それから三時間後の午後八時丁度、ひすとり庵の扉が開いた。
「やあ、いらっしゃい、大谷さん」
紺のセーターにオフホワイトのパンツルックで現れた秀晶に、赤いエプロンに身を包んだ吉継はカウンターから明るく声を掛けた。途端、賑わっている店内からは甘い匂いや香ばしい匂いが流れてきて鼻をくすぐった。
「こ、こんばんは」
以前透明化して忍び込んだ経験があるとはいえ、こうした気軽にお酒を飲む場所に慣れていない秀晶はうろたえ気味に挨拶した。
すると横から音依が抱き付いた。
「いらっしゃーい、晶ちゃん。待ってたわよ!やっと来てくれたのねえ」
「ちょっと母さん、止めてよ。大谷さんびっくりしてるじゃない」
嬉しさのあまり頬摺りする音依に吉継は注意した。
「少しくらいいいでしょ。だってこんなに美少女なのよ、晶ちゃん」
「セクハラおじさんみたいな危ないセリフ言わないの。ほら、離れて」
カウンターを出て吉継は音依を引きはがして謝った。
「ごめんね、大谷さん。母さん、いつも以上にはしゃいじゃって」
「あら、わざわざ福井から関ヶ原に越してきたのよ。晶ちゃんを歓迎するのは当たり前じゃないの」
「歓迎の仕方がズレてます」
漫才の駆け引きのような二人に思わず秀晶はクスクス笑った。
「本当に仲良し親子なんだね、小早川君の家は。あ、これ、よろしければ」
秀晶は子猫模様を散りばめた包み紙で包装してある薄い箱を音依に手渡した。
「あら、何?」
「今日のお礼です。私の手作りでそんなにお金もかかってませんけど」
「まあ、それはご丁寧に」と深々お礼の腰を折る音依であったが、次には「開封してもいい?」と興味津々な目を大きく開けた。
「どうぞ」
音依は素早く包装紙を剥がすと蓋を開けて中身を見た。
そこにはワイヤーに繋がれたモビールが入っていた。紙やプラスチック素材を糸や針金でつるし、バランスの美しさを楽しむインテリア装飾であるが、秀晶の作品はカットシート製の白黒のシルエット猫がボールを追い掛けてジャンプする配置となっていた。
「あら、モノトーンでカワイイ。これ晶ちゃんが作ったの?」
「お店の装飾にと思ったんですけど場違いでした。ごめんなさい」
美濃和紙のランプシェードやら日本庭園の中庭など和風に彩られた店内に秀晶は苦笑いした。透明の時は店内までじっくり見ている余裕がなかったので失念していたのである。
「そんな事ないわ。ありがとう。センスが良くてとても気に入ったわ。早速明日の昼間から店のアクセントで飾らせてもらうから」
「あ、母さん、コーヒーミルの上あたりなんて映えるよ」
「?」
不思議そうに首を傾げる秀晶に吉継が説明した。
「ほら、ウチって昼は喫茶店をしてるんだけど夜と昼で内装が少し変わるんだ。例えば天井のランプシェードは木製のものと交換するし、キッチン奥の棚も今はお酒が並んでるけど、二重のスライド式の棚だから昼間はコーヒーカップとかが乗った棚と入れ替わる。昼は洋風、夜は和風にね」
「へえ、そうなんだ」
「日曜日の朝にでも見においでよ。ウチの父さんの淹れるコーヒー美味しいから」
「あ、ヨシちゃん、鍋のお湯沸いてるわよ」
音依は沸騰する寸胴鍋を示した。
「おっといけね。じゃあ、母さん、そっちはよろしく。大谷さんはこっちに座って」
他のお客の料理は音依に任せ、キッチンに戻った吉継はカウンターに置いてあったリザーブシートのスタンドを外して秀晶に席を勧めた。
「飲み物は、寒いからホットのウーロン茶でいいかな」
「うん。小早川君にお任せする」
「了解。朝妃さーん、ホットウーロンカウンターに一つ」
吉継は飲み物を通すと早速料理に取り掛かった。
先ずはサラダとオードブルである。
吉継はペティナイフと野菜を手にすると目にも留まらぬ早さでカットに入った。
「すごい」
秀晶は吉継の流れるような一連の包丁捌きに感嘆していた。
小刀が素早く赤いラディッシュを花形に、そして透き通るように薄くかつら剥きした大根を蝶の形にと立て続けに切り取っていく。
そしてスライスした人参も色違いの橙色の蝶へと姿を変え、カットキュウリも木の葉形に刻まれた。
吉継はそれらを白い皿の縁を彩るように飾り付け、セロリの葉と、紫や黄色、白などの小さな生の花弁を散らし、蝶の舞う鮮やかな庭園風のサラダとした。
次いでバゲットを三枚スライスして、その後軽くオーブンで焼き、そしてタッパーに詰まっている緑色のペーストを大スプーンを二本使って三つ楕円球に器用に丸め、それらを各バゲットの上に乗せ、先程のサラダの中心に据え、自家製のオレンジドレッシングが入った容器と共に秀晶に差し出した。
「はい、お待たせ。ブロッコリーと焼き鯖のリエット、エディブルフラワーサラダ添えだよ」
学校での消極的な吉継と、キッチンで腕をふるう吉継はとても同一人物とは思えない。
一度カタバミ会の調理の時にもその腕の鮮やかさに見惚れたが、目の前で繰り広げられた技術はまるで魔法である。
もはや驚きを通り越し秀晶は呆れて言った。
「綺麗、そして早い!」
「まあ、これはある程度下準備がしてあるからね。ちなみにサラダに散らしてある生の花も食べられるよ」
「うん、素敵!ところでリエットって何?」
初めて聞く料理名に秀晶は率直に尋ねた。
