慣用句・熟語・ことわざにこんな表現がある。
どんでん返し、急転直下、青天の霹靂(へきれき)、狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に廻らす。
どれも極端な変化をあらわしている。
各意味は辞書に任せるとして、どうやら人間は予め心を整えていない限り不測の事態には即応出来ないようである。
つまりそれは思い掛けない局面には対処の方法が分からない事を意味する。
もちろん吉継にもそのシチュエーションは当てはまった。
(あれ、この状況はとても変だぞ)
翌日の火曜日の放課後。
夕刻迫る教室の自席で吉継は学級日誌に今日の出来事を書き込みながら冷や汗をかいていた。日直業務の締めくくりがこの日誌なのだが、隣の席で秀晶が黙ったままこちらをじっと凝視して動かない。
日直は男女のペアで隣席同士と決められていて、今日が吉継と秀晶が当番に当たっていた。ただし、日直といっても日によって大した役割があるのではない。今日のように日誌だけ書いて終わるのも有り触れた日常である。
毎日秀晶は帰りの会が終わると大抵足早に帰宅するので吉継は気を遣い、
「後は俺がやっておくから先に帰っていいよ」
と退室を促したのだが何故か全く帰ろうとしない。
それどころか椅子を真正面に向け、ジロジロと天辺から足先まで観察している。
「………あの、何かな?」
日誌を書き終えた吉継は落ち着かない素振りで秀晶に振り向いた。
すると秀晶は射貫く視線で余計吉継を直視してきた。
吉継は沈黙の隣人に困惑を増して尋ねた。
「大谷さん、俺の顔に何か付いてる?」
「ついてる」
開口した秀晶は吉継を指さした。
「え、どこ?」
吉継は顔のあちこちを掌で触った。
が、何も付いていない。そして同時にそぞろになった気を落ち着かせようとした。
ついさっき行ったトイレの鏡にも何も映っていなかった。
真面目な秀晶から「目と鼻が付いている」とギャグが展開されるのでもないだろうし、以前から何か接点を探してうまく打ち解けようと決めていたのはいいのだが、昨日の今日でこんなに話をするとは思っていなかったので却って戸惑ってしまう。
「違う。顔じゃなくてそこ」
よく見ると秀晶の人差し指の先は名札の下がった左胸のポケットを差している。
「え、これは最初から付いているけど?」
解せない面持ちで吉継は名札を持ち上げた。
「そうじゃない。ポケットの中」
「この二色鉛筆?」
「そう」と軽く指先で鉛筆に触れた秀晶は静かに口を切った。
「その鉛筆に憑いているのは誰?」
「………え?誰って何?」
聞き間違いかと思い吉継は問い返した。すると秀晶はランリュックから黒猫の筆入れを取り出し、続いて中から二個のMONO消しゴムをつまみ出した。
「小早川君、もうとぼけなくてもいいわ」
秀晶は大小の消しゴムを一つずつ両手に握って硬い形相で核心を突いた。
「あなた、武将の霊に取り憑かれているでしょ。その鉛筆が容れ物になって」
吉継はギクリと身を震わせた。
唐突過ぎて驚愕したしたのはもちろん、尸者にまで言及してきた秀晶へ緊張したのが原因である。
「………藪から棒に何の話をしてるのかな?面白いね。それ映画?漫画?」
顔色を窺い吉継は適当に話を逸らせようとした。
天界の仕組みは未だに謎だらけである。神と尸者と依巫の関連は何となく理解はしているものの、他の要素については全くの無知なので軽々しく返答は出来ない。
秀晶が味方なのか敵なのかすら皆目見当も付かず、現状で金吾と通信するのは危険で、その点は金吾も同様の思案らしく用心して口を閉ざしている。
厨二の長月ならば、政府の陰謀とか闇の組織の介入とか騒ぎ立てるのだろうが、この場合において一番懸念されるのは、秀晶が金吾を祓いに来た霊能力者ではないかという疑惑である。
しかし秀晶は警戒する吉継の上ずった台詞を無視して続けた。
「いえ、取り憑くんじゃなく『神との契約』ね」
外を吹きすさぶ強風で窓がカタカタと揺れている。
「私はある時確証を得た。そしてずっとあなたを観察していた。教室でも、そしてあなたの店、ひすとり庵でも」
「ウチに?はは、大谷さんは一度も来店なんて………」
契約の内情に通じているのはやはり霊能者か、と逸る鼓動を抑えながら吉継はぎこちなく笑い、逆に矛盾を暴こうとした。
ところが秀晶はフウと息を抜き、掌を一つずつ開け、消しゴムを吉継に見せ付けた。
「私は二度訪れているの。一度目はカタバミ会、そして二度目は昨日の夜」
「いやいや、俺はカンターに立ってるんだよ。大谷さんが来たなら直ぐ分かる」
すると秀晶は、証拠なら示してあげる、と、とんでもない真実を打ち明けた。
「あなたの調理した四万十海苔パスタの白魚、燻製の良い香りがして凄く美味しかった。そしてカルピスの牛乳割りも濃厚で牛乳の臭みが消えてた。あの上杉ってサラリーマンと竹中ハルちゃんから少しだけ頂いたけど許してもらえるよね」
「え!?」
