「そうだ。グラバーは幕末に武器船舶を日本へ売ることで成功した。取引相手の一つが坂本龍馬率いる海援隊だ。龍馬は土佐の生まれだ」
「でも、土佐ってだけで滅亡した長宗我部とは何の関係もないでしょう」
「そうでもないんだ。龍馬の家は元来商人だったけど株を買って侍の身分を手に入れていた。土佐で武士は、大きく上士と下士という二つの身分に分かれていてね。その下士も白札・郷士・徒士などという身分に区切られていた。龍馬は郷士だった。ところで関ヶ原で盛親が負けて領地を取り上げられたのはさっき聞いたろう」
「はあ」
「関ヶ原合戦後、空いた土佐一国を代わりに与えられたのが遠江・掛川城主の山内一豊だ。当然山内の家来を連れてやってきた。しかし土佐には長宗我部の遺臣たちが未だ残っていた。一豊はその一領具足を郷士とし、連れてきた己の家臣を上士として優遇したんだ。関ヶ原の勝ち組であった山内系は負け組の長宗我部系を長く差別し、下士たちは徐々に不満を募らせ、やがて明治維新へと発展した。グラバーは武器弾薬などの援助で維新の一端を担ったという訳だ。そのグラバーが麒麟のラベルに関わり、そのデザインが長宗我部の郷士であった龍馬の名前から取ったとされる説もあるから、このカクテルにキリンビールを使った、という補足でいいのかな、ヨシ君」
一分の隙もない解説に完璧ですと吉継は笑って頷いた。
「ふーん、食も奥が深いんですねえ」
マラスキーノチェリーを口に含んで景臣は自らの過去を顧みた。
単に食欲を満たしたり、美味を追求したりするだけで、そこに歴史が関わるなどとは今まで考えた事もなかった。
「面白いだろう。例えば盛親の父・元親は巨大な鯨を秀吉のいる大阪城まで運んでみんなの度肝を抜かせたり、山内一豊の存在に至っては鰹のタタキの原型を作る原因になったとも伝えられている」
「タタキの?」
「諸説の一つだがね、土佐に移ってきた一豊が領民達の食中毒を案じて生の鰹を食すのを禁じた。しかし民はどうしても刺身で食べたい。だから外側を焼いてこれは刺身ではないと言い張った。それがタタキの始まりとも伝わっている」
「へえ」
「歴史と食は複雑怪奇、様々なドラマが詰まっているんだよ」
「本当にそうですね、あれ?」
景臣はフォークの手を空振りした。
「どうしたんだい、上杉君?」
「いや、残しておいたパスタの白魚が急に無くなりまして………うーん、知らない内に食べ終わっていたのかな」
「ハハ、そんな勘違いをするならもうすっかり酔いが回ったようだね」
アハハ、と笑い合う二人に背を向けて吉継は二色鉛筆を取り出しギギっと捻った。勘違いでなく、景臣の証言の通り、本当にベニエの白魚が僅かな隙に消えていた。
【金吾、てめえ、とうとう食い物にまで手を出しやがったな】
【知らぬ、知らぬ。濡れ衣じゃ。第一、吾は酒しか飲めぬ、イテテ】
【信じれるか。今なら未だ許してやる、事実を吐け】
【誠に関知しておらぬ。貯金の額を後に確かめれば吾の無実も明かされようぞ】
金吾の口にした酒代は吉継の貯金から引かれて、ATM貯金箱の残高に表示される。
確かにそれはそうだ、と吉継は捻りの手を緩めた。
「………ヨシ君、本当に平気かい?」
鉛筆を持って熟考する吉継に信義は心配した。吉継は鉛筆をポケットにしまうと適当にお茶を濁した。
「あー、少し学校の宿題とかを考えていただけです」
「ああ、学校といえば福井から女の子が転校生して来たんだってね」
「………それウチのクラスです」
「うん、どうしたんだい?浮かない顔してるね」
「いえ、その子が中々みんなと馴染まなくて」
吉継は学校での様子と今までの経緯を、秀晶の家庭の事情を除き、かいつまんで説明した。信義は一考して眉根を寄せた。
「敦賀で何かあったのかもしれないね」
「かもしれませんが、相手にしてくれないので何とも。でも大谷さんは、本当は根の優しい人だと思うんです。俺の頼りない勘なんですけど」
吉継は皿を下げながら続けた。
「助けてあげてって先生から頼まれたのもありますが、今は俺自身が大谷さんを何とかしてあげたいんです。孤立しているのを見ると昔の自分を見ているようで、とても他人事とは思えなくて。一人でもいいから誰か理解者が出来れば変わるかもしれません」
「ふふ、君なら何とかするかもね。おっと、迎えの者が来たようだ。そろそろ私たちはお暇するよ」
外でキイッというブレーキ音が響いた。信義は知らない間に奥さんにメールをしていたようで、隣でウトウト船をこぎ出した景臣に、
「上杉君、ほら、大垣の宿まで送るから車に先に乗ってなさい」と肩を叩いた。
起きた景臣はふらつく足で立ち上がって扉を開けたが、その途端前方からはね飛ばされたように尻餅をついた。
「おいおい、上杉君、危ないぞ」
「いえ、今何かが腹にぶつかって」と景臣は信義の肩を借りて立ち上がり辺りを見た。
「何も無いだろう。しっかりしたまえ。じゃあ、ヨシ君、また」
支払いを済ませた信義は半笑いで吉継に挨拶をすると扉を閉めて出て行った。

そして翌日の授業参観は変な波風も立たず無事に終わった。
