「おい、まさか金を使うとは、聞いてなかったぞ」
凍て付く国道の歩道を某ドラッグストアーの名前が入った三つの買い物袋を提げて歩く最後尾の吉継から文句が漏れた。
校則で一度帰宅せねばならない三人はランリュックを家に置いて再び校門前に集合し、武美のアパートへと向かっていたのだが、途中の薬局で見舞い品を購入するとは吉継は考えていなかった。
「あら、まさか手ぶらでお見舞いするとでも思ってらしたの?」
狭い歩道の端に残った雪を避けながら前方の汐恩が冷たい視線を向けた。
吉継は反論した。
「そうじゃねえけどよ、だったら店から何か持ってきてたよ」
縦三人の先頭を歩く元も汐恩同様に呆れ果てていた。
「だから話さなかったのよ。そうしないと見舞い品に差が付いちゃうでしょ。それに一人二百円内だからケチケチしなさんな、召使いさん」
吉継の倹約ぶりはクラスでも有名であるので、元はそれを揶揄しているのである。
「ハハハ、渋チンの家康好みにケチと罵られるとはね、世も末だ」
小遣い銭を減らされた上、荷物持ちにされた吉継は元に皮肉をぶつけた。
「ちょっと人聞きの悪い!家康はケチじゃないわ。節約家と言い直しなさいよ」
「なあなあ、汐恩、知ってるか?平塚為広の弟と家康の話?」
吉継は悪戯心を満面に浮かべて前を歩く汐恩の耳元に近寄った。
「………何ですの?」
少し振り返って汐恩は尋ねた。
「平塚久賀(ひさよし)っていう結構な武人でさ。家康が家来に欲しがって、仕官してくれって頼んだら『あなたは口ばかりでケチだから嫌です』って三成の家来になっちゃったんだぞ」
「あらあら、それはまあお気の毒に」
哀れむように汐恩は先頭の元を見た。元は後ろ向きで歩きながら言い返した。
「こら、ヨシ、話を途中で切ると悪者になっちゃうでしょ。それだって家康は関ヶ原合戦で生け捕りになった久賀を許して最後には紀州徳川の家臣にしてあげてるんだから」
「それより汐恩がアイスクリームで、元は桃缶か。風邪見舞いの定番だな」
元の怒りをスルーして吉継はビニール袋の中を覗いた。
グリコの六個入りバニラアイスと白桃の桃缶が二つ入っている。
汐恩は名残惜しそうに弁明した。
「私はハーゲン●ッツでも良かったのですけど、松平さんが値段が高いと拒むから」
元は呆れて咎め立てた。
「あのね、桃缶二つでもその高級アイス一つすら買えないわよ。こういうのは気持が大事なの。果物もマスクメロン探している汐恩の金銭感覚にはついていけないわ」
「松平さん、人を成金のように仰るのは止めて頂けません?私は純粋に先生に美味しいものを召し上がって頂いて、元気になって頂ければと念じているだけですのに」
「そういう偉そうな決め付けが重いってんの。先生は庶民なんだから」
「なるほど、アイス一つでこんなに騒がれるとは確かに庶民ですわね、あなたは」
「何ですって!?」
「何ですの!?」
「まあまあ、アイス如きで二人とも争うなって」
竜虎相打つ二人に吉継は仲裁した。
「ふん、元々はコバ君が蒔いた種ですのよ。それに一番安価な卵一パックだけを購入されたあなたには失望しました。飲食に関わっている身ならばもっと気の利いた飲み物とかデザートとかを選ばれるのが筋ではありませんか」
今度は八つ当たりの矛先をこちらに向けてきた。
「あ、汐恩、卵を馬鹿にしたな。タンパク質が豊富でどんな料理にも使える万能食材なんだぞ。卵粥とか卵焼きとかスクランブルエッグとか、ポーチドエッグとか」
「それは元気になられてからの話でしょう。それともコバ君が何か作って差し上げるのかしら」
「あ、そうだ、コバのふわふわオムレツ美味しいもんねえ。ひすとり庵のメニューのあれ」
元が吉継の卵料理に触発されて、思い出して溢れ出る涎を拭いた。
「あら、松平さんはコバ君のお店に出向かれたのですか?」