吉継は耳を疑った。的確な味覚と嗅覚を指摘されている以上盗聴でも盗撮でもない。それに二人から料理が消えた説明も付く。
「小早川君、どうして私がこの消しゴムをさっきから見せているのか分からない?あなたの契約者が鉛筆なら私のこれは何だと思う?」
「………大谷さん、もしかして君は」
怪奇現象の点と点が線でやっと繋がった吉継は絶句した。
まして依巫の契約の仔細を知っている状況を整理すると結論が一つしか思い浮かばない。
その時秀晶は、「ゴスケ」と囁いた。
と、その途端秀晶の姿が体の揺れと共に一瞬でかき消えた。
徐々にでなくコンマ数秒で消え去ったのである。
「お、大谷さん!?」
吉継は立ち上がって大慌てで辺りを見渡した。
「慌てないで。目の前にいるわよ」
秀晶の声が同じ場所から響いている。そうして再び秀晶はパッと姿を現しウインクした。
「ビックリした?私もあなたと同じ依巫なの」
「え、大谷さんも!」
「も、ってやっぱりそうなんだ」
「う!」
見事に鎌を掛けられた吉継は慌てて口を手で覆った。秀晶はクスリと笑った。
「今更隠さなくてもいいでしょ。別に悪魔払いとか祈祷(きとう)師とかでもないし。危害を加えるつもりもないわ」
「………本当に依巫?」
座り直して吉継は聞いた。
「結構疑り深いのね」
「慎重と褒めてほしいな。自分事ながら今でも信じられないんだからさ」
「じゃあ、私の今使った能力を教えてあげる。名は QUO VADIS(クォ・ヴァディス)、『幻影』ね。透明化って言い換えた方が分かりやすいかな」
「透明って、普通は服だけ浮かんでるんじゃ」
吉継は古典的な透明人間のイメージを浮かべた。
いつの時代よ、と可笑しそうに笑んだ秀晶は消しゴムを机に置くと解説した。
「詳しいメカニズムはよく分からないけど、体の周りの光の粒子を乱反射させて見えなくするんだって。二時間ぐらいなら消えてられるのよ。もちろん、神様の力を借りているから悪事には使えないけど」
「つまみ食いは悪事じゃないの?」
「………意外と意地悪でもあるのね」
目を細めた秀晶は話を強引に向け直した。
「それで本題に戻るけど、あなたの尸者は誰?」
「え、俺のは…」
吉継が霊の正体をさらけ出そうとすると、
【吾の名を明かすな、主!!】
と金吾がテレパシーで怒鳴ってきた。
「何でだよ、金吾。大谷さんは同類だぞ。別に喋ったって………」
「キンゴ?」
秀晶は吉継の発した名前を聞き逃さなかった。
「金吾ってまさか小早川秀秋なの?その鉛筆に憑いてるのは」
「ああ、まあ、そうなんだ」
当惑した声色で吉継は頭を掻いた。すると秀晶の体が再びドクンと揺れた。
「……大谷さん?」
急に動かなくなった秀晶を心配して吉継は肩に手をかけた。と、秀晶は突然その手を払いのけ、窓に吉継の背中を力尽くで押し付け、その襟を絞めてきた。
「小早川金吾!!ようよう復讐の好機来たれり。ここで会ったが四百十七年目。千秋の恨み晴らさでおくべきか!!」
吊り上がった目は血走り鼻息も馬のように荒い。まさしく鬼の形相で秀晶は腕に力を込めてきた。
「く、苦しい」
放すよう腕をパンパン叩くが緩める気配もない。それにこの恐るべき怪力はとても非力な小学生少女のものではない。
「裏切ったおぬしへの怨嗟(えんさ)、いかほどのものか思い知れ!」
四百十七年目とは逆算すると西暦千六百年に当たり、関ヶ原合戦の起きた年である。
吉継は直ぐに気付いた。合戦の最中に裏切られた西軍武将の一人が秀晶の尸者になっている。そして何故金吾が名を明かすなと警告したのかをここで悟った。
その霊が吉継の尸者が秀秋である真相に勘付けば当然仕返しにくるだろう。そしてその災いは契約している依巫にも及ぶ。
(まずい、このままじゃ息が………)
酸欠になってきた吉継だが、薄れゆく意識の中で矛盾点を察知した。
霊依は依巫の体の感覚を奪う。視覚と聴覚だけは共有するがその他の触覚・味覚・嗅覚は遮断される。しかし、秀晶は霊依されてもつまみ食いした吉継の料理を美味しいと称した。そして一日に二度も霊依した。
もしかすると秀晶の霊依は意識が完全に乗っ取られないタイプなのではないか。
すると、「よさぬか、ゴスケ!!」という雷に似た声と共に、秀晶は再度ドクンと体を揺らした。その途端秀晶の腕からは力がストンと抜けた。
「ガハッ、ゴホッ」
吉継はギリギリに助かって咳き込んだ。
「大事ないか、貴公?」
秀晶は吉継の肩を掴み安否を気遣ってきた。
「だ、大丈夫です。それよりあなたは?」
急に声質と態度が変わった。口調から察するに秀晶でもないし先程の尸者でもない。
吉継の問い掛けに秀晶に憑いた者は答えた。
「吾か?それは吾が主に尋ねるがよかろう」
ドクンと三度目の鼓動で秀晶は元に戻った。
「小早川君、大丈夫?大丈夫?ごめんなさい、ごめんなさい」
最高に動揺した顔で秀晶は吉継の両手を握った。
「大谷さんのせいじゃないのは分かってる。気にしなくていい」
霊依の状況が飲み込めている吉継は手を放して微笑んだ。