秀晶についてのイジメ問題も父兄との懇談会において提起されなかった
それには二つの理由があった。
一つ目は行方不明の秀晶の上履きが元に戻され、壊されたのと同型の新しい傘が彼女の机の上に置いてあった事である。謝罪のメッセージの類は何も残されていなかったが、犯人には多少の改心があったのだろう、放課後の説得は無駄じゃなかったと吉継はほっと胸をなで下ろした。
そして二つ目、これが最も重要な点であるが、看護師である秀晶の母親が仕事の都合で参観に来なかった事にある。それは秀晶に限ったケースではなかったが、彼女の孤独が一層際立っていた。
そもそも学校での出来事を親に話している様子すら疑わしい。
少し時間は遡るが、吉継は授業が終わってから秀晶の表情のない横顔を見て感情を読み取ろうとした。いつも平然と振る舞っているが本音は寂しいのではないだろうか。
すると、その時、
「ヨシちゃん~、お疲れ様」
教室の後ろに立っていた音依が吉継の後頭部に抱き付いてきた。
「ちょ、母さん、何してんの!」
「ちゃんと授業ガンバってたじゃない。偉い偉い」
「頭撫でないでよ、恥ずかしいから」
音依は関ヶ原では有名人である。その天真爛漫な様子に微笑ましく周りは笑っていた。
「で、あなたが噂の大谷の晶ちゃんね?あら、ホント可愛い子じゃない」
音依はランリュックを背負って帰ろうとしていた秀晶に向いて突然語り掛けた。
「………」
見知らぬ大人から突然声を掛けられどう反応していいのか分からないようで、秀晶はいつものように黙ってしまった。
しかし、音依は秀晶の前に顔を近付け怒濤の如く喋った。
「晶ちゃん、あなた敦賀から来たんですってね。私達も頻繁に敦賀には行っているのよ。景色も良いし、魚も美味しいし良い港町よね。昆布館にも必ず立ち寄っていくわ。お総菜のフジバーグもソースカツも好きよ。それに『かたパン』も買っていくわね。どれだけ硬いんだってくらい硬いけど、あの青のりのアクセントがいいのよ。それにウチの子の名前知ってるでしょ?だからこの子、大谷吉継が大好きで、ああ、私も好きよ。だから刑部ちゃんって呼んでるの。でもこの子の場合はただの好きじゃないの。好きすぎて敦賀城跡や菩提寺の永賞寺や山車会館に何度足を運んだか分からないわ。山車会館の大谷吉継コーナーにずっと居続けるから無理矢理連れて帰るのよ。引いたおみくじも宝物でずっと大事に保管してるし、刑部ちゃんのゆるキャラのよっしーに会った時なんて感激して離れようとしなくて大変だったんだから。ゲームの戦国無双の関ヶ原の最期の場面なんて涙ボロボロでプレイしてるし、それに無双の吉継ラバーストラップもスマホに付ければいいのに勿体ないって部屋に飾ってるし。無双のグッズなんていくつあるか。着メロだってさくらゆきの『対い蝶』だし。そうそう、この子は松の実が好きでね、結構ぽりぽり食べているのよ。それがね、刑部ちゃんの幼名が松の実を食べて生まれた慶松だったからって理由なのよ。そして大谷家の家臣の名前なんてほとんど暗記してるのよ。特に湯浅の………」
「母さん、いい加減にして!大谷さんに失礼だよ」
途中から自分の過去を暴露されて恥ずかしがる吉継は音依をグイと引き離した。
「えー、いいじゃない」
「良くないです!」
「じゃあ最後にコレ」と音依は一枚の紙を秀晶に無理矢理手渡した。
見るとひすとり庵のモーニングコーヒーセットと夜のメニューが載っている自作のチラシであった。
「ウチの子ね、料理が凄く上手なの。子供向けのキッズメニューもそこに載せてあるからよかったらお母さんを誘っていつでも食べに来てね」
すると秀晶は、チラシを見つめて、
「カナンニャア」
と呟いた。
「にゃあ?」
猫の鳴き声のような語尾を突っ込むと秀晶は今まで見たことのないくらい赤面してダッシュで教室を出て行った。
敵わない、困るわ、という方言なのだが訛りを気にしているらしい。
「あらあら、照れちゃってカワイイ。まるで子猫ちゃんね。よし、ヨシちゃん、私、あの子気に入ったわ。ご馳走してあげるから早めにウチに連れてきてね」

それから翌々日の月曜日、吉継と秀晶の間に小さな変化が起こった。
吉継が性懲りも無く朝の挨拶をすると、直ぐに「おはよ」と小声で返ってきた。
「………!!」
また無視されると思っていたので、この反応には正直肩すかしを食った。
それに目を瞠るリアクションはそれだけに留まらなかった。
それはその日の給食時間、ランチルームでの事である。
関ヶ原小学校では給食は教室でなく「ふれあいホール」というランチルームで食べるスタイルを取っている。
七年前に新築されたため校舎も新しく、自然を取り入れた構造は各部屋にも適用されており、広い部屋の壁は白と木の二層となっていて、床も一面フローリングである。
この色遣いは多目的ホールや廊下や生徒昇降口も同じ洒落たデザインとなっている。
