「あー、もー、いつまで暑いのよー」
ミッシェル・リンチのロゼが波立つワイングラスを傾けて武田須和子が愚痴を吐いた。
「まだ、八月に入ったばかりですよ。暑くなるのはこれからです」
小早川吉継はフライパンとフライヤーを同時に操りながら、ひすとり庵のカウンターで片肘をつく須和子に苦笑いをした。
八月五日、午後九時三十分。
昼は三十五度を超えているのだが、夜も蒸し暑い。
しかし、真夏の土曜日の夜という状況もあって、関ヶ原松尾にある「ひすとり庵」には大数の常連客で賑わっていた。特に夏休み期間はアルコールフェアの名目で通常より百円引きで提供している事と、夏限定のメニューを求めて店内は大わらわになっている。
アルバイトの大学生達と叔母の朝妃は注文にてんてこ舞いだが、店主の音依と吉継は相変わらず涼しい顔で次々とオーダーをこなしていた。
「よく、おねさん達はそんな熱いキッチンで働いてて平気ね。私夏バテ気味で。ほら、関ヶ原って暑いから」
ドット柄の半袖ワンピースの襟元をパタパタ仰ぎながら須和子は顔をしかめた。
「涼しい長野出身の奥様には辛いでしょうね」
音依は茹で上がったパスタの湯切りをしながら微笑した。
「私もまさか関ヶ原の夏がこんなに暑いとは思わなかったわ」
と、その右隣でシャルドネを飲み干した大谷東有子もシースルーの上着を一枚脱いで、カーキ色の五分袖トップス姿になった。東有子は福井敦賀の出身である。
「そうね、県外から岐阜に来た者としては夏場は、ね」
須和子は東有子に向いて同調した。
「盆地ですから関ヶ原は特に暑いんですよ、須和子さん」
須和子は夫の信義と共にひすとり庵の常連であるが、新規の常連となった東有子ともいつの間にか親しくなっており、今晩は女子会のようになっていた。
「とはいえ、近年の高温は異常ですよ。私の勤めている垂井の病院でも熱中症で結構な数の患者さんが搬送されてきますから。垂井も関ヶ原以上に暑いですからね」
「はー、地球温暖化か。ねえ、ヨシ君、何か良い知恵無いの?」
「無茶ぶりは止めて下さい、武田さん。十歳の俺に何を期待してるんですか?」
リモコンで店内のクーラーの温度を一度下げて吉継は呆れた息を吐いた。
「いや、ほら、だって小学生の方が頭が柔らかいじゃない」
「そうね、ヨシ君なら面白いアイデアがあるんじゃないかしら」
東有子は新たに頼んだヴーヴ・クリコのシャンパンを手酌でグラスに注いで言った。
「あー、また、酔っ払った大人がヨシをからかってる」
奥のバックヤードからスカイブルーのTシャツに花柄ショートパンツの秀晶が、ひすとり庵のトレードマークとなっている赤エプロンと同色バンダナ帽を着けながら母の東有子に渋い顔を向けた。
母子家庭の秀晶は、母が夜勤の多い看護師のため、夜は一人が多く、夕飯も不規則になる理由と、音依の厚意もあって頻繁にひすとり庵で夜の賄(まかな)いへ呼ばれるようになっていた。
しかし、賄いといっても無料でご馳走になっているので、その代わりとしてこうして手伝いを無償で買って出ているのである。
「大体、ヨシは料理人なんだから。そういうのは環境省に任せて」
「お、晶、早いな。もう、食べ終わったのか」
休憩時間も兼ねた夕飯から早々と戻った秀晶に吉継は聞いた。
「うん、ありがとう。今日の賄いは風変わりだけど美味しかったよ」
「そうか」
嬉しそうにピースサインを出す秀晶に吉継は安堵して笑った。
グルメな母親に似て秀晶もグルメ舌の持ち主で、吉継が作る賄いの評価に厳しい。特にプロの音依と比較され細かい駄目出しを出される事もある。
「でも、晶ちゃん、いつも話しているけど本当に店の手伝いなんていいのよ。賄いくらいでそんなに気を遣わなくても」
音依が心配そうに声を掛けた。他人の、それも小学生女子にバイト代も無しに手伝ってもらうのは気が引けているのである。
しかし秀晶は満面の笑みで手を振った。