吉継は教えた。
「原型は豚肉とかガチョウの肉をその脂で柔らかく煮てペーストにしたフランスの保存食を指すんだ。今は魚とかもリエットになってるからこの鯖も同じ。さ、手でどうぞ」
「い、いただきます」
いくら形が変わっても中身は鯖である。眼をつぶった秀晶は震える手でリエットが乗ったバゲットをつかんで口元へ運んだ。
「ん」と一瞬躊躇って手が止まったが、鼻の奥に焼き立てのフランスパンの香ばしさと野菜と香草の甘くて爽快な香りがスウッと通り抜けた。
その食欲をそそる香りに釣られ秀晶は反射的に一口パクリと食べた。
するとリエットの滑らかな舌触りと、鯖とは思えないさっぱりした味が口内に拡がった。確かに香ばしい焼き鯖の風味はあるが、茹でたブロッコリーと混ぜ込んである種々のハーブが味を引き立てている。
「大谷さん、味はどう?蒸して潰したポテトも混ぜてあるから食べやすくしているんだけど」
カウンターに前のめりになり、やや心配そうな眼で吉継は反応を求めた。
すると、
「美味しい!これ凄く美味しいよ!!なんでこんなに鯖が美味しくなってるの?秘密があるの?」
秀晶は大きく目を見開いて一つ目を全部口に入れた。
吉継は口に合った秀晶に一安心して説き明かした。
「敢えて言えば下処理かな。鯖の身は、臭み抜きをしたのは当然だけど、焼く前に潰したニンニクとタイム、バジルとローズマリーに浸してあるんだ。焼いてペーストにした時にもハーブを混ぜ込んであるから鯖の旨味が増している。パンもカリッとして歯ごたえがあるでしょ?」
「うんうん、そう!」
二つ目を食べながら秀晶は頷いた。
「料理は五感を満たすように作る。母さん伝授の料理の基本だよ」
次の料理の具材の入ったフライパンを揺すりながら吉継は説いた。
「五感?」
「視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚の五つ。つまり料理の色とか盛り付けを見る目、料理の香り、食べ物の堅さや柔らかさ、調理とそして食べる時の音、最後に口の中全体に感じる味。これが全部バランス良く組み合わさると料理は美味しくなるんだ」
「へえ、感覚でそんなに変わるんだ」
「リンゴ、ウサギにカットしてあると食欲湧かない?」
「あ、あるある」
ランチボックスのウサギリンゴを思い出して秀晶は同調した。
「あれが視覚。それと鰻屋さんの前を通るとあの匂いで食べたくなるよね。あれが嗅覚。フニャフニャになったレタスよりパリッと瑞々しい方が新鮮に感じる、これが触覚と聴覚。味覚は舌に感じる味で『甘味・鹹味(かんみ)・苦味・酸味・旨味』の五つに分かれてる。塩をひとつまみ足しただけでグンと美味しくなるのがそれ」
「はー、なるほど、ホント感覚って大事なんだ」
「その代わり一つでもバランスが崩れると間の抜けた料理になっちゃうから。そこが一番難しいんだ。それよりリエット、気に入ってもらえたみたいだね」
サラダすら残っていない皿に吉継は笑った。
「あ」
いつの間にか抵抗なく賞味していた事に秀晶自身が驚愕していた。
吉継は言った。
「鯖、食べられたね」
「………食べられた、鯖。うん、私、食べられたよ、お父さん」
懐かしい父親の姿を思い浮かべたのだろう、秀晶は口を押さえて涙ぐんだ。
「ありがとう、小早川君」
「お礼は未だ早いんじゃない。料理はこれからだよ」
と吉継は刻んだオレガノと赤いソースのかかったパスタをフォークと共に秀晶の前に置いた。湯気と共にトマトの甘酸っぱい香りがわっと立ち上った。
「二品目はイタリアンだよ。焼き鯖のパスタ・福井マリナーラ」
「福井マリナーラ?」
涙を袖でぬぐって秀晶はおうむ返しに聞いた。吉継は言い直した。
「正確にはマリナーラ風だけどね。詳しい説明は後。熱い内に食べて」
「うん!」
一口大にカットした焼き鯖がトマトソースに絡んでいる。オレガノ以外、野菜もなく具はそれだけなのだが酸味のきいた香りが食欲を刺激する。
たまらず秀晶はフォークでパスタを巻いて食べた。
「!!」
驚いた。トマトとオレガノが焼き鯖を包んでパスタの甘みが全体を中和する。シンプルなソースなのに何故か懐かしい感じがして止まらない。
秀晶は何も言わずガツガツと無我夢中で食べきった。
「どうだったかな、大谷さん?」
食べ終えて余韻に浸っていた秀晶はハッと我に返った。
「あ、うん。ごめん、もうなんか美味しくて。それに何か馴染みがあるような。でもトマトソースと鯖って相性いいんだね。ビックリ」
口の周りを紙ナプキンで拭いた秀晶は心底感心していた。
「酸味ってアブラの強い食材と合うんだよ。でもマリナーラソースの場合は普通のトマトソースとは少し違うから」
「それは何となく分かった。玉ねぎ入ってないもの」
「そう。玉ねぎ入りはポモドーロ。マリナーラはトマトとオリーブオイルとオレガノとニンニクだけで作られるんだ。だから元々は具が入っていない。でも最近のマリナーラは魚介を足したり調味料が変わったり進化しているんだ」
「さっきのパスタは焼き鯖がそうなのね」
「後は、塩漬けのケイパーとかアンチョビなんかを加えたりするよ」
「じゃあ、福井マリナーラって焼き鯖を使ったから、そういう名前に?」