「………ウチのクラスではきっと汐恩くらいよ、行ってないの」
関ヶ原組のクセにと蔑む元の視線を受けて汐恩は慌てて言い繕った。
「両親は関ヶ原奉仕活動の都合でお店に何度も訪れているようですけど私は未だなのです。コバ君の料理は噂には聞いているのですけれど当家には専属シェフが常駐しておりますから機会もなくて」
「専属シェフ、ね」
相変わらず細川家レベル段違いだなと苦笑していると、吉継はふと思い出した。
「なあ、汐恩、今更だけど別に四人でも良かったんじゃないのか、見舞い」
「何ですの、突然」
「いや、晶が無性に行きたがってたみたいでさ。ほら、あいつもテンムちゃんにはこの前の一件(二話参照)で感謝してたから」
「そうですわね、でも私は敢えて晶さんとは深く馴染まないようにしているんです」
澄ました顔で汐恩は断じた。
吉継は仲が悪くなったのかと案じた。
「え、何で?友達だろう」
「もちろん大切なお友達です。でも同じく良きライバルでもあるんです」
両手を祈りの手のように握りしめ汐恩は続けた。
「成績は石田君並に良いし、体育も短距離走から器械運動、球技まで完璧にこなす。その上明るくて気さくで親切で、少し福井訛があるのが可愛いって人気なんですのよ」
五年一組には実力でならす元グループと頭脳派の汐恩グループの二大派閥に分かれているものの、最近では秀晶という新興勢力が男子の人気を奪い始めている。対して渦中の秀晶はモテている自覚も無いのだが、負けず嫌いな汐恩はべた褒めを更に嫉妬で褒めた。
「大体、何ですかあのビブラートの効いた反則的な歌声は。音楽の合唱もそうですけど、詩吟の時も、三味線が負けてたじゃありませんか」
二日前、関ヶ原小学校の体育館では三味線クラブが『ああ、決戦の関ケ原』という歌を五年生が詩吟で合奏するというイベントがあった。神の声を持つ秀晶はポップから演歌までなんでもそつなく歌うのだが、三味線集団が秀晶の声一人に完全に圧倒されてしまっていた。秀晶からするとそれでもセーブしていたらしいのだが、その美声は瞬く間に学校中の評判となっていた。
「まあ、晶は福井じゃデーヴァって呼ばれてたらしいからな」
仕方ないさと吉継が口を挟めばここで元が驚いた。
「へ、アキラってキャットフードってあだ名だったの?」
「は?」
トンチンカンな反応に眉をしかめる汐恩と、勘違いしている元の二人に吉継は言った。
「それ多分『シーバ』な。デーヴァは歌姫って意味だ」
するとここで吉継の背後からブブッと笑い声が漏れた。
「あら、今、どなたかの声が聞こえませんでしたか。何か覚えのあるような」
汐恩は歩みを止めて辺りを見渡した。
「く、車のブレーキ音じゃないのか」
吉継は額に汗して応えたが、前を向いたままポケットの鉛筆を触ってアルスで探知した。
【晶、お前、透明化して俺達についてきてるだろ】
【くはは、私が猫の餌って………どうしても行きたかったしぃ~】
案の定背中から笑いの混じった秀晶の甘ったれた声が返ってきた。湯浅五助の幻影能力・クォ・ヴァディスで姿を消しているのである。その証拠に歩いてきたアスファルトにはしっかり四人分の足跡がついていた。
【お前な、そんな姿で見舞ってもしょうがないぞ】
【あのの、ウチはヨシがものごなってまう】
いきなりモジモジした声で秀晶は吉継が心配だと告げた。
【は?何で俺だよ。体調悪いのはテンムちゃんだぞ】
【ほういう意味やないし!ええで、ウチも行く】
秀晶は吉継の背中をボンと掌で押した。
隠密行動を悟られないよう配意してここまでそろそろと付いてきて、帰れと諭すのも却って心配になる。それに秀晶の頑固さは吉継が一番理解しているので早めに諦めた。
【はー、分かったよ。出来る限りフォローはするけど、二人とテンムちゃんには絶対バレるなよ】
【いーざ(了解)!】
「コバ君、どうかなさったの」