特にランチルームは今風を意識して、吹き抜けを模した白い天井には三枚羽根のファンがついており、二列と三列に連ねられた六人掛けの木製長テーブルは並行に並べられ、椅子も木製との凝りようで、奥の大窓の自然光と天井から照らされる間接照明が丁度良い明るさを醸し出し、食事を楽しむには最適の空間となっていた。
(うめー!これを発明した人は天才じゃなかろうか)
そんな中、吉継はおかずに出された滋賀湖北名物「焼き鯖そうめん」を堪能していた。
焼き鯖そうめんとは、グリルした鯖の切り身をショウガや醤油・砂糖・みりんなどの甘辛い調味料で煮てその煮汁でそうめんを煮る、そして鯖の身と共に食す料理を指す。
簡単だが実にご飯に合うおかずである。
海のない滋賀県だが、鯖の名産・福井若狭が近いため比較的鯖は身近な食材であった。
若狭から琵琶湖西岸を通る街道沿いに、塩漬けされた鯖は京都まで運ばれた。そのためそれらの街道は「鯖街道」と称され、塩鯖は街道の枝道から湖北の方々へと伝播した。
それでも鯖をそうめんと組み合わせる古人の創意工夫には脱帽せざるを得ない。
と、その時、皿の鯖の身が一切れ前の席からさっと追加された。
えッと頭を上げると対面には秀晶が座っており、吉継が「これ何?」と聞くと、
「あげる」
とだけ呟いて視線を逸らせた。
「でも」と言葉を返そうとしたが、ギラリと睨む目線で「あげる」とだけ繰り返された。
それ以上の質問は許さないとの無言の威圧が吉継の口を閉ざせた。
事前にアレルギー食材を教師に申告しているので、口に出来ない訳ではないだろう。
そういえば以前教室で鯖の話題で盛り上がっていた時にその単語を怒っていたから嫌いなのではないかと吉継は推測した。
とは言っても味の染みたそうめんだけはしっかりと食しているので全く駄目というのでもなく、単に食わず嫌いなのかもしれない。
(ま、福井の人間が全て鯖好きとも限らないだろうし。ありがたく頂戴しますか)
吉継は少し笑んで秀晶に視線をやった。いつもなら吉継が秀晶の近くで食べようとすると、遠くへ席を変えてしまっていたのだが、今日に限っては何の拒絶もなく目前に座っている。
一歩でも前進したのなら喜ばしい状況である。
心地よく吉継は給食を楽しんだ。
だが、その楽しみの時間は間もなく破壊された。
隣テーブル端に座っていた女の子がめそめそと泣き出したのである。
名札の布の色で三年生なのが分かる。見るとその子と対面の同級生の男子二人が給食の献立でその子をからかっているようだ。
実は給食の時間は交流も兼ね、他学年と共に過ごす決まりがある。それはつまり上級生が下級生の面倒を見る役割もあるのだが、当然こういう騒がしい場面に出くわすのも珍しくない。
しかし、その女の子は事もあろうに、こちらのテーブルにやってきて泣いた手を秀晶の腕に絡めてきた。
「お姉ちゃん、あの男の子達がいじめる~」
一つ三つ編みの下級生から突然助けを求められた秀晶は当惑したが、イジメの言葉に反応したのか、男子二人をギッと睨んだ。
美人に睨まれる程怖いものはない。二人の下級生はびくつきながらも反論した。
「俺等、悪くないもんな。そいつが牛乳嫌いっていつも残すから」
「そやそや、飲めるって嘘ついて牛乳飲まんのが悪いんやで。この嘘つきハル!」
小学生の好き嫌いは多い。特に匂いのきついもの、苦いもの、味の薄いものなど多岐にわたる。野菜ではピーマンを筆頭にトマトやタマネギが味や食感で嫌われる。
牛乳は乳臭さから敬遠される有り様で、無理矢理食べさせる指導がない近年の給食事情ではそのまま廃棄されてしまう例も少なくない。
ゆえに別段、誰が何を残そうが文句は出ないのだが、おそらく給食にかこつけてハルという女の子をからかっているだけなのだろう。
それに反抗してハルは無理にでも飲もうとしたのか牛乳にはストローがささっていた。しかし拒否して握ったせいか牛乳がテーブルに少し吹きこぼれていた。
秀晶もその辺りの状況は察したようで、「努力したんやで泣いたらあかんざ」とその子の頭をポンと叩き、男子二人のプレートを指さし問い詰めた。
「で、ほっちは何でピーマンとトマト残してる?」
「………」
二人は急に押し黙った。
今日の献立はパック牛乳と焼き鯖そうめんの他、ご飯と、ピーマンの肉詰めとプチトマトとなっていたのだが、秀晶が指摘した二つの器には肉だけ食べたピーマンの残骸とプチトマトがそのまま残されていた。
秀晶はそれを見抜いていた。
「人には嫌いなモン笑うクセにわめらは残すんか?その前にそれを食べね」
「………それは」
「何やっとん、はよ食べね」
図星を指されてためらう二人に秀晶は声を上げた。
「はよしねの!!」
「ひいッ!!」
秀晶は大声で怒鳴ったのでもないが、その声は雷鳴のように周囲の空気をビリビリと振動させた。
いわば巨大なスピーカーの前で突然ハウリングを起こされたようなものである。
今まで秀晶の怒り声には何度も立ち会ってきたが今日のは桁違いにパワフルであった。
その凄まじい声量にたまげて二人は一瞬身動きが取れなかったが、直ぐに今度は吉継に泣き付いてきた。
「あ、あの姉ちゃんが俺達に早く死ねって言った~!!」
(こっちにお鉢が回ってきた!)
