「さて、息子の料理はこれで終わりですけど、よろしければ私の料理とカクテルもついでに召し上がって下さいませんか?食材は鯖ではありませんし簡単な料理ですが」
「あなたの?それはもちろん」
吉継の料理の腕は小学生レベルではなかった。つまり教える側の音依の料理はどのようなものだろうと東有子は期待した。
「では暫しお待ち下さい」
音依は早速料理に取り掛かった。
すると二人は取り憑かれたようにうっとりと音依を眺めた。
手早く魚を捌いたり、フライパンで焼いたりする円滑な動きで次々と美しい料理が出来上がっていく。その過程はもはや優雅な舞踊である。
そして二十分も経たない内に料理は完成し、音依は各種の料理が纏めて盛られた一皿を二人分出した。
「お待たせ致しました。アシェット・スペシャリテ(特製皿盛り)、ファミーユ仕立てです」
と、そのまま音依は各料理の説明をした。
「時計回りで、スモークサーモンとイクラのトマトファルス、レモンビネグレットソースとウルサンソイソース添え。そして鱈(たら)のポワレと明太子のロティール・アンブロッペ、ルッコラとサワークリームソース添え。そしてデセール(デザート)としてスチューベンのソルベとグラースのプリテュール・ノブル掛け、もう一種は抹茶のガトー・フロマージュです」
「わ、お母さん、見て、綺麗~!!」
「まあ、何とも鮮やかなドレサージュ(盛り付け)ね」
小さな鶏と卵のプリント模様に縁取られた白い皿には、その内側をビオラやナスタチウムの紫・黄・オレンジの色鮮やかな食用花がちりばめられ、四品を美しく彩っている。
一品目は、くり抜かれて詰め物(ファルス)がされたプチトマトが二つ、薄黄・濃黄の色違いの円状のソースの上にそれぞれ乗っている。トマトの中身は共にイクラ粒を中心として薄切りのスモークサーモンがバラの花形に巻かれている。
そして二品目は細長い春巻きに似た薄い生地をオーブンで焼いたロティール(オーブンで焼いた料理の総称)・アンブロッペ(包まれたもの)は斜めにカットされ、覗く中身からは棒状にポワレ(フライパンでじっくり焼く技法)された鱈の身を明太子が包んでいるのが分かる。その料理の周りには先が細く尖ったデコスプーンで白と緑のソースが二色の連続したハートマークとして美しく描かれている。
三品目のデザートは飴細工で編まれた小カゴに立て掛けられた透明なガラススプーンに、半透明のスチューベン葡萄のソルベ(シャーベット)がワインのかかったバニラのグラース(アイスクリーム)の中でやんわり溶けている。
最後の四品目は一口大にキューブカットされた三層のケーキであり、上層は大納言小豆入りの抹茶レアチーズ、中層は濃い茶色のムース、下層は抹茶スポンジで構成され、そのケーキの周りには飾りとして粉糖と抹茶が粉雪のように白緑二色で装われている。
「先ずはトマトファルスから、そしてロティール、最後にアイスとケーキをお召し上がり下さい」
音依は食べる順序を掌で回して示した。
「何か宝石箱みたい。食べるのがもったいないんだけど」
秀晶はわくわくと浮かれた。東有子も興奮を隠さずにいた。
「気持ちは分かるけど食べましょう。アイス溶けちゃうわよ」
東有子と秀晶は揃ってフォークで、ファルスを一つずつソースに絡めて食べた。
「!!!」
二人は喫驚した。ソースが違うだけで同じ料理なのに印象が全く別物になっている。
薄黄ソースのファルスは口に噛んだ途端、先ず脂ののったサーモンの甘さと燻製の香り高さがイクラのプチプチ感に弾け、トマトの器と微かなレモンの酸味がオイルにさっぱり絡まって渾然一体となった。
そして二個目のファルスは海の旨味を凝縮したようなソースが、サーモンとイクラの味をより濃厚にし、底に隠れたクリーミーな何かが追随しやがて全体を包み込んだ。
二人とも言葉にならずに腕を曲げ握った拳を喜んで振った。
そしてナニコレという眼差しを音依に向けた。
音依は笑みを浮かべて言った。
「これは当店の燻製機で作った自家製スモークサーモンです。だから市販の商品とは少し香りが違うと思います。それと底の二つのソースですが、一つ目はホワイトバルサミコ酢とグレープシードオイルにレモン果汁と塩胡椒でレモンビネグレットドレッシングに仕上げてます。しかし、レモンも酸味が強いと素材の風味を消してしまいます。それでマイヤーレモンという甘めの品種を使いました。これはオレンジとレモンの交配種で酸味が柔らかいのが特徴です。二つ目の濃黄のウルサンソースはウニを基に作られた福井特産の魚醤、つまり雲丹醤(うにひしお)です。ただし二つ目のファルスだけはサーモンの味を変化させるために中にブルサンチーズを少しだけ詰めてあります。ブルサンチーズは加熱していないクセのないフレッシュチーズなので雲丹醤にとても合うんです。この二つのセットで素材にコクを出させました」
うんうんと無言で納得した二人は続いて鱈のロティールをソースに絡ませて食べた。
「くー!!!」
美味いとの感情が言葉以外に上手に表現出来ない二人は今度は足をばたつかせた。
春巻きのように油で揚げていないためか皮の口当たりはさっくりして、カリッと外側は香ばしくも中は柔らかい鱈の芯と、それをホロホロとほどける半生の明太子のピリ辛がまといつく。と同時にハーブのソースがそれを爽やかに変化させてくる。
そして口を開けるのがもったいないとばかりに二人はまた音依に視線で説明を求めた。
「これはさほど難しい料理ではありません。棒状に切った鱈の表面をバターでこんがり焼き上げてからそれを明太子で包み、それを更にパートブリックという薄いクレープ状の皮にくるんでオーブンで焼き上げました。明太子と鱈に合うようサワークリームとルッコラのソースを添えてあります」
と説明したのだが、東有子は「ううう」と納得出来ない風に唸った。
「あ、一つ忘れていました。鱈をポワレする時に燻製バターを使ったんです。ですから鱈に香ばしさとコクが出ていたと思いますよ」
そうすると東有子はうんうんと納得して二品目も綺麗に平らげた。
「そろそろアイスをどうぞ。大谷さんのアイスにはプリテュール・ノブル、いわゆる貴腐ワインをかけてありますが、晶ちゃんは子供なのでノンアルコールのワインを代用して………」
「貴腐ワイン!?そんな高級ワインをデザートに?」
説明を遮ってやっと東有子は口を開いた。
貴腐ワインは、ある種のカビで糖度を高めたブドウを醸造した特殊なワインであるが、絶対数が少ないため一般に高級洋酒の一つに数えられている。
音依は笑って首を振った。
「五万から十万もするシャトー・ディケムとかの超高級ワインを使ってるんじゃありませんよ。同じ貴腐ワインでも今回はハーフで三千五百円のこれを使いました」
音依はカルム・ド・リューセックの琥珀色に澄んだワイン瓶を見せた。
「これはハチミツやマーマレードのような甘さのワインです。バニラアイスととても相性がいいんですよ。晶ちゃんの方はワインの代わりにドイツの『トラウベンザフト』というブドウジュースを使ったのだけど、貴腐ワインに似た甘みがあるの。食べてみて」
二人はまた揃ってスプーンを口に入れた。
そして今度は口から抜いたスプーンを手にしたまま動きを止めた。
糖度の高いブドウのシャーベットも美味なのだが、下層のアイスクリームと貴腐ワインがこれほど合うとは思っていなかった二人はいつまでも余韻を噛みしめていた。
「最後は抹茶のレアチーズケーキです。お召し上がりを」
との音依の言葉に我に返った二人は四角形のキューブケーキを見た。
最後にしてはある意味変化のない、面白味に欠けるデザートだが、とりあえずフォークで刺して口に運んだ。
「んんん!!」
ところが一瞬で溶け合う思い掛けない和と洋のハーモニーに二人は歓喜した。
しっとり濃密なレアチーズの微かな酸味と抹茶の苦味に甘煮の大納言小豆が混然となり一つの美味に昇華する。そして中のムースと思われた甘味が更に合わさるとケーキの味を格段に深めた。