立ち止まって後を振り返ったままの吉継に汐恩は胡散臭そうな目を向けた。
「いや、別に。それよりここじゃないのか、テンムちゃんのアパート」
吉継は国道際の割と新しい二階建て十室のアパートを指さした。
JR東海の線路を背景にした濃茶の壁には「メゾン・ピーチ」との号が見える。今風の様式を意識したかのような外観は女性の入居者を希望しているのだろう、木材に似た外壁もそうであるが、屋根には太陽光発電パネル、駐車場の周りには花壇があり、各部屋毎に半円形の洒落れたテラスが外から確認できた。
それでも入居者募集の張り紙が見えるからいくつか空き室があるのだろう。
「でも陣跡が目の前にあるんだね、このアパート」
御所野の国道二十一号線を挟んで南に「桃配山・徳川家康最初陣跡」の看板が立つ小高い山を元は見上げた。
「ハハ、桃配山前ならテンムちゃんが住むにはピッタリなんじゃねえの」
吉継が遠回しな喩えに軽く笑うと元と汐恩も顔を見合わせて失笑した。
実は桃配山には二つのエピソードがある。
一つ目は看板の通り、関ヶ原合戦の際、家康が最初に陣を構えた山である経緯と、二つ目は壬申の乱の時、大海人皇子(おおあまのおうじ)の前線本部となった場所なのである。天智天皇の死後、その皇位継承権をめぐって大海人皇子と大友皇子が争ったのが六百七十二年に起きた壬申の乱であるが、この関ヶ原は大友軍を分断した重要拠点となっていた。美濃の豪族はほぼ大海人皇子に従い、その折、地元の民から桃を差し入れられた大海人皇子は魔除けでもあるその果実を兵士に配って士気を高めたと伝わっている。
そして大友皇子に勝利した大海人皇子は天武天皇と称号するのであるが、武美は苗字の皇も入れて天武天皇と似た名前になっていたため、皆から「テンムちゃん」と呼ばれるようになっていた。
「しかし結構いいトコに住んでるんだね、テンムちゃん。教員って給料いいのかな」
アパートを見上げた元は正直な感想を述べた。
汐恩は直ぐに否定した。
「でもないでしょう。ある程度は山梨の実家から仕送りもあると伺ってます。さ、先生の部屋はここの二階の奥ですわよ」
汐恩は階段を上がりながら二人を誘導した。
「汐恩、テンムちゃんの身辺に詳しいんだな」
「私のお父様がPTA関係でして、教員の皆様についてはある程度存じております。それより今から先生に電話を致しますのでお静かに」
濃紺の扉の前に立って汐恩は指を唇に当てた。
「おい、連絡済みじゃなかったのか」
小声で吉継は問い質した。汐恩はパネルの電話番号ボタンを押しながら存念を話した。
「掃除とかで気を回されるのは嫌なんですの。それに素の先生にも興味がありますし」
(こいつ、絶対後者で連絡しなかったな)
唐突に来られる方が気を遣うだろ、と吉継は心の中で突っ込んだが、汐恩は淡々と電話に出た武美と対応していた。
「あ、もしもし、皇武美先生でいらっしゃいますか。私、細川汐恩でございます。副担任の柴田先生からお風邪を召しておられる旨はうかがっておりますが、三日もお休みになられてクラスの皆は大変案じております。そこで突然で申し訳ございませんが、松平さんと小早川君と三人でお見舞いに参りました。不躾とは存じますが、ご尊顔を拝し奉るべくただいま先生のアパートの扉の前で待たせて頂いております。先生のご都合がよろしければ入室の許可を頂けますようお願い申し上げたいのですが如何でしょうか」
すらすらと尊敬語だの謙譲語だのを小学五年生であってもつかえもせず使いこなす様はさすがに名家のお嬢様である。
さあ、見舞いにきてやったぞ、とっとと開けやがれというのを丁寧に話すとこんな風になるんだなと吉継は感心していた。
すると中から「ち、ちょっと待っててね」という慌てた武美の声と、ドタバタと走り回る足音とガサゴソと何やら片付けている物音が微かに響いていた。