ビイビイ泣く子供達に吉継はゲッと思ったが、それより問題は言葉の行き違いである。これは方言による誤解なのだがそんな真相を関ヶ原の皆は知らない。当の秀晶はあからさまにシマッタという困却の表情で固まっていた。
すると、ドクンと吉継の心臓が高鳴った。
【おい、金吾、このタイミングでかよ?】
唐突に霊依された吉継は戸惑ったが、本能的に泣き付かれたのを人助けと直感して秀秋は出てきてしまったのだろう。
金吾は二人の肩を握って教え聞かせた。
「童らよ。よいか、彼の娘は『死ね』と申したのではないぞ」
「………は?」
時代がかった言葉遣いに泣くのを止めてキョトンとする二人に金吾はオホンと咳払いして説明した。
「あ、いや。いいか、あのお姉ちゃんは福井県からの転校生でな、さっきのは方言で『早くしなさい』と言ったんだ。それよりお姉ちゃんの怒った通り、自分が嫌いなものがあるのに他人が食べられないのを馬鹿にしちゃ駄目だぞ」
「だって、牛乳は飲まないと大きくなれないって先生言ってるもん」
「そうだ、そうだ、ピーマン食べなくったって大きくなれるけど牛乳は飲めないと」
イジメを正当化する二人に吉継は暫し考えてからある提案を思い付いた。
「分かった。じゃあこうしよう。今あの子が牛乳を飲めたら、二人ともピーマンとトマトを食べる。それでどうだ?」
交換条件を出された三人は共に嫌だ嫌だと駄々をこねた。特に牛乳嫌いの女の子は途轍もなくギャアギャア反抗してきた。
金吾はその子の前に歩いてゆき、そして腰を落としてにっこり笑った。
「名前は、竹中ハルちゃんでいいのかな」
名札を見て金吾は続けた。そしてパチンと指を鳴らし、掌からイチゴの飾りが付いたヘアゴムを出して見せた。
「わあッ、凄い凄い!魔法みたい」
急にビックリして飛び上がるハルに金吾はそれを短い三つ編みの髪に結んであげた。
「そうだよ、お兄ちゃんは実は魔法使いだからね。ウィザード・コバヤカワだ。ところでハルちゃんはイチゴは好きかい?」
「うん、大好き!」
「食べるのも?」
「うん。練乳とかかけて食べるの好き」
「よし、なら、お兄ちゃんがこの牛乳にとっておきの魔法をかけてあげよう」
「牛乳に?」
「そうだよ。今日からハルちゃんも牛乳が飲めるんだ」
「う、でも………」
「大丈夫。魔法使いのお兄ちゃんを信じなさい。それからそこの二人」
男子に向いて金吾は指図した。
「もしハルちゃんが牛乳を飲めたら、君らはからかった罰としてその残った野菜を食べる。いいね?」
「ああ、いいぜ。飲めたらな」
強気になって二人は了承した。
すると金吾は立ち上がり、一旦ストローを抜いた紙パックの牛乳を左手で隠すと、「アブラカタブラ、チチンプイプイ」とありきたりの呪文を唱えた。そしてそこに再びストローを差し、
「このストローでクルクル中をかき混ぜれば、はい、魔法牛乳の出来上がりだ」
とハルにパック牛乳を手渡した。
「う………う」
今まで飲めなかったものを口にするのは勇気が要る。
ためらうハルに金吾は励ました。
「絶対大丈夫だから一口飲んでごらん。美味しくなかったらペッとしてもいいから」
そうすると怖々とハルはストローに口をつけて少し啜った。
突然ハルの動きが止まった。
やはり駄目だっただろうと二人はへへッと勝ち誇ったように笑っていた。
「お、美味しい!!」
「………え?」
二人の予想に反し、ハルはズズズッと物凄い勢いで牛乳を吸い上げ、早々と空にしてしまった。
「やったー、お兄ちゃん、ホント凄い。ハル、牛乳飲めたよ!!」
「嘘だろ?」
空になった紙パックを確認し茫然自失となる二人に今度はハルが逆襲に出た。
「さ、次はそっちの番。早くピーマンとトマト食べなよ」
「に、兄ちゃん、俺達にも美味くなる魔法をかけてよ」
今度は野菜の器を二人が掲げてきたが、金吾が冷たく返した。
「うーん、残念だけど、この魔法は意地悪する人間には効かないんだよね。特に女の子をからかう最低な男子には」
「えー、そんな~」
「別に食べたくなかったら食べなくていい。その代わりハルちゃんに関ヶ原の男らしくきちんと謝るんだ。食べるか、謝るか、さあ、どうする?」
「くッ、チクショー、ハル悪かったな、これでいいんだろ」
二人は結局嫌いな食べ物を残してそのまま逃げていった。
【やれやれ、ピーマンもトマトも栄養あるんだけどなあ】
吉継は心の中で残念がっていた。
そうしてから間もなくハルも、席に帰った金吾と秀晶に礼を言って立ち去っていった。
ドクンと再度鼓動がして元に戻った吉継は直ぐさま胸元の二色鉛筆を取り出し加減無く捻った。