「いいんです。私が手伝えるのは洗い物とかくらいですし、それに私の作品もお土産として売ってもらってますからそのお礼も兼ねてます」
秀晶はガラスに反射するレジ横の土産物コーナーの一角を眺めた。
そこには関ヶ原二色ボウルとクラストラスク(共に一話参照)の他に、秀晶自作の動物モビールとワイヤークラフトが五つほど箱入りで置いてあった。二話でも取り上げたが、秀晶はインテリア雑貨の自作が趣味であり、店の飾りとして猫のモビールを音依にプレゼントしてくれたのだが、そのデザインに惚れ込んだお客の一人からどうしても譲ってほしいと懇願され、秀晶に了解を取ったら、また同じ物を作りますからとオーケーが出た。
ところが、そこからまた違うお客が「私もほしい」という連鎖リクエストとなり、それならいっそ売りましょうとの音依の提案となり、それが現在に至っている。
「あら、晶ちゃんだわ、晶ちゃーん、今日もまた猫のワイヤークラフト帰りに買わせてもらうわね」
近所に住む今井貞子がテーブル席から秀晶に手を振った。
「あ、今井のおばあちゃん。いつも買ってくれてありがとう!」
秀晶も白髪の老婆に手を大きく振り返した。
「ありがとうはこっちよ。おかげでプレゼントした孫達にも好評でね。でもまさかこんな可愛い子があんな素敵な装飾品を作れるなんてびっくりだわ」
「か、可愛いだなんて…えへへ。でも喜んでもらってるなら私も嬉しいです。今度は犬とかキリンとかに挑戦してみようと思ってるのでその時はまたお願いします」
頰を赤くしながら秀晶はペコリと頭を下げた。
「ええ、その時は是非」
貞子は片手を上げて笑み返した。
美少女である秀晶は今やひすとり庵の隠れ看板娘としてお客から密かな人気を有しているが、それ以上に秀晶が作り出す緻密な作品がヒット土産となっている。
ちなみにワイヤークラフトというのはステンレスや真鍮製の針金を自在に曲げて、色々な図柄や文字を作っていくインテリア品であるが、秀晶は手先が器用なせいか、モビールだけでなくそのワイヤークラフトまでいとも容易に手掛けていた。
東有子は音依へ空いたグラスを向けた。
「音依さん、秀晶はこうやって自分の作ったものをここに置かせてもらえるが嬉しいのよ。まして自分で手伝いたいって希望しているんだから、遠慮無く使ってあげて」
「でも学生の本分は勉強です。それが疎かになっては」
「大丈夫よ、この子は塾に行かなくても成績は上位キープしてるから」
自慢げに語る東有子を見て、吉継はエプロンの胸ポケットにささっている二色鉛筆に触れてちらりと後ろの秀晶に視線をやった。
【ま、晶の場合、元々頭がいいのもあるけど家庭教師は別にいるからな。でしょう、刑部どの、助さん?】
【いや、貴公、その推し量りは誤りじゃ。吾が主・晶嬢は飲み込みが早いゆえ、吾らが教えるには及ばぬ】
【うむ、ヨシ殿、仮に教授したとても貴殿に憑いている尸者(ものまさ)と吾らでは出来が違う】
と、秀晶がシャツの胸ポケットに持つ、MONO消しゴムと化している大谷吉継と、その家臣の湯浅五助の霊がアルスという相互テレパシーで返答した。
しかしながら五助の物言いは辛辣である。かつての仇敵であった武将が吉継少年の二色鉛筆に憑いていればそれは面白くないのであろう。
【あー、五助どの。吾はこれでも一応『超えりーと』であるが】
吉継少年の二色鉛筆が不機嫌に反応した。
【ふん、裏切り者の小早川金吾の分際で偉そうに】
五助が直接的に非難をぶつけてきた。
小早川金吾、すなわち、二色鉛筆に憑いているのは小早川秀秋である。そしてその尸者の契約者である依巫(よりまし)となっているのが小学生シェフ・小早川吉継であった。
【これ、五助。聞き苦しいぞ。吾らはもはや和解したであろう。まして金吾殿の成仏に手を貸すと約束した筈じゃ】
主人の大谷吉継が家臣をたしなめた。
だが、五助は納得していないように口を濁した。
【なれど、左様ではござりまするが………】