秀晶はもう一度謝り、二つのMONO消しゴムを手に取って怒った。
「もう、ゴスケの馬鹿!小早川君になんて事するのよ!!」
すると消しゴムの小の方が手の上で自立し、弁明に必死になった。
「な、なれど、主。彼のにっくき宿怨の小早川が目の前にいるとならば……」
「彼には関係ないでしょ!」
「否、尸者と契約を結んでいる依巫が消えれば、尸者も同時に消えるのであって、これ物怪(もっけ)の幸いと」
とミニ消しが更なる言い訳をすると隣の大消しが起き上がり、ミニ消しに向き直りって声を振り立てた。
「ゴスケ、この痴れ者!よしや左様な間違いを犯さば吾らは悪霊と化してしまうわ!あまつさえ吾が主を齢(よわい)十にして咎人(とがびと)にするつもりか、おぬしは!」
その叫びはビリビリと電撃のように振動した。
「さりとて………」
「黙れッ、武士(もののふ)ならば申し開きは恥と知れ!」
「ハッ、申し訳ございません」
「出し抜けに激しおって。普段和やかなぬしらしゅうないぞ。それに詫びる相手は吾ではないわ」
するとミニ消しは吉継に向いてクニャリと背を曲げた。
「頭に血が上ったとは申せ、この湯浅五助、貴殿には大変な失礼を致した。この通りお許し頂きたい」
「………湯浅五助ってもしや、あの、湯浅隆貞(たかさだ)どの?」
吉継は呆然とミニ消しを見た。MONO消しゴムのスリーブケースにはトンボの図柄でなく隅切角に一文字の、湯浅家の家紋が印刷してある。
「どの、とは丁寧な敬称恐れ入る。なれど諱(いみな)はご容赦を。憚りながら我が殿にもお控え頂きたく」
「え、我が殿ってまさか………」
ゴクリと息を呑んだ吉継は隣のMONO大消しを凝視した。
湯浅五助は関ヶ原合戦の最期を飾る美談の持ち主の一人である。
それはとある大名の家臣であり、その主人の名誉を守るために活躍した武将であった。
その時の逸話はこうである。
五助の主人は西軍の大名で病のため顔を頭巾で覆っていた。小早川秀秋の寝返りで敗北が決定した時、自害をするのだが、その首を敵将に渡さないよう介錯役の五助に頼んだ。五助は全てが済んだ後、命を賭してその約束を守り通した。
そしてその五助の主人こそが、石田三成、徳川家康と並ぶ関ヶ原合戦の三大有名人の一人なのである。
と同時に吉継がこの世で最も敬愛する人物でもあった。
「あなたは、もしかして、おおおおおおおおおお………」
吉継は大消しを震える指で指した。
MONO消しゴムのスリーブケースの印は五助と同じくトンボ印ではない。今度は対(むか)い蝶という羽を広げた二匹の蝶が向かい合っている家紋が刷られている。
「おお?」
大消しは頭を傾げた。
吉継は顔を近付けて叫んだ。
「お、お、大谷刑部少輔どの!?」
「う、うむ」
「越前敦賀五万七千石の城主で、母は東殿で、浅井畷で前田軍を破って、鍛冶屋の刀禰家へ地子本銭を永代免除して、号は白頭で、戒名は渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門で、湯浅五助、三浦喜太夫、諸角余市、土屋守四郎の四人が最期まで残って、太閤秀吉をして『百万の軍勢を預け、指揮させてみたい』と言わしめた、あの大谷刑部どの?」
「詳しいな、貴公。吾は確かに大谷刑部、貴公と同じ名の吉継じゃ」
すると吉継少年は興奮のあまりぶはッと鼻血を出した。
秀晶は慌てふためいて、出血をする吉継を案じた。
「ちょっと、小早川君、大丈夫?」
「らいりょうう」
鼻孔を指でつまみ上を向いて吉継は答えた。秀晶はポケットテッシュから紙を抜いて吉継の鼻の周りの血を拭いた。
「ハハハ、面白い御仁じゃな、主の隣人は」
「こんな元気な小早川君、初めて見たわ」
若干引き気味に秀晶は椅子に座り、大小消しゴムをもう一度自分の机に置いた。
吉継も椅子に腰掛けて残った血をゴシゴシ拭いて熱狂した。
「いや、だって、あの言わずと知れた天下の名将・大谷刑部どのだよ。俺にとっては英雄、いいや神様と同じなんだから落ち着けってのが無理だって」
大消しはリズミカルに左右に揺れた。
「左様に面と向かって誉めそやされるのは面映ゆいのう。吾はかように讃えられる者ではないぞ。太閤殿下にもよう叱られた粗忽者(そこつもの)ゆえな」
「いやいや、ご謙遜を。どれだけあなたが素晴らしいか皆よく知っています。五助どのの散り際も大谷ファンにとっては語り草ですから」
「手前もか?」
驚くミニ消しに向かって吉継は鼻息荒く言い募った。
「槍の名手で、大谷家中でも、いかにもしつか(静か)に物やわらかなる(物腰が柔らかい)よきもの、との人格者だと伝わってます。自分の命と引き替えに刑部どのの首の在処を教えなかった義の精神はまさしく武士の鑑。ああ、俺がもしあの時代に生まれていたら間違いなく大谷家に仕えていたのに。でもこうやって憧れのお二方と話せるなんてもう死んでもいい」
うっとり二個の消しゴムを眺める吉継に胸元の金吾は溜まりかねて愚痴を吐いた。
