があるようにそれを首に掛けようとしていた。それをお前は勘違いして振り払って割ってしまったけどな。マリアさんはそれを一つ一つ拾い集めて接着剤でくっつけたんだ。娘を助けてくれたサンティアゴの思い出としてそれを今でも大事に保管してる」
「あ、あ」
「それとマリアさんは娘が病気で苦しんでいるからって巡礼中の食事も殆どが粗末なもので、わざわざ長距離の道を選んだのはそうするとサンティアゴ様がお願いを聞いて下さるんじゃないかって。
実は巡礼証明書を貰うだけなら長距離を歩かなくても最後の残り百キロから歩いてスタンプをクレデンシャルに押してもらえば発行してもらえるんだ」
「え?」
「でもマリアさんは闘病していたお前の苦しみを長く歩くことで共有しようとしたんだ。季節も真夏だったから熱中症で倒れかけた事もあるそうだ。巡礼は体調を考えると真夏と真冬は避けるのが無難だ。でもお前の事を思うとマリアさんは形振り構わず炎天下を歩いた。何度も意識が無くなりかけても他の巡礼者に助けられ励まされて満身創痍(まんしんそうい)でゴールの大聖堂へ辿り着いてサンティアゴ像へひざまずいてお願いした。『サンティアゴ様、ワタシの大事なボニータを助けて下サイ。ワタシの命を引き換えにしても構いませんカラどうかあの子を元気にして下サイ』と」
「私………」
写真を見つめていた汐恩の頰から一筋の涙がすうっと流れた。
「………私、今まで何をしていたのでしょう、何を。それに何故お母様は何も仰って下さらなかったのでしょう」
それからもう片方の目からも溢れた涙が止めどなく流れ続けた。
「マリアさんは」
吉継はクレデンシャルと写真を取り上げ、代わりにハンカチを差し出して言った。
「マリアさんはお前が誤解している事も知っていた。忠時さんは無理にでも説明しようとしていたみたいだけど、何せお前は超が付く程頑固者だからな、聞く耳持たなかっただろう。だから忠時さんをマリアさんが止めてたんだ。いつか分かってくれる日を待とうって。例えその日が来なくてもボニータが元気でいてくれれば自分はそれで幸せだって」
「わあああああああ、お母様!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!!」
憎悪の糸が一度に切れたのか汐恩は謝りながら顔を涙でクシャクシャにして小さな子供のようにわんわん大声で泣き続けた。
「やれやれ、やっと事情を察してくれたみたいね、汐恩ちゃんは」
暫くして泣き止んでくると音依が汐恩の前に立って一冊の大学ノートを手渡した。
「それ見てみて、マリアさんが使っていた昔のノートよ」
「………お母様の?」
涙と鼻水を拭き取って汐恩は古いタイプのノートをペラペラとめくった。
そこには決して上手とは言えない字で平仮名や漢字やカタカタがビッシリ書き込まれていた。
「それマリアさんが日本語を勉強した証なの。この段ボールに一杯入ってるわよ」
音依はミカン箱を重そうにヨイショと持ち上げカウンターに置いた。
「へー、やっぱりマリアさん努力家だったんだ。日本語上手だもんね」
感心する秀晶に音依は立てた人差し指をノンノンと振った。
「これが百箱以上あるのよ。忠時さんに借りたのはこれだけ」
「百!」
「文字だけじゃないわ。日本の歴史・文化・政治・経済・古代の風習・もちろん関ヶ原の事にも精通するくらい猛勉強したの。辞書とか教科書なんてボロボロよ。マリアさんはねスペインまで追っかけてくれた忠時さんの熱意に応えるために命懸けで励んだのよ。お爺様、お婆さまに認められるようにね」
「お爺様達が?それはどのような意味なのでしょう?」
ノートから目を上げて汐恩は音依を見た。
「貴女が生まれる前にお爺様とお婆さまは続いて亡くなっていたから、汐恩ちゃんはその様子を知らないわね」
「はい、遺影でしか存じませんので」
音依は次いで吉継に向いて尋ねた。
「ヨシちゃんはマリアさんと忠時さんの話どう聞かされた?忠時さんがスペインに行った後」
「え、ああー、確か忠時さんが両親を説得してマリアさんを細川家に迎え入れたって」
「あらら、マリアさんもまた控え目に話したわね」
「違うの?」
「大違いよ。忠時さんのご両親、汐恩ちゃんからは祖父母ね、そのお二方はそれは大層厳しくてね。外国人を嫁にするなんて歴史ある細川家に泥を塗るつもりか、絶対許さないと猛反対してたのよ。でも忠時さんが帰国せず細川家と縁を切るなんて言い出したから、今度はマリアさんに難題をふっかけたのよ。当時忠時さんは大学二年生。忠時さんが卒業するまでマリアさんが細川家に相応しい教養や立ち居振る舞いを身につけなければ付き合いを許可しないと」
「三年で名家の基準に達しろって?そんなの日本人でも難しいよ」
「でしょうね。でもマリアさんは細川家の近くにアパートを借りてアルバイトをしながら勉強や作法に励んだの。もちろんその間、忠時さんが手伝う事も認められなかった。でも、マリアさんは自力でやり遂げたのよ」