すると消しゴム霊の主人である秀晶が皿を洗いながら苦笑いした。
【ちょっと貴方達ね、アルスでカマちゃん相手に歴史越しの喧嘩するのは止めてくれない?】
ちなみに秀晶は自分の名前が秀秋と似ているので、秀秋が使用していた旗印の違い鎌から「カマちゃん」と呼んでいる。
「そういえば、秀晶。今日のご飯は何を出してもらったの?」
唐突に東有子が興味ありげな表情で賄いのメニューを確かめてきた。
「え、ああ。スイカとトマトと生ハムのカッペリーニよ。ブロックカットのスイカとプチトマトと生ハムが和えてあった」
カッペリーニはイタリア語で髪の毛を意味する極細のロングパスタでスープなどに使われるが、最近では冷製パスタによくアレンジされている。
「え、スイカとトマト?」
奇妙なコンビに眉間にしわを寄せて母親は聞き直した。
吉継はタッパーからイクラをスプーンですくって料理に添えながら秀晶の代わりに説明した。
「フランスでは珍しい組み合わせではないんです。スイカは意外かもしれませんがパスタに合うんですよ。ウチの夏場限定パスタの一つです」
「へえ、フランスでもスイカを食べるのね。そんなに沢山成ってるの?」
今度は須和子が不思議そうにズッキーニとナスのフリット、キャロット・ラペ添えの細切り人参をフォークですくって質問してきた。
「いえ、スイカの生産量の一位は断トツの中国で、二位から四位はイラン・トルコなど中近東が占めています。意外な国はトップテンに入っているロシアですね」
「は、ロシア?あんな寒い国でスイカを?」
「はい、ウオッカとボルシチのイメージばかりではないんです。夏場にはアイスクリームを食べ歩きしてますし。それにロシアにはスイカに関するこんなおとぎ話もあるんです」
吉継は須和子の空になったボトルを下げて語った。
「怪我をしたコウノトリを助けた貧しく善良な男がやがて回復したコウノトリから御礼にスイカの種を空から落とされて、それを育てると金貨の入ったスイカになった。片やそれを聞き付けた金持ちで性悪な男がわざとコウノトリを怪我させ、それを無理矢理手当てし、同じ報酬を期待して、落ちてきたスイカの種を育てたら、中からは巨大な蜂の群れが出てきてその男に襲いかかった、というオチです」
「ふふふ、日本の舌切り雀と似てるわね、でもスイカの種というのが面白いわ」
東有子が炙りハモの押し寿司を頬張って片笑んだ。
「日本の収穫の産地では熊本・千葉・山形・新潟・鳥取が多いですね。お二方の地元の長野と福井でも有名なスイカがあるでしょう」
「松本の下原すいか、ね。別名、松本ハイランド」と須和子が答えた。
「福井だったら、確か、しらやまスイカとか金福スイカかしら」と東有子は思い出した。
すると吉継はここで真っ赤に熟した皮付きスイカを一切れ皿に乗せて二人の目の前に置いた。
「これはウチの畑で取れた夏武輝(かぶき)という大玉種です。よろしければどうぞ」
「あら、いいの?」
「今日はお酒をオーダーして頂いたお客様全員にサービスさせて頂いてますから、お話のついでに」
じゃあ遠慮無くと二人はシャリとスイカにかぶりついた。
「あ、美味しいスイカだわ。長野のと同じくらい甘い」
「そうね、良い具合に冷えてるし。どれ位冷蔵庫で冷やしたの、ヨシ君?」
「いえいえ、それは冷蔵庫でなく裏の井戸水で昨晩から冷やしました。冷やす温度で感じる甘さは変わりますから。もちろん個人的嗜好もあるでしょうが、スイカやトマトの食べ頃適温はやはり冷水だと思います」
「そうね、昔は川のほとりとかで冷やしていたものね。あの光景を見ると福井にも夏が来たって思ったもの。水気が多くて食べると体がスッと軽くなった気がするし」
「そうですね、スイカは元々南アフリカが原産ですので暑さに対しての果物なんです。水分が九割で解熱効果があります。シトルリンやカリウムといった利尿成分も豊富でむくみにも効くし、甘さの割に糖分も少なくてダイエットにも向きます。リコピンに限ってはトマトより多く、βカロテンは活性酸素を除去し、皮膚のシミを防ぎます。夏のスーパーフルーツですね」