「真ん中に挟んであるこれ、福井の水ようかんだ!」
さっぱりした懐かしい口触りを直ぐ思い出して秀晶は手を叩いた。
音依は答えた。
「はい。羊羹は日本の伝統的なパティスリー(菓子)です。餡代わりのアクセントとして有名な福井の名産を使用しました。この寒い時期ならではと、お二人のために慣れ親しんだ味に仕上げました」
福井では夏場でなく冬期に水羊羹を食す習慣があり、こたつに入り、みかんと共に食べる県民食になっていた。
「クリームチーズと餡は濃厚さで喧嘩しないんです。鯛焼きの中身にも使われているコンビですので当然羊羹にも合います。抹茶は元来餡との相性は抜群ですので三位一体のトリオでこのお菓子を創作してみました」
「うーん、おこたの羊羹がまさかこういうお洒落なデザートに変身するとは」
東有子は感心して唸った。
「ご満足頂けましたか、晶ちゃん?」
「はい、大満足です」と食べ終えた秀晶が清々しい笑みで大絶賛した。
「小早川君の料理も凄いと思ったけど、音依さんのはもう全然別次元です。繊細だけど大胆で奥行きがあって」
「あらまあ、過分にお褒め頂いて光栄だわ」
ここで吉継が皿を洗いながらひねくれた。
「そりゃあ、母さんは俺の料理の師匠だし、今の段階で比べられるのは公平じゃないと思うんだけどな」
自分と音依の料理を食べた時の二人の反応に大差があり過ぎたのも悔しかったのである。
秀晶は慌てて取り繕った。
「いや、私は別に小早川君のが不味いと言ってるんじゃないよ、ただ、何というか、天正大判と永楽銭の差というか、火縄銃と石つぶての差というか」
「………大谷さん、それ全然フォローになってない」
容赦ない追い込みに吉継は嘆かわしさ一杯に項垂れた。
「ところで晶ちゃん、実は今の料理ね、ちょっとした謎かけなの。分かる?」
「謎かけ?」
「四品の素材の組み合わせを考えてもらうと直ぐに分かると思うわ。大谷さんは?」
「え、今のワンプレートに意味があるんですか?」
「ファミーユ仕立てという料理名はそれを表しています。フランス語で家族という意味ですよ」
すると秀晶は空になった皿の鶏と卵模様を見て、「あ、私、分かったかも!」と閃いた。
「全部前と後みたい」
「え、何、秀晶?」
「ほら、お母さん、イクラと鮭って親と子じゃないの?」
「あ、ああ!そうね、鱈と明太子もそうだわ。アイスの組み合わせも親子ではないけどワインの材料はブドウだもの。ケーキの小豆と羊羹だって」
「その通りです。ソースで描いたハートの鎖は親愛のマークです」
音依は詳説した。
「最初のファルスは鮭がイクラを包んでいる。二品目のロティールは明太子が鱈を包んでいる。三品目のアイスとシャーベットはお互いに溶け合っている。四品目はいつも側で寄り添っている。これは上とか下とかでなく助けて助けられる親子の姿なんです。大谷さんも晶ちゃんも同じ求め合う人間、掛け合うと美味しい料理になりますから共に協力して和やかに過ごして下さい」
「ああ、本当にそうだわ!」
と東有子は深く頷いて、やがて娘の頭を撫でた。
「秀晶、こんな頼りない母親だけどこれからもよろしくね」
「私こそ、お母さん」と秀晶も嬉し涙を浮かべて答えた。
(これで家庭問題は円満解決か。人助けにもなったし、よかったよかった)
大谷親子の睦まじい姿を見て吉継は安堵した。
【主】
金吾が突如アルスでないテレパシーで話し掛けてきた。
【奇々怪々な因縁じゃな、おぬしとあの娘。もしや神が縁(えにし)を繋げたのかもしれぬぞ】
【神様が?】
【主の守護神は食を司る御饌都神(みけつかみ)じゃ。古くから福井は志摩(三重)、淡路(兵庫県)と並んで御食国(みけつくに)と呼ばれ朝廷に海産物を貢いだ。敦賀の一宮である気比神社の祭神は気比神・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)じゃ。『古事記』にミケツカミは気比神なりと記してある】
【お、そうなのか】
【それに気比神宮の奥宮である常宮神社には刑部殿が朝鮮から持ち帰った鐘が納めてある。気比と大谷、そしておぬし。存外これも浅からぬ運命やもしれぬぞ】
【運命、ね】
吉継の頭にはタロットの「運命の輪」が思い浮かんだ。そのカードは正位置であれば「進歩」となるのだが、逆位置では「悪運」を意味する。
大谷と小早川という敵対する組み合わせも縁というのならそれが進歩なのか悪運なのか分からない。
(ま、考えても仕方ないか)
と、吉継は空いた親子の皿を下げた。
するとここで東有子は音依に向き、不思議そうな表情を浮かべた。
「でも小早川さん、どうしてここまでして下さったの?これだけの料理は事前に用意して下さなければ到底無理な物ばかりですのに」
音依はにこりと笑って述べた。
「そうですね。全てはお客様のコウフクのためです」
「幸福?幸せの?」
「いいえ、口の福で『口福』、美味しい食事をした時の幸せです。幸せな味には誰もが笑顔になるでしょう?」
「それは、まあ」
「美味なる食べ物には不思議な力があります。それは滋養となり明日への活力に繋がります。私たち料理人はそのお手伝いをさせて頂いているのです。ですので素材にも向き合いますが、人とも向き合わねばなりません」
「人と?」
意想外の饒舌に東有子は戸惑いつつ何故か膝を正した。
「はい。馳走とは文字通りもてなしのために『走り回る』様です。しかしそれは必ずしも高価な料理を揃えるのと同義ではありません。塩むすび一つでも、その人が望んでいたタイミングで振る舞えればそれも立派な御馳走になります。もてなしは見栄や体裁でなく、相手を思いやる心から生まれます」
「もてなしの、心」
「あつらえ向きの喩えとして江戸中期の儒学者・湯浅元禎が記した『常山紀談』に食に関するこんなエピソードがありますよ」
ここで音依は一つの史話を語り出した。
「織田信長が京を攻め落とした時、坪内という敵方に仕えていた高名な料理人が捕らえられました。坪内は命乞いをするため信長に料理を作ったのですが、公家が好む京風の薄い味付けをしたため、水くさくて食えんと拒まれました。すると坪内は翌日に塩味を濃いめにして料理を作り直したところ信長に大変喜ばれました」
「濃い塩味を?何故?」
「戦う武士は肉体を酷使します。現代でもそうですが、汗をかき、体を使う人は塩分を好みます。しかし坪内はそれを後に『信長は味音痴の田舎者』と陰で笑ったらしいのです。公家の味付けが一流で武家のが二流と決め付けたのです。いくら調理の高い技術を持っていても驕った矜持(きょうじ)は料理人の心得ではありません」
「塩分の摂り過ぎで高血圧の心配をした訳でもないでしょうしね」
音依はクスリと小さく笑った。
「でしたら見上げた料理人です。でも私は違うと思います。料理というのは人を従わせるのでなく人に添わせるものです。胃腸が弱っている病人にコントル・フィレのロティ(最高牛肉のオーブン焼き)は必要でしょうか。一杯の温かいお粥が体に染み渡るでしょう。真夏の炎天下にザッハトルテ(オーストリアの高級チョコレートケーキ)が喉を通るでしょうか。コップ一杯の冷たい麦茶が甘露だと感じるでしょう。『茶の花香(かこう)より気の花香』とことわざに申します。香り高いお茶より真心を込めて出したお茶の方がお客様には喜んで頂けます。口幅ったいですが、もてなしとは人間の真心と向き合う在り方だと私は思います」
ここで音依は一旦後ろの吉継に振り向いて、そして再び東有子に視線を戻した。
「それに今回息子が最後にノルウェー鯖を使ったのは皆さんに広く食して頂くためです。国内のブランド鯖は確かに美味ですが、価格と流通量を考慮すればそんなに出回りません。その点外国産は手軽に買えますし、調理の手間と工夫さえ惜しまなければ美味しく変身出来ます。料理が愛情と言われるゆえんはきっとそんな所にあるんでしょうね」
「………」
