こじれた人間関係を打開するにはいくつかのパターンがある。
一つ目は徹底的に戦い、相手を完膚なきまでに叩きのめし服従させ、二つ目は相手を無視し今後一切関わらないようにする。
楽なのは当然後者であり、無駄に争わず自分も傷つかない。
ところが人間というのは大小に関わらず大抵どこかの組織に属している。
特に狭い集団の中では無視も現実的でない。ゆえに二つ目も良策とは言えない。
人は言葉にせずとも多くは深層で己が最も正しいと主張している。
だからいつの時代も対立や衝突が起こる。
例えばAとBの間に二つの異なった意見があるとする。そして両者とも譲らないし、事態はいつまでも平行線のまま。ウイーン会議のように「会議は踊る、されど進まず」に似て、人類は古より同じ愚行を永遠に繰り返してきた。
そんな話し合いでも解決できない問題をどうするか。
それがCという新たな仲介役の介入である。即ち互いの問題を精査し妥協点を探りABの関係を修復する。
しかしこれが最も厄介で難解でもある。
中立の立場であるCが絶対的な権力を持っていなければ問題をより悪化させる危険もある上、どちらかに味方すればもう片方から恨まれる損な役回りにもなりうる。
更に言及すればCは結構「目立つ」のである。
坂本龍馬がその最たる例で、険悪の仲であった薩摩と長州を見事に結びつけ倒幕の礎を築いた陰の立役者であり、後世英雄として崇められている。
だがそれは指導者たる才能や力量があればこそで、特にその仲介役が単なる一小学生となれば間違った選択で学生生活が破綻してしまうのである。
岐阜県不破郡関ヶ原町。
人口わずか七千五百人弱の町に立つ唯一の町立小学校、「関ヶ原小学校」。
(なんでこうなるんだ、俺は………)
日の傾きかけたクラスで少年Cは途方に暮れた顔で苦渋の決断を迫られていた。
「東が絶対!」と少女Aが声高にい言い張った。
対して「西に勝る物なし」と少年Bは冷厳に主張した。
そして「お前はどっちなんだ!?」とC少年は二人から選択を迫られた。
竜虎の間に板挟みになったCは辟易した顔を天に向けて呟いた。
「関ヶ原クラスなんてウンザリだ」
今やカースト制がこんな片田舎の小学校の中まで蔓延している周知の事実に「彼」のような小心者の精神は介入の大役など到底堪えきれない。
Cの彼は、一旦、この少年をとある理由から「彼」と呼称するが、彼はとにかく目立つ事が大の苦手であった。
国語がやや得意なだけでそれ以外の学力も容姿も普通で、たまに中学生と間違われる程身長が高く、細目で愛想がないのが特徴なくらいで他は至って平均的な小学五年生である。
ただ本当に注目を浴びるのが嫌いなだけで、RPGではモブの村人が暢気で羨ましいとさえ思っている程の、こんな若干ネガティブ嗜好の少年に悲喜劇が訪れるとは彼自身も想像していなかった。
「コバ、あんたはもちろん私につくわよねぇ~」
彼の属する五年一組の放課後に合戦は始まっていた。
横睨みで彼の濃紺制服の右肘を引っ張っているのは松平元(つかさ)である。学級委員長でもあり、クラス女子の総まとめ役を担っている。
元は三つ葉葵の家紋が彫られたヘアピンを付けたショートカットの前髪を威圧的に揺らし、破れそうな勢いで布地をグイグイ引っ張ってきた。
「ハハハ、何を。ヨシは僕達の味方に決まっている」
七三頭で九曜紋がフレームに描かれた黒縁眼鏡の、まるで一昔前のエリート官僚のような石田三大(みつひろ)は淡々とした口調で彼の左肩を掴んできた。こちらは本来副委員長である毛里秀之(ひでのり)を飛び越え実質的に男子のリーダーとなっていた。
がっちり両方からホールドされた少年Cは逃げようもなくまさに矢面に立たされていた。
「石田君、人を小馬鹿にしたその笑い方止めなさいよ。あ、それより、コバ、絶対東京の方が美味しいよね」
「いいや、大阪だ。焦げ臭い焼き餅の東京なんて繊細さの欠片もない」
「はぁン、味噌汁に餅の大阪こそ雑じゃないの。東京のすまし汁のシンプルさが理解出来ないなんてそっちこそ味覚麻痺してるんじゃないの?」
「醤油真っ黒味音痴に言われたくないな。徳川にもなれない松平君?」