「ひえー、マリアさん、凄いな!」
「忠時さんだって努力したのよ。マリアさんを円滑に迎えるには自分も御両親を納得させるだけの成果を出さなきゃならないって経営学と経済学をトコトン学んで、在学中に投資に成功して細川家の資産を倍にしたんだから」
「知りませんでした。お父様とお母様にそんな過去が………」
汐恩は小さな声で零した。
音依はノートを元の段ボールに戻して過去を振り返った。
「細川家に嫁に来てからもマリアさんは大変だったのよ。いくら忠時さんがこれからの時代は国際的じゃないと駄目だとご両親に説いてもお二方は昔気質だったから外国人ゆえに何かにつけて厳しく当たったの。スペインの国民性は総じて陽気で大らかだけど、それも煩わしいと押さえ付けてしまったのね。でも祖父母が亡くなると忠時さんはマリアさんを解放した。もっと自由にしていいんだって」
「そうだったのですか」
「だからマリアさんの服装も認めてあげてね。私、あの装い気に入ってるの」
「は、はい。それはもう。しかし私はそんな両親の苦労も全く知らずに汗顔の至りです。それにお母様のこれまでのご尽力に比べれば私の今までの努力など何と取るに足らないちっぽけなものだったのでしょう。それなのに私お母様に負けまいといつも罵ってしまって」
「じゃ、汐恩ちゃん、もうマリアさんを女狐扱いしない?私にとってもマリアさんは大切な友達なのよ。正直内情を知っていた私には結構聞くには辛かったんだけどね」
「ああ、申し訳ございません。短刀があったら直ぐにでもこの腹掻き切ってしまいたいです」
汐恩は自己嫌悪に陥った表情をもっと暗くした。
吉継は苦笑して言った。
「母さん、反省してる汐恩を責めるなって。それと汐恩も穴があったら入りたいくらいにしとけよ。それよりミガス食べてみないか?晶もさっきから我慢してるからさ」
「そうだよ、冷めちゃわない内に食べようよ、汐恩」
「ええ、そうですわね、折角作って下さったんですもの」
気を取り直した汐恩はスプーンで目玉焼きの黄身を潰すとそれをソーセージとベーコンとパンを一緒にすくって口に入れた。
「美味しい」
汐恩は思わず口を押さえた。
口内に広がるニンニクの風味とオリーブオイルが染みこんだカリッと焼けたパンが、脂のきいた具材と混ざり合い、とろっとした黄身がそれを包み込むシンプルではあるが甘塩っぱい味わいに感動した。
「わ、これマズい訳ないよ」
秀晶もガツガツと食べながら感想を述べた。
「そもそもパンにオリーブオイルだもんね。そこにガーリックとかソーセージとかベーコンだなんて美味しいミックスになってるもん。それに葡萄がさっぱりとアクセントになってて」
「あはは、二人に気に入ってもらえて何よりだよ」
殆ど空になりかけた二つの容器を見て吉継は笑った。
「実は料理、ミガスだけじゃないんだ。先に仕上げておいたこれも」
吉継はキッチンテーブルに掛けてあった布をめくってその下に隠されていた料理を二皿ずつ二人の前に置いた。
一品目は生ハムと黄色く揚がった野菜がサンドされたバゲットサンドイッチが一つ、二品目はグルグルに巻いた茹で緑ネギの塊が五つほど皿にのっていた。隣には赤茶色のソースが入った四角い小鉢が添えられている。
「汐恩、これは俺が熊本の郷土料理とスペイン料理を合わせた、お前のために作った創作料理だ。良かったら食べてくれないか」
「熊本とスペインの?」
「それともまだ熊本嫌か?」
「いいえ、もう熊本もスペインも今日で大好きになりました。だから喜んで頂きます」
汐恩は満面の笑みを吉継に向けた。
「そっか、じゃあ先に料理の名前だけ伝えるな。向かって左の皿が『ハモン・デ・テルエルと辛子蓮根のボカディージョ』、右が『一文字(ひともじ)ぐるぐる・タラゴナ風』だ」
「あ、これ、マリアさん達がこの前食べていたスペインのサンドイッチだよね」
秀晶がボカディージョを指さした。
「そうだ。それとついでにスペインバルみたいにこれもな」
吉継はワイングラスに入った赤いドリンクを二人の前に置いた。
「ちょっとコバ君、ワインはさすがに。私達小学生ですわよ」
汐恩は慌てて手を振った。
「大丈夫だよ、汐恩。ヨシはそんな非常識な事しないって。ね、ヨシ、これお酒じゃないんでしょ?」
「はは、さすが晶。そう、スペインの『モスト』っていう葡萄ジュースなんだ。バルの雰囲気出るだろ?とにかくボカディージョの方から食べてみてくれ」
「はい。では、頂きます」と汐恩は手を合わせてから、パンを四分の一程千切ってパクリと食べた。
すると蓮根の薄切りのシャクシャクという歯切れのいい食感とスペイン生ハムの極上のコクが混ざってその後にガンと鼻に抜ける辛さが襲ってきた。
「くうー」
二人は鼻を押さえ涙を浮かべたが、次には、
「美味しいッ」
