「ううッ、そんなに百足、気持ち悪いかしら」
武美は寝室に戻るとベッド前のクッションに座りすっかり気落ちしていた。
「あのような何が何でも噛み付いてくる害のある気色悪い生き物を愛でる神経が私には到底理解出来かねます」
汐恩にしては珍しくきつい語気で武美を責めた。恥ずかしい弱点を図らずも露呈してしまったのか、未だに腹の虫が治まらないらしい。
武美は言い訳するように述べた。
「でもね、百足は前にしか進まないから潔さが武将に好かれたの。足が沢山あるから客足が絶えないって商売繁盛の意味もあるんだから」
「それでも今は時代が違います。もう地上から絶滅してほしいくらいです」
反論を許さず汐恩は言い返した。余程咬まれた記憶がトラウマになっているのだろう。
「まあまあ、汐恩、今回のはアクシデントだったんだから先生に当たるのは筋違いだぞ」
キッチンで調理を再開した吉継は寝室に向けて切り出した。
「それは、まあ、そうですけど」
「それに百足は毘沙門天の使いと貴ばれてて、武田軍団の中でも山県昌景とか高坂昌信とかの百足衆と呼ばれた使番十二人衆は一目置かれていたんだ。当時は剛勇で選ばれたエリート集団だったんだ。つまり百足は憧れの象徴でもあって武将にとっては神格化された最高の縁起物って訳」
「まあ、小早川君はさすがね」
急に援軍を得て武美は復活した。
「あれ、でも虫なら確かトンボも昔から縁起が良いんだよね」
元が思い出して言った。吉継は説明を足した。
「百足と同じ前に進む勝ち虫だからな。でもそれをバッサリと切ってしまった本田忠勝の『蜻蛉切り』はどうなんだって批判があるぞ」
本田平八郎忠勝は家康を護る徳川四天王の一人であり、勇猛な槍遣いとして名高い。蜻蛉切りはそんな忠勝が所有していた大身槍で、鋭い穂先に止まったトンボが勝手に真っ二つに切れた由から命名された。
「あれはトンボが自滅しただけで別に忠勝がわざとやったんじゃないもん」
ぷうと不機嫌に膨れる元に吉継は笑った。
「冗談だって、それより忠勝とくれば元はあの言葉を知ってるだろう。家康に過ぎたるものが二つあり………」
「唐の頭(かしら)に本田平八」
「お、徳川を語らせたら日本一!」
吉継はわざと大袈裟に褒め称えた。
「まあね、家康関係なら任せなさい。唐の頭は兜、本田平八は負け知らずの本田忠勝よ。五十七回の戦いでも傷一つ負わなかった強者なんだから」
直ぐに機嫌を直して元は自慢した。すると吉継は更に踏み込んで聞き出そうとした。
「じゃあ、その唐の兜はどんなのだ?」
「え、ええっと、それは………」
元の額に冷や汗が滲んだ。忠勝の伝説は知っているが兜の詳細までは知識がない。ごめんなさい、知りませんと正直にうなだれる元に吉継は解説した。
「唐の頭は武田信玄と同じヤクの毛が使われた兜だよ。偶然かもしれないけど、武田と徳川の敵味方の主が同じような兜を被っていたかと思うと不思議だよな」
「それなら赤備(あかぞな)えもそうでしょう」
と武美が物知り顔で台所へ声を掛けた。
「小早川君、その着ているエプロンの左上に何か見えない?」
吉継は問われるまま目を下に向けた。すると気付いてなかったが、小さく黒い丸に花菱紋と「THE RED ARMOR」のアルファベットが見えた。
こんな所まで武田か、と吉継は呆れ笑った。
「山県昌景(やまがたまさかげ)ですね、これ。まさかこの赤いエプロンって赤備えなんですか」
「いいでしょ、通販で買ったのよ。去年の大河で赤備えは真田にお株を取られちゃってたけど、元々は武田の部隊だったんだから」
「げえ、私にとって山県昌景は天敵なんだよね」