「おい、主、吾の扱いと全然違うではないか!」
吉継は鉛筆を握り取り、冷酷な眼差しを向けて一言誹った。
「はよしねや」
「おい、それ、福井弁よな、な?」
「金吾殿か、久しいの」
大消しが声を掛けると、途端手の中の金吾は黙り込んだ。
吉継は鉛筆を同じ机の上に立て置いた。
「小早川金吾、貴様、どの面下げて吾らの前に!!」
小消しが鉛筆に詰め寄ってがなった。
「止めよ、五助。疾うに済んだ来し方(過去)じゃ」
大消しの制止に小消しは、
「なれど殿、こやつのせいで吾ら大谷は」
「金吾殿のせいではない。吾は端から小早川の寝返りは見込んでおった。ゆえに脇坂ら四将を松尾山の麓に備えておいたのじゃが、よもやその四将が裏返るとは推しておらなんだからの」
「脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四人ね」
と、秀晶が補説した。
「うむ、その通りじゃ、主。その四人の叛意を裏で御したのは黒田甲斐、藤堂佐渡」
「黒田長政と藤堂高虎」
「そしてその二人の黒幕は徳川内大臣家康どのじゃ。合戦前から文で皆を巧みに懐柔しておった。幼き頃より人質生活が長いが故の辛抱強き策略よ。南宮山の吉川も徳川に味方し、毛利本隊を足止めした。つまり吾らは戦う前から既に負けておったのじゃ。責めを負うとすれば全ては大局を見誤ったこの吾にある。まして勝負は時の運。吾は内府殿の策略に負けた。天も徳川の政(まつりごと)を選んだまで。ゆえに吾は金吾殿を恨んではおらぬ」
「うッうッ、刑部どの~。何とお優しくて潔い」
感動した吉継は咽び泣いて鉛筆を左手で握った。そしてどこから取り出したのかミニのカッターナイフが右手に握られている。
「それに比べてこの裏切り者は。これから俺がこやつを介錯しますから」
「わー、待て待て、主。何を血迷うておる」
「うん、やはりお前が責任を取って報いるべきだと思う。大丈夫、せめて痛みがないように一思いで楽にしてやるから」
「真顔でさらりと物騒を申でない!」
キチキチと刃を出す吉継であったが刑部が口を挟んだ。
「ああ、待たれよ、貴公」
「止めんで下さい、刑部どの。これでせめてもの償いを」
「いや、それはもうよい。それより尸者を故意に壊すのは依巫にも同じ害が及ぶのじゃが」
「………は?」
「ん?」
噛み合わない会話に少し静寂が流れた。
「ええっと、どういう意味ですか?」
「そのままの意味じゃが。反対に依巫を亡き者にすれば尸者を滅しえる。先程五助がしたようにの。依巫と尸者の契約の常識であるが」
「もしもし金吾さん。俺、何も教わってないんだけど?」
カッターを片付けた吉継は代わりに力一杯鉛筆を捻った。
「いや、イテテ、吾は主を信じておったから…イテテ」
「馬鹿!それって仮に俺に何かあったらお前まで消えちまうんだろうが」
「………主、吾を案じてくれるのか?」
「くたばれ、キンゴミ鉛筆」
「どっちなんじゃ」
金吾は隙を見てポケットにワープした。
「何か息の合った良いコンビね」
秀晶はカラカラ笑った。
「止めてくれる、大谷さん。俺は好きでこいつの依巫になったんじゃないんだから」
「え、そうなの?」
予想外に目を白黒させた秀晶に吉継は金吾と出会ってから今までの経緯を能力などを交え詳しく話した。
「へー、この小早川秀秋が能力を使って人助けをねえ」
渡されたKINGOWと印刷された二色鉛筆を秀晶は意外そうに観察した。
「信じられないでしょ?」
「でも成仏の近道としては悪い方法ではないのかも」
「だけどこっちが大変だよ。アポートのせいで小遣いは減るわ、霊依でいつもお節介を焼いて身勝手に振り回されるわ」
返してもらった鉛筆を胸ポケットにしまって吉継は不平を並べた。
「アハハ、あの給食の牛乳の件でもそうだったね」
「あれ、見抜かれてた?」
「あんな武士口調ならね。それに小早川君、やたらと鉛筆と睨めっこしてたし、依巫なら感じ取らない方がおかしいかな」
「そっか、バレバレだったか」
必死に隠していたこれまでの努力は何だったんだろうと吉継は自嘲した。
「小早川君は私のに気付かなかった?」
「消しゴムを拾った時、違和感はあったよ。でも一瞬だったし」
「そうね、その時に刑部と五助に繋がったのかも」
「え?」
「だって小早川君の尸者は小早川秀秋でしょ。契約していないこの子たちとあなたが通信出来るなんて変だと思わない?」
「あ、そういえば当たり前にしてたけど確かに」
「依巫が違う尸者に触って、お互い意識すれば繋がるらしいよ」
「そうか」
「あなたも依巫なら尋ねてくれればよかったのに」
「うん、まあ、俺も他に同じ境遇の人間がいるなんて想像もしなかったし、何よりもこうやって大谷さんと満足に喋れなかったから」
「あ………」
秀晶は言葉に詰まってうつむいた。そして、
「小早川君、ごめんなさい!」
と突然立ち上がって大きく頭を下げた。
「今まで嫌な態度ばかり取ってごめんなさい。あと、勘違いして殴っちゃったりしてごめんなさい」