「聞き捨てならないわね。松平は徳川の血筋よ。あんたこそ石田とは名ばかりのサンダイのくせに」
「僕はミツヒロだ。やれやれ、江戸好きの野蛮人は人の名前も満足に覚えられないのか。漢字ドリルをもっと復習すべきだな」
「ふん、少しくらい成績がいいからってうぬぼれないでよ」
「少しじゃない、学年で一番だ。ちなみに塾でも成績上位者だが」
「きーッ、コバ、さっきから真ん中で黙ってないでいい加減決めなさいよ。そうすれば東京が優れてるって証明出来るんだから。そうだ、私たちに一票入れたら今まで通り仲良くしてあげる。じゃなかったら、分かってるわよね」
「ヨシ、冷静に判断しろ。女子の壁に屈するな。お前は正しい道を選ぶべきだ。そうだ、ポケモンのSRカードが二枚ある。リーリエだ。それで手を打とうじゃないか。なんなら日直の仕事も手伝ってやるぞ」
「ちょっと、買収なんて卑怯よ」
「君の脅しも大概だと思うがね」
一体、二人が何をいがみ合っているかというと話は数時間前に遡る。
関ヶ原小学校では給食は教室でなく二階の「ふれあいホール」というランチルームで低学年と一緒に食べるスタイルを取っている。
一月も年が明け授業が始まったばかりの初日に、「食育」のテーマで雑煮が二種類並んだ。
一つは焼いた角餅にすまし汁仕立て。具はカマボコと鶏肉と小松菜、ミツバ等が入った東京風。もう一つは軟らかく煮た丸餅に味噌汁仕立て。具は人参、里芋、焼き豆腐などの大阪風である。
このような給食が選ばれた理由は、丁度関ヶ原が日本の味と文化の境界になっているためで、この西濃地域、特に関ヶ原では東西の文化や習慣が混じり合っている。
国道二十一号線に「やまびこ路」という東西の出汁の違ううどんを別々に提供し「天下分け麺」を看板にしている飲食店があるのはその特殊な風土による。
しかし、関ヶ原で分岐しているのは出汁だけではない。
この地域の八百屋では味噌も赤味噌から白味噌、合わせ味噌まで何でも売っており、選ぶのも家それぞれ変わっている。
もちろん雑煮も丸餅の家もあれば角餅の家もあり、一概にこうだとの決まりがない。多面的だが換言すれば個性がないとも取れる。
だからこそ学校側は代表的な二つの雑煮を給食のメニューに載せたのである。味比べというのは面白い趣向だが、それがまさか東西どちらの雑煮が優れているかという戦争に発展するとは思ってもいなかった。
そもそものきっかけは帰りの学級会であった。
三十手前の、背中の半分が隠れる程伸びた茶髪と、縁無し丸眼鏡がトレードマークの皇武美(すめらぎたけみ)担任教諭が要らぬ一言を発したためである。
「はーい、ところで皆は今日の給食のお雑煮どっちが美味しかったかな~」
それは本来何気ない問いかけに過ぎなかった。
しかしクラスを二分する事態になるとは武美も予期していなかった。
直ぐに手を挙げたのが委員長の元で、もちろん東京風雑煮だと主張した。それに噛みついたのが大阪好みの三大である。そしてその二大巨頭を中心にしてクラスが二つに分裂した。そして生徒同士がバラバラに好みを主張しあった。
「関ヶ原東西雑煮合戦」の勃発である。
ところが火蓋を切った当の武美はその混乱を収めようとするどころかニコニコ様子を眺めているだけで話にならない。
だからいつまで経っても結論は出なかった。
そうして三十分も言い争った頃であろうか、じゃあ挙手の多数決で決めましょうと元が切り出した。口論に疲れてきた三大も賛成した。
五年一組の人数は男女合わせて二十九人。直ぐに結果が出るだろうと誰もが思っていた。
ところが、である。事もあろうに意見は十四対十四の真二つに割れた。
それでは足し算が合わない。
二人とも数え直したが一人足りないのである。
再確認すると足りていない手はコバとかヨシと呼ばれる彼であった。
正直どっちでもいいと思って挙手しなかったのが原因であった。
そうだ、こんな時こそ彼に決めてもらおう、不参加の責任もついでに取らせようとクラス全員の視線が彼一点に注がれた。
みんながみんな期待のまなざしで見つめてくる。