元が苦り切った顔を武美に向けた。三方原の戦いで最後まで家康を散々苦しめたのがこの昌景であったからで、城に逃げ帰った家康は「山県という者、恐ろしき武将ぞ」と震えていたという。
武美は庇うように指摘した。
「でも逆に徳川を鍛えたのは武田と言えるわよ。だから武田家が滅した後、山県隊にいた赤備えの旧臣達を家康が引き取った時、井伊直政はその装備も引き継いだ。関ヶ原で活躍した井伊はつまり武田の志を受け継いでいたのね」
「武田軍団は信長でさえ恐れた戦国最強とも伝えられてますから」
吉継はトレーに出来上がった料理を乗せて寝室に運んできた。
「さて、大変お待たせしました。こちらが本日のメインディシュとなります」
「え?」
キーボードと本が片付けられたローテーブルに置かれたその料理を見て一同は愕然とした。
何と割り箸とレンゲが添えられた、蓋で閉じられたインスタントのカップうどんである。
「ヨシ、あんたねえ、一時間近くも掛かってこれはないんじゃないの!それにカップ麺は先生も食べ飽きたって言ってたじゃない!」
元は気色ばんだが、真向かいの汐恩は冷静でいた。
「松平さん、コバ君に限ってそんな筈はないでしょう。先生、蓋を開けてみて下さい」
「あ、ええ」
期待していた料理と違って些か落胆していた武美は取り敢えず蓋をペリッとめくった。
見ると確かに期待は裏切られていなかった。
中身の麺はインスタントのうどんではあるが、野菜の黄色に溶けたスープにはゴロッと残ったカット南瓜の塊と、焼けたシメジと煮込んだ白菜が具材としてトッピングしてある。
「これは!」
武美は目を大きく広げて、ウエイターのように立って待機している吉継を仰ぎ見た。
「これはまさか『南瓜ぼうとう』なの?」
ほうとうは山梨では誰もが知る郷土食である。
季節の根菜類を味噌の出汁で平たい麺を煮込むのであるが、まさかここで口にするとは想像していなかった。南瓜ぼうとうは名前の通り、南瓜が具のメインで溶けるほど煮込むためスープに丁度良いコクが出る。
武美と向かい合う席に腰を下ろした吉継は頭を横に振った。
「正確には『ほうとう風』です。どうぞ熱い内に召し上がって下さい」
「ええ!」
懐かしい郷土料理に目を輝かせた武美は割り箸を折ると、早速麺をズズッと啜った。途端火傷しそうなくらいの熱く濃厚なスープが麺にまとわりついてきた。
「熱!でも美味しい!何、これ、ほうとうの汁じゃないわ」
武美は正面の吉継に説明を求めた。
吉継は掌に隠し持っていた小さな緑色の箱を武美に見せた。
「汁にはこれを使いました」
その箱のパッケージには「かぼちゃのポタージュ」と書かれていた。お湯を注ぐだけで完成するインスタントスープの素である。
「ポタージュ!?」
驚いた武美は黄色いスープをレンゲで飲んで味を確かめた。
「あ、パンプキンポタージュね、確かに!」
吉継は微笑して解説した。
「ほうとうの南瓜が溶けた汁を再現するにはこれが手っ取り早いんです。洋風南瓜ぼうとう、という感じでしょうか」
「そうね、まさに洋風だわ」
レンゲで再び味わう武美に吉継はレシピを話した。
「作り方は簡単です。カップうどんの付属のスープ粉を使わずに、その代わりにこの南瓜のポタージュ粉末を、お湯を注いでから四分経ってから投入しました」
「四分?何故?最初から入れないの?」
「このカップうどんは熱湯を注いでから五分待つタイプです。一方南瓜のポタージュはお湯を入れてから十秒かき混ぜて一分放置しなければいけません。その時間差を考えて出来上がるおよそ一分前に、熱湯の量を考慮して、二袋のポタージュ粉末をうどんに入れるんです。そうしてグルグルと麺をかき混ぜてから最後にシメジなどの残りの具材を足すんです。南瓜もスープだけでは寂しいので、冷蔵庫にあった栗南瓜マヨネーズサラダを加えました。そうすると食感が南瓜ぼうとうに似てきます。ただし、洋風にしたため味噌は敢えて入れてません」