とムシャムシャと食いついて瞬く間に完食した。
「ヨシ、これ考えたね。マスタードの代わりに薄切りの辛子蓮根挟むなんて」
秀晶はモストを飲みながら感激した。
「いいえ、晶さん、それだけではありませんわよ。全体を中和させるために溶けたエメンタールチーズが入っておりましたもの」
「ありがとう、二人とも。料理の説明が省けたよ。ところで汐恩、辛子蓮根って細川忠利公が元で誕生した話って知ってるか?」
「え、そうだったのですか!」
「ああ、忠利公は元々病弱で食欲があまりなかった。それを見かねた知り合いの羅漢寺の玄宅和尚が工夫して作ったのが、造血作用があって且つ栄養に富んだ辛子蓮根だったんだ。蓮根の穴に辛子味噌詰め、油で揚げる事で忠利公はその味付けを気に入り食欲を取り戻した。その衝撃的な風味もそうだけど、辛子蓮根の断面が細川家の九曜紋と似ている事から明治時代まで製造法は門外不出とまでなっていたんだ。これが熊本辛子蓮根の謂われだ」
「そうだったんですね、確かにこの辛さは元気が出そうです」
「じゃあ今度は右の皿のを」
吉継は二人に箸を渡して促した。見た目はネギの上に更にネギをグルグルと巻いてあるだけにしか見えないが、その隣の四角い小さな器に入っている赤茶色のソースに汐恩は目がいった。
「こちらのソースは何ですの?」
「あ、そうそう。そのネギをそのソースにつけて食べてくれ」
「あ、はい」
汐恩は言われたままネギをソースに潜らせて口に入れた。
「ん!甘い!これ不思議なソースです」
トマトの酸味が漂ったかと思えば別の香ばしい甘さが次々と追い掛けてきた。
汐恩は一口食べ終わると吉継に説明を求める目を向けた。
「それはスペインのサルサ・ロメスコだよ」
「サルサ?」
「ソースの事。だからこれはロメスコソースだな。オリーブオイルで炒めたアーモンドスライスと松の実、グリルしたパプリカ、そしてパプリカパウダー、レモン汁、タバスコ、水煮トマト、塩胡椒、すり下ろしニンニクをフードプロセッサーにかけたものがそれ。ネギによく合うだろ?」
「はい、ナッツの風味がきいていてとても美味しいです。でもこのネギもとても甘いのですが?」
「裏庭のバーベキューコンロで丸まま太ネギを真っ黒に焦げるまで焼いてから、皮をむいて甘くなった中身だけを使ったからな。スペインのカタルーニャのタラゴナ地方じゃカルソッツという白い太ネギを炭火で焼いてロメスコソースで食べるCalcotada(カルソターダ・ネギの炭火焼き)がある。それを応用したんだ」
「へえ」
「でもそれだけじゃ熊本にはならないだろ。熊本には昔から一文字ぐるぐるというひともじ(熊本のワケギ)を一本まま茹でてそれを太い根の方を芯にしてグルグルと上の部分を巻き付けて、酢味噌で食べる料理法があるから今回それを活かしてみたんだ。一旦焼いて中身だけ取り出した太ネギに別の煮たワケギをそこに巻き付けたのがこの料理だ。だから一文字ぐるぐる・タラゴナ風」
「なるほど。それでこの甘さでしたのね」
「な、ネギって美味いだろ?晶はどうだ?」
吉継が秀晶に感想を尋ねると口にネギをモグモグ噛みながらマリアのように三本指でチュッと口元を鳴らした。汐恩は複雑な顔で窘めた。
「晶さん、それはスペインのジェスチャーです。貴女が真似る必要はないでしょう」
「カッコイイじゃない。学校で流行らせよっかな」
「晶、お前がやると洒落にならんから止めろ」
吉継も笑って制止した。
「えー、面白そうなのに。あ、そうだ。ねえ、ヨシ、この料理も細川と関係あるの?」
「もちろん」
頷いた吉継は次いで汐恩に向いた
「汐恩は、熊本藩六代藩主・細川重賢(しげかた)公は知っているだろう?」
「あ、はい。財政的に苦しかった熊本藩を立て直し『肥後の鳳凰』と呼ばれた名君でしたから」
「へえ、私、細川はガラシャと幽斎と忠興と忠利くらいしか知らなかったなあ。剣豪・宮本武蔵を雇い入れたのって忠利だったしさ」
思い出すように秀晶は四本の指を順に折った。
吉継は追加で説明した。
「重賢公も熊本では有名だぞ。享保の頃は熊本の財政は先代からの累積赤字とか凶作が原因でひどく逼迫(ひっぱく)していて、『鍋釜の金気(かなけ・鍋などにつく赤黒いしぶ)を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい』とからかわれたくらい酷くてな。重賢公は新しい事業を興したり、新田開発を行って飢饉に備えたり、藩校を作るとかして教育に力を入れたりもした。その成果もあって熊本藩の財政は見事に再建されていったんだ」
「へえ、やるね、重賢」
「晶さん、さっきから呼び捨てで何ですか。私も細川の傍系ですからコバ君みたいに『公』を付けて下さいまし」
「え、吉宗がそんな事を!?」
「つまり歴史的に意味があったんだよ、ガラシャの死は」
「………そうですか、無駄じゃ、なかったんですね」