【金吾、てめえ、何をアポートした?あのヘアゴムにいくら使った?】
【イテテ、高い物ではない。案ずる、な。主、マジに痛い。ギブギブ】
【少しは懲りたか。大体いつもてめえは唐突に………】
吉継はこの時、とある視線を感じた。
ハッと眼を上げると秀晶が鉛筆を睨むこちらを呆然と見つめている。
(ヤバイ、怪しいヤツと思われたか)
「あはは、ま、問題が解決してよかったよかった」
鉛筆を胸元にしまった吉継は残りの給食を慌てて平らげるとランチルームを後にした。

「なるほど、今日の昼は給食で揉めたの?ヨシ君も大変ねえ」
武田信義の妻・須和子はひすとり庵のカウンター席で一人赤ワインを空けながら、説明をし終えた吉継に同情の笑みを浮かべた。
音依はワインをグラスに注ぎながら懐かしそうに小中学時代の記憶に浸った。
「私達は嫌いなものを克服する時代でしたから、今のように食べなくていいという風潮は無かったですものね」
「甘やかされているのかしらね、今の子は」
「何でもハラスメントになるご時世ですからね、無理強いは出来ないんでしょう」
「給食なら私も切ない想い出あるわよ。昔は先生も好き嫌いをする子にはうるさくてね。食べるまで許さないって授業そっちのけでずっと人参と睨めっこしてたっけ」
柔らかく蒸し煮された牛頬肉のブレゼの付け合わせの人参グラッセを咀嚼しながら須和子は自嘲した。
「それが今じゃこんなに美味しく食べられるんだから不思議ね、おねさん」
「そうですね。本能的に子供は苦み野菜を毒だと認識するため嫌うって説もありますし。大人になってから味覚の幅が広がると食べられるようになるみたいです」
「味覚の変化ねえ。そういえばいつから人参食べれるようになったのかしら」
「調理法次第でもありますよ。例えばパプリカなどは長時間じっくりと火を通すことで甘くなりますし、タマネギも生よりソテーするだけで甘味が増しますから」
「甘味、ね。確かに」
「醤油と酢の二杯酢より砂糖を加えた三杯酢が食べやすいのも食べ方の一例です」
「そうか、加熱したり何かを足すので大分変わるのね」
フォークに人参を突き刺して須和子はまじまじと見た。
「そういえば、ヨシちゃんは結局その牛乳にどんな魔法をかけたの?」
音依が冷蔵庫からカルピスのパックを取り出しながら聞いた。テーブル席に座る、他地域からのお客さんの子供の注文で、カルピスはキッズドリンクの一つになっている。
「えっと、企業秘密」
キッチンのフライヤーで子供用燻塩フライドポテトを揚げながら吉継は笑って誤魔化した。金吾がどんな物を引き寄せてどういう風に牛乳に細工したのか知らされていないのである。
「ところで、ヨシ君、その子の名前、竹中って言ったのよね」
須和子は突然問い掛けてきた。
「はい、竹中ハルちゃんです」
「うーん、勘違いでなければその子、竹中業務店の娘さんじゃなかったかしら」
「竹中業務店?」
「リフォーム業者でね。本店は垂井にあるんだけど住まいは関ヶ原なのよ。で、その親御さんがちょっと独特の人で。特に重子って母親が」
「何ですか?」
「まあ、一言で言うと『モンペ』なのよね」
「マジですか?」
吉継は途端苦い顔をした。モンペとはモンスターペアレントの略で学校に非常識なクレームを付ける迷惑な親で、一般的な通念を聞き入れない厄介この上ない存在としても有名になっている。
「あの親さん、何か学校に不備があると徹底的に理詰めで論破するから教師側も対応に苦慮しているみたいよ。先生によっては逃げ出した人もいるくらい」
「うーん、じゃあ今回はまずかったですかね」
「まあ、その子は喜んでいたんでしょ?別に文句をつけられる筋合いもないと思うわよ」
と、須和子がフォーローすると、丁度その時、入口の扉が勢いよく開いて、細面で細い縁なし眼鏡をかけた四十代の女性が入店してきた。
「小早川さんの家はここでよろしいのかしら、関小のお子さんがみえるのは」
「はい、そうです」
いらっしゃいと声を掛けるのでもなく吉継は反射的に返答した。
関ヶ原小学校の略語が出てくる時点で食事に来たのではない雰囲気なのは分かる。
濃い化粧でストレートにまとめた整髪料の匂いもきつい。黒いブランドスーツに身を包んだその女性は入口に仁王立ちで吉継へ視線を向けたままであった。
「あの」と声を出すと、その女性は一度店内を見渡してから再度吉継を見た。
「あなたが小早川君?」
キラリと眼鏡のレンズが光った。
「………はい。そうですが、何か」
「私は関小三年、竹中ハルの母、竹中重子と申します。今日は娘の給食の件でお話しに参りました」
(わ、いきなり例のクレーマー来たー!)
