「何の悪ふざけですか、これは!!」
翌水曜の午後八時、モノトーンのカジュアルスーツに身を包んだ大谷東有子(とうこ)は休日で誰もいないカウンターテーブルをバンバンと激情的に叩きながらユニフォーム姿でキッチンに立つ音依と吉継を睨んだ。
ポニーテールを後で丸くまとめた赤みがかった髪が燃え立つ炎に見える。
【おーい、大谷さん、説得して連れてきてくれたんじゃないの?】
おろおろと母親の後で戸惑う秀晶に渋面を浮かべた吉継はアルス・マグナで語った。
【ごめん、帰ってきて話をしたら急に家を飛び出してここに】
秀晶もアルスで謝ってきた。
ざっと聞くと、秀晶はサプライズのつもりで帰宅した母親にひすとり庵のチラシと音依の名刺を見せ、順を追って説明しようとしたのだが、吉継の西洋料理を食べたと耳にするや突然噴火したらしい。
吉継は秀晶が初めてひすとり庵で食事をした時から、秀晶の母情報を基に対策を何日もかけて段取ってきた。それは先ず穏やかに来店してもらい、特別メニューで親子和気あいあいと楽しむ予定であったが初めから計画は頓挫した。
「フレンチだかイタリアンだか知りませんけれど、私の娘におかしなものを食べさせないで下さい。大体、こんな田舎の料理屋がまともなディナーなんて提供出来るはずなんてないんですから。不愉快です!!」
「まあまあ、大谷さん、一度落ち着いて下さい」
と音依が宥めようとしたのだが全く一方的で会話が成立しない。
「それより子供の作った料理をお客に出すなんて非常識も甚だしい。家庭料理ならともかく店でなんて。それもうちの娘と同学年の十歳の子供に何が作れるんですか。大した腕もないくせに恥ずかしいと思わないんですか、あなた達は」
奥歯を噛んだ怒りが止まらない。見た目は秀晶の大人版である。容貌は娘に似ているが怒り方は親の方が激しい。
秀晶は必死に弁護しようとした。
「お母さん、食べてもないのに酷いよ。本当に小早川君のフレンチとか美味しいんだから」
「あなたは黙ってなさい、秀晶!」
東有子は娘を叱って吉継に指を差した。怒りで言葉遣いも荒々しくなっていく。
「十歳で何がフレンチよ。何の基本も出来ていなくてよく身の程も知らずにいけ図々しく名乗れるわね。いい?私は日本中の美味しいお店を渡り歩いた。本場のパリにも出向いたわ。それも三つ星グランメゾンのね。自慢じゃないけれど舌はかなり肥えている。それが何、こんな田舎の、居酒屋のような下品な店がフレンチですって?馬鹿馬鹿しい!」
「お母さん!いくら何でも失礼でしょ!」
「黙りなさい、失礼なのはこの店よ。ええと、あなた、小早川、ネイさん?」
今度は音依に向き直りまくし立てた。
「息子さんに何の料理を教えてるのか知りませんけどね、名店のシェフは大抵男性なのよ。私が唯一認めた女性フレンチシェフなんてLES PLUMES D’ANGE(レ・プリュム・ダンジュ)の東京支店で総料理長をしていた人くらいよ。いえ、その存在すら御存知無いんでしょうね。パリ本店の巨匠マルセル・ルロワの、日本人でただ一人の愛弟子で女帝と呼ばれたほどの実力者よ。残念ながら今は行方が分からなくなってしまったけれど神の手を持つ幻の料理人よ。参考までに覚えておくといいわ」
帰るわよ、と東有子はけんもほろろにそのまま扉に向かおうとした。
「待って、お母さん。一口も食べないで帰るなんて変でしょ」
秀晶は腕を取って引き留めようとした。東有子は冷たい目で断じた。
「食べなくても分かります。どうせ擬(もど)きでしょ。チーズかバルサミコ酢をかけただけとかの田舎にありがちな料理よ。口にする価値なんてないわ。いい、秀晶、二度とこんな下卑た店に来てはいけませんよ」
東有子は逆にその腕を引っ張って連れて帰ろうとした。
【刑部、助けて!】と秀晶がアルスで願うと、ドクンと秀晶が揺れた。