「はー、よく考えたわね。まさかポタージュでうどんを食べるとは。ほうとうとは趣が違うけどとろりとして美味しい」
幸せが溢れた笑み顔で箸を進める武美に吉継は解説した。
「粘性のある熱い食品は胃に入っても熱が冷めにくいんです。ですから体が温まるポタージュは風邪の食事に最適なんです。フランスでは、ポトフやスープ、ポタージュが喜ばれます。ウチも風邪の時は決まってポタージュです。特に南瓜はビタミンAに変わるβカロチンなどの粘膜や呼吸器を守る要素が強いですから風邪にはもってこいの食べ物で、他にもビタミンC、E、カルシウム、鉄分がバランス良く含まれているから冷え性や体力回復にも効果があるんです」
「そうね、昔から冬至の南瓜も知らず内に風邪予防になっていたんでしょうね」
納得した武美は無我夢中でほうとう風うどんを食べ続けた。
するとここで、羨ましそうに隣で指をくわえて眺める元に吉継は問いを出した。
「元、俺がこれはほうとう風だって説明した理由は二つあるんだ。一つ目はスープが洋風なのと、もう一つ、分かるか?」
「え、何?入ってる具材が違うの?」
「いや、具じゃなくて問題は麺なんだ」
「麺?普通のうどんだよね」
元は啜られる麺を確認した。
「このカップ麺の場合はな。ところが、ほうとうは実はうどんじゃないんだ。山梨じゃ別に『吉田うどん』があるけど、ほうとうは地元ではうどんと認められていない。それは塩で変わる」
「塩?」
「うどんは小麦粉を塩水で練って寝かせて作る。でも本格的なほうとうは塩が入っていない麺だから粉食料理とされている。ジャンルは水団(すいとん)と同じ。それと打ち粉が付いたまま麺を煮込むからスープに独特のとろみが生まれる。そこがうどんとの決定的な違いなんだ」
「へえ、うどんかと勝手に思ってたけど違うんだね」
「思い込みだな。あ、思い込みっていえばトンボもそうか」
吉継はある雑話を思い起こした。
「何?」
「トンボが縁起物ってさっきの話、あれ西洋じゃ逆に悪魔になっててさ」
「は?悪魔?」
「トンボは英語でDRAGONFLY(ドラゴンフライ)と言って、これは竜の虫って意味なんだけど、海外じゃキリスト教のせいか、竜は悪魔の化身とされていて忌み嫌われてる。トンボはまさに綴りの如く悪魔の虫なんだ。形も針に似ているから『悪魔の針』とも怖がられてる」
「えー、向こうじゃそんな扱いなの?トンボ可愛いのに!」
「ハハ、価値観の違いだな。コオロギとか蝉の鳴き声も風流と感じられるのは日本人とポリネシア人だけという研究もある。他の民族には雑音としか捉えられていないらしい。どうも育った地域の言語の影響でそうなっているみたいだぞ」
ここで右横の汐恩が感嘆した。
「料理以外も博識なんですね、コバ君」
「あ、ああ。まあ、トンボには色々因縁があるからな」
金吾鉛筆はトンボ社製の二色鉛筆を模倣した文具である。何か秀秋の成仏に関係あるかと調べまくっていたので必然トンボ生態や知識には詳しくなっていた。
吉継は武美の食べ終わる頃を見計らい汐恩へ問い掛けた。
「それより、汐恩。今のほうとう風うどんと、次に持ってくる料理には一つの関連性があるんだ。それを当ててみてくれ」
「私が、ですか?」
「食に詳しそうだからな。少し細工がある」
意味深な笑みで吉継は立ち上がり、すっかり空になったうどんの容器を退けると二品目の皿を運んできてテーブルに置いた。
「どうぞ、先生。本日の二品目です」