そして元と三大の両者が彼をたちどころに捕まえ選択肢を迫ってきたのが上記の状況になっていた。
俺もう帰りたいんだけど、と少年が困り果てていたその時戦況が動いた。
突然彼の心臓がドクンと強く脈打った。
「ヤバイ!!」
彼は瞬間的に危機を感じた。
この脈動がただの脈動ではないのを、以前より身をもって知っていたからである。奴だ、と感じたのも束の間、その兆候は一瞬にして現れた。
制服の左ポケットがブルブルとスマホのバイブレーターのように激しく振動を始めた。彼は必死に胸ポケットに刺さっている鉛筆を力尽くで押さえ込み、頭の中で怒鳴った。
【こら、金吾、てめえ、おとなしくしてろッ!】
【ふふふ、またしても人助けの好機が来たのう。うむ、主(あるじ)、後はこのマジカルペンシルに任せろ】
喜び勇んだ内なる声が彼の頼みも無視しあっという間に体を乗っ取った。
意識はあるが体が動かない。金縛りである。
「良いか、皆よく聞け。全ては俺が解決してやる」
石田、松平二人の腕を勢いよく払いのけ、芝居がかった口調で彼の体は勝手に話し出した。
(チクショー、こいつを見付けなければ俺の人生はもっと楽に生きられたのに)
声なき声で嘆くも憑依者に届くはずもなく、彼は昨年の夏休みを回想しながら後悔に浸った。

正しくそれは運命の日であった。
二〇一六年、八月の第一日曜日。地域清掃ボランティアに朝早くからかり出されていた彼は関ヶ原の松尾山の山頂で軍手をはめてゴミ拾いに没頭していた。
「ゴミ袋一杯に拾ったら特別手当奮発ね」と母親にそそのかされ、張り切って話に乗ったのがそもそもの間違いであった。
「あちぃー、えれェー、ガリガリ君食いてー」
溶けかけたアイスの如くぐったりしながら灼熱の太陽の下、彼は既に限界を迎えていた。特にラジオ体操後の清掃で、えらい(疲れる)ものはえらい。
小学生は元気一杯というのは大人の幻想に過ぎない。Tシャツはベタベタで首に巻いていたタオルも生ぬるい湿気を帯びている。
関ヶ原は盆地だから夏も暑い。冬も寒いが夏も充分暑い。
暑気の原因は周囲を取り巻く環境にもある。音が脳に与える影響は大で、涼しい風鈴の音ならともかく油蝉と熊蝉の大合唱が体温を倍加させる。毎年暑い街ランキング上位の岐阜多治見のような猛暑ではないだけで、気温計の高い数値にはいつもうんざりする。
暑苦しい理由はそれだけではない。
松尾山の標高は二九二・九メートル。麓から山頂までゆっくり歩いて四十分はかかる。麓から頂上までの山道を清掃するのだが、木の陰で気温が多少抑えられても動いているから汗が玉のように噴き出す。辿り着いた山頂は所々に木陰を作る枝が茂り、山風が吹くため麓より涼しいとはいえ季節は夏、ジトジトまとわりつく湿度が憎い。
冬寒いなら、いっそ軽井沢みたいに避暑地になれば快適なのに、と彼は叶いもしない望みを持ちつつも腰にぶら下げたドリンクホルダーからペットボトルを取り出し手製ドリンクをゴクゴク飲んだ。
ドリンクといっても中身は塩水に砂糖を足しレモンの絞り汁を混ぜ込んだに過ぎない。市販のスポーツドリンクを買ってもいいのだが、三食以外の飲食は全て小遣いから差し引かれる。これは彼の両親が決めた家のルールであった。
その代わり手伝えば手伝う程小遣いは上がる。特に松尾にある彼の家は飲食店を経営しているため、小遣い銭の欲しい子供には絶好なシステムで、それゆえ彼は店の手伝いを喜んでしていた。
逆に絶対無駄遣いはしない。塵も積もればなんとやらで百円でももったいない。
ATMを模した少年の貯金箱には貯まった額が表示され、一定金額が貯まれば郵便局の通帳に入れる。
増えていく貯金箱や通帳の数字を眺めるのが彼の楽しみでもある。
そう言うと守銭奴のように聞こえるがまるで違う。
クラスメイトと話を合わせるためにメジャーなゲームソフトを買って対戦もする。しかし、それ以外の出費は出来るだけ抑えている。どうしても他に遊びたい時はスマホの無料ゲームで楽しむ。当然無課金である。
ケチと堅実を混同しないのがモットーという理念を理解してくれている友達が多いのが本当に有り難い。