「へー、そんなに。でも今の若い子がスイカを好むって噂は聞かないわね。果物離れが原因なのかしら」
するとここで音依が割ってきた。
「東有子さん、それは少子化の原因もありますよ。大玉のスイカがあっても家族で食べきれない。それに皮がゴミとして出るのが嫌という理由もあります。今はパック入りのブロックカットスイカを買い求める人が多いのはそのためでしょうね」
「はは、世知辛い世の中よね。じゃあヨシ君は子供だけどスイカ好き?」
「大好きですね。ジューシーで口当たりもいいし。スイカは海外でも好まれています。さっきの話題に戻りますが、フランスではスイカはサラダとかマリネにして、トルコではベヤズペイニルという白チーズとミントを合わせます。日本のようにデザートだけの食材ではありません」
「へえ」
「それにスイカにかける調味料も違います。日本では塩をかけたりしますが、ベトナムでは塩唐辛子をかけます」
「うへえ、塩唐辛子?合うの?」
「これは人それぞれの好みです。イタリアではレモンをかけますし」
「レモンを?」
「変わった味になりますよ。晶がさっき食べた賄いパスタにもそれを応用しました」
「はは、世界と日本の食文化って随分違うのねえ」
「時代によっても変わったりしますよ。そもそもスイカに塩というのはスイカの糖度が低く水っぽいスイカが主流だった昔、甘さを引き立てるためにかけていましたから。現代の高糖度スイカには塩はむしろ味を殺してしまいます」
と、ここで吉継は姿勢を正して完成した料理を東有子に差し出した。
「さて、大変お待たせしました、今晩のスペシャリテ、『パスタ・フェッダ・コン・メローネ・オリエンターレ・エ・プロシュット・クルード』です」
「何?私フランス語はともかくイタリア語は自信ないんだけど」
蝶形のショートパスタに生ハムと白色の果物とイクラがのった一皿を見た東有子は困惑した。吉継は和訳して言った。
「『生ハムとオリエンタルメロンの冷たいパスタ』です」
「オリエンタルメロン?」
「はい。このパスタの別名は『三英傑ファルファッレ』です」
「三英傑って、信長と秀吉と家康の?」
「そうです。先ずは召し上がって下さい」
「そ、そうね」
東有子は改めてガラスの深皿に盛ってある蝶形のパスタをじっくり観察した。今夜の料理は音依の協力なく吉継一人でと指定していたためである。それもメニューに載っていないものとの頼みであるのでどんな変わった料理が出てくるのかとより期待に胸が膨らんだ。
そしてよく眺めるとファルファッレには白いソースが絡んでいた。具は何かの薄い果肉の果物をブロックにカットしてあり、その上には薄切りの生ハムとイクラとすり下ろしたレモンの皮が散りばめられているだけのとてもシンプルな料理であった。
「適度に冷えています。さ、どうぞ」
吉継に再度促されて東有子は先ずパスタをフォークで口に運んだ。
「ん!」
見た目から濃厚なクリームソースだと思い込んでいたら、酸味とミルクの効いたさっぱり系である。東有子はフォークに付いたソースだけをなめ、確認に顔を吉継へ向けた。
「これは生クリームに、レモン果汁と牛乳とオリーブオイルを足してあるのね?」
「さすが食通の大谷さん。正しくレモンクリームソースです。イタリアでは冷製パスタはスパゲッティーのようなロングパスタよりファルファッレのような短いパスタを使うんです。それとこの皿はトッピングに合わせてハチミツをブレンドし、普通のレモンクリームより少しだけ甘く仕上げてあります。次はハムと果物の方をどうぞ」
東有子はそのまま具を絡めるように食べた。
途端、プチプチと弾けるイクラと共に塩気のあるハムに、爽やかな薄口メロンのような甘味が口内にふわっと広がった。
「これは………そうか、マッカ(マクワウリ)ね!なるほど、オリエンタルメロンとは正に言い得て妙だわ」