「ああ、平和な世が続いた礎になったと徳川将軍に言わしめたんだ。だからもう悲しむなよ。俺だってガラシャは大好きなんだからさ」
相好を崩す吉継に汐恩の目頭がぐっと熱くなった。
「ありがとう、コバ君」
「じゃ、そろそろ細川の話はここで切り上げて食事にしようか。約束通り最高のご馳走を振る舞ってやるよ。ちょっと待っててくれな」
「はい、とても楽しみです」
汐恩は憑き物が落ちたような清々しい笑顔を吉継に向けた。
吉継はするとバックヤードからボウル一杯に入った細々と千切られて軽く塩水を掛けられ一晩おいたパン屑を、フライパンで、たっぷりのオリーブオイルと、ベーコンとチョリソーソーセージとニンニクの細切れを炒めた後に追加し、そのパンをヘラで更に細かく潰すように一緒に炒めた。
そしてパンがこんがり金色に色付いてきたらそれを木の器にこんもりと盛り、別のフライパンで焼いていた目玉焼きをそこへトッピングしてついでに皮付きの葡萄の粒も五粒ほど飾りで載せた。
「さあ、今日のご馳走が出来上がったよ」
吉継はそれを二人の前にスプーンと共に置いた。
すると途端に汐恩の顔色がみるみる険しく変わった。
「これは前に話していた残飯じゃありませんの!コバ君、端から私を馬鹿にするおつもりだったんですか!!信じられません!!何ですか、こんなもの!!」
汐恩は立ち上がって耳をつんざくような大声で息巻いて器を掴みひっくり返そうとした。
しかし吉継はそれを予想していたのかその腕を掴み平然と切り出した。
「これは残飯なんかじゃない。『ミガス』という伝統的なスペイン料理だ」
「………み、がす?」
「それも『Migas de Teruel(ミガス・デ・テルエル/テルエルのミガス)』と呼ばれてマリアさんの故郷の料理だよ。説明するからとにかく座ってくれ」
汐恩は予想外の展開に困惑したが吉継の勧めでペタンと腰を下ろした。
「汐恩がここに初めて来た時忠時さんが言ってたろ。スペインのパンは堅いと。スペインの気候は日本と違って常に乾燥してる。それにビニールとかで個別包装もしていないから元々堅いパンも直ぐにカチカチに固まってしまうんだ。でもそれは大事な食料。捨てずにどう調理するかと考えて生まれたのがミガスだ。いわばパンのリメイク料理だな。うちは父さんのパンが美味しいから残ることはないけど、今回は敢えてそのパンを乾燥室で乾かしたんだ。それに掛かった日にちが今日までの四日間だった。日本でも余った米をそういう風にアレンジする事は多いぞ」
「あ、前の冷やご飯対決の料理がそうだったんだね」
秀晶はイタリアンお焦げとライスバーガーを思い出した。
「そうそう。ま、日本の場合一般的にはお茶漬けとか雑炊とか炒飯が多いけどな。このミガスもパンの炒飯だと言えなくもない」
「なるほど」
秀晶は納得して頷いた。
「スペインは豊かな国じゃなかった。庶民は長らく困窮して食べるものにも事欠いていた。でもそんな中でも美味しく食べようと工夫されたのがこのミガスなんだ。名前こそそのままスペイン語で『パン屑』なんだけどその時には大層なご馳走だったんだよ。残飯なんてとんでもない。マリアさんは本当に自分が育った所の食事をお前に食べさせて、自分の事をもっと知ってほしかったんだ」
「………嘘です、そんなの」
汐恩は拳を握り歯を食いしばった。
「だったら何故私が病気の時そばにいてくれなかったんですか!私をほったらかしにして、細川の財産に飽かせてバカンスで遊び歩いているなどまともな母親じゃありません!」
「それなんだけどな、汐恩、誤解だ、全部」
「誤解!?何がですの!」
「あー、うん、論より証拠だな。晶、あれ、出してくれ」
吉継は急に秀晶に向いた。秀晶は頷くと持っていた鞄から一つの白い、赤い紐付きのホタテの貝殻を取り出して汐恩に見せた。
「汐恩が割ったのこういうのじゃない?」
「それですそれです。思い出しました、その憎むべき形は!」
「ちょっと興奮しないで!手に取ってよく見てよ。これただのお土産の首飾りに見える?いかにも大き過ぎるでしょ」
秀晶は強引に汐恩にその貝殻を渡した。
汐恩は心底嫌そうな顔をしつつもそれを観察した。
「あら、何かマークと文字がありますわね」
直ぐに汐恩は殻の表面に描かれた、下向きの剣形の赤い十字架と裏にRdo. de Santiagoというスペイン語を見つけた。
吉継は言った。
「Rdoはスペイン語でRecuerdo(レクエルド)の略、思い出って意味だよ。つまりそれはサンティアゴの思い出って意味さ。その貝は晶に復元してもらった巡礼の記念品だ。俺達はマリアさんの小聖堂で実物を見たから思い出したんだ」
「巡礼?」
「そのホタテ貝の貝殻はconcha(コンチャ)と言ってサンティアゴ巡礼に欠かせない印なんだ。大抵は瓢箪と杖でセットになっている。正確にはヨーロッパホタテ貝だけどな」
「サンティアゴって何です?」