「あの、大谷さん?」
「さっきも言ったけど私、五助のクォ・ヴァディスで透明になってあなたを見ていたの。放課後クラスのみんなが集まった中で小早川君は私へのイジメを止めようって提案してくれた。筆入れだって必死に探して見付けてくれたのに、それを犯人だって勘違いして。それなのに小早川君、私を恨むどころか畔田さんまで庇って」
吉継は長月が感じていた気配が秀晶だとこの時やっと分かった。
「小早川君のおかげで上履きも戻ってきたし傘も新品が置いてあった。色々な場所で私を見捨てずにいてくれた。本当は直ぐにお礼をしたかったんだけど、今まで酷い対応ばかりしてたからどうしていいか分からなくなって」
(ああ、やっぱり不器用なだけだったんだな)
思考の迷路に迷い込んだ秀晶を理解して吉継は人差し指を立てた。
「一つだけ質問していい?」
「え?」
頭を上げた秀晶を吉継は椅子に座らせて問い掛けた。
「関ヶ原、本当は嫌いじゃないんだよね」
「………うん」
「やっぱり。大谷さんの話の端々に歴史に詳しい箇所が出てたからそうだと思ってた」
「実は何度も関ヶ原には来たことがあるんだ、昔、お父さんと」
「………」
父親の単語が出て吉継は反射的に口をつぐんだ。
秀晶は隠し事が出来ない吉継に小声で言った。
「黙るなら聞いてるんだ、ウチの事」
「ごめん、テンムちゃんからおおよそは」
そっか、と椅子に背を預けて秀晶は事の次第を話した。
「お父さんね、凄く歴史が好きなんだ。敦賀生まれだから刑部の生き様も好きで何度も何度も私に教えて。それで私もいつのまにか関ヶ原とか戦国時代にハマって。よくお父さんと色々旅行も行った。でも二年前にお父さんが乗った海釣りの漁船が急な嵐で転覆して行方不明になって………」
「捜索は?」
「もうとっくに打ち切られてる。三月後にお葬式も済ませたの。さすがに、もうひょっこり顔を出すなんて期待出来ないもの。そんな時に出会ったのが刑部達だった。敦賀城跡に新品の消しゴムが二つ落ちてるから拾ってみたら、ってそのあたりは小早川君と一緒だね」
寂しく笑う様に吉継は居たたまれなくなり金吾に話し掛けた。
「金吾、あのな………」
「命のアポートならお断りじゃぞ」
むべも無く金吾はばっさり切った。
「なんで分かった」
「無鉄砲でお人好しの主の性分じゃ。分からいでか」
「じゃあ可能なのか」
「あのな、主、今一度申しておく。吾が能力のアポートは等価交換じゃ。十円の駄菓子を買うには十円を支払えば良い。では命を甦らせるには何をもって購う?おぬしは親不孝をして父母を悲しませたいのか」
「おい、そんなキツイ言い方をしなくても…」
吉継が金吾を非難すると秀晶が吉継の腕を掴んで首を振った。
「小早川君、ありがとう。でも、そんな命を粗末にするような事考えちゃダメ。気持ちだけで嬉しいから」
「大谷さん………」
「私は刑部と五助が側に居てくれたから家が留守でも独りにならずに済んだ。いつも話し相手になってくれたから寂しくなかった」
するとここで大消しが言い足した。
「なれど吾らは現身(うつせみ・今の世に生きる人間)ではない。ゆえにこの学舎で人の友を作れと進言しておるのじゃが、いかんせん、何せ吾が主は強情で」
「刑部!」
「然るに、貴公に主の友になってやってほしいのじゃ。ここで出会うたのも多生の縁。まげてお頼み申す。それ、この通り」
大消しは吉継に向かってペタリと平伏した。
「ちょっと、刑部、何を!」
「よいではないか。この際、はっきりと主も彼の者を気に掛………」
すると真っ赤になった秀晶は「わーわー」と叫びながら口封じに消しゴムを両手で握りしめた。
「えーっと、大谷さん?」
「な、何でもないから」
「いや、よろしくお願いしたいんだけど、友達」
吉継は右手を出した。秀晶は消しゴムを置いて吉継に向いた。
「………いいの?」
「いけないの?」
「だって、私、散々酷い態度取ったのに」
秀晶は一旦差し出そうとした手を下ろした。が、吉継はその落ちた手を握った。
「こ、小早川君」
「でも、これからは今までとは違うんだよね?」
「それはもちろん」
「第一俺たちは依巫の仲間だし。ほら、もっとお互い交流した方がいいと思う」
仲間を強調した時点で有頂天に光る瞳は違う意味も有しているのが察知出来た。
秀晶は呆れ果てた口で聞いた。
「本音は?」
「刑部どのと親しくなりたい」
「ふふふ、正直過ぎよ、もう」
打算のない現金な態度に秀晶は却って笑ってしまった。刑部や五助を利用しようと企むのでもなく、無邪気に好きだとする単純な性格は秀晶が抱えていた疑いや鬱屈をたちまち吹き払った。
「よろしく、小早川君」
柔らかい笑み声で秀晶はしっかり握手した。
「こちらこそ、大谷さん」
吉継も固く握り返した。するとそれを見ていた大消しが上機嫌に頷いた。
「うむ、仲良きことは美しき哉。では我々も主たちに倣って金吾殿の成仏に力添え致そう」