すると吉継は勿体振る顔を横に振って小さなボウルと小スプーンを秀晶に差し出した。
中には細かく刻んだ魚の切り身が入っている。
「食べてみて、少し炙ってあるから」と吉継が勧めるので秀晶はほんの少し身をすくって舐めるように食べた。
すると秀晶は一瞬でその正体を見抜いた。
「あ、これ、へしこだ!」
「正解。これは鯖のへしこだよ」
鯖のへしことは塩漬けした鯖を更に糠に漬けた福井若狭の伝統郷土料理である。冬を越す保存食の一つであり、火で炙ってお茶漬けや酒の肴にする。
「このへしこを微塵に刻んでアンチョビ代わりに使ったんだ。それにニンニクじゃなくショウガに変えたから福井マリナーラ風だね」
「そっか、だから懐かしく感じたんだ」
「じゃあ次が三品目で今日のメインだよ。最後は和食」
吉継は予め用意してあった料理の皿を差し出した。
「あ………」
途端秀晶の額が曇った。目の前にはカットされた「焼き鯖寿司」が並んでいる。
「お父さん、これ作るの得意だった。あの時も………」
ぼそりと目を伏せて呟く秀晶に吉継はその意味を即座に理解し、シマッタと臍を噛んだ。
恐らく鯖を釣りに出掛けたのはこの寿司を作るためであったのだろう。
「家族でいつも焼き鯖寿司食べてたんだ。お母さんも、私もお父さんの焼き鯖寿司がすごく好きで、よく手伝って一緒に作った。あの頃のお母さんはお父さんと仲良くて、私にも優しくて………」
案の定秀晶は辛い記憶を甦らせ暗い表情に戻ってしまった。
秀晶は父の事故が自分のせいだと今尚責めている。そして母娘で敦賀を離れる結果となったのも全て自分が鯖をせがんだのが原因だとも思っている。それが思い入れのある焼き鯖寿司に繋がっているとなれば心乱れて失意もより深くなる。
いくら鯖が食べられるようになったところで料理によって抵抗があるのは無理もない。
「ごめん、俺、気付けなくて」
秀晶と友達になれて浮かれていたのかもしれない。
誰しも触れられたくない過去がある。家族円満の象徴であった料理がトラウマと化していた裏までには気が回らなかった吉継は静かに皿を下げようとした。
しかし、
「待って!」
秀晶は吉継の伸ばした手を掴んで戸惑った顔を向けた。
「私、これ食べてもいいと思う?」
「は?」
「鯖は小早川君のおかげで食べられた。でもこのお寿司を食べるとお父さんの記憶が消えてしまいそうな気がして………」
秀晶の目からはポロリと涙が流れた。
「大谷さん………」
「そして関ヶ原に馴染むのが怖かった。鯖を食べるのが怖かった。それをすると大好きな敦賀とお父さんの思い出が全部無くなっちゃいそうで怖かった。だから………」
「だからクラスに溶け込もうとしなかった?」
「本当はみんなとも仲良くしたい。お母さんとの関係も元に戻したい。でも方法が分からなくて、私、どうしていいか、全然分からなくて。独りで悩んでても、もうどうしようもなくて」
【主、それは違うぞ】
刑部が秀晶の心の中に割り込んできた。
アルスで感応している吉継にもその声は届いていた。
秀晶は吉継から手を放し、パンツのポケットから二つの消しゴムを取り出した。
【どういう事?】と秀晶は聞いた。
【主はもはや独りではなかろう】
【あ、うん。そうだね。刑部も五助もいるし】
ハンカチで鼻を押さえた秀晶は得心して頷いた。刑部は否んだ。
【左様な意味ではない。主には本日よりもう頼れる盟友が出来たではないか、そら、目の前に】
刑部の言葉を後押しにして吉継は秀晶を励ました。
「そうだよ、大谷さん。俺達はもう友達になったんだ。だから遠慮無く頼ってよ。まあ、料理以外で何が出来るか自信ないけど頑張るから!」
「裏切らない?」
「え?」
「友達を急に止めるとかしない?」
不安に苛まれた眼差しで秀晶は確認を求めてきた。吉継は胸を拳で叩いた。
「あのね、苗字はともかく俺の名前を何だと思ってるの?曲がり形にも刑部どのと同じ吉継なんだよ。大谷の苗字を持つ君が信じてくれないと困るな」
「ふふふ、そうね。小早川君はあの裏切り者のカマとは違うものね」
途端笑顔に戻って秀晶は関ヶ原の歴史を思い返した。するとここで金吾が不満タラタラの声で介入してきた。
【さきから本人を前にして陰口は止めてもらえぬかのう】
吉継は平然と鉛筆に言い返した。
【いいや、目の前なら陰口じゃないぞ。単なる悪口だ】
【ふむ、それならば良………ん、何か適当に誤魔化されたような】
この遣り取りに「ぷっ」と吹き出した秀晶に釣られ吉継もケラケラと笑った。
「ところで大谷さん、フランス語で『大丈夫』って何て言うか知ってる?」
「何?」
「Ça va と書いてサヴァって言うんだよ。尋ねる時はÇa va ?で『元気?』って質問になるんだ」
「へえ、鯖に発音が似てるね」
「うまくやってる?って挨拶で、うまくやってるよって返すんだ。サヴァ?サヴァ!みたいに」
「うーん、関西人の「どないでっか」「ぼちぼちでんな」ってのと同じかな」
「ククククク」
吉継は腹を抱えながらも笑いを噛み殺した。
「あれ、ここは笑うトコじゃないんだけどな」
若干臍を曲げて秀晶は吉継を見た。
すると吉継は爽快な笑みで右親指を立てた。
「大谷さん、サヴァ?」
「サヴァ!」