そんな訳でこうして今日も労働に勤しんでいるのだが、彼は一つ暑さ対策を忘れていた。
帽子を被っていないのである。いや、忘れていたとの表現は妥当ではない。
お気に入りのキャラクター帽を紛失して、その代わりにと行きがけ母が差し出した帽子のデザインが嫌いなだけで、無くてもなんとかなるだろうと甘い考えで出かけたのが落ち度であった。
「まあ、いいや、さっさと終わらせよう。もうすぐゴミ袋も一杯になるし」
スマホの時計に目をやると表示は9:30になっていた。
清掃の終了時間は午前十時。周りを眺めると夏休みを利用した観光客だろうか、二十代後半の二人連れ女子が木製ベンチに座り、北の方角を向いてキャーキャー写メを撮りながら騒いでいた。三成様とかの音符付きのイエローボイスが耳に入ってきたから石田好きの歴女なのだろう。「大一大万大吉」の旗印が焼き付いた木製ストラップがカチカチと音を立てているのがその証である。
関ヶ原は日本で教育を受けた者なら大抵知っている地名で、地理的な場所は分からずとも名前は聞き覚えがあるはずである。
日本史の分岐点となった、まさに歴史的な町。
であるから歴史好きの聖地にもなっている。ゲームやアニメでイケメン武将が出現してからというもの、町を歩いていると「いかにも歴史好き」な旅人と出会う機会が多くなった。
特に西軍の代表格・石田三成の陣地「笹尾山」と徳川家康の陣地「桃配山」は人気が高い。もちろん両者の強烈な人間性に惹かれて訪れる要因もあるが、二つの陣地は登るのに時間がかからない。笹尾山は少し頑張って歩く程度で、桃配山に至っては山というより丘に近い。
簡単ゆえ大勢が登る。
ところが松尾山は先程も説明した通り、スローで四十分、早足でも三十分はかかる。傾斜は急ではないが道のりは存外長い。
だからこの山の頂きを目指してくるのはコアな歴史ファンが多く、合戦地や笹尾山陣地が一望出来るため木の枝の杖をついてまで必死に登ってくる。
とはいえ、笹尾山や桃配山と比較すると登るのを思い止まる人間が多いのも事実である。
ためらう原因は分かっている。
日本の戦国史の中で歴史を大きく変えた裏切り者が二人いる。
一人が本能寺で主・織田信長を亡き者にした明智光秀。
そして関ヶ原で味方を裏切って西軍を壊滅させたもう一人の武将。
この松尾山がその張本人の陣跡であるため観光客は喜んでやってこないのである。
特に関ヶ原を訪れる者は西軍派が多数を占めるため、この山はむしろ憎悪の対象となる場合が少なくない。
「はあーーー」
彼は長く大きな息をつき目の前で風にたなびく軍旗を見上げた。
白い布地に鎌の模様が交差している図柄が歪んでいる。
「違い鎌」の旗印である。
「チッ、こいつのせいで俺は………」
下を向いた口からは恨み言が漏れた。
そんな時であった。
軍旗支柱の下の長い青草の根元から青色と赤色の細長い物体が垣間見えた。
「ん?何だ」
ゴミかな、と少年は手を伸ばしそれを手に取ってみた。
「………鉛筆?」
土埃を軍手で払い、木漏れ日にかざしてみると単なる鉛筆でなく、軸の中心で青色と赤色に分かれた二色鉛筆である。
小学生にとって便利な文具の一つで、ノートの重要ポイントに色別アンダーラインを引くため大抵生徒のペンケースにも入っている。
これは少年が持っているトンボ社製赤青鉛筆と同種らしい。
しかし、両端は全く削られておらず新品な割に随分古ぼけていた。丸軸の色鉛筆を覆っている塗装面はおそらく何年も日光や風雨にさらされたため色あせ、中心部に記されている金色のメーカー文字もうっすらとしか判別できない。
それでも彼は左から順にプリントされている文字を追ってみた。
「えっと、High Quality(高品質)…の後は、うーん、ロゴが見にくいな、あれ、これトンボ印じゃないぞ。形は、斜めバッテンみたいだけど、海賊のマークかな?」
念のため軍手を外しスマホを再度取り出し、「トンボ 赤青色鉛筆」で画像を調べてみた。そして二つを見比べてみると、メーカーのアルファベット表記は「Tombow」であるが、拾ったそれには「Kingow」と印刷されている。
キング・オウ、OW(オウ)の王様?