「な、何の世迷い言を申されるのですか、殿?」
仰天に跳ね飛んだ五助が慌てて制した。
「世迷い言?」
「小早川は永遠の敵ですぞ!」
刑部は呆れた息を吐いた。
「五助、おぬしはいつの話をしておるのじゃ。在りし世(し)の話と申しておろうが」
「いえ、この際時は関係ござりませぬ。小早川が許されるなどあってはならぬ事!」
「ほう、それは誰が定めたのじゃ。神か、仏か、それともおぬしか。ならば随分と偉くなったものよの」
「殿、その物言いはあまりにございます。身共は偏に殿のご無念を思い………」
「阿呆、それは吾が決める事じゃ」
刑部は弁解する家臣を諫めた。
「おぬしの忠義を恨み言に用いるな。折角の清い魂を汚してはならぬ。それに金吾殿とて四百年以上の時が経っても裏切り者の辱めと誹りを今なお免れておらぬ。もう充分に罰は受けた。まして吾とて『人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん』と小早川を呪う作文には嫌気がさしておる。金吾殿の成仏を助ける仁でそれを払拭する良い機会になるとは思わぬか、五助?」
「なれど」
「徳をもって怨みに報いる。いつまでも宿怨に凝り固まっておっては誰も報われぬ。ともあれ、吾らは一度成仏した身。他の者に耳目となり手を差し伸べるのは至極当然。納得出来ねば手伝わんでもよいぞ」
「い、いえ、むろん殿の仰せとあらば、この湯浅五助、加勢致しますとも。ええ、尽力致しますとも!」
「おお、よくぞ申した。それでこそ吾が侍臣ぞ」
するとここで金吾が小さく「かたじけない」と呟いた。
「あのー、刑部どの、五助どの」
と吉継が机に椅子を寄せて聞いた。
「協力して頂けるのは俺も金吾も非常に有り難いのですが、お二方とも成仏しているんですか?」
刑部が左様と頷いて答えた。
「吾らは主の願いによって下界に降りて参った」
「なら、今まで誰かの尸者になってはいないと?」
「うむ、その点は貴公と同じではない。吾らは形こそ消しゴムではあるが、金吾殿のように本物の文具ではない。これは仮初めの形じゃ。子供に親しみやすいようにと神が化身させた」
すると秀晶が消しゴムをつまみ上げて吉継にロゴを見せた。
「MONO消しゴムだけに尸者(ものまさ)」
「………?」
意味が分からない。
秀晶は眉を八の字にして言った。
「ここ笑うトコ。渾身のギャグ」
「ご、ごめん」
「謝らないの。あなた立派な芸人殺しになれるわよ」
ぷいと拗ねる秀晶に、芸人じゃないだろと心の中で突っ込みつつ吉継は謝った。
「ごめんてば。それより、大谷さん、五助どのの力は分かったけど、刑部どのの能力って何?」
「ああ。それならシンライよ」
「信頼?信じる方の?」
「いや、貴公よ、吾のは神雷、神の雷と書く」と大消しが戻って説明した。
「正式にはVOX DELI(ウォークス・デリ)と申して、神が発する言霊の力じゃな。それは雷鳴の如き声で相手の動きを止めたり、時間を僅かに停止させたりする」
「停止の力?………あッ、そうか、クロのタロットは能力か」
吉継はポンと掌を打った。
ここでやっと長月のタロットカードの解明に繋がった。吉継を中心として、月の幻想は「クォ・ヴァディス」で幻影、逆さ死神の休止は「ウォークス・デリ」の停止が絡んでいる。運命の輪は「奇跡」であり、小早川と大谷の出会いはまさに奇跡であった。
「そうですか、俺は刑部どのの能力はてっきり采配のチャージ攻撃で落雷とか、天魔反戈(アマノマガエシノホコ)でこう敵をバシッとやるものとばかり」
仰々しく戦国無双の大谷吉継の攻撃を少年吉継は真似た。
「何じゃと?」
「………ゲームの用語だから分からなくていいのよ、刑部」
秀晶はスルーし刑部の話を続けさせた。
「とは申せ、能力は吾ら尸者のみでは発動は難しい。それゆえ依巫が必要となる。それは貴公も存じておろう」
「はい。それで尸者の力を増幅させるって金吾から」
「うむうむ、間違いではない。が、一つ金吾殿は言いそびれておる。いや、知らぬのかもしれぬが」
「何です?」
「貴公は依巫のレベルについての知識は如何程かな?」
「感応する差はある、という程度には」
「ならばMONSTRUM HORRENDUM(モンストルゥム・オーレンドゥム)については?」
「………えっと?」
聞き覚えの無いラテン語に吉継は戸惑った。
「やはりか。ならば手短に説明致そう。モンストルゥム・オーレンドゥムとは『恐るべき不可解』という意味じゃ。おもに神に選ばれた高感応の依巫を指す。純粋ゆえ子供が選ばれる場合が多い。能力は受信と送信が噛み合わねば力は半減する。逆に適合した時には大きな能力が出る」
と、ここで秀晶が小首を傾げた。
「ねえ、刑部、前から思ってたけど、不可解って神に選ばれたって割にあまり良い名前じゃない?」
「それは吾には何とも言えぬ。察するに神でも推し量れぬのが子供じゃ。ゆえに皮肉めいた名前になったんじゃろう。それでそのモンストルゥムの依巫は生まれ付き何らかの天賦の才に秀でている。言動も異様に大人びるし、吾が主の声もそうじゃ。幾度となく歌謡コンテストで優勝しておろう」