「はい、通常生ハムメロンといえばマスクのような西洋メロンを使うんですが、今日は戦国らしくこのマクワウリを使いました」
吉継は小さな楕円形をした黄色い皮の果実を手に持って続けた。
「実は日本の生ハムは塩分が薄く、メロンは甘すぎる傾向があって、それらは単品ずつではともかく、組み合わせとしては決して良い相性ではないんです。生ハムメロンには仄かな甘味のマクワウリを使った方がしっくり馴染むんです」
「ふんふん、マッカに生ハムとは初めての組み合わせだけど、確かに落ち着いた味だわ。甘味のソースともよく合うし。でも戦国らしくとはどういう意味なのかしら。三英傑とも名付けていたけれど?」
「大谷さんはマクワウリはどういう漢字を書かれるか、御存知ですか?」
「え?………ああ、そういえば考えた事もなかったわね」
「実はこう書くんです」
吉継はスマホでマクワウリのページを見せた。
画面には「真桑瓜」の文字が大きく写っている。
次いで吉継は付属の地図で本巣市を示しながら解説した。
「岐阜の本巣市に真桑という地区があります。そこが瓜の良質の産地であったために真桑瓜と名付けられました」
それに須和子が驚いて反応した。
「あら、マクワって岐阜の地名だったの?私達の方では甘瓜(あまうり)って呼んでたわ」
「マクワウリは南アジア原産の東洋メロンです。今は外国産の西洋メロンが安価で手に入るようになってからはそれに取って代わられていますが、日本で古来瓜といえばマクワウリだったんです。ちなみにプリンスメロンはマクワウリとスペインメロンの交配種です」
「まあ、そうだったの!」
「マクワウリは学術名もラテン語でCUCUMIS MELO VAR.MAKUWA(ククミス・メロ・ヴァル・マクワ)といって、岐阜県の『飛騨・美濃伝統野菜』の一つにも選ばれています。それにこのパスタを三英傑と名付けたのはマクワウリにそれぞれ三人の逸話があるからです。先ず信長ですが、信長の伝記・『信長公記』に『(信長)町を御通りの時、人目も憚なく、栗・柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくひになされ』との記述があります。そのかぶりついて食べたとされるのがマクワウリです。更に『御湯殿の上の日記』に『信長より美濃の真桑と申す名所の瓜にて二個進上申す。信長より岐阜よりほりたるとて瓜一個進上申す』と信長が美濃のマクワウリを朝廷に献上したとあります。よほど美濃のマクワウリが美味しかったんでしょうね」
「へえ、そう思うとマッカ、いや、マクワウリも余計美味しく感じるわ」
東有子はパクパクと生ハムマクワを口に入れていた。
「秀吉は、これは食べたという記述ではありませんが、文禄三年、肥前名護屋城で、仮装茶会を開いた時、秀吉は瓜売りの格好をして周りの大名を楽しませたとの記録があります。そして最後に家康ですが、家康は『暑邪を除くべき良薬』としてマクワウリを好み、美濃の真桑村から農民を江戸に連れて鳴子や府中に専用の畑を作らせました。そうして江戸にマクワウリをひろめていったのです。この頃はまだスイカは食用とみなされていなかったので、マクワウリは当時から暑気あたりに効く果物だったのです」
「なるほど、当時は夏の良い甘味だったんでしょうね」
と、須和子はパスタに夢中になる東有子を横目に頷いた。
「それにマクワウリは栄養面にも優れています。ビタミンB群・ナイアシン・パントテン酸・葉酸・カルシウム・リンを含み、塩分を排出するカリウムと抗酸化作用のあるビタミンCも多く含まれていますから、高血圧の予防や活性酸素の除去にも有効です」
「うーん、何でも甘ければいい訳でもないのね」
腕を組んで納得する須和子に吉継は同調した。