「待ってよ、お母さん!!」
ビリビリと刑部の神雷が衝撃波となり母の歩みを止めた。
能力で停止させられた東有子は苦い顔で振り向いた。
「ちょっと、あなた少し声量を抑えなさい」
「そんな事より、話せなかったけど、私ずっと学校でいじめられてたんだよ」
「………何ですって?」
「それを助けてくれたのが小早川君なの。小早川君がいなかったら私どうなってたか分からない。一緒にいじめられてたかもしれないのにそれでも私を庇ってくれた。それに音依さんも優しくしてくれた。美味しいご飯を作ってくれた。関ヶ原に来てこんなに親切にしてもらったのは初めてだった。嬉しかったの」
秀晶は声高に詰め寄った。
「お母さんは、私のその気持ちを踏みにじるつもりなの?せめて一口くらい食べてくれてもいいじゃない!」
娘からこんなに必死に懇願されたのは久し振りであった。眉根をしかめた東有子は吉継に否々向いた。
「………今日のメニューは何?」
「あ、はい。和洋の鯖尽くしです。お好きだとうかがったので」
「鯖ですって?岐阜でこんな時期外れに?ハハ、外国産の冷凍鯖をこの私に食べろというの。場末の料理屋らしいわね」
と東有子は小馬鹿にしたが吉継は魚の写真入りの空箱を見せた。
「いいえ、今日は対馬から送ってもらった寒鯖で、旬鯖(ときさば)という種類を使います。今が旬ですので」
「旬鯖を?」
ブランド鯖の名を出されて東有子は笑いを止めた。
するとここで隣の音依が東有子に口を開いた。
「イギリスの哲学者、ジョン・ロックの名言にこんなフレーズがあります。『美味とは食物そのものにあるのではなく味わう舌にあるものである』と」
「それは私の舌が信用ならないと遠回しに疑ってるのかしら?」
挑戦とも取れる言い回しに睨んだ東有子であったが音依は緩やかに微笑した。
「取り敢えず一口だけでも召し上がっては如何ですか。息子の腕は私が保証します。もしお口に合わなければお帰り頂いて結構です」
「はッ、飲み屋の貴女に保証されてもねえ」
「お母さん!!」
「分かったわよ。食べればいいんでしょ!」
渋々カウンターに座る東有子の右横に秀晶も腰掛けた。
【感謝します、刑部どの】
吉継はアルスで礼を述べた。既に消しゴムに戻っていた。
【何のこれしき。後は貴公に任せるぞ】
【頑張ります】
吉継はそうすると一品目に鯖のリエットを親子二人分作って出した。
「ふうん、見た目と形だけはらしく出来ているじゃないの。言っておきますけど少しでも気に入らなかったら即帰りますからね」
東有子は念を押してそれを一口食べた。
「………」
ゆっくり噛みしめ飲みこんだ東有子はやがて吉継に鋭い視線を投げ掛けた。
「これ、本当にあなたが一人で作ったの?」
「はい」
「最初から?」
「そうです」
「お母さん、どう?」
秀晶が心配そうに横顔を眺めた。しかし東有子は静かにしなさいと娘を制してから三つ目のリエットを食べ、味覚を振り返って説き明かした。
「飾りのサラダは別として、鯖はハーブで下味がつけてある。それを焼いてペーストにしてブロッコリーとポテトをエシャロット、マスタード、白ワイン、生クリームと共に滑らかに混ぜてある。それにバゲットにはハチミツが薄く塗ってある。これはリエットの甘さをより引き立てるための一工夫」
「え、そうなの、小早川君?」
秀晶はもう一度同じものを食べてから吉継を見た。
まさか中身をここまで正確に言い当てられるとは思っていなかった吉継は仰天した面付きで頷いた。
「でもそれだけじゃない。リエットから微かに香ばしい香りがする」
「それよりお母さん、美味しいの?美味しくないの?」
「………不味かったら席を立ってるわよ」
忌々しそうに東有子は呟いた。秀晶はその答えを耳にして嬉しそうに微笑んだ。