「え、大谷さん、そうなの?」
「ああ、うん。歌うのは嫌いじゃないから」
「へえ、今度聞いてみたいな」
「貴公、それはさておき、続きをよいかな」
「あ、すみません。どうぞ」
「モンストルゥムの依巫にはもう一つ特徴がある。吾ら尸者と貴公ら依巫の口話は普通の人間の耳朶(じだ)には触れぬ。あたかも他人からは独り芝居を演じているように見えるであろう。故に大抵は精神感応で話す状況が多い」
「そうですね、白い目で見られますから俺も金吾とそうしています」
刑部は肯定の首をクニャクニャ曲げて言った。
「尸者は依巫との接触でその能力を発揮する。ひとたび契約すれば側に置いておくだけで精神感応は成り立つ。しかし依巫が故意に尸者を隔離したり、他者から遠くに離されてしまえば意思疎通は遮られてしまう」
「そういえば筆入れを隠された時がそうでしたね」
「ふむ、しかし再び接触すれば能力は共鳴しあう。まして高感応の依巫の場合その力の及ぶ範囲が地球規模に拡がる。そこで依巫同士は見知らぬ尸者に触れる事で混信状態となりその尸者と送受信が可能となる。それがモンストルゥムの依巫最大の特徴じゃ」
「え、それって俺と刑部どのがテレパシーでも話せるって意味ですか」
「左様、術の名をARS MAGNA(アルス・マグナ)と言う。単に吾らはアルスと呼ぶ。貴公らの言語でリンクとでも言おうか。それのみにあらず、依巫同士も繋がり、すなわち尸者と依巫の四者間、いや、吾らの場合五助もおるゆえ、五者間で会話が可能となる。主も貴公も既にお互いの尸者に触れておるゆえ一度アルスを試してみられるがよろしかろう」
秀晶と吉継は刑部の指示に従って頭の中で念じた。
すると刑部の精神感応が自然な声のように頭の中へ流れてきた。
【感度は如何かな、貴公?】
【わ、良好です、刑部どの!大谷さんは?】
【ディスイズ・アキラ。オーバー】
無線の真似をする秀晶に吉継は突っ込んだ。
【笑うトコ?】
【小早川君、嫌い】
【ごめんごめん。五助どのは?】
【手前にも届いておるが、そのどのは勘弁頂けぬか。吾が殿には良うても手前には身に余る。何なら主と同じく呼び捨てでも構わぬ】
【うーん、金吾ならともかくあなたに呼び捨ては失礼だし】
【主、金吾ならともかくとは、酷い言い草じゃ】
【お前、入ってくるなよ、邪魔】
【惨い!】
【小早川君、仲間外れは可哀想だよ】
秀晶は庇った。そして真顔で毒を吐いた。
【いくら日本史上最大の裏切り者とか、没落して家臣を路頭に迷わせた腑甲斐無い大名だとか、関白になり損ねて他家に追いやられた運の悪い男とか貶されてても今は一応仲間なんだから】
【もっと惨い!同じ秀の文字を持つ同士なのに、秀晶どの】
【は?削り屑になりたいの?このカマは。せっかく私もあなたの成仏に協力してあげようと思ってるのに】
秀晶は鉛筆削りを取り出して金吾を睨んだ。
【ひいッ、すみません、晶どの~】
【ハハハ、こっちは呼び方が決まったみたいだな。じゃあ、五助どのは、五助さん、いや助さんでいい?】
【うむ、某時代劇の家臣のようじゃが、気楽な呼称でありがたい】
【小早川君は真面目ね。私は時々語呂が良いからゴスケシって呼んでる】
【………助さん、いいの、それで?】
【主の感覚には敵わぬ。それより貴殿はヨシ殿の呼び名でよろしいか】
【助さんからその名は何か照れるな】
「さて、試しはこの辺りでよかろう」
刑部が元の直話に戻って上体をグルグル回転させた。
「精神感応の連続使用は存外疲れるよってな」
テレパシーも能力である。依巫には負担が掛からないが尸者には辛いらしい。
「でも、刑部どの、アルスってこれからもずっと繋がりっぱなしなんですか?」
大消しは真っ直ぐに立って応じた。
「いや、互いの尸者、もしくは依巫のいずれが感応を拒めばアルスも成り立たぬ。通常は尸者と依巫の間だけの通信となる。遠距離間の場合、こちらの尸者が相手の尸者の発信を受信する。電話のコール音の如くのう。それを主に連絡して多重通信をする」
「なるほど」
するとここで下校を促すチャイムが教室のスピーカーから鳴った。
会話に夢中ですっかり教室も暗くなっていた。
急いで帰り支度をした二人は職員室に日直の日誌を提出し、そのまま靴箱に向かった。
そして靴を履き替えている時、不意に吉継がある事柄を思い出した。
「あ、そうだ。大谷さん、ところでテンムちゃんが言ってたけど晩ご飯って本当にどうしてるの?」
「え、ああ、ご飯、は、適当に食べてる………」
突然の振りに靴の爪先をトントン鳴らした秀晶の口が濁った。
「適当って?」
「冷食をチンとか。後はコンビニ弁当とか買って。ウチのお母さん看護師で忙しいし、料理作るのあまり上手じゃないし。私もそんなに自炊しないから」
昇降口を出た二人は帰り道が同じなため、校門に向かって歩きながら話した。