「キリストの弟子で聖・大ヤコブだよ。何か違和感があったんだ。マリアさんは、俺と晶が連れていかれた小聖堂にあった瓢箪を秀吉の旗印だって誤魔化してたけど、秀吉はキリシタンを弾圧したからカトリック教徒がそのシンボルを飾る訳がない。だから俺はその時直ぐネットで調べたんだ。そうしたらサンティアゴ騎士団の赤い十字架がついた瓢箪の画像が見つかった。それはかつて巡礼路を歩くための水筒だったんだ」
「あの、先程からその巡礼って一体何ですの?」
貝をカウンターに置くと汐恩が訝しげに尋ねてきた。
「汐恩、お前、お遍路さんって分かるか、四国八十八箇所霊場巡り?」
「え、ええ。もちろん。白装束に身を包んで金剛杖をついて四国中の弘法大師縁の仏閣をたずね歩くものですわね」
「そうだ。その四国巡礼と似たものがスペインにある。日本と違ってただ一つの目的地だけをひたすら目指して歩いていくんだけどな」
「目的地?」
「サンティアゴ・デ・コンポステーラだよ。そこはスペイン北西ガリシア州の都で、その都市はバチカンとエルサレムに並ぶキリスト教の聖地なんだ」
吉継はスマホで、いくつものルートが描かれたスペインの地図を見せた。
「その聖地巡礼の地へは主にスペインを横断・縦断する形で、自転車か徒歩で数百キロの道を時間を掛けてたどり着くのが一般的なんだ。大抵は徒歩だけどな。巡礼者は様々な思いを持ってその道を歩いて行く。巡礼のルートもフランス発、スペイン発、ポルトガル発まで色々ある。巡礼者はその証としてサンティアゴの象徴であるコンチャをリュックや杖につけていくんだ」
「その貝殻が通行手形みたいなものなんだよね、ヨシ?」
秀晶がカウンターの貝を見て再確認した。
「そうだな。でもクレデンシャルっていう巡礼手帳の方が通った経路とかが分かりやすいかな。最終地点に到達するまでに教会とか市役所とか宿とかの各ポイントに貝やサンティアゴなんかを模したカラフルなスタンプが置いてあるんだけど、通過する度にスタンプを手帳に押していくんだ。それには場所だけじゃなく日付も記されるから一目瞭然だし」
「あの、コバ君、一体何をお話しされているか理解に苦しむのですが………」
汐恩は更に困惑して表情を強張らせた。
吉継は大きくため息を吐いた。
「あのな、汐恩、そのコンチャをマリアさんが持ってた意味まだ分からないか?それはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼者が持つもので、地中海に売ってる土産物なんかじゃない」
「え?」
「マリアさんが病気で苦しんでいるお前を余所に金を使ってバカンスを楽しんでいた?馬鹿も休み休みにいえ。マリアさんはお前の病気が治るよう、手術が成功するよう祈るために巡礼の旅にスペインへ出かけてたんだよ。自分の信仰するサンティアゴに救いを求めるためにな。それもフランス国境近くのソンポルト峠から八百五十四キロもある正反対のガリシアまでの長い道程を女性の身で、たった一人で歩き通したんだ」
これがその証だとばかりに吉継はスタンプが隙間もない程埋め尽くされた古いクレデンシャルと、金色の貝殻の模様が散りばめられた赤い紙筒から取り出した、サンティアゴが挿絵されたラテン語の書類を一枚汐恩の前に置いた。
「………え、え?」
汐恩は力なく開いた手帳を見つめた。その押されたスタンプにはスタート地点からゴール地点までが分かる日付が一つずつペンで書き込まれていて、それは間違いなく自分の手術の後から一月の間の数字だった。
「もう片方のこれはコンポステーラという巡礼を終えた証明書だ。マリアさんの名前と到着した日時も記載されている」
吉継は丸まったA四紙の書類を広げて汐恩の目の前に寄せた。
「汐恩、お前は想像出来るか、八百キロ以上もある道を一人で黙々と歩いていくマリアさんの姿を。娘の無事を黙々と祈りながら十キロ以上もある重いリュックを背負って歩き抜いたその姿を。短期間で無理矢理歩き通したんだ。顔は日焼けして靴もボロボロで足もマメだらけになった。それでも懸命に細川の家に帰ってきた。そこでお前の手術成功を聞いて安心したのか倒れてしまったんだ」
「そんなの………嘘です」
手帳を持つ手を小刻みに震えさせて汐恩は吉継を見上げた。
吉継はコンスポテーラを大切に筒に戻しながら続けた。
「嘘じゃない。俺はマリアさんには内緒で忠時さんと会って全部相談した。そうしたらクレデンシャルとコンポステーラを貸してくれた上で色々話してくれたよ。マリアさんの巡礼はお前への願掛けだ。だから忠時さん以外には里帰りの意味を秘密にした。だからお手伝いさん達はそれを観光旅行と勘違いしてしまったんだ。これを見てみろ」
吉継は次にポケットから一枚の写真を渡した。