「でも一品だけで判断出来ないわね。次は何?」
ちらりと視線を上げた東有子に吉継はフォークとナイフをつけて二品目を出した。
「どうぞ。マクロー(鯖)のソテーとアボカのティエド、ソース・オランデーズです」
皿の上には焼いてカットした焼き鯖がスライスしたアボカドと交互に重ね並べられ、黄色いねっとりとしたソースが添えられている。
東有子はそれを見るなり笑い出した。
「オランデーズソースですって?十歳のあなたが?アハハ、早くもメッキが剥がれたわね。子供の作る料理なんて所詮こんなものよ」
「え、何で笑うの、お母さん?」
「後学のために教えてあげるわよ。いい、オランデーズソースっていうのはフランス料理の七大ソースの一つなの。卵黄と塩と胡椒とレモン汁を入れ、湯煎で温めながらかき立てて、溶かしバターを少しずつ加えていくものなのよ」
「簡単じゃない」
「あのね、それは無知な人間の証。オランデーズソースはプロの料理人でも失敗する加減の難しいソース。分離したり固まってしまうなんてざらよ。だからマヨネーズに溶かしバターとレモン果汁を混ぜた偽物で誤魔化している三流店もあるくらい。ま、間違っても子供が容易に作れるソースではないからここでも同じでしょうけど」
頬杖をつき東有子はせせら笑った。
対して秀晶はその名称を思い出し指折り数えた。
「七大ソースって、オランデーズソースの他は、確か、アルマンドソースとベシャメルソースとエスパニョールソースとヴルーテソース、マヨネーズソース、トマトソースでしょ?」
「は?どうしてあなたがそんな名前知ってるのよ」
東有子は解せない顔付きを娘に向けた。
「だって小早川君、今日までその七つのソースで色々な料理食べさせてくれたから。エスパニョールソースはデミグラスだったけど。オランデーズソースも普通に作ってたし簡単かな、と思って」
すると途端東有子は真顔になってソースをフォークですくって舐めた。そして驚いた。
紛い物でない完璧なオランデーズソースである。しかし柑橘の香りが違う。
「これはレモンではないわ」
東有子は暗に答えを迫る眼差しを上げた。
吉継は一つのミカンに似た果物を手にして淡々と明かした。
「はい。和のオランデーズです。色々試行錯誤してポンカンの果汁を使いました。オレンジの風味が鯖とアボカドに合うので今回はこれを使用しました」
東有子は料理にソースをつけて食べた。
しかし感想もなく、
「………あなた、名前は?」
とだけ質問してきた。
「吉継です。苗字は小早川ですが、名前は大谷吉継の吉継です」
「プッ、苗字を意識しすぎだよ、小早川君」と秀晶が吹いた。
「笑わなくても。それよりこれ味はどう?」
コメントのない母親に代わって吉継は秀晶に反応を期待した。
「うん、美味しい。アボカドの濃厚さと鯖がこのソースで丁度まとまって。でもこれって普通の塩鯖なの?」
「そんな訳ないでしょ」
とここで食べ終えナプキンで口元を拭いた東有子が辺りを眺めた。
いつの間にか音依の姿がキッチンから消えている。
「ところであなたのお母さんはどこへ?」
「あ、多分、地下のワインセラーに行ってると思います。昨日、鯖に合うワインを選んでいましたから」
「そう。では一つ尋ねたいのだけど、あなた、料理はお母さんから伝授されたみたいだけど、お母さんはどこかで修行していたのかしら」
東有子のこの質問に吉継は困った顔で返事をした。
「えーっと、実は母の昔はあまり知らないんです。海外とか東京のどこかのフランス料理店で働いてた、としか」
「海外?どこ?フランス?」
「さあ、どうでしょう。聞いてもはぐらかされてしまうので。でも、多国籍料理を作るから色々とあちこち回っていたみたいです」
「東京のお店は場所とか名前、分からない?」