フォークとナイフが添えられた白い皿の上にはクレープに似た焦げ茶色の皮に、カンペール巻きという、端を四角く折りたたんで具を包んだ六センチ四方の料理が二つ並んでいた。
一つ目の茶色い具の上には半熟目玉焼きが乗っていて、その上に薄茶のソースが掛かっている。対して二つ目には溶けたチーズがたっぷりトッピングされていた。
そして付け合わせには半球に整えられた、細長いハーブが混ざったポテトサラダが添えられている。
「………これはもしかしてガレット・コンプレットの類ではありませんか?それに中身はハムでなくステーキと言った所でしょうか」
汐恩は気の抜けた感じで肩を落とした。ステーキのガレットも専属シェフを抱える細川家にとっては別段珍しくもない料理である。しかし、武美は肉と耳にして単純に喜んでいた。
「あらあら、お肉は控えるって駄目出しされたのにリクエストに応えてくれたのね、小早川君」
「名前は『二種のガレット』です。お召し上がり下さい」
肯定も否定もせずに裏を含んだ笑みを崩さず吉継は座って料理を勧めた。
汐恩はその様を不可解に思ったが、武美はナイフでガレットを一口切ってとろりとした卵に絡まったそれをフォークで口に入れた。
「美味しい!」
と直ぐに反応したが、
「けど肉じゃない!」
連続の驚きリアクションで武美は吉継を見た。吉継はしてやったりという片笑みを浮かべた。
「もう一口、よく噛んでみて下さい。具材が分かりますから」
武美は直ぐにもう一切れを食べた。そしてじっくりと味わってある記憶に辿り着いた。
「そうか。これ信玄豆腐ね、小早川君!」
「当たりです。乾物ですから戻す時に普通は水かお湯を使うんですが、今回は味を深めるために熱いコンソメスープを使いました。そして軽く絞ってから薄力粉をまぶして焼くと肉のようになるんです。それと卵の上に掛かっているのは、冷蔵庫にあった山梨の甲府味噌で作ったソースです」
「ああ、米麹と麦麹の甲府味噌がまた蕎麦のガレットに合う」
忽然とした表情で食べる武美に吉継は言った。
「棚にガレットミックス粉があって助かりました。蕎麦粉で作る普通のガレットは腕がなければある程度寝かさないと上手く生地が焼けないので。これはその過程が無い分楽でした」
「あら、私の菓子好きも役に立ったみたいね」
「そうですね。じゃあもう一つの方も味をみて下さい」
武美は吉継に勧められるまま、チーズの乗ったガレットも一口食べてみた。
「ん、こっちも信玄豆腐なのね。でも味が甘辛タレで全然違う。チーズに混ざって醤油の味がする」
「こっちも冷蔵庫の調味料を使いました。岐阜では馴染みのないものですけど何か分かりますか?多分甲府の実家から送ってもらっている物だと思いますけど」
「まさか、ビミサン?」
「はい、またまた大正解です」
パチパチと吉継は手を叩いた。
「さっきと同じように戻した豆腐を焼く時、ビミサンに砂糖とみりんを合わせた濃いタレで絡めるんです。味噌とはまた違って香ばしくなったでしょ?」
「ねえ、ヨシ、ビミサンって何よ?」
元がしびれを切らせて答えを急かした。
すると吉継は立ち上がって冷蔵庫へ向かい、黒い液体が入った一リットルペットボトルを持ってきてテーブルに置いた。ボトルの黄色いラベルには着物を着た少女のイラストと「テンヨのだしつゆ ビミサン」の文字が印刷してある。
「これがテンヨという甲府市の会社が作った濃縮出汁つゆ『ビミサン』だ。鰹節出汁と醤油をブレンドしたもので、甲信越地方じゃメジャーな調味料になってる。歴史ある会社の商品で醤油代わりに使われる事が多いんだ」
胡座をかいた吉継はガレットをパクパクと美味しそうに平らげていく武美を横目に簡単な説明を終えるとそのまま汐恩に向いた。