「それはマリアさんが小聖堂に隠し持ってるサンティアゴのコンチャだよ。こっそり忠時さんに撮ってきてもらったんだ。マリアさんはサンティアゴのお陰でお前が助かったと感謝し、そのお前に幸福があるようにそれを首に掛けようとしていた。それをお前は勘違いして振り払って割ってしまったけどな。マリアさんはそれを一つ一つ拾い集めて接着剤でくっつけたんだ。娘を助けてくれたサンティアゴの思い出としてそれを今でも大事に保管してる」
「あ、あ」
「それとマリアさんは娘が病気で苦しんでいるからって巡礼中の食事も殆どが粗末なもので、わざわざ長距離の道を選んだのはそうするとサンティアゴ様がお願いを聞いて下さるんじゃないかって。
実は巡礼証明書を貰うだけなら長距離を歩かなくても最後の残り百キロから歩いてスタンプをクレデンシャルに押してもらえば発行してもらえるんだ」
「え?」
「でもマリアさんは闘病していたお前の苦しみを長く歩くことで共有しようとしたんだ。季節も真夏だったから熱中症で倒れかけた事もあるそうだ。巡礼は体調を考えると真夏と真冬は避けるのが無難だ。でもお前の事を思うとマリアさんは形振り構わず炎天下を歩いた。何度も意識が無くなりかけても他の巡礼者に助けられ励まされて満身創痍(まんしんそうい)でゴールの大聖堂へ辿り着いてサンティアゴ像へひざまずいてお願いした。『サンティアゴ様、ワタシの大事なボニータを助けて下サイ。ワタシの命を引き換えにしても構いませんカラどうかあの子を元気にして下サイ』と」
「私………」
写真を見つめていた汐恩の頰から一筋の涙がすうっと流れた。
「………私、今まで何をしていたのでしょう、何を。それに何故お母様は何も仰って下さらなかったのでしょう」
それからもう片方の目からも溢れた涙が止めどなく流れ続けた。
「マリアさんは」
吉継はクレデンシャルと写真を取り上げ、代わりにハンカチを差し出して言った。
「マリアさんはお前が誤解している事も知っていた。忠時さんは無理にでも説明しようとしていたみたいだけど、何せお前は超が付く程頑固者だからな、聞く耳持たなかっただろう。だから忠時さんをマリアさんが止めてたんだ。いつか分かってくれる日を待とうって。例えその日が来なくてもボニータが元気でいてくれれば自分はそれで幸せだって」
「わあああああああ、お母様!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!!」
憎悪の糸が一度に切れたのか汐恩は謝りながら顔を涙でクシャクシャにして小さな子供のようにわんわん大声で泣き続けた。
「やれやれ、やっと事情を察してくれたみたいね、汐恩ちゃんは」
暫くして泣き止んでくると音依が汐恩の前に立って一冊の大学ノートを手渡した。
「それ見てみて、マリアさんが使っていた昔のノートよ」
「………お母様の?」
涙と鼻水を拭き取って汐恩は古いタイプのノートをペラペラとめくった。
そこには決して上手とは言えない字で平仮名や漢字やカタカタがビッシリ書き込まれていた。
「それマリアさんが日本語を勉強した証なの。この段ボールに一杯入ってるわよ」
音依はミカン箱を重そうにヨイショと持ち上げカウンターに置いた。
「へー、やっぱりマリアさん努力家だったんだ。日本語上手だもんね」
感心する秀晶に音依は立てた人差し指をノンノンと振った。
「これが百箱以上あるのよ。忠時さんに借りたのはこれだけ」
「百!」
「文字だけじゃないわ。日本の歴史・文化・政治・経済・古代の風習・もちろん関ヶ原の事にも精通するくらい猛勉強したの。辞書とか教科書なんてボロボロよ。マリアさんはねスペインまで追っかけてくれた忠時さんの熱意に応えるために命懸けで励んだのよ。お爺様、お婆さまに認められるようにね」
「お爺様達が?それはどのような意味なのでしょう?」
ノートから目を上げて汐恩は音依を見た。
「貴女が生まれる前にお爺様とお婆さまは続いて亡くなっていたから、汐恩ちゃんはその様子を知らないわね」
「はい、遺影でしか存じませんので」
音依は次いで吉継に向いて尋ねた。
「ヨシちゃんはマリアさんと忠時さんの話どう聞かされた?忠時さんがスペインに行った後」
「え、ああー、確か忠時さんが両親を説得してマリアさんを細川家に迎え入れたって」
「あらら、マリアさんもまた控え目に話したわね」
「違うの?」
「大違いよ。忠時さんのご両親、汐恩ちゃんからは祖父母ね、そのお二方はそれは大層厳しくてね。外国人を嫁にするなんて歴史ある細川家に泥を塗るつもりか、絶対許さないと猛反対してたのよ。でも忠時さんが帰国せず細川家と縁を切るなんて言い出したから、今度はマリアさんに難題をふっかけたのよ。当時忠時さんは大学二年生。忠時さんが卒業するまでマリアさんが細川家に相応しい教養や立ち居振る舞いを身につけなければ付き合いを許可しないと」
「三年で名家の基準に達しろって?そんなの日本人でも難しいよ」