「恵比寿かどこかの、天使のなんとかって、一度常連のお客さんが喋っていたような。すみません。母の素性は父も何故か全く教えてくれないので」
「恵比寿、天使………」
東有子はその言葉に引っ掛かって暫く考え込んだ。
するとそこに「大谷さん」と突然音依が現れた。
「わ、何ですか」
不意な呼び掛けに動転した東有子に音依は目の前へワイングラスを置いた。
「晶ちゃん情報ではお酒はいける口みたいですね。よろしければこれを如何ですか。ボルドーの珍しいヴァン・ロゼ(ロゼワイン)ですけど」
音依は手にした一本の赤味が強いピンク色のワインを見せた。
ROCHEYRON 2012という白いラベルが貼ってある。
「シャトー・ロシェイロンの2012年もの?いえいえ、今日は手持ちがありません。そんな高級ワインを開ける訳には」
「本日のこれはお近づきの印です。テイスティングは済んでいますし、お代は結構ですのでどうぞ一杯。鯖にはロゼが合いますから」
「でしたら頂きます。でも料理が美味しくなければ直ぐ帰りますよ」
念を押した東有子はロゼワインの芳醇な香りを嗅いでからグラスをクイと傾け、次に出されたパスタ・福井マリナーラも瞬く間に完食した。
「ふん、アンチョビ代わりにへしこを使うとは変わった思い付きね」
「お母さん、いい加減美味しいって認めたらどうなの」
帰りそうもない東有子に秀晶は笑った。東有子はむきになって言い返した。
「三つ星シェフならもっと美味しいもの作るわよ」
「誰と比較してるのよ!小早川君はまだ五年生なのよ」
「甘いわね、厨房に立つなら年は関係ないと思いなさい」
「さっきは子供のくせにって罵ってたくせに」
「ぐッ………いいから次は何?」
東有子は吉継に急かした。
「どうぞ」
吉継は待ち構えていたように四品目を差し出した。
それは長方形に巻かれ、こんがり焼かれたパイ料理である。四本の切れ目が見える生地の上には薄く小さな飾りパイ魚がピース毎に一匹ずつ貼り付いており、皿の下には白いソースが波の形に添えられていた。
「タルト・オー・マクロー、ソース・ヤウールです」
「わ、可愛い。小魚が四匹乗ってる」
秀晶がファンシーな料理に目を輝かせた。
吉継は料理法の一部を説明した。
「パイ生地の余った部分を魚のクッキー型でくり抜いて飾りにくっつけてあるんだ」
「じゃあ、パイがタルトって意味なの、フランス語で?」
そうだよと吉継は空中に「TARTE」のアルファベットを書いた。
「ただし料理法としては、この場合包んで焼いたキュイール・アン・クルットだけどね。下のはプレーンヨーグルトとマヨネーズと塩とアンチョビで作ったヨーグルトソース。切ったピースをそれにつけて食べてみて。熱いから気を付けてよ」
秀晶は切り込みに沿ってザクリとナイフを入れ、パイの断面を見た。
中の具材は三層に分かれている。
興味ありげに眺めていると東有子が半身を口にして注意した。
「早くなさい。このパイ料理は温かい内に頂くものよ」
「うん、何が入ってるのかな、と」
「上の層は少量の刻んだバジルと生クリームとソテーしたオニオンを混ぜたマッシュポテト、二層目はバターで焼いて、皮と骨を除いた鯖のほぐし身、そして三層目はスライスリンゴのコンポート。それらを層に重ねて、クレープで巻いてから更にパートブリゼ(無糖の練りパイ生地)で包みオーブンで焼く。先にクレープを巻くことによって中身がこぼれないから不必要にパイ生地が厚くならずパイ皮が中身の邪魔をしない。それにロールを二重にすることで水分が抜けにくいから蒸し焼きのようにふんわり仕上がる」
「お母さん、ちょっと口にしただけで分かるなんてすごい!」
グルメを自称するだけあって母の舌が肥えているのは確かであった。秀晶は的確な味覚に驚いて賞賛した。
「感心しなくていいから。冷めるわよ」