料理の神髄を提起されブランドに凝り固まっていた内心を急に解かれた東有子は黙って音依を見上げた。
音依は明るく話題を変えた。
「さて、次は戦国繋がりで当店のオリジナルカクテルをご用意させて頂きます」
すると音依は冷蔵庫を開けて、広口瓶から果実酒をメジャーカップで計量し、ホワイトキュラソーとグレープフルーツジュースとグレナデンシロップをシェイカーに混ぜ合わせてリズミカルに振った。
そしてそれを氷の入ったタンブラーに注ぎ、対い蝶紋のコースターに置いて東有子に差し出した。
「越前敦賀城主・大谷刑部少輔吉継のオリジナルカクテル『絆紅梅(きずなこうばい)』です。どうぞお召し上がり下さい」
早速東有子はクイと一口飲んだ。
薄いピンクかがったカクテルからはグレープフルーツの爽やかな香りと、別種の甘い香りが漂ってくる。
「甘味があって美味しい。でもこの味はテキーラ?にしては少し違うような」
テキーラとはアガベという竜舌蘭の蒸留酒である。しかし飲み慣れたテキーラと風味が異なっていた。
音依は東有子の前に先程の広口瓶を置いて見せた。
「仰るように普通のテキーラではありません。カクテルにはこれを使いました」
見ると瓶の底にはいくつものシワシワになった梅の実が沈んでいる。
「まさかこれって梅酒?」
「そうです。ホワイトリカーの代わりにテキーラで浸けた三年物の梅酒です。梅は福井の『紅映(べにさし)』を使用しています。この紅映は他の梅に比べミネラル分が多いのが特徴です」
「洋酒で梅酒?初めて飲んだわ」
「ブランデー漬け梅酒も美味しいですよ。ただこのカクテルだけはどうしてもテキーラ梅酒がメインになるんです。元となったカクテルからの由来で」
「元のカクテル?」
「梅酒でない普通のテキーラを使用した場合『アイスブレイカー』というカクテルになります。砕氷船という意味で、転じて固まった心を溶かすもの、もしくは場を和ませるものという寓意に変化しました。どれだけ悪くなった雰囲気もこの一杯で和やかになる、そんなカクテルなのです」
「アイスブレイカー。素敵な名前ね」
東有子は二口目をゆっくり味わった。音依はおどけた表情で言った。
「実は、これお二人の未だ仲が戻らない場合の奥の手だったんですけど、もう必要なさそうですね」
すっかり仲直りした親子はお互いに見つめ笑い合った。
音依は更に付け加えた。
「ドイツの哲学者、イマヌエル・カントの名言にこうあります。『酒は口を軽快にする。だが、酒はさらに心を打ち明けさせる』と。お酒は人間関係の潤滑油なんですね」
「なるほど」
と東有子は音依に向いて聞いた。
「それで、福井の紅映を使ったから大谷吉継のカクテルにしたんですか?」
「もちろんそれもありますが、大谷刑部の『人となり』をモチーフにしたんです。刑部は人との絆を重んじた武将でしたから」
「あ、ハイハイ、私、知ってます。三成との友情」
ここで秀晶が物知り顔で挙手した。
「お茶会で、病気の刑部が口を付けた抹茶を怖がらずに飲んだのが三成一人で、それをいつまでも感謝していたんですよね」
「あら、晶ちゃんは博学ね」
と音依は笑んで続けた。
「その石田三成との間柄もそうですが、刑部は関ヶ原合戦の前、徳川家康が上杉景勝を成敗に会津へ向かおうとした際、戦いにならないよう両者の間に入り、仲介役になろうとしていたらしいんです。その理由として昔刑部は奥羽一揆に苦しんでいた時、助勢してくれたのが上杉景勝だったので、その恩を返したいと思ったのでしょう。それに宇喜多秀家の家中が争いになった時分も調停役になっています。まさしくアイスブレイカーとして」
(さすが、母さん、博識)
音依の後ろのシンクで吉継は小さく拍手していた。
「でも、刑部の絆は大名だけではありません。平素から家臣に対して慈悲心を持って接していたために関ヶ原合戦の時は最期まで主を守るよう戦い抜きました。家臣と絆が深くなければ皆逃げ出していたでしょう」
【ふむ、ヨシ殿のお母上はまことに真実を申される】
五助が自慢げに威張った。
「それに刑部は家族も忘れていません」
音依は胸ポケットから一枚の写真を取り出し二人に示した。
それは丸い銅で出来た緑色の鏡で、図柄には向かい合った二羽の鶴がクチバシを交え、その下には亀が鎮座している。奉掛御神前と願主大谷刑部少輔吉継の文字が浮き出ている鶴亀文懸鏡(つるかめもんかけかがみ)である。
「これは刑部が太宰府天満宮に奉納した鏡です。これは二面あり、そこには『願主同東 小石・徳・小屋』との文字が見えます。これは刑部の家族の名前であろうと推測されています。また、亀模様は長寿を意味し、鶴も同じく長寿の縁起物ですが、これは向かい鶴といって和合を表しています。夫婦鶴は相手が弱っても見放しもせずいつまでも付き添います。刑部の家紋である対い蝶も同じく向かい文様です。共に寄り添い助け合う。私はこの鏡にこそ刑部の人に対する絆があるように思われてなりません」
「なるほど。でもそれとこのカクテルの関連は?」
「この鏡が奉納された天満宮の神紋は梅の花です」
「あ、だから梅酒を!」
東有子は納得の手を叩いたが、吉継は当てが外れた声を出した。
「あれ、そうなの。俺はてっきり平塚為広の亀甲梅鉢紋の方から取ったのかと思ってた。関ヶ原の最期に辞世の句を遣り取りした相手だから」
戦死の寸前、「名のために棄つる命は惜しからじ終にとまらぬ浮世と思へば(名誉のために捨てる命は惜しくはない。長く生きていられる世の中でもないのだから)」と為広が詠めば、刑部は「契りあらば六の巷にまてしばしおくれ先立つ事はありとも(共に死ぬ約束があるのだからあの世の入口で待っていて欲しい。あなたより先に着くか後に着くかは分からないけれど)」と返したエピソードは有名である。
音依はそうね、と肯定してから言った。
「それも絆の一つよ。でも刑部の心はもっと広いと思う。『関ヶ原御合戦当日記』に、三年内に祟り殺すみたいな秀秋を祟る文言があるけど刑部はそんな呪詛は願わなかったんじゃないかしら。潔く負けを認めて成仏したと思うわよ」
【うむ、お母上どの、お心遣い痛み入る】
と刑部は礼を述べた。
「お父さんも、刑部好きだったもんね」
献杯代わりに東有子はグラスを傾けた。呼応するようにカランと氷が鳴った。
「ね、お母さん、それ一口頂戴」
秀晶が興味津々にグラスをのぞき込んだ。どうやら以前ひすとり庵に忍び込んだ時、土佐カクテルの一領金波が気になっていたらしい。
「は、未成年がお酒なんてダメに決まってるでしょ」
「一口味見するだけだよ、ね?」
「絶対ダメです。十年早いわよ」
断固拒否する東有子に秀晶は交換条件を提示した。
「だったらそろそろ晶って呼んでよ。秀晶なんて女の子らしくないもん!」
「はあ?文句なら名付けたお父さんに言いなさい。それにあなたの名前は秀でた水晶って意味なのよ。上質のクリスタルなんて綺麗でしょ」
「音だけじゃ分からないわよ、普通」
「諦めなさい。これはお父さんとの約束で、あなたの名前を省略しないって決めてるの」
「えー!」
「まあまあ、大谷さん、これでも飲んで機嫌直して」
いつの間にか吉継はシャンパングラスに満ちたピンク色のカクテルを秀晶に差し出した。
グラスの縁はスノースタイルの砂糖で一周が白く彩られている。そしてカクテルの上には薄切りで蝶の形にカットされた苺が二つ浮かんでいた。
「わ、カワイイ!!小早川君が作ってくれたの、ありがとう!」
と秀晶ははしゃいだのだが、東有子は額に青筋を立てて吉継に怒鳴った。
「吉継君、秀晶はあなたと同じ十歳なのよ!お酒なんてとんでもない!」
雷声の威勢に吉継は思わず首をすくめた。
刑部の神雷でなくともこの迫力はさすが秀晶の母である。それでも誤解されては堪らない。一息置いた吉継はドリンクメニューの吉継の欄を指し示した。
「あの、これ苺の甘酒なんです」
「え?は?」
「ウチの店はノンアルコールのカクテルもありますから。これは吉継カクテルのジュース版です。未成年飲酒は即営業停止になるので。よろしいですか」