吉継は萎縮して青ざめたが、音依がその前に凛然と立った。
「竹中様、どのような咎め立てか存じませんが本日の息子の行為でしたら責任は全て母親の私にございます。お話しでしたら私が承ります」
「母さん………」
毅然と立ちはだかる母の小柄な背中は大きく見えた。
音依の普段は明るく陽気であるが、家族の危機となれば鬼にも化す。吉継へのイジメが激化した時はいくらサービス業であろうが徹底的に戦った。
その過去を振り返った吉継は思わず泣きそうになった。
しかし、重子は不可解な面持ちを作った。
「咎め立て?何を仰ってるのかしら?」
硬い場がそこはかとなくあやふやになり、音依の張り詰めた気が抜けた。
「え、牛乳の件でお越しになったのでは?」
「そうですけど。さ、ハルちゃん、入ってらっしゃい」
重子は背中越しに声を掛けた。後から昼間の女の子がひょっこり現れた。そして、
「お母さん、そう、あのお兄ちゃんだよ。魔法使いの小早川のお兄ちゃん!お兄ちゃん、給食の時はありがとう」
両腕を広げたハルは満面の笑みで吉継に礼を告げた。
「ええと、一体何のご用向きでしょう」
苦情だと覚悟したのに子供は無邪気に喜んでいる。文句なのか感謝なのか混乱した吉継は余計訳が分からなくなっていた。
重子はカウンターに近付いて吉継に直談判した。
「魔法の牛乳の秘密を私に教えて頂けるかしら」
「は?」
「実はウチの子、どうしても牛乳だけが飲めなくて。体にいいから飲みなさいって勧めても不味いから嫌だってずっと拒んでいたの。それが今日帰ってくるなり牛乳が欲しいってせがんで驚いたわ。でもコップに注いだらこれじゃないって言い張るから事情を聞くとあなたの名前が出てきて、それでお礼も兼ねてこうして訪ねてきたの」
「ああ、そういう事ですか………」
幾分緊張は解れたが問題はある。牛乳の細工を知らないのはもちろん、霊依は一日一度との制限が決まっている。要約すると金吾が乗り移って説明出来ないのである。
【案ぜずともよいぞ、主】
金吾が突如テレパシーで話し掛けてきた。
【っても俺は何も知らないぞ。どうする】
吉継もテレパシーで問い返した。すると金吾は準備を整えて自分の指示通りに復唱しろと言う。吉継は一旦自宅に行き、ランリュックの中から絵の具のチューブに似たピンク色の物体を取り出した。どうやらそのピンク色は液体の色である。そしてそれと冷蔵庫から給食と同じタイプのパック牛乳を持ってキッチンに戻り重子に説明した。
「これから魔法を、順を追ってかけていきます」
吉継は牛乳にストローを差し、少しだけ牛乳を皿に空けるとストローを抜いた。そして例のピンクチューブの先についている丸い部分を捻り取り、それをパック牛乳のストロー口に差し込み、中身の液体を押し注いだ。そしてその空になったチューブ容器を抜き、再びストローを差し込みグルグルと牛乳をかき混ぜた。
「はい、ハルちゃん。これが魔法の牛乳だよ」
吉継はハルに完成した牛乳を手渡した。
ハルは早速それを飲み、重子に喜び勇んでパックを揚げた。
「お母さん、これだよ。イチゴ味の魔法の牛乳!」
「イチゴ味?」
重子は不可解に吉継へ詳細を求めた。
「そうです。実は魔法の正体はコレなんです」
吉継はもう一つのチューブを重子に渡した。よく見るとパッケージの表にはカタカナで「ミルメーク」、その裏には「大島食品工業(株)」と記されていた。
「え、ミルメーク?ミルメークってあの牛乳に入れる小袋の?」
どうやら経験済みの世代のようである。
淡泊になりがちな給食の牛乳を飲みやすい甘口ドリンクに変えるまさに魔法のアイテムが大島食品のミルメークであった。簡単に吉継は説明を足した。
「昔の学校給食に出たのは粉のタイプのミルメークだったみたいですね。瓶牛乳だった時代は広い口から粉を入れられましたが、今はストローのパック牛乳なのでこうした液体タイプが作られたんです」
「初めて見たわ。それにイチゴ味なんてのもあるのね」
「当初はコーヒー味の粉末が一般的で、徐々に味も増えてきたんです。液体ではコーヒーとイチゴの他にココアもありますよ。粉ではバナナ、メロン、キャラメル、紅茶などもあります。アレルギー物質もココアの大豆由来成分以外ほとんど含まれていないから安全ですし」
「………あなた平成生まれの割に昔の給食に詳しいのね」