秀晶は急いでパイを口に入れた。するとバジルポテトの風味と甘く煮たリンゴが鯖の脂を中和させ、ヨーグルトソースの酸味がメリハリとなって料理の味を引き上げた。
鯖の身も柔らかく仕上がっていてソフトな三層と外側の薄いパイ生地のパリッとした食感とが見事に調和する。
「わ、美味しい!これ小早川君が考えたの?凄い」
「あ、いや、褒めてくれるのは嬉しいけど、厳密には俺のオリジナルじゃないんだ」
吉継が正直に話すと、そうね、と東有子が説き明らめた。
「元のルセットはアラン・シャペルの鯖のタルトね。厨房のダヴィンチとか料理界の哲学者とか讃えられた若き天才のスペシャリテ。アランの料理は鯖とトマトの組み合わせで、またこうして包み焼くのではないから全然違うけど発想は真似たんでしょう」
「そうなの?」
秀晶は吉継に確かめた。吉継は「うん」と頷いた。
東有子はワインを更に飲んだ。
「とはいえ、この料理は火の通し方が難しい。場合によっては火を通しすぎてバサバサになるから鯖の焼き具合に注意しないといけない。これは香ばしいし、よく出来ていると思うわよ」
決して美味しいとは認めないが、今までの中では一番の賛辞であった。
「もう、お母さんは料理は出来ないくせに味にはやかましいんだから」
と秀晶が突っ込むと「うるさいわよ」と東有子も反応した。
「それにしても、秀晶、あなた、今日はよく喋るわね」
「あ、あ、そうだね………」
するとここで静観していた音依がワインボトルを手に流暢なフランス語を口にした。
「La table est l'entremetteuse de l'amitié(ラ・ターブル・エスト・ラントミターズ・ドゥ・ラミティエ)」
「へ?」と東有子は素っ頓狂な声を出した。
音依は空いた東有子のグラスに二杯目のワインを注いだ。
「フランスのことわざです。『食卓は友好関係の仲介者である』。美味しいご飯は場を賑やかにしますからね。それが例え一時的に不仲であっても仲直りの良いきっかけになったりします」
「あ」
東有子と秀晶はお互いを横目で見た。そして秀晶が、
「お母さん、私ね…」
と言い掛けたが、吉継が、
「待って、大谷さん。それは焼き鯖寿司を食べてから」
と遮った。
「焼き鯖寿司ですって!?」
東有子は呆れた息を吐いた。
「あなた、敦賀の私たちに鯖料理とは随分な自信だとは思ってたけれど、まさか岐阜の人間が焼き鯖寿司を出そうとするとはね。図太いというか世間知らずというか」
「いえ、これは娘さんからの依頼です」
「秀晶が?」
「どうぞ」と吉継は目の前に三切れの焼き鯖寿司が乗った皿を出した。
「………これは!!」
東有子には咄嗟にその寿司が何なのか直ぐに分かった。焼き鯖寿司ではあるが一周をぐるりとおぼろ昆布で巻いてあり、酢飯の断面には赤い細切れの野菜が混ざっているのが見える。
「これは、もしかして主人の………」
唖然とする母に秀晶は言った。
「お母さん、これお父さんの得意な大谷家特製の昆布巻き焼き鯖寿司だよ」
「どうして?」
「今日、お父さんの三回忌でしょ」
「まさか、そのためにこの夕食を?」
うん、と頷く娘に東有子は黙ってしまった。まさかこんな意図が隠されているとは思ってもいなかったのでどんな対応をしてよいのか返答に窮した。
「お母さんの都合で法要は出来なかったけど、せめてお父さんを偲んであげたくて」
秀晶は一口焼き鯖寿司を頬張って言った。
「美味しい。ちゃんとお父さんの味がする。ほら、お母さんも食べてみて」
「秀晶、あなた焼き鯖寿司食べれるの?食べれなかったんじゃ」
「食べれるよ、ほら、美味しいもん」
瞬く間に秀晶は三つとも平らげた。
「お母さんは食べないの?」
「あ、いえ………」
「どうして、食べないの?食べられない理由でもあるの?」