常識的に思案すれば当然である。第一飲食店の店員が親の目前でアルコールを堂々と子供に勧めるなどあるはずもない。
途端冷静になった東有子は頬を恥ずかしさで紅潮させた。
「あ、ああ。ごめんなさい。私ったらとんだ早とちりを」
「うーん、美味しい!苺と甘酒って合うんだね」
早速飲んでいた秀晶が嬉しそうに反応した。
吉継は中瓶に入った赤いペーストを見せて言った。
「この苺ジャムを自家製の甘酒でシェイクしてあるんだよ。それも関ヶ原産『紅ほっぺ』の特製ジャム。そしてカクテルの名前は『さくらゆき』。苺を混ぜたピンクの甘酒が桜、スノースタイルの砂糖が雪みたいに見えるでしょ。俺が名付けたんだけど、このカクテルにピッタリだと思わない?」
「………ねえ、さくらゆきってあの二人組から付けたんじゃないの?あなた大ファンだものね」
「そ、そんな事は………ない、よ」
図星をつかれて吉継はギクリと動揺した。
さくらゆきとは小栗さくらと遠野ゆきのツインボーカルユニットであり、戦国から幕末までの英雄をテーマとした曲を様々制作し、日本各地の歴史イベントで活躍している。特に関ヶ原では二千九年から連続して秋の合戦祭りに毎年出演する程、馴染み深い二人組になっていた。彼女らは歌唱力もさながら詞の表現が秀逸で、歌の主人公に共鳴する聴衆はいつも感動の涙で聴き入っている。
更に秀晶は追い打ちをかけた。
「あのバラード、『対い蝶』、着メロにしてるんでしょ」
「それとこれとは」
すると秀晶は表面のイチゴスライスを食べながら対い蝶の歌詞の一節を口ずさんで途中で切った。吉継はその続きを思わず口ずさんだ。
「ほら、やっぱり」
ハッと気付いた時には遅かった。乗せられた言い訳は出来ない。
秀晶はグラスを空け冷たい目線で一言突き刺した。
「ミーハー」
「ぐはっ」
と子供二人が漫才に興じていると、大人二人は別の話題に変わっていた。
「でも、正直予想もしていませんでした。まさか関ヶ原でこんなに美味しいフレンチが食べれるとは。吉継君の腕もそうですが、あなたの料理には心から感動しました。先程は大変失礼を致しました。恥ずかしい限りです」
東有子は頭を下げた。
「いえ、どうか頭を上げて下さい。私達も同じ松尾地区に住む者同士お互い仲良くしましょう、大谷、いえ、東有子さん」
「ありがとう。では私も、音依さんと呼ばせて頂きます」
「はい」
「じゃあ、音依さん、いきなりですけど一つ尋ねてよろしいかしら」
「何でしょう」
「フランス語が流暢なのはフランスに住まわれてたのでは?」
「………え、ええ、まあ、昔、少し」
急に返事がたどたどしくなった。東有子は更に聞いた。
「東京のフレンチのお店で働いてらしたみたいですけど、それは恵比寿?」
「ええ、いや。さあ。でも何故そのような質問を?」
「それが、この店の名刺を秀晶が頂いてきて、顔写真を見てからずっと何か引っ掛かっているんですけど。もしかして私、音依さんとどこかでお会いしたような気が」
「多分、気のせいだと思いますよ」
にっこりと音依は笑ったのだが、その作り笑いが非常に怪しい。
「ううん、私の思い違いなのかしら。いや、記憶力は良い方なんだけど、そうだ、旧姓は何とおっしゃるの?」
「まあ、それはよろしいではありませんか」
と音依が口を濁すと、
「母さんの昔の苗字ならキノシタですよ」
横から吉継が手を拭きながら口を挟んだ。
音依は吉継を横目でジロリと見た。
「こら、ヨシちゃん、大人の会話に割り込むんじゃありません」
「えッ、良い苗字じゃない。小早川より断然格好いいよ」
「キノシタ?」
不意に知り得た苗字に東有子は記憶を巡らせた。
「キノシタ………キノシタ・ネイ。ん?………木下音依?」
それから間もなく昔、東京恵比寿の高級フレンチレストランで各テーブルを挨拶に回る女性シェフを思い浮かべた。そしてその店名の由来ともなっている小さく「天使の翼」が金糸で刺繍してある、総料理長の象徴でもあったシェフ帽を被った年若い彼女の姿が今の音依の容姿とぴったり重なった。
東有子は青ざめた顔で音依を指さした。
「あ、あああ、あなた。まさか、木下音依って、あの『レ・プリュム・ダンジュ』のじょて………むぐぐ」
猛烈な早さで音依はカウンター越しに東有子の口を押さえた。
「何の事でしょう?」
音依の手から逃げようと東有子はもがいて口を動かした。
「いえ、確かにあなたは幻のレーヌ・トロワ………むぐぐ」
「な・ん・の・ことでしょう?」
再度口を塞いだ音依の表情は微笑みながらも「これ以上喋るな」と脅しているような威圧感があった。
レ・プリュム・ダンジュから女帝が忽然と姿を消したのはフランス料理界でも噂になっていた。失態があったのでもなく理由がない雲隠れである。
東京支店では謎の失踪に色めき立ったがパリ本店から新しい料理長を送り込むことで現在も一応営業は続けている。
しかし、音依ほどのカリスマ性はなく今では星も格下げされてしまっていた。
その日本屈指のフレンチシェフがこの関ヶ原で居酒屋的な店を開いているのは、何か拠ん所ない事情があるのだろうと察した東有子は抵抗を止めた。
「沈黙に感謝します」
音依は東有子の耳元で微かに囁いた。
今日はひすとり庵の定休日で東有子たち四人しかいない。それを内密にするのは子供達にも知られたくないとの含みである。
「音依さん、じゃあ一つお願いしていい?」
黙す交換条件として東有子は提案した。
「学校が終わってからウチの娘をここで働かせてくれないかしら。皿洗いでも何でも」
「え、晶ちゃんを?」
「は、何言ってるのよ、お母さん?」
秀晶は思い掛けない発言に耳を疑った。
「いえね、私は看護師だから帰宅時間も不規則になるし夜勤もある。あなたを一人で家に置いておくのは心配なのよ。こんなご時世、田舎でも何が起こるか分からないし。その点この店なら安心だもの」
「いえ、さすがに実子でもない小学生を店で働かせるのは違法ですので」
と音依にやんわり断られたが東有子は引き下がらなかった。
「邪魔にならない隅に座らせておくだけでもいいからお願い出来ない?二人の料理を見ているだけでもきっと勉強にもなるし。週に二、三日でもダメかしら」
「あのね、お母さんはまた私に相談無くそうやって勝手に」
秀晶は怒ったが、東有子はグイと娘をうつ伏せに引き寄せて小声で呟いた。
「馬鹿ね、これはあなたへの応援なのよ」
「応援?」
「吉継君が好きなんでしょう。これは一緒にいられる口実なの」
すると秀晶は耳まで一気に真っ赤になった。
「な、何言っとん?ウチは………」
「今更福井弁で照れないの。あの子は超有望株よ。今の内から唾つけときなさい。見た目は普通でも他の女の子に取られないとも限らないから」
「あの、東有子さん?晶ちゃん?」
ボソボソ密談する親子に音依は声を掛けた。
「あ、はい。何でしょう」
「晶ちゃんが働かない、というのなら私は構いませんよ。店の騒がしさが気にならなければバックヤードに机もありますから宿題も出来ますし。それに夜も簡単な賄(まかな)い料理でよかったら御飯も食べられますよ。ね、ヨシちゃん?」
「え、ああ。それは俺も構わないよ。二三日と言わず別に毎日でも」
「えッ、毎日!?」
ドキリとして秀晶は聞いた。
「め、迷惑じゃないの?夜ご飯が毎日だよ」
毎晩の食事の誘いというのは家族でも無い限り普通はあり得ない話である。もしかして友達以上の感情を持ってくれているのだろうかと秀晶の胸は高鳴った。
だが吉継は気楽に言った。
「全然。賄いなら朝妃さんの三人分から一人前増えるくらいの手間も何ともないし、金額も変わらないしね。気にしなくていいよ」
「………おめ、いい加減にしねま」
乙女心を少しも理解していない吉継に半開きのジト目で秀晶は毒突いた。
「あれ、俺、今怒らせる事言ったっけ?」
「あー、料理は大人でもこういう所はお子様なのか。ま、あなたは気張りなさい」