秀晶も元気に右親指を立て続け様に言った。
「私、この焼き鯖寿司食べるよ」
「え、大丈夫なの?」
「サヴァって言ったでしょ。もう平気。それに匂いが普通のお寿司じゃないもん。美味しそう」
芳しい鯖の香気に当てられ、鼻がクンクン鳴る。
「じゃあどうぞ」
吉継は改めて勧めた。
秀晶は五切れ乗った寿司の一つを口に入れた。
そして咀嚼してゴクリと飲み込み恍惚の表情で訛った。
「ええかざする。ひってうめぇ」
「大谷さんってたまに福井弁出るね。それ、良い匂い。凄く美味しいって意味だよね」
「う、変、かな?」
赤面して秀晶は俯いたが吉継は手を振った。
「変じゃないよ。むしろカワイイ」
「か、カワイイ?」
違う意味で秀晶はもっと赤面した。
「俺、よく敦賀に行くけど地元のおばあちゃん達と喋ってるから福井弁ってカワイイと思うんだ」
「あ、ああ、言葉の方、ね」
「え、何?」
「何でも無い」と秀晶は寿司をパクパク食べた。
吉継は方言を気にする秀晶に地域の実情を語った。
「関ヶ原も西隣は滋賀県だから関西の影響は受けてるよ。福井と同じ方言もちらほらあるし、恥ずかしがる必要もないから」
「ほう(そう)?」
「だんね(構わないよ)」と吉継は自信満々で福井弁で返したが、「それ今の子は使わないから」と一蹴された。
「それよりこの焼き鯖寿司、お父さん食べたら驚いただろうな。食べさせてあげたかったな………………あッ、そうだ。小早川君、お願いがあるんだけど」
寿司を完食した秀晶が何かを思い付いて依頼の手を合わせた。
「何?」
「このお寿司、来週の水曜日に作ってくれないかな?」
「水曜に?」
「実はその日、お父さんの命日なんだ。お母さんも昼のお勤めだし、法事らしいのは出来ないけどせめてお父さんにお供えしたいなって。ちゃんとお金は払うから」
「うーん、水曜かあ」
腕を組んで吉継は迷った。
友達の自分としては秀晶の頼みなら聞き届けたいが、水曜はひすとり庵の定休日なのである。つまり音依の唯一の休日であり、多忙な母ゆえゆっくり休ませてあげたい。
焼き鯖寿司なら前日に作り置きしてもいいのだろうが、お供えならばやはり出来たての方がいいにきまっている。
吉継は更に考え込んだ。
秀晶も吉継の悩みを察したのかそれ以上無理強いするのは躊躇った。
と、ここで後ろから音依が話し掛けてきた。
「そういう事情なら水曜に来店してもらっても構わないわよ、晶ちゃん」
「わ、母さん、いつの間に」
注文の間が空いた音依は秀晶の隣に腰掛けウインクした。
「ね、晶ちゃん、私達に遠慮なんてしなくていいのよ。困ったら助け合うのが当然だもの。ね、ヨシちゃん、そうでしょう?」
「そりゃあ母さんがオーケーしてくれるなら有り難いけど」
「そうだわ、折角だから晶ちゃんのお母さんと一緒にここに食べに来たら?夜は空いてるんでしょ」
グッドアイデアと音依は自らの発案をべた褒めしたが、逆に吉継と秀晶は顔を見合わせて苦笑した。
「ん、どうしたの?」
音依は二人の意味ありげに笑った子細を聞いた。
吉継は簡単に今の親子関係と母親の「田舎料理屋嫌い」の話をした。
「それはまた難儀な方ね」
あらかた理解した音依は眉間に指を当て、短く息を吐いた。
「ごめんなさい。ウチのお母さんブランド信仰で」
秀晶は恥ずかしそうに謝った。
「晶ちゃんが謝る事ではないわ。でもお母さんは敦賀の料理は食べれたのよね」
「はい。魚介類は新鮮なので何でも好き嫌い無く」
「鯖は?大衆魚って見向きもしない?」
「いえ、生まれが敦賀なので鯖は好きです。あちこち鯖料理を食べ歩いていましたから」
「ふむ、鯖好きの高級志向ね。じゃあこちらもそれなりの対抗策を取りますか。私とヨシちゃんで晶ちゃんの家の問題を一挙に解決しましょう。ウチの店の料理で」
吉継は渋い顔を更に渋めた。
「母さん、何言ってるの。大谷さんのお母さんは関ヶ原の店は嫌だって行ってるんだよ。来る訳ないじゃない」
「いいえ、何としても来させるの。晶ちゃん、お母さんを首に縄を付けてでも連れてきて。それは娘であるあなたの役目。それにこれは私からのお誘いだって伝えてね」
音依は自分の顔写真が載ったひすとり庵の名刺を渡した。
「でも」と途方に暮れる秀晶に音依は背中をポンと押した。
「立ち止まっていては前に進めないわよ。仲を戻したいんじゃないの?」
「それはもちろん、そうです」
「だったら一人で抱え込まないで、ここでご飯を食べながらお話しなさい。必ず上手くいくよう私が取り計らってあげるから」
「おや、その口振りだと何か秘策があるの?」
吉継は勝算に満ちた母のしたり顔に興味を示した。
「賭けみたいなものだけどね。後はヨシちゃんの料理の腕次第」
「え、俺が作るの?母さんの方が信頼あるじゃない」
すると音依はチッチと指を振った。
「分かってないわね、ヨシちゃんだからこそ意味があるの。それに今回は晶ちゃんにも協力してもらいます」
「ええ、わ、私、小早川君みたいな料理なんて出来ません」
「そんなんじゃないわ。少しお母さんの昔話とかを聞きたいだけよ」
「昔話?」
「それはね………」
音依は秀晶に様々な過去を尋ねてから自分が立てた計画を二人に語った。
「やあ、いらっしゃい、大谷さん」