小学生でも多少の英語は理解できるがOWの意味までは分からない。速攻で辞書検索してみるものの「痛い」となっているだけで、「痛い王様」では余計意味不明になる。
更に正式ではメーカー名に続いて8900*V・P*となっているはずが「1600*E・O*」との文字に変わっていた。V・Pはその文字の裏側にあるVERMILION(バーミリオン)とPRUSSIANBLUE(プルシアンブルー)の色イニシャルである。これは石田三大が得意気に教えてくれたから覚えている。
ところがこの鉛筆の場合EDOとOSAKAとに刷り変えられていた。
「江戸と大坂?んー、全く意味が分からん」
1600の型番もおかしい。
「これはどうもトンボ鉛筆の偽物だな」
落とし物にしろ廃棄された物にしろ古くてとても使えそうもない。
捨てるか、とゴミ袋にそれを放り込もうとした時であった。
「小早川くーん、お疲れ。掃除終わるよー。おーい、小早川くーん」
ギクリとした。首を向けると近所のおじいさんが登り口からこちらに声をかけていた。
「ちょっと、ここでその苗字は………」
少年は慌てて両手を振った。
案の定、後ろに視線を送ると先程の歴女たちが口を小刻みに震えた手で押さえている。気の毒にとの哀れみか嘲りか、どちらかの笑いを隠しているのは間違いなかった。
それを察したのか老人は、
「あー、ゴメンゴメン。よしつぐ君。もう終わるからゴミ袋持って降りといで」
バツが悪そうに足早に階段を下りていった。
「えッ、よしつぐ?」
急に不意を食ったような呟きが背後の二人から漏れた。
もう彼女たちから笑いは無くなっている。
(俺の名前はコバヤカワヨシツグですけど何か?)