東有子は半笑いで娘の肩を叩いた。
「あなたの?それはもちろん」
吉継の料理の腕は小学生レベルではなかった。つまり教える側の音依の料理はどのようなものだろうと東有子は期待した。
「では暫しお待ち下さい」
音依は早速料理に取り掛かった。
すると二人は取り憑かれたようにうっとりと音依を眺めた。
手早く魚を捌いたり、フライパンで焼いたりする円滑な動きで次々と美しい料理が出来上がっていく。その過程はもはや優雅な舞踊である。
そして二十分も経たない内に料理は完成し、音依は各種の料理が纏めて盛られた一皿を二人分出した。
「お待たせ致しました。アシェット・スペシャリテ(特製皿盛り)、ファミーユ仕立てです」
と、そのまま音依は各料理の説明をした。
「時計回りで、スモークサーモンとイクラのトマトファルス、レモンビネグレットソースとウルサンソイソース添え。そして鱈(たら)のポワレと明太子のロティール・アンブロッペ、ルッコラとサワークリームソース添え。そしてデセール(デザート)としてスチューベンのソルベとグラースのプリテュール・ノブル掛け、もう一種は抹茶のガトー・フロマージュです」
「わ、お母さん、見て、綺麗~!!」
「まあ、何とも鮮やかなドレサージュ(盛り付け)ね」
小さな鶏と卵のプリント模様に縁取られた白い皿には、その内側をビオラやナスタチウムの紫・黄・オレンジの色鮮やかな食用花がちりばめられ、四品を美しく彩っている。
一品目は、くり抜かれて詰め物(ファルス)がされたプチトマトが二つ、薄黄・濃黄の色違いの円状のソースの上にそれぞれ乗っている。トマトの中身は共にイクラ粒を中心として薄切りのスモークサーモンがバラの花形に巻かれている。
そして二品目は細長い春巻きに似た薄い生地をオーブンで焼いたロティール(オーブンで焼いた料理の総称)・アンブロッペ(包まれたもの)は斜めにカットされ、覗く中身からは棒状にポワレ(フライパンでじっくり焼く技法)された鱈の身を明太子が包んでいるのが分かる。その料理の周りには先が細く尖ったデコスプーンで白と緑のソースが二色の連続したハートマークとして美しく描かれている。
三品目のデザートは飴細工で編まれた小カゴに立て掛けられた透明なガラススプーンに、半透明のスチューベン葡萄のソルベ(シャーベット)がワインのかかったバニラのグラース(アイスクリーム)の中でやんわり溶けている。
最後の四品目は一口大にキューブカットされた三層のケーキであり、上層は大納言小豆入りの抹茶レアチーズ、中層は濃い茶色のムース、下層は抹茶スポンジで構成され、そのケーキの周りには飾りとして粉糖と抹茶が粉雪のように白緑二色で装われている。
「先ずはトマトファルスから、そしてロティール、最後にアイスとケーキをお召し上がり下さい」
音依は食べる順序を掌で回して示した。
「何か宝石箱みたい。食べるのがもったいないんだけど」
秀晶はわくわくと浮かれた。東有子も興奮を隠さずにいた。
「気持ちは分かるけど食べましょう。アイス溶けちゃうわよ」
東有子と秀晶は揃ってフォークで、ファルスを一つずつソースに絡めて食べた。
「!!!」
二人は喫驚した。ソースが違うだけで同じ料理なのに印象が全く別物になっている。
薄黄ソースのファルスは口に噛んだ途端、先ず脂ののったサーモンの甘さと燻製の香り高さがイクラのプチプチ感に弾け、トマトの器と微かなレモンの酸味がオイルにさっぱり絡まって渾然一体となった。
そして二個目のファルスは海の旨味を凝縮したようなソースが、サーモンとイクラの味をより濃厚にし、底に隠れたクリーミーな何かが追随しやがて全体を包み込んだ。
二人とも言葉にならずに腕を曲げ握った拳を喜んで振った。
そしてナニコレという眼差しを音依に向けた。
音依は笑みを浮かべて言った。
「これは当店の燻製機で作った自家製スモークサーモンです。だから市販の商品とは少し香りが違うと思います。それと底の二つのソースですが、一つ目はホワイトバルサミコ酢とグレープシードオイルにレモン果汁と塩胡椒でレモンビネグレットドレッシングに仕上げてます。しかし、レモンも酸味が強いと素材の風味を消してしまいます。それでマイヤーレモンという甘めの品種を使いました。これはオレンジとレモンの交配種で酸味が柔らかいのが特徴です。二つ目の濃黄のウルサンソースはウニを基に作られた福井特産の魚醤、つまり雲丹醤(うにひしお)です。ただし二つ目のファルスだけはサーモンの味を変化させるために中にブルサンチーズを少しだけ詰めてあります。ブルサンチーズは加熱していないクセのないフレッシュチーズなので雲丹醤にとても合うんです。この二つのセットで素材にコクを出させました」
うんうんと無言で納得した二人は続いて鱈のロティールをソースに絡ませて食べた。
「くー!!!」
美味いとの感情が言葉以外に上手に表現出来ない二人は今度は足をばたつかせた。
春巻きのように油で揚げていないためか皮の口当たりはさっくりして、カリッと外側は香ばしくも中は柔らかい鱈の芯と、それをホロホロとほどける半生の明太子のピリ辛がまといつく。と同時にハーブのソースがそれを爽やかに変化させてくる。
そして口を開けるのがもったいないとばかりに二人はまた音依に視線で説明を求めた。
「これはさほど難しい料理ではありません。棒状に切った鱈の表面をバターでこんがり焼き上げてからそれを明太子で包み、それを更にパートブリックという薄いクレープ状の皮にくるんでオーブンで焼き上げました。明太子と鱈に合うようサワークリームとルッコラのソースを添えてあります」
と説明したのだが、東有子は「ううう」と納得出来ない風に唸った。
「あ、一つ忘れていました。鱈をポワレする時に燻製バターを使ったんです。ですから鱈に香ばしさとコクが出ていたと思いますよ」
そうすると東有子はうんうんと納得して二品目も綺麗に平らげた。
「そろそろアイスをどうぞ。大谷さんのアイスにはプリテュール・ノブル、いわゆる貴腐ワインをかけてありますが、晶ちゃんは子供なのでノンアルコールのワインを代用して………」
「貴腐ワイン!?そんな高級ワインをデザートに?」
説明を遮ってやっと東有子は口を開いた。
貴腐ワインは、ある種のカビで糖度を高めたブドウを醸造した特殊なワインであるが、絶対数が少ないため一般に高級洋酒の一つに数えられている。
音依は笑って首を振った。
「五万から十万もするシャトー・ディケムとかの超高級ワインを使ってるんじゃありませんよ。同じ貴腐ワインでも今回はハーフで三千五百円のこれを使いました」
音依はカルム・ド・リューセックの琥珀色に澄んだワイン瓶を見せた。
「これはハチミツやマーマレードのような甘さのワインです。バニラアイスととても相性がいいんですよ。晶ちゃんの方はワインの代わりにドイツの『トラウベンザフト』というブドウジュースを使ったのだけど、貴腐ワインに似た甘みがあるの。食べてみて」
二人はまた揃ってスプーンを口に入れた。
そして今度は口から抜いたスプーンを手にしたまま動きを止めた。
糖度の高いブドウのシャーベットも美味なのだが、下層のアイスクリームと貴腐ワインがこれほど合うとは思っていなかった二人はいつまでも余韻を噛みしめていた。
「最後は抹茶のレアチーズケーキです。お召し上がりを」
との音依の言葉に我に返った二人は四角形のキューブケーキを見た。
最後にしてはある意味変化のない、面白味に欠けるデザートだが、とりあえずフォークで刺して口に運んだ。
「んんん!!」
ところが一瞬で溶け合う思い掛けない和と洋のハーモニーに二人は歓喜した。
しっとり濃密なレアチーズの微かな酸味と抹茶の苦味に甘煮の大納言小豆が混然となり一つの美味に昇華する。そして中のムースと思われた甘味が更に合わさるとケーキの味を格段に深めた。
「真ん中に挟んであるこれ、福井の水ようかんだ!」
さっぱりした懐かしい口触りを直ぐ思い出して秀晶は手を叩いた。