紺のセーターにオフホワイトのパンツルックで現れた秀晶に、赤いエプロンに身を包んだ吉継はカウンターから明るく声を掛けた。途端、賑わっている店内からは甘い匂いや香ばしい匂いが流れてきて鼻をくすぐった。
「こ、こんばんは」
以前透明化して忍び込んだ経験があるとはいえ、こうした気軽にお酒を飲む場所に慣れていない秀晶はうろたえ気味に挨拶した。
すると横から音依が抱き付いた。
「いらっしゃーい、晶ちゃん。待ってたわよ!やっと来てくれたのねえ」
「ちょっと母さん、止めてよ。大谷さんびっくりしてるじゃない」
嬉しさのあまり頬摺りする音依に吉継は注意した。
「少しくらいいいでしょ。だってこんなに美少女なのよ、晶ちゃん」
「セクハラおじさんみたいな危ないセリフ言わないの。ほら、離れて」
カウンターを出て吉継は音依を引きはがして謝った。
「ごめんね、大谷さん。母さん、いつも以上にはしゃいじゃって」
「あら、わざわざ福井から関ヶ原に越してきたのよ。晶ちゃんを歓迎するのは当たり前じゃないの」
「歓迎の仕方がズレてます」
漫才の駆け引きのような二人に思わず秀晶はクスクス笑った。
「本当に仲良し親子なんだね、小早川君の家は。あ、これ、よろしければ」
秀晶は子猫模様を散りばめた包み紙で包装してある薄い箱を音依に手渡した。
「あら、何?」
「今日のお礼です。私の手作りでそんなにお金もかかってませんけど」
「まあ、それはご丁寧に」と深々お礼の腰を折る音依であったが、次には「開封してもいい?」と興味津々な目を大きく開けた。
「どうぞ」
音依は素早く包装紙を剥がすと蓋を開けて中身を見た。
そこにはワイヤーに繋がれたモビールが入っていた。紙やプラスチック素材を糸や針金でつるし、バランスの美しさを楽しむインテリア装飾であるが、秀晶の作品はカットシート製の白黒のシルエット猫がボールを追い掛けてジャンプする配置となっていた。
「あら、モノトーンでカワイイ。これ晶ちゃんが作ったの?」
「お店の装飾にと思ったんですけど場違いでした。ごめんなさい」
美濃和紙のランプシェードやら日本庭園の中庭など和風に彩られた店内に秀晶は苦笑いした。透明の時は店内までじっくり見ている余裕がなかったので失念していたのである。
「そんな事ないわ。ありがとう。センスが良くてとても気に入ったわ。早速明日の昼間から店のアクセントで飾らせてもらうから」
「あ、母さん、コーヒーミルの上あたりなんて映えるよ」
「?」
不思議そうに首を傾げる秀晶に吉継が説明した。
「ほら、ウチって昼は喫茶店をしてるんだけど夜と昼で内装が少し変わるんだ。例えば天井のランプシェードは木製のものと交換するし、キッチン奥の棚も今はお酒が並んでるけど、二重のスライド式の棚だから昼間はコーヒーカップとかが乗った棚と入れ替わる。昼は洋風、夜は和風にね」
「へえ、そうなんだ」
「日曜日の朝にでも見においでよ。ウチの父さんの淹れるコーヒー美味しいから」
「あ、ヨシちゃん、鍋のお湯沸いてるわよ」
音依は沸騰する寸胴鍋を示した。
「おっといけね。じゃあ、母さん、そっちはよろしく。大谷さんはこっちに座って」
他のお客の料理は音依に任せ、キッチンに戻った吉継はカウンターに置いてあったリザーブシートのスタンドを外して秀晶に席を勧めた。
「飲み物は、寒いからホットのウーロン茶でいいかな」
「うん。小早川君にお任せする」
「了解。朝妃さーん、ホットウーロンカウンターに一つ」
吉継は飲み物を通すと早速料理に取り掛かった。
先ずはサラダとオードブルである。
吉継はペティナイフと野菜を手にすると目にも留まらぬ早さでカットに入った。
「すごい」
秀晶は吉継の流れるような一連の包丁捌きに感嘆していた。
小刀が素早く赤いラディッシュを花形に、そして透き通るように薄くかつら剥きした大根を蝶の形にと立て続けに切り取っていく。
そしてスライスした人参も色違いの橙色の蝶へと姿を変え、カットキュウリも木の葉形に刻まれた。
吉継はそれらを白い皿の縁を彩るように飾り付け、セロリの葉と、紫や黄色、白などの小さな生の花弁を散らし、蝶の舞う鮮やかな庭園風のサラダとした。
次いでバゲットを三枚スライスして、その後軽くオーブンで焼き、そしてタッパーに詰まっている緑色のペーストを大スプーンを二本使って三つ楕円球に器用に丸め、それらを各バゲットの上に乗せ、先程のサラダの中心に据え、自家製のオレンジドレッシングが入った容器と共に秀晶に差し出した。
「はい、お待たせ。ブロッコリーと焼き鯖のリエット、エディブルフラワーサラダ添えだよ」
学校での消極的な吉継と、キッチンで腕をふるう吉継はとても同一人物とは思えない。
一度カタバミ会の調理の時にもその腕の鮮やかさに見惚れたが、目の前で繰り広げられた技術はまるで魔法である。
もはや驚きを通り越し秀晶は呆れて言った。
「綺麗、そして早い!」
「まあ、これはある程度下準備がしてあるからね。ちなみにサラダに散らしてある生の花も食べられるよ」
「うん、素敵!ところでリエットって何?」
初めて聞く料理名に秀晶は率直に尋ねた。
吉継は教えた。