「いえ、まあ、食べ物の歴史とかはそこそこ」
手を振って吉継は言い繕った。
「ところで、ヨシちゃん、なんで学校にミルメークなんて持ってたのかしら。また、私は先生からの呼び出しに応じなきゃいけないのかしら」
笑み顔でありつつ貫禄漂う音依の瞳がキラッと輝いた。
「え、いや、その、ほら、今日みたいに牛乳が苦手な子がいたらあげようと思って。俺、給食委員だし、実験的にさ」
「ヨシちゃん、弁解の前に一言あるでしょ」
「ごめんなさい」
「よろしい。まあ、困っている子のためにって心掛けは買うわ。でも委員なら先ず学校の許可を取らないとね」
ポカリと軽く背中を叩いて音依は注意した。
すると突然重子が親子の会話にヒントを得て手を叩いた。
「あッ、そうよ、ミルメークなら学校に申請すればウチの子みたいに牛乳嫌いな子でも飲めるかもしれないわ。さほど高い物でもなさそうだし。よし、今度早速導入を学校に掛け合ってみましょう!!」
力強く重子は宣言した。
(先生、面倒を増やしてすみません)
クレームではないにしろ学校側の対応が目に浮かんだ吉継は心の中で教師陣に謝った。
「ねえ、お母さん、ハル、カルピス欲しい」
テーブル席でカルピスを飲む子供を見て突然ハルは重子の腕を引っ張った。
「あ、ああ。そう、あれ欲しいの?いいわ、頼んであげる」
いつの間にかカウンターに親子共々並んで座っている。重子は音依にオーダーしたが、ここで吉継がそれを止めてハルに向いて二本の指を立てた。
「ハルちゃん、カルピスが好きなら魔法の牛乳の第二弾、試しに飲んでみない?」
新しい魔法の牛乳と耳にしてハルは「飲む飲む」と元気よく手を挙げた。
「私にもそれ頂けません?」
重子も心配してか注文を追加した。吉継はすると牛乳の一リットルパックとカルピスを取り出しハルに尋ねた。
「ハルちゃんはカルピスは濃いの薄いのどっちが好き?」
「濃いのが好き!」
「えっと竹中さんは?」
「私は中くらいで」
吉継はそうして目の前でカルピスと牛乳を氷入りのグラスに混ぜて注いだ。
予想外の材料の組み合わせに重子は目を大きく見開いた。
「え、カルピスって普通水で割るんじゃないの?」
「ところがそれだけでもないんです。試して下さい」
吉継は重子とハルにグラスを差し出した。二人はストローで揃って飲んだ。
「美味しい!!」
同じ賞賛の声が出た。
「何コレ?牛乳臭さが無くて、牛乳の味もするんだけどカルピスの風味もしっかりきいていて濃厚になって。ヨーグルトみたい」
吉継は説明した。
「竹中さんのは牛乳が五、カルピスが一の黄金比でミックスしてます。ハルちゃんのは濃いめで牛乳が四の割合で作ってますから甘いんです」
「驚き入ったわ。乳製品のカルピスで牛乳を割るなんて発想がなかったから」
「関西では珍しくないですよ。この辺りでは売っていませんが『カルピスのミルク割り』という商品もあります。乳製品同士相性が良いんでしょうね」
「お母さん、ハル、これも好き!!もっと牛乳飲みたい」
「あらまあ、急にミルク好きになっちゃって」
嬉しそうに微笑む重子に吉継は解説を追加した。
「バナナやイチゴをジューサーで潰してミルクを入れる手法で牛乳嫌いが治ったという事例もあります」
「そうね、バナナミルクとイチゴミルク」
「でも面倒であればこうしてミルメークのような手軽な味付き牛乳でもいいんです。粉末タイプでしたら百均やスーパーにも置いてありますし、ホットミルクならバニラエッセンスを数滴垂らしてハチミツを溶かす方法もあります」
吉継は透明ケースに入った食品成分分析表を見せて続けた。
「牛乳はカルシウムだけじゃなくタンパク質やビタミン、ミネラルもバランスよく含まれています。牛乳嫌いな子は味や匂いが苦手なだけでそれさえ変えてあげれば栄養は取れるんです。嫌がるものを無理矢理食べさせるのでなく、どうやって美味しくさせるかを考えるのは大人の役割です」
「耳の痛い話だわ。それよりあなた本当に小学五年生?」
大人並みの知識を披露する吉継に重子は呆れた。
「ウチの子は料理に関しては凄い勉強家なんです。もちろん料理も上手ですけど」
えへんと音依が自慢した。と、ここでハルが重子の左腕を取って咎め立てた。
「ちょっと、お母さん、なんでハルのカルピス飲んだの?」
持ち上げたグラスは氷だけだけが残り液体は空っぽになっていた。