汐恩は吉継と元に振り返って少し笑みを浮かべた。
「どうやら他に御客人はいらっしゃらないようですわよ」
今はまだ困るとか別の日にしてと断られなかったので彼氏が来ている様子はない、と汐恩は遠回しに仄めかしているのである。
(細川汐恩、やはり恐るべし女)
汐恩は秀晶を勝手にライバル視しているがとても太刀打ちできる相手でない。
県内でも名うての家門の生まれで文武両道に優れ、記憶力も高く、人望もあり子供とは思えない程の大局観を持っている。クラスで問題が起きても最終的にいつの間にか陰で取りまとめている。
元が表のボスなら汐恩は黒幕なのである。
果たして高スペックのこいつに弱点というものはあるのか、と吉継は顔を苦くした。
そしてふっと吉継は背後にいるはずの秀晶の動向が心配になってアルスで尋ねた。
【おい、晶、お前、靴とかどうするんだよ。土足で上がる訳にはいかないし、脱いだら靴の透明化が解けてバレるんじゃないのか】
秀晶はツンと吉継の背中を突いて答えた。
【それは大丈夫。意識していれば少しくらい離れてても物も消えてるから】
【じゃあいいけど、誰かと接触しないように注意してろよ】
【うん、気を付ける】
そうして三分程経った頃、ガチャリと扉の鍵が開いて、中からピンクのパジャマに白いカーディガンを羽織った武美が現れた。
「まあ、三人ともわざわざお見舞いに来てくれたの、ありがとう」
「大丈夫、テン…いや、先生?」
テンムちゃんと言い掛けた元が委員長らしく体調を尋ねた。
「もうほとんど治っているのよ。大事を取って休んでいるだけ。明日明後日は土日だからついでにお休みさせてもらうから月曜日にはまた元気に学校へ戻るわ」
「あの、先生、こんな寒い所で立ち話も何ですので」
入れろと婉曲に汐恩が催促した。
「ああ、ごめんなさいね。どうぞ」
武美に従って中に入ると、内部は一人暮らしには充分すぎる程広い作りになっていた。
玄関脇には中型冷蔵庫と備え付けの棚が並んでいるキッチンがあり、コンロは三ツ口IH、奥には洋室が二つ、横には和室が一つ、その奥がトイレで、奥の洋室の一つが寝室になっていた。
三人はエアコンでしっかり暖房が効いた南向きの縦長の寝室に通されると、思わぬシンプルな内装に却って驚いた。
南奥は大きなガラス窓があり、ベランダに直結している。
東西を囲む白い壁には幾つか並列したフックはあってもポスターなどの飾りも無く、インテリア雑貨も全く見当たらない。薄型テレビと教育関係の書物が詰まっている本棚とて珍しくもなく、フローリングの上に鎮座している真っ白なローテーブルの上には音楽の授業用なのか、ピアノの代わりにキーボードが置いてあった。
唯一、飾りらしいものは譜面を押さえている、異常に耳の細長い兎の文鎮だけである。
そのテーブルの西には壁に接したピンクと白のストライブのシーツが掛かったベッドが備え付けられ、その上部には赤い布が敷いてある正方形の物置台が見えた。
そして急遽用意したのかテーブルの周りには四つの赤いクッションが置いてあった。
「ふーん、もっと散らかってると想像してたけどキレイにしてるんだ」
勝手にベランダ際のクッションに座った元が嫌味な姑のようにフローリングに指を這わせた。掃除が行き届いていてもちろん指先に埃も無い。
ベッドに腰掛けた武美は苦笑いした。
「独身だからってゴミ屋敷みたいになってると思ってた?」
「あ、白髪発見!」
何とか不手際を探そうとしていた元はテーブルの下に二十センチ程の白い毛を見付け、証拠を探し当てた探偵のように目を細くして武美の前に掲げた。
「ふふん、これ、先生の髪じゃないのよね、もしかして………」
武美の髪は濃い茶色である。どうみても第三者の毛であるのは間違いないし、武美と親しい教諭にも白髪の人間はいないので元はそれを追及しようとした。