「でしょうね。でもマリアさんは細川家の近くにアパートを借りてアルバイトをしながら勉強や作法に励んだの。もちろんその間、忠時さんが手伝う事も認められなかった。でも、マリアさんは自力でやり遂げたのよ」
「ひえー、マリアさん、凄いな!」
「忠時さんだって努力したのよ。マリアさんを円滑に迎えるには自分も御両親を納得させるだけの成果を出さなきゃならないって経営学と経済学をトコトン学んで、在学中に投資に成功して細川家の資産を倍にしたんだから」
「知りませんでした。お父様とお母様にそんな過去が………」
汐恩は小さな声で零した。
音依はノートを元の段ボールに戻して過去を振り返った。
「細川家に嫁に来てからもマリアさんは大変だったのよ。いくら忠時さんがこれからの時代は国際的じゃないと駄目だとご両親に説いてもお二方は昔気質だったから外国人ゆえに何かにつけて厳しく当たったの。スペインの国民性は総じて陽気で大らかだけど、それも煩わしいと押さえ付けてしまったのね。でも祖父母が亡くなると忠時さんはマリアさんを解放した。もっと自由にしていいんだって」
「そうだったのですか」
「だからマリアさんの服装も認めてあげてね。私、あの装い気に入ってるの」
「は、はい。それはもう。しかし私はそんな両親の苦労も全く知らずに汗顔の至りです。それにお母様のこれまでのご尽力に比べれば私の今までの努力など何と取るに足らないちっぽけなものだったのでしょう。それなのに私お母様に負けまいといつも罵ってしまって」
「じゃ、汐恩ちゃん、もうマリアさんを女狐扱いしない?私にとってもマリアさんは大切な友達なのよ。正直内情を知っていた私には結構聞くには辛かったんだけどね」
「ああ、申し訳ございません。短刀があったら直ぐにでもこの腹掻き切ってしまいたいです」
汐恩は自己嫌悪に陥った表情をもっと暗くした。
吉継は苦笑して言った。
「母さん、反省してる汐恩を責めるなって。それと汐恩も穴があったら入りたいくらいにしとけよ。それよりミガス食べてみないか?晶もさっきから我慢してるからさ」
「そうだよ、冷めちゃわない内に食べようよ、汐恩」
「ええ、そうですわね、折角作って下さったんですもの」
気を取り直した汐恩はスプーンで目玉焼きの黄身を潰すとそれをソーセージとベーコンとパンを一緒にすくって口に入れた。
「美味しい」
汐恩は思わず口を押さえた。
口内に広がるニンニクの風味とオリーブオイルが染みこんだカリッと焼けたパンが、脂のきいた具材と混ざり合い、とろっとした黄身がそれを包み込むシンプルではあるが甘塩っぱい味わいに感動した。
「わ、これマズい訳ないよ」
秀晶もガツガツと食べながら感想を述べた。
「そもそもパンにオリーブオイルだもんね。そこにガーリックとかソーセージとかベーコンだなんて美味しいミックスになってるもん。それに葡萄がさっぱりとアクセントになってて」
「あはは、二人に気に入ってもらえて何よりだよ」
殆ど空になりかけた二つの容器を見て吉継は笑った。
「実は料理、ミガスだけじゃないんだ。先に仕上げておいたこれも」
吉継はキッチンテーブルに掛けてあった布をめくってその下に隠されていた料理を二皿ずつ二人の前に置いた。
一品目は生ハムと黄色く揚がった野菜がサンドされたバゲットサンドイッチが一つ、二品目はグルグルに巻いた茹で緑ネギの塊が五つほど皿にのっていた。隣には赤茶色のソースが入った四角い小鉢が添えられている。
「汐恩、これは俺が熊本の郷土料理とスペイン料理を合わせた、お前のために作った創作料理だ。良かったら食べてくれないか」
「熊本とスペインの?」
「それともまだ熊本嫌か?」
「いいえ、もう熊本もスペインも今日で大好きになりました。だから喜んで頂きます」
汐恩は満面の笑みを吉継に向けた。
「そっか、じゃあ先に料理の名前だけ伝えるな。向かって左の皿が『ハモン・デ・テルエルと辛子蓮根のボカディージョ』、右が『一文字(ひともじ)ぐるぐる・タラゴナ風』だ」
「あ、これ、マリアさん達がこの前食べていたスペインのサンドイッチだよね」
秀晶がボカディージョを指さした。
「そうだ。それとついでにスペインバルみたいにこれもな」
吉継はワイングラスに入った赤いドリンクを二人の前に置いた。
「ちょっとコバ君、ワインはさすがに。私達小学生ですわよ」
汐恩は慌てて手を振った。
「大丈夫だよ、汐恩。ヨシはそんな非常識な事しないって。ね、ヨシ、これお酒じゃないんでしょ?」
「はは、さすが晶。そう、スペインの『モスト』っていう葡萄ジュースなんだ。バルの雰囲気出るだろ?とにかくボカディージョの方から食べてみてくれ」
「はい。では、頂きます」と汐恩は手を合わせてから、パンを四分の一程千切ってパクリと食べた。
すると蓮根の薄切りのシャクシャクという歯切れのいい食感とスペイン生ハムの極上のコクが混ざってその後にガンと鼻に抜ける辛さが襲ってきた。
「くうー」
二人は鼻を押さえ涙を浮かべたが、次には、