音依は答えた。
「はい。羊羹は日本の伝統的なパティスリー(菓子)です。餡代わりのアクセントとして有名な福井の名産を使用しました。この寒い時期ならではと、お二人のために慣れ親しんだ味に仕上げました」
福井では夏場でなく冬期に水羊羹を食す習慣があり、こたつに入り、みかんと共に食べる県民食になっていた。
「クリームチーズと餡は濃厚さで喧嘩しないんです。鯛焼きの中身にも使われているコンビですので当然羊羹にも合います。抹茶は元来餡との相性は抜群ですので三位一体のトリオでこのお菓子を創作してみました」
「うーん、おこたの羊羹がまさかこういうお洒落なデザートに変身するとは」
東有子は感心して唸った。
「ご満足頂けましたか、晶ちゃん?」
「はい、大満足です」と食べ終えた秀晶が清々しい笑みで大絶賛した。
「小早川君の料理も凄いと思ったけど、音依さんのはもう全然別次元です。繊細だけど大胆で奥行きがあって」
「あらまあ、過分にお褒め頂いて光栄だわ」
ここで吉継が皿を洗いながらひねくれた。
「そりゃあ、母さんは俺の料理の師匠だし、今の段階で比べられるのは公平じゃないと思うんだけどな」
自分と音依の料理を食べた時の二人の反応に大差があり過ぎたのも悔しかったのである。
秀晶は慌てて取り繕った。
「いや、私は別に小早川君のが不味いと言ってるんじゃないよ、ただ、何というか、天正大判と永楽銭の差というか、火縄銃と石つぶての差というか」
「………大谷さん、それ全然フォローになってない」
容赦ない追い込みに吉継は嘆かわしさ一杯に項垂れた。
「ところで晶ちゃん、実は今の料理ね、ちょっとした謎かけなの。分かる?」
「謎かけ?」
「四品の素材の組み合わせを考えてもらうと直ぐに分かると思うわ。大谷さんは?」
「え、今のワンプレートに意味があるんですか?」
「ファミーユ仕立てという料理名はそれを表しています。フランス語で家族という意味ですよ」
すると秀晶は空になった皿の鶏と卵模様を見て、「あ、私、分かったかも!」と閃いた。
「全部前と後みたい」
「え、何、秀晶?」
「ほら、お母さん、イクラと鮭って親と子じゃないの?」
「あ、ああ!そうね、鱈と明太子もそうだわ。アイスの組み合わせも親子ではないけどワインの材料はブドウだもの。ケーキの小豆と羊羹だって」
「その通りです。ソースで描いたハートの鎖は親愛のマークです」
音依は詳説した。
「最初のファルスは鮭がイクラを包んでいる。二品目のロティールは明太子が鱈を包んでいる。三品目のアイスとシャーベットはお互いに溶け合っている。四品目はいつも側で寄り添っている。これは上とか下とかでなく助けて助けられる親子の姿なんです。大谷さんも晶ちゃんも同じ求め合う人間、掛け合うと美味しい料理になりますから共に協力して和やかに過ごして下さい」
「ああ、本当にそうだわ!」
と東有子は深く頷いて、やがて娘の頭を撫でた。
「秀晶、こんな頼りない母親だけどこれからもよろしくね」
「私こそ、お母さん」と秀晶も嬉し涙を浮かべて答えた。
(これで家庭問題は円満解決か。人助けにもなったし、よかったよかった)
大谷親子の睦まじい姿を見て吉継は安堵した。
【主】
金吾が突如アルスでないテレパシーで話し掛けてきた。
【奇々怪々な因縁じゃな、おぬしとあの娘。もしや神が縁(えにし)を繋げたのかもしれぬぞ】
【神様が?】
【主の守護神は食を司る御饌都神(みけつかみ)じゃ。古くから福井は志摩(三重)、淡路(兵庫県)と並んで御食国(みけつくに)と呼ばれ朝廷に海産物を貢いだ。敦賀の一宮である気比神社の祭神は気比神・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)じゃ。『古事記』にミケツカミは気比神なりと記してある】
【お、そうなのか】
【それに気比神宮の奥宮である常宮神社には刑部殿が朝鮮から持ち帰った鐘が納めてある。気比と大谷、そしておぬし。存外これも浅からぬ運命やもしれぬぞ】
【運命、ね】
吉継の頭にはタロットの「運命の輪」が思い浮かんだ。そのカードは正位置であれば「進歩」となるのだが、逆位置では「悪運」を意味する。
大谷と小早川という敵対する組み合わせも縁というのならそれが進歩なのか悪運なのか分からない。
(ま、考えても仕方ないか)
と、吉継は空いた親子の皿を下げた。
するとここで東有子は音依に向き、不思議そうな表情を浮かべた。
「でも小早川さん、どうしてここまでして下さったの?これだけの料理は事前に用意して下さなければ到底無理な物ばかりですのに」
音依はにこりと笑って述べた。
「そうですね。全てはお客様のコウフクのためです」
「幸福?幸せの?」
「いいえ、口の福で『口福』、美味しい食事をした時の幸せです。幸せな味には誰もが笑顔になるでしょう?」
「それは、まあ」
「美味なる食べ物には不思議な力があります。それは滋養となり明日への活力に繋がります。私たち料理人はそのお手伝いをさせて頂いているのです。ですので素材にも向き合いますが、人とも向き合わねばなりません」
「人と?」
意想外の饒舌に東有子は戸惑いつつ何故か膝を正した。
「はい。馳走とは文字通りもてなしのために『走り回る』様です。しかしそれは必ずしも高価な料理を揃えるのと同義ではありません。塩むすび一つでも、その人が望んでいたタイミングで振る舞えればそれも立派な御馳走になります。もてなしは見栄や体裁でなく、相手を思いやる心から生まれます」
「もてなしの、心」
「あつらえ向きの喩えとして江戸中期の儒学者・湯浅元禎が記した『常山紀談』に食に関するこんなエピソードがありますよ」
ここで音依は一つの史話を語り出した。
「織田信長が京を攻め落とした時、坪内という敵方に仕えていた高名な料理人が捕らえられました。坪内は命乞いをするため信長に料理を作ったのですが、公家が好む京風の薄い味付けをしたため、水くさくて食えんと拒まれました。すると坪内は翌日に塩味を濃いめにして料理を作り直したところ信長に大変喜ばれました」
「濃い塩味を?何故?」
「戦う武士は肉体を酷使します。現代でもそうですが、汗をかき、体を使う人は塩分を好みます。しかし坪内はそれを後に『信長は味音痴の田舎者』と陰で笑ったらしいのです。公家の味付けが一流で武家のが二流と決め付けたのです。いくら調理の高い技術を持っていても驕った矜持(きょうじ)は料理人の心得ではありません」
「塩分の摂り過ぎで高血圧の心配をした訳でもないでしょうしね」
音依はクスリと小さく笑った。
「でしたら見上げた料理人です。でも私は違うと思います。料理というのは人を従わせるのでなく人に添わせるものです。胃腸が弱っている病人にコントル・フィレのロティ(最高牛肉のオーブン焼き)は必要でしょうか。一杯の温かいお粥が体に染み渡るでしょう。真夏の炎天下にザッハトルテ(オーストリアの高級チョコレートケーキ)が喉を通るでしょうか。コップ一杯の冷たい麦茶が甘露だと感じるでしょう。『茶の花香(かこう)より気の花香』とことわざに申します。香り高いお茶より真心を込めて出したお茶の方がお客様には喜んで頂けます。口幅ったいですが、もてなしとは人間の真心と向き合う在り方だと私は思います」
ここで音依は一旦後ろの吉継に振り向いて、そして再び東有子に視線を戻した。
「それに今回息子が最後にノルウェー鯖を使ったのは皆さんに広く食して頂くためです。国内のブランド鯖は確かに美味ですが、価格と流通量を考慮すればそんなに出回りません。その点外国産は手軽に買えますし、調理の手間と工夫さえ惜しまなければ美味しく変身出来ます。料理が愛情と言われるゆえんはきっとそんな所にあるんでしょうね」
「………」
料理の神髄を提起されブランドに凝り固まっていた内心を急に解かれた東有子は黙って音依を見上げた。
音依は明るく話題を変えた。
「さて、次は戦国繋がりで当店のオリジナルカクテルをご用意させて頂きます」