「原型は豚肉とかガチョウの肉をその脂で柔らかく煮てペーストにしたフランスの保存食を指すんだ。今は魚とかもリエットになってるからこの鯖も同じ。さ、手でどうぞ」
「い、いただきます」
いくら形が変わっても中身は鯖である。眼をつぶった秀晶は震える手でリエットが乗ったバゲットをつかんで口元へ運んだ。
「ん」と一瞬躊躇って手が止まったが、鼻の奥に焼き立てのフランスパンの香ばしさと野菜と香草の甘くて爽快な香りがスウッと通り抜けた。
その食欲をそそる香りに釣られ秀晶は反射的に一口パクリと食べた。
するとリエットの滑らかな舌触りと、鯖とは思えないさっぱりした味が口内に拡がった。確かに香ばしい焼き鯖の風味はあるが、茹でたブロッコリーと混ぜ込んである種々のハーブが味を引き立てている。
「大谷さん、味はどう?蒸して潰したポテトも混ぜてあるから食べやすくしているんだけど」
カウンターに前のめりになり、やや心配そうな眼で吉継は反応を求めた。
すると、
「美味しい!これ凄く美味しいよ!!なんでこんなに鯖が美味しくなってるの?秘密があるの?」
秀晶は大きく目を見開いて一つ目を全部口に入れた。
吉継は口に合った秀晶に一安心して説き明かした。
「敢えて言えば下処理かな。鯖の身は、臭み抜きをしたのは当然だけど、焼く前に潰したニンニクとタイム、バジルとローズマリーに浸してあるんだ。焼いてペーストにした時にもハーブを混ぜ込んであるから鯖の旨味が増している。パンもカリッとして歯ごたえがあるでしょ?」
「うんうん、そう!」
二つ目を食べながら秀晶は頷いた。
「料理は五感を満たすように作る。母さん伝授の料理の基本だよ」
次の料理の具材の入ったフライパンを揺すりながら吉継は説いた。
「五感?」
「視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚の五つ。つまり料理の色とか盛り付けを見る目、料理の香り、食べ物の堅さや柔らかさ、調理とそして食べる時の音、最後に口の中全体に感じる味。これが全部バランス良く組み合わさると料理は美味しくなるんだ」
「へえ、感覚でそんなに変わるんだ」
「リンゴ、ウサギにカットしてあると食欲湧かない?」
「あ、あるある」
ランチボックスのウサギリンゴを思い出して秀晶は同調した。
「あれが視覚。それと鰻屋さんの前を通るとあの匂いで食べたくなるよね。あれが嗅覚。フニャフニャになったレタスよりパリッと瑞々しい方が新鮮に感じる、これが触覚と聴覚。味覚は舌に感じる味で『甘味・鹹味(かんみ)・苦味・酸味・旨味』の五つに分かれてる。塩をひとつまみ足しただけでグンと美味しくなるのがそれ」
「はー、なるほど、ホント感覚って大事なんだ」
「その代わり一つでもバランスが崩れると間の抜けた料理になっちゃうから。そこが一番難しいんだ。それよりリエット、気に入ってもらえたみたいだね」
サラダすら残っていない皿に吉継は笑った。
「あ」
いつの間にか抵抗なく賞味していた事に秀晶自身が驚愕していた。
吉継は言った。
「鯖、食べられたね」
「………食べられた、鯖。うん、私、食べられたよ、お父さん」
懐かしい父親の姿を思い浮かべたのだろう、秀晶は口を押さえて涙ぐんだ。
「ありがとう、小早川君」
「お礼は未だ早いんじゃない。料理はこれからだよ」
と吉継は刻んだオレガノと赤いソースのかかったパスタをフォークと共に秀晶の前に置いた。湯気と共にトマトの甘酸っぱい香りがわっと立ち上った。
「二品目はイタリアンだよ。焼き鯖のパスタ・福井マリナーラ」
「福井マリナーラ?」
涙を袖でぬぐって秀晶はおうむ返しに聞いた。吉継は言い直した。
「正確にはマリナーラ風だけどね。詳しい説明は後。熱い内に食べて」
「うん!」
一口大にカットした焼き鯖がトマトソースに絡んでいる。オレガノ以外、野菜もなく具はそれだけなのだが酸味のきいた香りが食欲を刺激する。
たまらず秀晶はフォークでパスタを巻いて食べた。
「!!」
驚いた。トマトとオレガノが焼き鯖を包んでパスタの甘みが全体を中和する。シンプルなソースなのに何故か懐かしい感じがして止まらない。
秀晶は何も言わずガツガツと無我夢中で食べきった。
「どうだったかな、大谷さん?」
食べ終えて余韻に浸っていた秀晶はハッと我に返った。
「あ、うん。ごめん、もうなんか美味しくて。それに何か馴染みがあるような。でもトマトソースと鯖って相性いいんだね。ビックリ」
口の周りを紙ナプキンで拭いた秀晶は心底感心していた。
「酸味ってアブラの強い食材と合うんだよ。でもマリナーラソースの場合は普通のトマトソースとは少し違うから」
「それは何となく分かった。玉ねぎ入ってないもの」
「そう。玉ねぎ入りはポモドーロ。マリナーラはトマトとオリーブオイルとオレガノとニンニクだけで作られるんだ。だから元々は具が入っていない。でも最近のマリナーラは魚介を足したり調味料が変わったり進化しているんだ」
「さっきのパスタは焼き鯖がそうなのね」
「後は、塩漬けのケイパーとかアンチョビなんかを加えたりするよ」
「じゃあ、福井マリナーラって焼き鯖を使ったから、そういう名前に?」
すると吉継は勿体振る顔を横に振って小さなボウルと小スプーンを秀晶に差し出した。