いつまでも口を付けようとしない母親を秀晶は問い詰めた。
その頬には涙が流れている。
「秀晶………」
「どうして、どうして、どうして敦賀から引っ越さなきゃいけなかったの?どうして海の無い所を選んだの?」
「それは」
「どうしてお父さんを忘れようとするの!!」
煮え切らない母の態度に秀晶は怒鳴った。
「お父さんはもう帰ってこない。でも私は忘れたくない。敦賀の海も、街も、みんなも全部好き。今だってあの街が大好き。でもお母さんは違う。お父さんが事故にあってからお父さんの話すらしなくなった。お父さんが嫌いになったの?死んじゃえばもう関係ないの?」
涙で顔をグショグショに濡らして訴える娘に東有子は小声で言い返した。
「そんな訳ないでしょ、嫌いになったなんて勝手に決め付けないで」
すると東有子も泣きそうになる口を押さえて続けた。
「好きだったから。愛していたから辛かったのよ、あの人がいた街に住み続けるのが。海も見てると愛おしいあの人の命を奪ったから憎くて」
「お母さん………」
「私だって敦賀を離れるのは嫌だった。でも毎晩あの人がいない家に戻ってくるのがどれだけ苦しかったか、もう病院の雑用ですら手に付かなくなってきたのよ。死んでしまった方が楽だとも思ったわ。でも、秀晶、あなたを一人残す訳にはいかなかった。だから………」
こみ上げる涙を堪えきれず東有子も泣いた。
「でも、ごめんなさい。あなたの気持ちも考えずに引っ越してしまったのは悪いと思ってる。お父さんの事、もっと話してもいいのに。そしてあなたの事も、もっと聞いてあげてもよかったのに、私の勝手で辛い思いさせてごめんねえ」
秀晶はすると東有子の手を握って謝った。
「私もごめんなさい。そんなに思い詰めてたなんて知らなかったから。お母さん、お勤め一生懸命にしてくれてるのに反抗ばかりしてごめんなさい」
「ううん、悪いのはお母さんよ。いじめられていたのも知らずに、そんなの言えない雰囲気を作ってしまったのも私が悪いんだわ。まだあなたがいじめられるならちゃんと対処するから」
秀晶はすると涙を拭いて微笑んだ。
「それならもう大丈夫、小早川君が助けてくれたから。ううん、これからも助けてくれるって約束したから」
と、ここで東有子は吉継に向かって深々と頭を下げた。
「吉継君、娘を助けてくれて本当にありがとう」
「あ、いえ、俺なんて大した役にも立たなくて」
「ヨシちゃん、こういう時は謙遜しなくていいの」
音依が息子の肩をポンポン叩いてカウンターの二人に言った。
「大谷さん、晶ちゃん。ウチの小早川君は裏切らないから安心して下さいね」
すると二人ともクッと吹き出してやがて大笑いした。
「裏切らない小早川なんて矛盾ね」と東有子が皮肉ると秀晶は付言した。
「そりゃあ、お母さん、小早川君は名前が吉継だもん。義理堅さなら日本一だよ」
持ち上げられる状況に慣れてない吉継は照れて、
「ああ、それよりこれもどうぞ!」
と二人に湯気の立った汁椀を出した。
「これは、福井の打ち豆汁?」
東有子は人参、大根、里芋、油揚げ、ネギという具沢山のこうじ味噌汁の中に浮かぶ平たく小判型に潰された豆に目を凝らした。
まさか岐阜県で福井の味噌汁が提供されるとは予想していなかった。
ちなみに打ち豆というのは福井の郷土食で大豆を打ちつぶして乾燥させた保存食で、地元ではカレーの具としても用いられる。
「ああ、このおつけ(味噌汁)懐かしいわね。安心するわ」
早速打ち豆汁を一口食べて東有子はしみじみと語った。
「味噌も福井の米味噌なのが嬉しいわね。もしかしてこれも取り寄せてくれたの、吉継君?」
「はい。具も福井なら味噌も福井でと思って。その焼き鯖寿司と一緒にお父さんが出してくれたと大谷さんが教えてくれました。お母さんにも食べさせてあげたいとお願いされましたので。焼き鯖寿司もお父さんの味に近付くまで毎晩味見に付き合ってくれたんですよ」