「今の日本人の味覚ははっきりした味を好みがちなので、甘い・辛いなどの刺激が明確でなければ美味しいと思えなくなっているのかもしれません。しかし、料理の組み合わせによっては薄味の方がお互い素材の味を活かせるというメリットもありますから」
「組み合わせの妙ね」
「マクワウリの甘さには、品種にもよりますが、若干のほろ苦さが含まれています。それを美味しいと感じられるならその人は味覚の幅が広いのだと思います」
「味覚の幅?」
「例えば甘味だけで考えてみて下さい。砂糖も上白糖・グラニュー糖・白双糖(しろざらとう)・中双糖(ちゅうざらとう)・甜菜(てんさい)糖・三温糖・黒糖・和三盆糖などがあります。これらは同じ甘味でありながらも全く違う種類で舌に感じる刺激は別物です。料理人は料理によって砂糖を使い分けます。しかし食べる方の味覚の幅が狭ければ、その一皿は決して美味しいとは感じられないでしょうね」
「うんうん、最近、苦味や酸味を受け付けない子が増えたって。それも味覚の幅が狭くなっている証拠なのかもね。それより東有子さん、それ一口だけ頂いてよろしいかしら?」
するとここで会話していた須和子が東有子の残り少なくなったパスタを見て欲した。須和子の料理は音依に任せてあるので吉継の味が気になっていたのである。
「え?ええ、どうぞ」
東有子は皿を横に滑らせた。吉継は直ぐに新しいフォークを須和子に渡した。
「ありがとう」
二人に礼を述べて須和子はパスタと具材を混ぜて一口だけ食べた。
「うん、夏らしくあっさりまとめてあって面白い一皿ね」
須和子は吉継に少しだけ笑んでもう一度東有子に皿を戻した。
「さて、奥様、私の方も出来上がりましたよ。どうぞお召し上がり下さい」
続いて音依が須和子の前に箸と共に料理の皿を出した。
「まあ、綺麗!」
須和子は黒色が映える美濃焼の角皿に乗った、熊笹と緑の紅葉が涼しげに飾りで敷いてあるパスタを見て感嘆の声を上げた。一口大に丸めて盛られたパスタにはフワフワとした薄茶色の液体が掛かり、その前にはこんがり塩焼きにされた中型の鮎が二匹泳いでいるように飾られ、その横にはスプーンで丸められたチーズが添えてあった。
「美濃鮎のスパゲッティーニです。鮎は夏の風物詩ですし、岐阜の代表的な川魚です。先ず初めに塩焼きを。頭から尾まで全部召し上がれます。それからパスタを、そしてその中休みにチーズ、の順にどうぞ」
まさかフレンチシェフの音依が和をメインにもってくるとは想像していなかった須和子は勧められるまま箸を割って鮎の塩焼きを頭から賞味した。
すると、噛んだ瞬間、サクリとしてホロホロと口の中で解ける鮎の身は香ばしくありながら、柔らかい塩味に包まれて鼻孔を潜って頭全体に香りが弾けた。
「!!!」
こんな美味しい鮎の塩焼きに出会ったのは初めてだった須和子はあまりの感動に口を押さえたまま音依を見た。
音依のスペシャリテを食する人間は大抵こういう反応をする。
しばらく待ってから音依は口を切った。
「お気に召して頂けましたか。この鮎は今日知り合いのお客さんが揖斐川で釣ってきて下さったものを囲炉裏でじっくり焼き上げたんです。そして使用した塩はフランスの『フルール・ド・セル』です」
「え、鮎の塩焼きにフルール・ド・セルを!」
驚いたのは東有子である。
フランスのブルターニュ地方にはゲラントの有名な塩田があり、フルール・ド・セルは「塩の華」とも呼ばれ、ゲラント塩の中でも味に深みのある最高級品であった。
それを鮎の塩焼きに使うというのは今まで耳にした覚えもない。
しかし、須和子はそんな遣り取りを余所に次いでパスタを箸でつまんで上に掛かっているソースごとパクリと食べた。
すると今度は下を向いて動かず黙ってしまった。
美味サインその二である。
東有子は笑って、須和子の代わりに音依へ問うた。
「どうもあのソースに何か細工をしてるみたいね、音依さん。何なの?」
「あれは山芋です」
「ん?トロロなの?でもその割にドロドロしてないけど」
「そうです。口当たりを軽くするためにこれを使いました」