中には細かく刻んだ魚の切り身が入っている。
「食べてみて、少し炙ってあるから」と吉継が勧めるので秀晶はほんの少し身をすくって舐めるように食べた。
すると秀晶は一瞬でその正体を見抜いた。
「あ、これ、へしこだ!」
「正解。これは鯖のへしこだよ」
鯖のへしことは塩漬けした鯖を更に糠に漬けた福井若狭の伝統郷土料理である。冬を越す保存食の一つであり、火で炙ってお茶漬けや酒の肴にする。
「このへしこを微塵に刻んでアンチョビ代わりに使ったんだ。それにニンニクじゃなくショウガに変えたから福井マリナーラ風だね」
「そっか、だから懐かしく感じたんだ」
「じゃあ次が三品目で今日のメインだよ。最後は和食」
吉継は予め用意してあった料理の皿を差し出した。
「あ………」
途端秀晶の額が曇った。目の前にはカットされた「焼き鯖寿司」が並んでいる。
「お父さん、これ作るの得意だった。あの時も………」
ぼそりと目を伏せて呟く秀晶に吉継はその意味を即座に理解し、シマッタと臍を噛んだ。
恐らく鯖を釣りに出掛けたのはこの寿司を作るためであったのだろう。
「家族でいつも焼き鯖寿司食べてたんだ。お母さんも、私もお父さんの焼き鯖寿司がすごく好きで、よく手伝って一緒に作った。あの頃のお母さんはお父さんと仲良くて、私にも優しくて………」
案の定秀晶は辛い記憶を甦らせ暗い表情に戻ってしまった。
秀晶は父の事故が自分のせいだと今尚責めている。そして母娘で敦賀を離れる結果となったのも全て自分が鯖をせがんだのが原因だとも思っている。それが思い入れのある焼き鯖寿司に繋がっているとなれば心乱れて失意もより深くなる。
いくら鯖が食べられるようになったところで料理によって抵抗があるのは無理もない。
「ごめん、俺、気付けなくて」
秀晶と友達になれて浮かれていたのかもしれない。
誰しも触れられたくない過去がある。家族円満の象徴であった料理がトラウマと化していた裏までには気が回らなかった吉継は静かに皿を下げようとした。
しかし、
「待って!」
秀晶は吉継の伸ばした手を掴んで戸惑った顔を向けた。
「私、これ食べてもいいと思う?」
「は?」
「鯖は小早川君のおかげで食べられた。でもこのお寿司を食べるとお父さんの記憶が消えてしまいそうな気がして………」
秀晶の目からはポロリと涙が流れた。
「大谷さん………」
「そして関ヶ原に馴染むのが怖かった。鯖を食べるのが怖かった。それをすると大好きな敦賀とお父さんの思い出が全部無くなっちゃいそうで怖かった。だから………」
「だからクラスに溶け込もうとしなかった?」
「本当はみんなとも仲良くしたい。お母さんとの関係も元に戻したい。でも方法が分からなくて、私、どうしていいか、全然分からなくて。独りで悩んでても、もうどうしようもなくて」
【主、それは違うぞ】
刑部が秀晶の心の中に割り込んできた。
アルスで感応している吉継にもその声は届いていた。
秀晶は吉継から手を放し、パンツのポケットから二つの消しゴムを取り出した。
【どういう事?】と秀晶は聞いた。
【主はもはや独りではなかろう】
【あ、うん。そうだね。刑部も五助もいるし】
ハンカチで鼻を押さえた秀晶は得心して頷いた。刑部は否んだ。
【左様な意味ではない。主には本日よりもう頼れる盟友が出来たではないか、そら、目の前に】
刑部の言葉を後押しにして吉継は秀晶を励ました。
「そうだよ、大谷さん。俺達はもう友達になったんだ。だから遠慮無く頼ってよ。まあ、料理以外で何が出来るか自信ないけど頑張るから!」
「裏切らない?」
「え?」
「友達を急に止めるとかしない?」
不安に苛まれた眼差しで秀晶は確認を求めてきた。吉継は胸を拳で叩いた。
「あのね、苗字はともかく俺の名前を何だと思ってるの?曲がり形にも刑部どのと同じ吉継なんだよ。大谷の苗字を持つ君が信じてくれないと困るな」
「ふふふ、そうね。小早川君はあの裏切り者のカマとは違うものね」
途端笑顔に戻って秀晶は関ヶ原の歴史を思い返した。するとここで金吾が不満タラタラの声で介入してきた。
【さきから本人を前にして陰口は止めてもらえぬかのう】
吉継は平然と鉛筆に言い返した。
【いいや、目の前なら陰口じゃないぞ。単なる悪口だ】
【ふむ、それならば良………ん、何か適当に誤魔化されたような】
この遣り取りに「ぷっ」と吹き出した秀晶に釣られ吉継もケラケラと笑った。
「ところで大谷さん、フランス語で『大丈夫』って何て言うか知ってる?」
「何?」
「Ça va と書いてサヴァって言うんだよ。尋ねる時はÇa va ?で『元気?』って質問になるんだ」
「へえ、鯖に発音が似てるね」
「うまくやってる?って挨拶で、うまくやってるよって返すんだ。サヴァ?サヴァ!みたいに」
「うーん、関西人の「どないでっか」「ぼちぼちでんな」ってのと同じかな」
「ククククク」
吉継は腹を抱えながらも笑いを噛み殺した。
「あれ、ここは笑うトコじゃないんだけどな」
若干臍を曲げて秀晶は吉継を見た。
すると吉継は爽快な笑みで右親指を立てた。
「大谷さん、サヴァ?」
「サヴァ!」
秀晶も元気に右親指を立て続け様に言った。
「私、この焼き鯖寿司食べるよ」