「は?自分で飲んだんでしょ。こんな時間だから寝ぼけてるのね」
「あれ、そうかな。あと少し残ってたんだけど」
ハルは半笑いで首を傾げたが吉継は口元を引きつらせていた。
グラスからハルのカルピスが無くなる瞬間を目撃していたのである。
まるで幽霊が飲み干したようにそれはストローで吸われていた。
金吾が飲むなら一瞬で、このような減り方はしない。
遂にお化けの類を見てしまったのかと鳥肌を立てた吉継へ、帰り支度に立ち上がった重子は、支払いレジの前で、ある事を思い出して振り返った。
「そういえば給食のランチルームであなたの前に座っていた女の子って分かる?」
吉継は即答した。
「え、はい。大谷さんですね」
「悪いけどあなたからお礼を言っておいてくれないかしら。ウチの子がからかわれた時、男の子たちを叱ってくれたみたいで。無視も出来たのに今時珍しいわ」
「分かりました。伝えておきます」
お兄ちゃんバイバイと手を振るハルたちを外で見送った吉継は一息ついて金吾鉛筆をポケットから取り出し声に出して喋った。
「ま、今回はお前のお手柄だな」
【うむ、ようよう吾の有り難みが身に染みて分かったか】
金吾はぐにゃりと胸を反らせた。
「調子に乗るな。ミルメーク代は俺が支払うんだぞ」と吉継は鉛筆にデコピンした。
そして不意に何かを思い出したのか、唐突に問いを投げた。
「なあ、俺以外でも依巫っているのか?」
【ん?突然何故じゃ】
「いや、俺は四代目のお前の依巫だろ。なら候補はいくらでもいるんだよな」
【神の力を宿している者ならば左様ではある。なれど容易に見付かるものでもない】
「そうか。いや、お前以外でも誰か戦国武将の尸者はいるのかなとふと思ってな。織田信長とか、毛利元就とか」
【ハハハ、面白い物語を思い付くの、主は。長きにわたって漂っていたが吾は他の武人など出会うた経験もないわ。皆疾うに成仏しておるのであろう】
「そりゃあそうか」
納得の伸びをして吉継は悩みを漏らした。
「さて、後の問題は大谷さんか。もっとクラスに馴染んでくくればいいんだけど」
【時を要するかもしれぬな、あのおなごは中々の女傑ゆえ】
「でもやっぱり良い子だったんだよなあ。今日もハルちゃん助けたし」
【なれど、あの訛(なまり)の啖呵(たんか)は吾も肝を冷やしたぞ。人間離れした声質と申すべきか、童ならば戦慄して泣くのも無理なかろう】
吉継は金吾の意見に頷いた。大音声でもないが、あの時の秀晶の声は人を刺し抜くような類の感じがしていた。
「ま、それはともかく多分不器用なだけだ。きっとみんなとも上手くいくと思う」
【起死回生の切り札があると良いが】
「切り札ね」
吉継はこの時畔田長月が示したタロットカードを思い出していた。
奇跡を意味する正位置の『運命の輪』、休止の意味の逆さ『死神』と幻想の『月』。何か裏で繋がっている感覚はあるのだが占い師でもない吉継には解明出来なかった。
「まあ、どっちにしろもっと大谷さんと話をしよう。千里の道も一歩からだし」
【千里とはおよそ四千キロメートルか。ここからでは直線距離でロシアのクラスノヤルスクか、インドのディブルガル程か】
「喩えの距離が分かんねえよ」
金吾をポケットに戻して吉継は笑った。
「ならば沖縄・北海道間を一・五往復」
「生々しく人のやる気を削いでくれてありがとう………ん?」
道の側に生えている枯れ草がガサッと音を立てた。
「何だ?」
吉継は咄嗟に息を潜めて周囲を見渡した。が、誰もいない。国道からはライトを点けた車が通り過ぎているだけで他には何も見当たらなかった。
金吾との出会い以来、心霊の存在を突き付けられた吉継であったがゆえに「他の尸者の有無」を問うたのだが幾分神経質になっているのかもしれない。自分が従者としているのは小早川秀秋の霊とはいえ今の姿は青赤の二色鉛筆。全く恐ろしくない。しかし、おどろおどろしい浮遊霊は別で、出来れば遭遇したくない。
「シノラだろう」
松尾にはヤスハル・モトツナ・スケタダ・ナオヤスという名で呼ばれている四匹の野良猫がうろついている。その内の一匹がひすとり庵の食べ物の匂いにつられてやってきたのかもしれないと思い直して吉継はやがて店内へと戻っていった。
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