「美味しいッ」
とムシャムシャと食いついて瞬く間に完食した。
「ヨシ、これ考えたね。マスタードの代わりに薄切りの辛子蓮根挟むなんて」
秀晶はモストを飲みながら感激した。
「いいえ、晶さん、それだけではありませんわよ。全体を中和させるために溶けたエメンタールチーズが入っておりましたもの」
「ありがとう、二人とも。料理の説明が省けたよ。ところで汐恩、辛子蓮根って細川忠利公が元で誕生した話って知ってるか?」
「え、そうだったのですか!」
「ああ、忠利公は元々病弱で食欲があまりなかった。それを見かねた知り合いの羅漢寺の玄宅和尚が工夫して作ったのが、造血作用があって且つ栄養に富んだ辛子蓮根だったんだ。蓮根の穴に辛子味噌詰め、油で揚げる事で忠利公はその味付けを気に入り食欲を取り戻した。その衝撃的な風味もそうだけど、辛子蓮根の断面が細川家の九曜紋と似ている事から明治時代まで製造法は門外不出とまでなっていたんだ。これが熊本辛子蓮根の謂われだ」
「そうだったんですね、確かにこの辛さは元気が出そうです」
「じゃあ今度は右の皿のを」
吉継は二人に箸を渡して促した。見た目はネギの上に更にネギをグルグルと巻いてあるだけにしか見えないが、その隣の四角い小さな器に入っている赤茶色のソースに汐恩は目がいった。
「こちらのソースは何ですの?」
「あ、そうそう。そのネギをそのソースにつけて食べてくれ」
「あ、はい」
汐恩は言われたままネギをソースに潜らせて口に入れた。
「ん!甘い!これ不思議なソースです」
トマトの酸味が漂ったかと思えば別の香ばしい甘さが次々と追い掛けてきた。
汐恩は一口食べ終わると吉継に説明を求める目を向けた。
「それはスペインのサルサ・ロメスコだよ」
「サルサ?」
「ソースの事。だからこれはロメスコソースだな。オリーブオイルで炒めたアーモンドスライスと松の実、グリルしたパプリカ、そしてパプリカパウダー、レモン汁、タバスコ、水煮トマト、塩胡椒、すり下ろしニンニクをフードプロセッサーにかけたものがそれ。ネギによく合うだろ?」
「はい、ナッツの風味がきいていてとても美味しいです。でもこのネギもとても甘いのですが?」
「裏庭のバーベキューコンロで丸まま太ネギを真っ黒に焦げるまで焼いてから、皮をむいて甘くなった中身だけを使ったからな。スペインのカタルーニャのタラゴナ地方じゃカルソッツという白い太ネギを炭火で焼いてロメスコソースで食べるCalcotada(カルソターダ・ネギの炭火焼き)がある。それを応用したんだ」
「へえ」
「でもそれだけじゃ熊本にはならないだろ。熊本には昔から一文字ぐるぐるというひともじ(熊本のワケギ)を一本まま茹でてそれを太い根の方を芯にしてグルグルと上の部分を巻き付けて、酢味噌で食べる料理法があるから今回それを活かしてみたんだ。一旦焼いて中身だけ取り出した太ネギに別の煮たワケギをそこに巻き付けたのがこの料理だ。だから一文字ぐるぐる・タラゴナ風」
「なるほど。それでこの甘さでしたのね」
「な、ネギって美味いだろ?晶はどうだ?」
吉継が秀晶に感想を尋ねると口にネギをモグモグ噛みながらマリアのように三本指でチュッと口元を鳴らした。汐恩は複雑な顔で窘めた。
「晶さん、それはスペインのジェスチャーです。貴女が真似る必要はないでしょう」
「カッコイイじゃない。学校で流行らせよっかな」
「晶、お前がやると洒落にならんから止めろ」
吉継も笑って制止した。
「えー、面白そうなのに。あ、そうだ。ねえ、ヨシ、この料理も細川と関係あるの?」
「もちろん」
頷いた吉継は次いで汐恩に向いた
「汐恩は、熊本藩六代藩主・細川重賢(しげかた)公は知っているだろう?」
「あ、はい。財政的に苦しかった熊本藩を立て直し『肥後の鳳凰』と呼ばれた名君でしたから」
「へえ、私、細川はガラシャと幽斎と忠興と忠利くらいしか知らなかったなあ。剣豪・宮本武蔵を雇い入れたのって忠利だったしさ」
思い出すように秀晶は四本の指を順に折った。
吉継は追加で説明した。
「重賢公も熊本では有名だぞ。享保の頃は熊本の財政は先代からの累積赤字とか凶作が原因でひどく逼迫(ひっぱく)していて、『鍋釜の金気(かなけ・鍋などにつく赤黒いしぶ)を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい』とからかわれたくらい酷くてな。重賢公は新しい事業を興したり、新田開発を行って飢饉に備えたり、藩校を作るとかして教育に力を入れたりもした。その成果もあって熊本藩の財政は見事に再建されていったんだ」
「へえ、やるね、重賢」
「晶さん、さっきから呼び捨てで何ですか。私も細川の傍系ですからコバ君みたいに『公』を付けて下さいまし」
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