音依はシルバーの水筒のようなものを東有子に見せた。
「あ、それって、もしかしてエスプーマ?」
東有子は見覚えのある調理器具に目をこらした。
エスプーマは亜酸化窒素で食材を泡状にする器具であり、それはムースのような口当たりとなり、最近では洋食のみならず和食の料理人までが使用するようになってきた。
「はい、このエスプーマを使って三つの味を一つのムースに仕立てています」
「三つ?」
「一つは山芋、二つ目は少量のわさびです」
「ああ、わさびはトロロには付きものですものね」
「そして三つ目はこれです」
音依は濃いオレンジ色の液体が入った四角い瓶を東有子に渡した。
その瓶には「鮎魚醤」のラベルが貼ってあった。字の如く鮎だけで作られた魚醤である。
「ああ、鮎魚醤で山芋のムースに味を付けたのね!そうか、音依さん。私分かったわ。丸のまま先ず鮎の塩焼きで身の味を、そしてパスタは鮎魚醤を使って別の鮎の味を楽しませているのね。そうすると三つ目のチーズは………」
東有子は隣を見たが、須和子は既にチーズを半分食し終わって恍惚の表情になっていた。
「何が入っているの、あのチーズに?」
「そんな大した仕掛けではありませんよ。クリームチーズに『子うるか』を混ぜただけですから」
子うるかとは鮎の魚卵と卵巣を塩辛にした珍味である。内臓の塩辛「苦うるか」と違いクセは少ないものの、音依はクリームチーズと合わせる手腕によってその香りをより和らげ、更に美味しさだけをアップさせていたのである。
一皿で三つの鮎料理を、和とイタリアンで組み立てた音依の技量は流石としか言いようがない。
「ああ、須和子さん、残りのそれ、頂いてもいい?」
東有子は二匹目の鮎の塩焼きも瞬く間に姿を消し、パスタまで無くなりそうな皿に思わずストップをかけた。須和子は、渡したくないとばかりの視線をギロリと向けたが、先程東有子から一口もらっているので不承不承に皿を送った。
東有子はパスタとチーズの残りを食べた。
そしてじっくり味わってから、吉継に向かって言った。
「ヨシ君、道程は長いけど精進してね」
「………はい、努力します」
吉継は大きく息を吐いて答えた。音依の料理と比較しての激励であるのは直ぐに理解できた。それに二人の感動する様子は自分の時とはやはり別物である。今回は別に音依と勝負したのでもないが、実力の差をありありと見せつけられたので失意に肩も落ちる。
「ヨシちゃんは頑張ったわよ」
音依はポンと息子の背中を叩いた。
「でも、あのパスタにイクラは不要だったかな。食感をと加えたんでしょうけど、あれじゃあ生ハムとイクラの両方の塩気で折角のマクワウリの甘さが抑えられちゃうもの。後、レモンの皮が一割程多いからソースのバランスが全体的に悪くなっちゃってる。ファルファッレの茹で時間もあと二十秒早くあげた方がいいわよ」
「ウィ、メトレス(はい、先生)」
と、弟子の吉継は師匠の音依にフランス語で真面目に返答した。
その時東有子はウズウズと心の中で暴露したい衝動に駆られていた。味見をせずとも見ただけで吉継の料理の欠点を見抜くとは音依はやはりただ者ではない。さすが以前フランス料理界を席捲した天才料理人レーヌ・トロワ・ゼトワール(三つ星の女王)である、と。
ただ音依との約束で誰にも正体を明かさないようにと頼まれているので、それを破ることは出来ない。吉継は音依の実子であり料理の門弟でもあるが、現状は算数の足し算をアインシュタインに教わっているようなものだった。
「でも、そうか、もう少しレモンを減らすべきだったのか………」
そんな東有子の興奮とは別に音依は腕を組んで考え込む吉継を見てクスリと笑んでいた。一旦は気落ちしても自省してそれを次ぎに活かそうとする姿勢はやはり子供であっても料理人である。
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