もはや生徒は校内に残っておらず、夕日が沈んだ周りには人影すら見えない。
門の外には街灯がぼうっと灯り始めた。
「外食は?町内にも何店舗かあるけど」
夕暮れの空気は澄んでいるが寒さも増している。白い息を吐いて吉継は手袋をはめた。
秀晶はマフラーを口元に巻いて答えた。
「………お母さんに止められてる」
「学校で夜の外出が禁止されているから?」
「そうじゃなくて。お母さん、昔から食べる方は凄いグルメで海外とか東京まで名店と聞くとわざわざ休日に出掛けてたの。だから、失礼なんだけど、田舎の野暮ったい店に行く位ならコンビニ弁当食べなさいって」
「え、美味しいよ。町内の飲食店」
丁度帰りのラッシュ時で国道には帰宅を急ぐ自動車が渋滞の列を成していた。
秀晶は歩道に落ちていた小石を蹴った。
「私も単に行かず嫌いだと思う。でもお母さん怒ると手が付けられなくて。子供は親の指図に従っていればいいって私の言い分も全然相手にしてくれないし」
「もしかして仲悪い?」
「何ヶ月も口きいてない。一方的に怒ってばかりいるけど」
「それ転校に関係してるんじゃ」
「………うん。無理矢理決められたから腹が立って」
交差点で信号待ちをしながら落胆の訳を聞くと母親から突然職場を変わるからと通告され、否応なしに転校を余儀なくされたらしい。
関ヶ原に越してきたのは看護の関係と親戚に超格安の空き家があったためで、母親本人はもっと内陸の都市に引っ越すつもりが、条件に当て嵌まる所がなく、渋々関ヶ原を選んだという。
また、田舎はろくな店がないとの愚痴をいつも零している、と秀晶は冷たくなった両手に息を吹き掛けながら明かした。
「うーん、そうか、親の言い付けなら仕方ないな。残念。今日の夜ご飯、何かご馳走したかったんだけど」
すると秀晶は目を輝かせズイッと顔を接近させた。
「それ、小早川君が作ってくれるの?」
上体を仰け反らせて吉継は返答した。
「う、うん、折角だから友達になったお祝いも兼ねて」
「じゃあ行く、絶対行く!!」
浮き立った拳を振り秀晶は二つ返事で了解した。
「え、だって禁止されてるんじゃ」
「いいの!!自分勝手で、いつまでも子供扱いしてるお母さんなんて気にしないわよ。それに今日は夕方から夜中まで家にいないし。それに小早川君の料理凄く美味しそうだもん。いつも我慢して見てるの大変だったんだから」
「ははは、じゃあ今日は堂々と来てよ。ウチの母さんも早く呼びなさいってうるさかったから。大谷さん、来るって伝えたら喜ぶよ」
「小早川君のお母さん、良い人だもんね」
信号が変わり、さっと二人は横断歩道を渡った。
「垣根がないからね。さて、じゃあ食材はどうしようかな。鯖以外で嫌いなものある?」
「………別に鯖は嫌いじゃない」
矢庭に秀晶は返答を詰まらせポケットに手を入れた。
暗い夕闇の影が秀晶の顔に掛かり、対向車のライトがそれを照らして消す。その繰り返しの中で秀晶はゆっくり歩を進めた。
「は、だって給食の時、俺にくれたじゃない」
「あれは今までのお礼のつもりなの。鯖は魚の中で一番好き。でもいざ食べようとしても食べられないの」
ピタリと道路脇に立ち止まった秀晶は間を空けて少しずつ内情を語り始めた。
「お父さんが私の誕生日のお祝いに何が欲しいって聞くから、美味しい鯖が食べたいって私は答えたの。それであの日釣りに出掛けたのが最後になった。私が鯖なんてお願いしなければお父さんは死なずに済んだのに………」
自分を責める秀晶に吉継はその疑問点に触れた。
「だから、食べれない?」
「食べようとはするの。でもいざ口に入れようとすると手が止まって」
その情景を想像したのかポケットから出した両手が震えている。
吉継はそんな痛ましい秀晶を見て、「じゃあ今晩は鯖一色にしよう」と音依にLINEで内容を送った。
秀晶は驚いて吉継を問い詰めた。
「待って。私今食べられないって言ったのよ」
「だからだよ。だからこそ食べるんだ」
「酷いよ、どうして急にそんな意地悪するの、小早川君」
「意地悪じゃないよ」
パアンと通り過ぎるトラックのクラクションが鳴り響いた。
吉継は秀晶が見落としている最も重要な事実を思い起こさせた。
「だって大谷さんのお父さんは鯖を食べて喜ぶ大谷さんの姿が見たくて釣りに行ったんじゃないの?」
「あ…」
「だったら食べないままでいるのは、お父さん悲しむよ」
吉継は自分の手袋を外し、冷えた秀晶の掌にそれを着けると両手をしっかり包み込み、穏やかに言った。
「それにきっとこうやって刑部どのを介して俺を出会わせたのは偶然じゃないと思う。大谷さんが金吾の成仏を手伝ってくれるなら、主の俺も友達として大谷さんの力になりたい。お父さんのためにも、鯖、食べてみない?」
痛い程固く握られた温かい手に安心した秀晶は喜悦に満ちた声で決意した。
「分かった。頑張ってみる」
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