「まあそうなの。秀晶、ありがとう」
素直に東有子はお礼の笑顔を向けた。
気恥ずかしくなった秀晶は照れて急かせた。
「べ、別にお礼なんていいから、早くお寿司も食べてよ」
【おお、見よや。主、あれが世に言うツンデレじゃ】
と金吾が茶々を入れた。
「黙れっちゃ、カマ!」
秀晶は吉継の胸ポケットに刺さっている金吾に直の言葉で突っ込んだ。
「何、秀晶?大丈夫?」
椀の手を止めて東有子は案じた。
「ううん、何でも無い」
「本当に?あなた時々独り言言ってるけど心配だわ」
「あら、晶ちゃんも?ヨシちゃんもそうなのよ」
音依も東有子に同調した。
「あら、何でしょう、思春期の特性なのかしら」
「ねえ?」
知らぬ内に親しくなった二人に小学生の二人はアルスで会話していた。
【どうしよう。まさか、真相を話す訳にもいかないしね、小早川君】
【それ以前に信じてもらえないから。まあ、言わせておこう】
「しかし、この焼き鯖寿司、あの人の味をよく再現してあるわね。鯖の焼き加減といい、『すこ』と酢飯の塩梅といい、美味しいわ」
東有子はシャキシャキした酢飯をゆっくり噛みしめた。
すこは福井・大野市の名産で赤ズイキ(八ツ頭芋)の酢漬けである。
この場合すこを微塵に切って漬け汁と共に酢飯にし、焼き鯖寿司を、これもまた福井名産のおぼろ昆布で巻いていた。
吉継は肩をすくめ、東有子に言った。
「まさか、酢飯にすこを使うとは思い付きませんでした。福井も広いですね」
「主人は福井でも大野の出身だから地元の食材を使ったのよ。大野じゃ、すこ入りのチラシ寿司もあるから。料理人でも無いのにそういう所にはこだわってたわね。結婚する前から食通だったし」
「へえ、お父さんってそうだったんだ。知らなかったな」
初耳の逸話に秀晶は興味を示した。
東有子は寿司と味噌汁を食べきり、ワイングラスを傾けた。
「お父さんの事ならまたこのお店で夕御飯を食べながらでも教えてあげるわよ」
「え、じゃあ………」
「認めたのは負けたみたいで癪だけどね。あなたもこの店なら食べに来ていいわ。ここのチラシに子供用メニューもあるって書いてあったし、家も近いから好きになさい」
「ありがとう、お母さん!」
喜色満面に秀晶は東有子の腕を握った。
東有子はそっぽを向いて更にワインを飲んだ。
「そ、それに私もたまにお酒を飲みに立ち寄るかもしれないし。まあ、少なくともコンビニ弁当よりはるかに美味しいでしょうから」
素直に成り切れない所は親も子も似ている。
刑部がアルスで伝えてきた。
【すまぬのう、貴公。こんな天邪鬼振りまでもが瓜二つで】
【刑部どの、言葉を間違えるとあなたの主人に怒られますよ】
【うむ、痛いぞ】
天邪鬼で悪かったわね、と消しゴムが膨れた秀晶の手で強く握られた。
すると音依が不思議そうに聞いてきた。
「あれ、ヨシちゃん、もう一つの焼き鯖寿司は出さないの?」
「ああ、そうだった」
吉継は慌てて用意した。
続く同じ献立名に東有子は意外そうな顔を上げた。
「まだ焼き鯖寿司があるの?」
「はい。ただ、今回は敢えてノルウェー鯖を使いました。どうぞ」
と、差し出された皿には同じく三切れの寿司が乗っていたのだが、一見普通の焼き鯖寿司と変わらない。変化があるとすれば酢飯に刻んだ大葉と胡麻が混ぜてある位である。
東有子はそれでも一切れをパクリと口の中に入れた。
「ん!!」
途端、ジューシーな脂と共に口内に香ばしさが充満した。
焼いた鯖の香りだけではない。様々な香味が噛む度にミックスされる。
「この鯖は、まさか燻製なの?」
東有子の一驚に吉継は即答した。
「はい。でも正確には瞬間燻製です。鯖を軽めに焼いて固くならない分数で桜のスモークチップを使い香りをつけました」