「違います!これは、そのほら、あれよ、羽毛布団の中身」
ベッドの下に畳まれた掛け布団を指さしてから武美は汐恩に指示した。
「それより細川さんは松平さんの向かいに座ってね」
「はい、失礼致します」
立ちっぱなしで待つ汐恩は武美の声でやっと入口に近い場所に正座で座った。
「あっと、先生、すみません。卵とアイスがあるんで冷凍庫と冷蔵庫に入れさせてもらっていいですか」
手荷物の存在を忘れていた吉継が立ったまま確認を取ると、
「アイスがあるの?嬉しいわ。先生、大好きなの」
「箱入りなんでフリーザーに入れときますね」
そのまま吉継はキッチンの方へ歩いて行った。
「小早川君、出来るだけ中見ないでね。買い足してないから食材なくて恥ずかしいし」
「努力します………ってあれ?」
この時吉継はあるモノに気付いた。
冷蔵庫サイドの、見えない脇に小さなステッカーが貼ってある。
それは花模様に似た変わった菱形をしていた。
(これって確か………そういえばさっきの兎の文鎮も)
「小早川君、どうかしたの?」
「あ、いえ、何でもありません」
豚ブロックと合い挽き肉、鶏ササミ肉のパックが入った冷凍庫に急いでアイスを入れた吉継は卵をしまうついでに冷蔵庫もチェックした。
中には缶ビール二本と飲みかけの赤白のワインボトルが二本、そして食べかけの無糖ヨーグルト、未開封のパック牛乳と大ペットボトルのソーダ水、瓶に半分残ったラスベリージャムと未使用の紙パック入り生クリーム、真空パック総菜の栗南瓜のマヨネーズサラダ、賞味期限が切れかけた高野豆腐が二枚、薄切りベーコンが二枚、ショウガ二かけ、ニンニク一塊、後はバターやマーガリンと味噌醤油などの各種調味料。野菜室には、しなびかけた八分の一カット白菜とレモン一個とラップされたシメジと大きなガラス瓶に入った果実酒のようなものが見えた。
そして隣の棚には、ジャガイモが一袋、カップうどんが三つとカップスープ二箱、春雨一袋、切り干し大根半袋、そして製菓材料の乾燥ハーブや、各種ナッツ、ブランデーやラム、マラスキーノ、コワントロー、グラン・マルニエ等の小瓶のリキュールが新のままずらりと並んでいて、下には小麦粉等の新品の袋がいくつか積んである。そして誰かから貰ったのか、スナックや綿菓子の入った駄菓子の詰め合わせがぞんざいに置いてあった。
「………先生、ちゃんと栄養のあるもの食べてます?」
ゴミ箱に入ったレトルト粥とインスタントラーメンとスポーツドリンクの空容器とポテトチップスの空袋を見て吉継は呆れた声を出した。
「うーん、風邪で寝てたからそれはあんまり考えてなかったかな」
と遠くから武美の返事がした。
「うわ、お菓子の材料ばっか」
いつの間にか隣に来ていた元が棚を見て笑った。
「センセー、女子力上げようと思って買い揃えたのはいいけど、忙しくて何も出来ないってパターンでしょ、これ」
「松平さん、その正確な分析止めて、こっちへ戻ってきて」
苦笑して武美は元を呼び戻した。
すると秀晶がゴミ箱を少し傾けて過去を話し出した。
【風邪の時って食べたいんだけど食欲無いとかもあるし、一人で食べてると味気無いんだよねえ。お母さんいない時ってポカリだけ飲んでた記憶ある】
事故死している父親を思い出したのか秀晶は小声で呟いた。
【それは、辛いな】
【あ、今はヨシがいてくれるから全然元気なんだけどね!】
秀晶は吉継の口籠もった声に気付いて明るく振る舞った。
【でも、一人は心細いかな。風邪の時だったら尚更感傷的になっちゃう。先生も元気そうだけど親元から離れてるし、本当は寂しかったんじゃないかな。だからお見舞いって嬉しいよ。よかったね、ここに来て】
元と汐恩と楽しそうに談笑する武美の朗らかな声がそれを証明していた。それに風邪の時の孤独は症状を四割程悪化させるという報告もある。