「え、大丈夫なの?」
「サヴァって言ったでしょ。もう平気。それに匂いが普通のお寿司じゃないもん。美味しそう」
芳しい鯖の香気に当てられ、鼻がクンクン鳴る。
「じゃあどうぞ」
吉継は改めて勧めた。
秀晶は五切れ乗った寿司の一つを口に入れた。
そして咀嚼してゴクリと飲み込み恍惚の表情で訛った。
「ええかざする。ひってうめぇ」
「大谷さんってたまに福井弁出るね。それ、良い匂い。凄く美味しいって意味だよね」
「う、変、かな?」
赤面して秀晶は俯いたが吉継は手を振った。
「変じゃないよ。むしろカワイイ」
「か、カワイイ?」
違う意味で秀晶はもっと赤面した。
「俺、よく敦賀に行くけど地元のおばあちゃん達と喋ってるから福井弁ってカワイイと思うんだ」
「あ、ああ、言葉の方、ね」
「え、何?」
「何でも無い」と秀晶は寿司をパクパク食べた。
吉継は方言を気にする秀晶に地域の実情を語った。
「関ヶ原も西隣は滋賀県だから関西の影響は受けてるよ。福井と同じ方言もちらほらあるし、恥ずかしがる必要もないから」
「ほう(そう)?」
「だんね(構わないよ)」と吉継は自信満々で福井弁で返したが、「それ今の子は使わないから」と一蹴された。
「それよりこの焼き鯖寿司、お父さん食べたら驚いただろうな。食べさせてあげたかったな………………あッ、そうだ。小早川君、お願いがあるんだけど」
寿司を完食した秀晶が何かを思い付いて依頼の手を合わせた。
「何?」
「このお寿司、来週の水曜日に作ってくれないかな?」
「水曜に?」
「実はその日、お父さんの命日なんだ。お母さんも昼のお勤めだし、法事らしいのは出来ないけどせめてお父さんにお供えしたいなって。ちゃんとお金は払うから」
「うーん、水曜かあ」
腕を組んで吉継は迷った。
友達の自分としては秀晶の頼みなら聞き届けたいが、水曜はひすとり庵の定休日なのである。つまり音依の唯一の休日であり、多忙な母ゆえゆっくり休ませてあげたい。
焼き鯖寿司なら前日に作り置きしてもいいのだろうが、お供えならばやはり出来たての方がいいにきまっている。
吉継は更に考え込んだ。
秀晶も吉継の悩みを察したのかそれ以上無理強いするのは躊躇った。
と、ここで後ろから音依が話し掛けてきた。
「そういう事情なら水曜に来店してもらっても構わないわよ、晶ちゃん」
「わ、母さん、いつの間に」
注文の間が空いた音依は秀晶の隣に腰掛けウインクした。
「ね、晶ちゃん、私達に遠慮なんてしなくていいのよ。困ったら助け合うのが当然だもの。ね、ヨシちゃん、そうでしょう?」
「そりゃあ母さんがオーケーしてくれるなら有り難いけど」
「そうだわ、折角だから晶ちゃんのお母さんと一緒にここに食べに来たら?夜は空いてるんでしょ」
グッドアイデアと音依は自らの発案をべた褒めしたが、逆に吉継と秀晶は顔を見合わせて苦笑した。
「ん、どうしたの?」
音依は二人の意味ありげに笑った子細を聞いた。
吉継は簡単に今の親子関係と母親の「田舎料理屋嫌い」の話をした。
「それはまた難儀な方ね」
あらかた理解した音依は眉間に指を当て、短く息を吐いた。
「ごめんなさい。ウチのお母さんブランド信仰で」
秀晶は恥ずかしそうに謝った。
「晶ちゃんが謝る事ではないわ。でもお母さんは敦賀の料理は食べれたのよね」
「はい。魚介類は新鮮なので何でも好き嫌い無く」
「鯖は?大衆魚って見向きもしない?」
「いえ、生まれが敦賀なので鯖は好きです。あちこち鯖料理を食べ歩いていましたから」
「ふむ、鯖好きの高級志向ね。じゃあこちらもそれなりの対抗策を取りますか。私とヨシちゃんで晶ちゃんの家の問題を一挙に解決しましょう。ウチの店の料理で」
吉継は渋い顔を更に渋めた。
「母さん、何言ってるの。大谷さんのお母さんは関ヶ原の店は嫌だって行ってるんだよ。来る訳ないじゃない」
「いいえ、何としても来させるの。晶ちゃん、お母さんを首に縄を付けてでも連れてきて。それは娘であるあなたの役目。それにこれは私からのお誘いだって伝えてね」
音依は自分の顔写真が載ったひすとり庵の名刺を渡した。
「でも」と途方に暮れる秀晶に音依は背中をポンと押した。
「立ち止まっていては前に進めないわよ。仲を戻したいんじゃないの?」
「それはもちろん、そうです」
「だったら一人で抱え込まないで、ここでご飯を食べながらお話しなさい。必ず上手くいくよう私が取り計らってあげるから」
「おや、その口振りだと何か秘策があるの?」
吉継は勝算に満ちた母のしたり顔に興味を示した。
「賭けみたいなものだけどね。後はヨシちゃんの料理の腕次第」
「え、俺が作るの?母さんの方が信頼あるじゃない」
すると音依はチッチと指を振った。
「分かってないわね、ヨシちゃんだからこそ意味があるの。それに今回は晶ちゃんにも協力してもらいます」
「ええ、わ、私、小早川君みたいな料理なんて出来ません」
「そんなんじゃないわ。少しお母さんの昔話とかを聞きたいだけよ」
「昔話?」
「それはね………」
音依は秀晶に様々な過去を尋ねてから自分が立てた計画を二人に語った。
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