黙したまま半睨みの顔を少年は思い切り向けてやった。すると二人は話題を変え何事もなかったようにそそくさと山を下りていった。
「小早川吉継」―これが彼の本名である。
クラスメイトはコバとかヨシと短く呼んでいる。
家が松尾地区にあるためとても有名な子供でもあった。事情に詳しい地域の人間からは敢えて名前で呼ばれる事が多い。だがこうして時折うっかり苗字を使われてしまうこともある。それが一番頭痛の種となっていた。
彼の名付け親は父親であった。
父の名は小早川高影。漢字こそ違うが毛利三家の智将・小早川隆景と同じ発音をする。その跡継ぎ息子だからという次第で母親が「例の武将」の名前を直接付けようとしたらしいが、父がそれはマズイと止めてくれた。それでプラスマイナスゼロにしようと決まった名が「吉継」であった。
歴史に詳しい人間ならばその意味がすぐ理解出来ると思う。
(けど、プラスの名前より苗字の方が問題なんだよな)
吉継はもう一度深くため息を吐いた。
父のように毛利家の由来であれば誇れるのだが、関ヶ原で小早川の苗字は致命的なマイナスイメージに他ならない。
「生まれが山口県なら良かったけどさ」と皮肉りながら鉛筆を捨てようとした。すると、
「コ・バ・ヤ・カ・ワ~」
どこからともなく低音の小さな声が彼の耳に届いた。
「ん?山道の途中から誰か呼んでるのかな」
先の老人ではないがもう終了時刻なのだろう。みんな集合しているのかもしれないと吉継は慌てて鉛筆をゴミ袋に投げ入れ、その口を閉じようとした。
「こぉばぁやぁかぁわぁ~」
「ひッ」
また自分を呼ぶ声に吉継は軽く飛び上がった。先程とは違いビブラートが効いた機械的で奇妙な声であった。お化け屋敷の効果音に似ておどろおどしい。急いで周囲を見渡してみたが自分以外誰もいない。
「お~ぬ~し、小早川と申すのか~」
間髪入れず三度目の声がした。それも今度はハッキリと人間の声で。
「だ、誰だ、誰かいるのか」
うろたえた吉継はゴミ袋を落とし、首をあちこちにひねってみるがやはり人の気がまるでない。それも先程まで吹いていた風もいつの間にか止んでいた。
異世界に迷い込んだようなシィンと薄気味悪い静寂が辺りを覆っている。
戦慄が全身を走った。
ホラーは決して嫌いではない。それはどこか自分とは無関係だとの心理が無意識に働いているからであり、直接関わるとなると正直鳥肌が立った。
そういえばここ二、三年前から松尾山で悲鳴を耳にした云々の噂がネット上に流れていた。よくある勘違いだと冷ら笑っていたがこれがそうなのだろうかと途端不安に駆られた。
(いいや、怪談なんて嘘に尾ひれが付いた作り話が殆どだし、TVの心霊特集動画も大抵がCG加工のインチキだ。霊なんてこの世にいる訳がない)
冷静に我に返り、散らばったゴミを袋に入れ、同じく飛び出た色鉛筆を掴んだ。
昨晩は夜中過ぎまでホラー系のオンラインゲームに興じていたから幻聴の類だろうと考え直した。
ところが彼のそんな決め付けを打ち砕く出来事が眼前で起きた。
「ええい、小僧。先程から吾が話し掛けているのを無視致すでない」
手に持っていた二色色鉛筆が手の中でグニグニ動いた。
「おわあッ」
思わず放り投げた。
「これ、放るとは不届きな!吾を誰と心得る。小早川金吾中納言であるぞ」
投げられた鉛筆はまっすぐ着地して胸を張るように反り返り言語を発していた。
鉛筆だから口があるのではないが紛れもなく喋っている。それも硬くなったり柔らかくなったり奇妙に変化した。
明らかに只の鉛筆ではない。
人間は極限に驚愕すると暫く機能が停止する。
暫く立ち竦んでいた吉継は力無くしゃがみ込んだ。
「………ハハハ、これは夢だ。そうだ、俺は未だ寝ているんだ」
頭を抱えてぶつぶつ逃避の材料を探していると顔の下に件の鉛筆がパッと現れ、
「夢でも白昼夢でもないぞ、ほれほれ」
クルクルと草の上でコマのように回転していた。
これをどう説明付けたらいいんだろう。
何とか思考を整理しようとするが現実と虚構のせめぎ合いがますます混乱に陥らせた。
付喪神や擬人化などアニメや漫画では定番だが現実世界ではあり得ない。人工知能Iが天才の知識を上回り、宇宙エレベーターがやがて星空へ向かい、完全自動運転車が間もなく道路を走ろうとする科学万能の世界で不思議体験なんて時代錯誤もいいところだ。ネッシーはオモチャ、妖精の写真はコラージュ、水晶ドクロもドイツのイーダー・オーバーシュタイン町で人工的に作られた工芸品と判明している。世界を牛耳っているとされるフリーメイソンは単なる友愛団体、エリア51の宇宙人最高秘密を暴露した博士が平気で生きていて、何度も滅亡すると予言された人類は現在も大過なく過ごしている。
そうだ、非現実は現実じゃないからエンタテインメントとして楽しめるのであって、そうでなければ自分も小さなおじさんを見たとされる痛々しい人種にカテゴライズされてしまうのではないだろうか。



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