すると音依は冷蔵庫を開けて、広口瓶から果実酒をメジャーカップで計量し、ホワイトキュラソーとグレープフルーツジュースとグレナデンシロップをシェイカーに混ぜ合わせてリズミカルに振った。
そしてそれを氷の入ったタンブラーに注ぎ、対い蝶紋のコースターに置いて東有子に差し出した。
「越前敦賀城主・大谷刑部少輔吉継のオリジナルカクテル『絆紅梅(きずなこうばい)』です。どうぞお召し上がり下さい」
早速東有子はクイと一口飲んだ。
薄いピンクかがったカクテルからはグレープフルーツの爽やかな香りと、別種の甘い香りが漂ってくる。
「甘味があって美味しい。でもこの味はテキーラ?にしては少し違うような」
テキーラとはアガベという竜舌蘭の蒸留酒である。しかし飲み慣れたテキーラと風味が異なっていた。
音依は東有子の前に先程の広口瓶を置いて見せた。
「仰るように普通のテキーラではありません。カクテルにはこれを使いました」
見ると瓶の底にはいくつものシワシワになった梅の実が沈んでいる。
「まさかこれって梅酒?」
「そうです。ホワイトリカーの代わりにテキーラで浸けた三年物の梅酒です。梅は福井の『紅映(べにさし)』を使用しています。この紅映は他の梅に比べミネラル分が多いのが特徴です」
「洋酒で梅酒?初めて飲んだわ」
「ブランデー漬け梅酒も美味しいですよ。ただこのカクテルだけはどうしてもテキーラ梅酒がメインになるんです。元となったカクテルからの由来で」
「元のカクテル?」
「梅酒でない普通のテキーラを使用した場合『アイスブレイカー』というカクテルになります。砕氷船という意味で、転じて固まった心を溶かすもの、もしくは場を和ませるものという寓意に変化しました。どれだけ悪くなった雰囲気もこの一杯で和やかになる、そんなカクテルなのです」
「アイスブレイカー。素敵な名前ね」
東有子は二口目をゆっくり味わった。音依はおどけた表情で言った。
「実は、これお二人の未だ仲が戻らない場合の奥の手だったんですけど、もう必要なさそうですね」
すっかり仲直りした親子はお互いに見つめ笑い合った。
音依は更に付け加えた。
「ドイツの哲学者、イマヌエル・カントの名言にこうあります。『酒は口を軽快にする。だが、酒はさらに心を打ち明けさせる』と。お酒は人間関係の潤滑油なんですね」
「なるほど」
と東有子は音依に向いて聞いた。
「それで、福井の紅映を使ったから大谷吉継のカクテルにしたんですか?」
「もちろんそれもありますが、大谷刑部の『人となり』をモチーフにしたんです。刑部は人との絆を重んじた武将でしたから」
「あ、ハイハイ、私、知ってます。三成との友情」
ここで秀晶が物知り顔で挙手した。
「お茶会で、病気の刑部が口を付けた抹茶を怖がらずに飲んだのが三成一人で、それをいつまでも感謝していたんですよね」
「あら、晶ちゃんは博学ね」
と音依は笑んで続けた。
「その石田三成との間柄もそうですが、刑部は関ヶ原合戦の前、徳川家康が上杉景勝を成敗に会津へ向かおうとした際、戦いにならないよう両者の間に入り、仲介役になろうとしていたらしいんです。その理由として昔刑部は奥羽一揆に苦しんでいた時、助勢してくれたのが上杉景勝だったので、その恩を返したいと思ったのでしょう。それに宇喜多秀家の家中が争いになった時分も調停役になっています。まさしくアイスブレイカーとして」
(さすが、母さん、博識)
音依の後ろのシンクで吉継は小さく拍手していた。
「でも、刑部の絆は大名だけではありません。平素から家臣に対して慈悲心を持って接していたために関ヶ原合戦の時は最期まで主を守るよう戦い抜きました。家臣と絆が深くなければ皆逃げ出していたでしょう」
【ふむ、ヨシ殿のお母上はまことに真実を申される】
五助が自慢げに威張った。
「それに刑部は家族も忘れていません」
音依は胸ポケットから一枚の写真を取り出し二人に示した。
それは丸い銅で出来た緑色の鏡で、図柄には向かい合った二羽の鶴がクチバシを交え、その下には亀が鎮座している。奉掛御神前と願主大谷刑部少輔吉継の文字が浮き出ている鶴亀文懸鏡(つるかめもんかけかがみ)である。
「これは刑部が太宰府天満宮に奉納した鏡です。これは二面あり、そこには『願主同東 小石・徳・小屋』との文字が見えます。これは刑部の家族の名前であろうと推測されています。また、亀模様は長寿を意味し、鶴も同じく長寿の縁起物ですが、これは向かい鶴といって和合を表しています。夫婦鶴は相手が弱っても見放しもせずいつまでも付き添います。刑部の家紋である対い蝶も同じく向かい文様です。共に寄り添い助け合う。私はこの鏡にこそ刑部の人に対する絆があるように思われてなりません」
「なるほど。でもそれとこのカクテルの関連は?」
「この鏡が奉納された天満宮の神紋は梅の花です」
「あ、だから梅酒を!」
東有子は納得の手を叩いたが、吉継は当てが外れた声を出した。
「あれ、そうなの。俺はてっきり平塚為広の亀甲梅鉢紋の方から取ったのかと思ってた。関ヶ原の最期に辞世の句を遣り取りした相手だから」
戦死の寸前、「名のために棄つる命は惜しからじ終にとまらぬ浮世と思へば(名誉のために捨てる命は惜しくはない。長く生きていられる世の中でもないのだから)」と為広が詠めば、刑部は「契りあらば六の巷にまてしばしおくれ先立つ事はありとも(共に死ぬ約束があるのだからあの世の入口で待っていて欲しい。あなたより先に着くか後に着くかは分からないけれど)」と返したエピソードは有名である。
音依はそうね、と肯定してから言った。
「それも絆の一つよ。でも刑部の心はもっと広いと思う。『関ヶ原御合戦当日記』に、三年内に祟り殺すみたいな秀秋を祟る文言があるけど刑部はそんな呪詛は願わなかったんじゃないかしら。潔く負けを認めて成仏したと思うわよ」
【うむ、お母上どの、お心遣い痛み入る】
と刑部は礼を述べた。
「お父さんも、刑部好きだったもんね」
献杯代わりに東有子はグラスを傾けた。呼応するようにカランと氷が鳴った。
「ね、お母さん、それ一口頂戴」
秀晶が興味津々にグラスをのぞき込んだ。どうやら以前ひすとり庵に忍び込んだ時、土佐カクテルの一領金波が気になっていたらしい。
「は、未成年がお酒なんてダメに決まってるでしょ」
「一口味見するだけだよ、ね?」
「絶対ダメです。十年早いわよ」
断固拒否する東有子に秀晶は交換条件を提示した。
「だったらそろそろ晶って呼んでよ。秀晶なんて女の子らしくないもん!」
「はあ?文句なら名付けたお父さんに言いなさい。それにあなたの名前は秀でた水晶って意味なのよ。上質のクリスタルなんて綺麗でしょ」
「音だけじゃ分からないわよ、普通」
「諦めなさい。これはお父さんとの約束で、あなたの名前を省略しないって決めてるの」
「えー!」
「まあまあ、大谷さん、これでも飲んで機嫌直して」
いつの間にか吉継はシャンパングラスに満ちたピンク色のカクテルを秀晶に差し出した。
グラスの縁はスノースタイルの砂糖で一周が白く彩られている。そしてカクテルの上には薄切りで蝶の形にカットされた苺が二つ浮かんでいた。
「わ、カワイイ!!小早川君が作ってくれたの、ありがとう!」
と秀晶ははしゃいだのだが、東有子は額に青筋を立てて吉継に怒鳴った。
「吉継君、秀晶はあなたと同じ十歳なのよ!お酒なんてとんでもない!」
雷声の威勢に吉継は思わず首をすくめた。
刑部の神雷でなくともこの迫力はさすが秀晶の母である。それでも誤解されては堪らない。一息置いた吉継はドリンクメニューの吉継の欄を指し示した。
「あの、これ苺の甘酒なんです」
「え?は?」
「ウチの店はノンアルコールのカクテルもありますから。これは吉継カクテルのジュース版です。未成年飲酒は即営業停止になるので。よろしいですか」
常識的に思案すれば当然である。第一飲食店の店員が親の目前でアルコールを堂々と子供に勧めるなどあるはずもない。