吉継は黙って寝室の方を向いてからやがて秀晶に問うた。
【………なあ、晶は風邪の時は何が食べたい?】
【え、何?】
【いや、自分じゃない風邪の食事って一般的な知識しか知らないから】
【私は、うーん、そうだね、油揚げに大根おろしをかけたのと黒胡麻豆腐プリンかな】
【お?粥とかじゃなくて、福井の名物なんだな】
福井の油揚げは通常の油揚げよりも厚くて有名である。胡麻豆腐も永平寺の関係上よく食べられる食品になっているのだろう。
【そうね、梅粥とかも食べたけど、そればかりじゃ力でない感じする。だから地元の食べ物で好きなおかずが出ればパクパク食べちゃうよ】
【地元の、か】
すると吉継は再度冷蔵庫の中身と棚の食材を眺め、やがて思い立って寝室へ歩いて行き、扉の前で武美に聞き合わせた。
「先生、食べられない食品ってありますか?アレルギーとか嫌いなものとか」
「そうねえ、特には無いかしら」
「じゃあ、今食べたいものって何ですか」
「肉料理かしらね。食欲も戻ってきたし。カップ麺とかレトルトお粥も飽きちゃった」
「あまり良い食べ方ではないですよ。まあ、風邪ですから料理も出来なかったでしょうし仕方ありませんけど、もっと消化の良い物で栄養価の高い物を食べた方がいいです。肉類は未だ病み上がりなので控えた方が懸命ですよ」
「あはは、教え子に諭されるとは私もダメね」
「健康は食で変わりますから。ところで風邪薬は?胃腸風邪用ですか?」
「いいえ、普通の感冒薬よ」
「未だ飲んでます?」
「今日の朝で終わったわ」
「もう飲まないですか?」
「ええ、症状も治まったし、後は安静にするだけね」
「そうですか、そういえば先生の出身って山梨のどこですか」
矢継ぎ早の質問に変わった問いが混ざった。武美は反射的に答えた。
「甲府だけど?」
「分かりました。じゃあ、エプロンを貸して下さい」
「………は?」
「今ある食材で栄養のある夕食を作ります。少々時間は掛かりますけど」
「え?い、いいわよ、そんな。あなたはお見舞いにきてくれたのよ、そんな家事までしてもらったら気が引けるわ」
「先生、たまにウチの店にみえる時には野菜とか魚とかのメニューをバランス良く選んでますけど今の食べ方は風邪とはいえ偏りすぎです。これではぶり返して月曜日に学校に来れるか心配です。そしてこのまま何も作らずに帰ったら、担任の先生を見捨てたときっと母に叱られます。だから料理します」
テンムちゃんには世話になってるからなという本心を隠して吉継はエプロンの所在を尋ねた。
「でも………」
吉継の料理の腕は、常連とまではいかないものの武美もよく知っている。しかし、今日は見舞い客であって料理人ではないのである。
担任として武美は躊躇っていたが、ここで汐恩が口を挟んだ。
「作りたいと仰るなら構わないではありませんか。確かに私も先生の体調は少々気掛かりなのです。何なら細川家のお抱えシェフをここに連れてきてもよろしいのですけど」
「そんな大袈裟な」
「でしたら彼に一任致しましょう。どのような料理が出来上がるか楽しみです。そうでしょう、コバ君?」
汐恩は吉継に向かってニコリと笑った。
「ふう、じゃあ、本当にお願いしていいの、小早川君?」
言い負かされた形で武美は承知し、赤色のエプロンを手渡した。
「店と同じようにはいきませんけどね。汐恩と元は料理が出来るまで先生と三味線クラブと詩吟の動画でも見ていてくれ」
エプロンの後紐をキュッと結んだ吉継には汐恩の笑みには別の、何か企んだ意味が隠されているような気がしたが、時間が掛かると帰り時間が遅くなるので早々と頭の中で描いたメニューの下拵えに取り掛かった。

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