「やっぱりそうなのね。でも他にも秘密はある。この柔らかさと旨味は………そう、鯖を麹に漬けてあるんだわ」
「そうです。生鯖に塩麹を薄く塗って半日寝かせました。麹のお陰で臭みが減り脂の旨味だけアップするんです」
「そしてそれを香りが立つように燻製にしたのね。けれど酢飯にも細工がある。焙煎した胡麻と大葉の香りが鯖と調和してるんだわ。それにアクセントでガリがみじん切りで混ざっている。いえ、それだけじゃない、甘めの味噌が後から追い掛けてくるのよ」
吉継は頷いた。
「福井の味噌を調味して、酢飯と鯖との間に糊として薄く塗ってあります」
「なかなかやるわね」
東有子は感心しつつも負けじと謎を解こうした。
「それでも酢飯には未だ鯖の香りを引き立てる何かがある。この爽やかさは普通の酢飯じゃない。うん、そう、酢の中身が違うんでしょう?」
「またまた当たりです。酢にレモン果汁を加えています。一本丸ごと焼き上げる浜焼き鯖に生醤油でなくレモンをかけて食べるとさっぱりした口当たりになるのでそれを応用してみました。直接スライスレモンを乗せるやり方もあるんですが、それだとレモンが強調しすぎてしまうので酢飯に適量和えました」
考え抜かれた調理法を耳にした東有子は呆れ果てた。
「はあ、鯖寿司の酢飯にレモンとは恐れ入ったわ」
「潰した梅の果肉を和える手もあるんですが、個人的にレモンが好みなので。ただ分量を入れ過ぎると酸っぱくなるので、瞬間燻製の香りを殺さないよう注意します」
「そうか、今までの料理は燻製の香りだったのね、リエットもソテーもタルトも」
「え、どういう事、お母さん」
この寿司の鯖が燻製なのは秀晶にも分かったが、他の献立もと指摘する母の言葉の意味が理解出来ない。
怪訝に悩む娘に東有子は敢えて語らず吉継へ首を向けた。
「それはあなたのお友達に教えてもらいなさい」
説明役を投げられた吉継は答えた。
「この前、リエットに秘密があるのって大谷さんは聞いていたけど、これこそが秘密なんだ。実は野菜の風味とバランスを取るためにリエットの鯖は三分の一を燻製鯖でブレンドしてる。タルトの中の鯖も同じ要領でミックスした。アボカドとのソテーは鯖を塩焼きする時に燻製した塩、つまり『燻塩』で焼いてあるんだ。そうすると普通の塩鯖より香ばしくなるんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「言い換えると人間は香りを食べている。口に一番近いのは鼻。鼻は食べ物の匂いを嗅ぐだけじゃなく料理を食べている時にも嗅覚として作用している。風邪で鼻が詰まった時、ご飯の味がしないのはその典型だね」
「ああ、そういえば」
「逆に香りを上げれば素材の風味が増すんだ。大谷さんはメイラード反応って知ってる?」
「メイラード反応?」
「アミノ・カルボニル反応とも言うんだけどね。簡単に説明するとパンとかハンバーグが良い具合に焼けた時とかの化学反応をそう呼ぶんだ。あの時って良い香りがするよね」
「ああ、すっごく分かる!あの匂いはたまらないよね」
「燻製の香りも同じなんだ。水分が抜けて香りが引き立つ。嗅覚は食事をするとき五感の中でも重要な要素なんだ。それを料理に上手に応用すれば美味しくなるよ」
「詳しいんだねー」
と感心する秀晶に音依が横から長い溜息を吐いた。
「これで何故か理科の成績が良くないのが腑に落ちないわ」
「ちょっと何気に息子の評価下げるのやめてくれる」
吉継は苦い顔で母を見た。しかし正論なので何も言い返せない。
音依は「頑張んなさい」と吉継のバンダナキャップを撫でながら次いで東有子に向いた。
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