途端冷静になった東有子は頬を恥ずかしさで紅潮させた。
「あ、ああ。ごめんなさい。私ったらとんだ早とちりを」
「うーん、美味しい!苺と甘酒って合うんだね」
早速飲んでいた秀晶が嬉しそうに反応した。
吉継は中瓶に入った赤いペーストを見せて言った。
「この苺ジャムを自家製の甘酒でシェイクしてあるんだよ。それも関ヶ原産『紅ほっぺ』の特製ジャム。そしてカクテルの名前は『さくらゆき』。苺を混ぜたピンクの甘酒が桜、スノースタイルの砂糖が雪みたいに見えるでしょ。俺が名付けたんだけど、このカクテルにピッタリだと思わない?」
「………ねえ、さくらゆきってあの二人組から付けたんじゃないの?あなた大ファンだものね」
「そ、そんな事は………ない、よ」
図星をつかれて吉継はギクリと動揺した。
さくらゆきとは小栗さくらと遠野ゆきのツインボーカルユニットであり、戦国から幕末までの英雄をテーマとした曲を様々制作し、日本各地の歴史イベントで活躍している。特に関ヶ原では二千九年から連続して秋の合戦祭りに毎年出演する程、馴染み深い二人組になっていた。彼女らは歌唱力もさながら詞の表現が秀逸で、歌の主人公に共鳴する聴衆はいつも感動の涙で聴き入っている。
更に秀晶は追い打ちをかけた。
「あのバラード、『対い蝶』、着メロにしてるんでしょ」
「それとこれとは」
すると秀晶は表面のイチゴスライスを食べながら対い蝶の歌詞の一節を口ずさんで途中で切った。吉継はその続きを思わず口ずさんだ。
「ほら、やっぱり」
ハッと気付いた時には遅かった。乗せられた言い訳は出来ない。
秀晶はグラスを空け冷たい目線で一言突き刺した。
「ミーハー」
「ぐはっ」
と子供二人が漫才に興じていると、大人二人は別の話題に変わっていた。
「でも、正直予想もしていませんでした。まさか関ヶ原でこんなに美味しいフレンチが食べれるとは。吉継君の腕もそうですが、あなたの料理には心から感動しました。先程は大変失礼を致しました。恥ずかしい限りです」
東有子は頭を下げた。
「いえ、どうか頭を上げて下さい。私達も同じ松尾地区に住む者同士お互い仲良くしましょう、大谷、いえ、東有子さん」
「ありがとう。では私も、音依さんと呼ばせて頂きます」
「はい」
「じゃあ、音依さん、いきなりですけど一つ尋ねてよろしいかしら」
「何でしょう」
「フランス語が流暢なのはフランスに住まわれてたのでは?」
「………え、ええ、まあ、昔、少し」
急に返事がたどたどしくなった。東有子は更に聞いた。
「東京のフレンチのお店で働いてらしたみたいですけど、それは恵比寿?」
「ええ、いや。さあ。でも何故そのような質問を?」
「それが、この店の名刺を秀晶が頂いてきて、顔写真を見てからずっと何か引っ掛かっているんですけど。もしかして私、音依さんとどこかでお会いしたような気が」
「多分、気のせいだと思いますよ」
にっこりと音依は笑ったのだが、その作り笑いが非常に怪しい。
「ううん、私の思い違いなのかしら。いや、記憶力は良い方なんだけど、そうだ、旧姓は何とおっしゃるの?」
「まあ、それはよろしいではありませんか」
と音依が口を濁すと、
「母さんの昔の苗字ならキノシタですよ」
横から吉継が手を拭きながら口を挟んだ。
音依は吉継を横目でジロリと見た。
「こら、ヨシちゃん、大人の会話に割り込むんじゃありません」
「えッ、良い苗字じゃない。小早川より断然格好いいよ」
「キノシタ?」
不意に知り得た苗字に東有子は記憶を巡らせた。
「キノシタ………キノシタ・ネイ。ん?………木下音依?」
それから間もなく昔、東京恵比寿の高級フレンチレストランで各テーブルを挨拶に回る女性シェフを思い浮かべた。そしてその店名の由来ともなっている小さく「天使の翼」が金糸で刺繍してある、総料理長の象徴でもあったシェフ帽を被った年若い彼女の姿が今の音依の容姿とぴったり重なった。
東有子は青ざめた顔で音依を指さした。
「あ、あああ、あなた。まさか、木下音依って、あの『レ・プリュム・ダンジュ』のじょて………むぐぐ」
猛烈な早さで音依はカウンター越しに東有子の口を押さえた。
「何の事でしょう?」
音依の手から逃げようと東有子はもがいて口を動かした。
「いえ、確かにあなたは幻のレーヌ・トロワ………むぐぐ」
「な・ん・の・ことでしょう?」
再度口を塞いだ音依の表情は微笑みながらも「これ以上喋るな」と脅しているような威圧感があった。
レ・プリュム・ダンジュから女帝が忽然と姿を消したのはフランス料理界でも噂になっていた。失態があったのでもなく理由がない雲隠れである。
東京支店では謎の失踪に色めき立ったがパリ本店から新しい料理長を送り込むことで現在も一応営業は続けている。
しかし、音依ほどのカリスマ性はなく今では星も格下げされてしまっていた。
その日本屈指のフレンチシェフがこの関ヶ原で居酒屋的な店を開いているのは、何か拠ん所ない事情があるのだろうと察した東有子は抵抗を止めた。
「沈黙に感謝します」
音依は東有子の耳元で微かに囁いた。
今日はひすとり庵の定休日で東有子たち四人しかいない。それを内密にするのは子供達にも知られたくないとの含みである。
「音依さん、じゃあ一つお願いしていい?」
黙す交換条件として東有子は提案した。
「学校が終わってからウチの娘をここで働かせてくれないかしら。皿洗いでも何でも」
「え、晶ちゃんを?」
「は、何言ってるのよ、お母さん?」
秀晶は思い掛けない発言に耳を疑った。
「いえね、私は看護師だから帰宅時間も不規則になるし夜勤もある。あなたを一人で家に置いておくのは心配なのよ。こんなご時世、田舎でも何が起こるか分からないし。その点この店なら安心だもの」
「いえ、さすがに実子でもない小学生を店で働かせるのは違法ですので」
と音依にやんわり断られたが東有子は引き下がらなかった。
「邪魔にならない隅に座らせておくだけでもいいからお願い出来ない?二人の料理を見ているだけでもきっと勉強にもなるし。週に二、三日でもダメかしら」
「あのね、お母さんはまた私に相談無くそうやって勝手に」
秀晶は怒ったが、東有子はグイと娘をうつ伏せに引き寄せて小声で呟いた。
「馬鹿ね、これはあなたへの応援なのよ」
「応援?」
「吉継君が好きなんでしょう。これは一緒にいられる口実なの」
すると秀晶は耳まで一気に真っ赤になった。
「な、何言っとん?ウチは………」
「今更福井弁で照れないの。あの子は超有望株よ。今の内から唾つけときなさい。見た目は普通でも他の女の子に取られないとも限らないから」
「あの、東有子さん?晶ちゃん?」
ボソボソ密談する親子に音依は声を掛けた。
「あ、はい。何でしょう」
「晶ちゃんが働かない、というのなら私は構いませんよ。店の騒がしさが気にならなければバックヤードに机もありますから宿題も出来ますし。それに夜も簡単な賄(まかな)い料理でよかったら御飯も食べられますよ。ね、ヨシちゃん?」
「え、ああ。それは俺も構わないよ。二三日と言わず別に毎日でも」
「えッ、毎日!?」
ドキリとして秀晶は聞いた。
「め、迷惑じゃないの?夜ご飯が毎日だよ」
毎晩の食事の誘いというのは家族でも無い限り普通はあり得ない話である。もしかして友達以上の感情を持ってくれているのだろうかと秀晶の胸は高鳴った。
だが吉継は気楽に言った。
「全然。賄いなら朝妃さんの三人分から一人前増えるくらいの手間も何ともないし、金額も変わらないしね。気にしなくていいよ」
「………おめ、いい加減にしねま」
乙女心を少しも理解していない吉継に半開きのジト目で秀晶は毒突いた。
「あれ、俺、今怒らせる事言ったっけ?」
「あー、料理は大人でもこういう所はお子様なのか。ま、あなたは気張りなさい」
東有子は半笑いで娘の肩を叩いた。
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