「ところで、汐恩、答えは分かったか?」
「さっぱりです。降参致しますわ」
汐恩は残念そうな表情で小さく両手を挙げた。
吉継は答えを明かした。
「実はほうとうとガレットの中身には武田信玄という共通点があるんだ」
「信玄が?」
「先ずほうとうなんだが、起源は諸説あって、信玄が上杉謙信との戦いの際の陣中食として兵士に振る舞ったとか、米が穫れず飢えに苦しむ農民に奨めたとか、伝家の宝刀(ほうとう)で食材を切ったからこの名前が付いたとか色々言われてる。でもほうとう自体は平安とか室町時代からあったから信玄が発明したというより広めたという方がしっくりくる」
「なるほど」
「それに野菜とかキノコ類とかをどっさり鍋に入れれば小麦粉も少なくて済むし、グツグツと煮込むから温まる上に栄養価も高い。まして本物は味噌も入れるからその分旨味も増す。もしかすると武田軍団の強みの基はほうとうだったかも知れないぞ」
「ではガレットは何ですの?」
「皮じゃなく中身な。信玄豆腐って先生も言ってたろ」
「でも耳慣れない食材ですので」
「そりゃそうだ。一般的には凍り豆腐、凍み豆腐。この辺りじゃ高野豆腐って名前だからな」
「あら、高野豆腐なのですか」
在り来たりの名前に汐恩は少し目を大きくした。
「山梨じゃ信玄豆腐の名称で通っている。それは信玄がこれまた兵糧食として採用していたとからと伝わってる。豆腐をカラカラに干してあるから傷まないし、軽いし携帯には便利だ。元来が大豆だからタンパク質やカルシウムや鉄分も豊富で、ビタミン・ミネラルの含有も優れていて完全食に近い。その上、血中の悪玉コレステロールの減少や脂質の吸着を防ぐレジスタントタンパクの割合も多く健康やダイエットを目指す人間には誂え向きの食品だ。修行僧が肉を食べず精進料理で乗り切れるのはこの高野豆腐のおかげとも言われてる」
「そうでしたの、ほうとうと高野豆腐にはそんな因果関係があったのですね」
「ああ、でも信玄繋がりならこの料理にはもう一つ隠れたエピソードがあるんだ」と吉継はビミサンのペットボトルを握った。
「このテンヨってメーカー、正式にはテンヨ武田って言うんだ。創業者は武田一族の末裔で、このテンヨも漢字で『天与』と書く。これには上杉謙信と関係がある。汐恩、『敵に塩を送る』ってことわざは知ってるだろ」
「え、ええ。敵を助けるという意味です」
突然の問題にもかかわらず汐恩はすぐさま正解を答えた。
「由来は?」
「それは上杉謙信が武田信玄に塩を送った、との逸話でしょう?」
「うん、さすが汐恩。でも、語源としては正解なんだけど史実としてはちょっと違うんだ。ね、先生?」
ガレットをすっかり食べ終わって満足そうにくつろぐ武美に吉継は話を振った。
「あ、ああ。それは塩止めの話かしら」
武美は生徒同士の話に聞き入っていたが、自分に話題が向けられて慌てて答えた。
「はい、解説をお願いします。甲府武田は先生のエリアでしょうから」
「もう、仕方ないわね」
武美はすると教師らしくノートを側の鞄から取り出し、簡単な日本地図と戦国の勢力図を書いて説明した。
「塩のことわざに関係してくるのは、武田と上杉と北条と今川の四家ね。甲府の武田信玄公は駿河の今川義元・相模の北条氏康とお互いに血縁関係を結んで甲相駿三国同盟を結んでいた。義元の娘を信玄公の息子に、信玄公の娘を北条氏康の息子に、北条氏康の娘を今川義元の息子にとお互い嫁がせたの。こうすると安心して自分の領地を守れるでしょ、細川さん?」
「そうです」
目を向けられた汐恩は頷いた。
武美は続けた。
「だけど今川は義元が桶狭間で信長に討たれ、息子の氏真(うじざね)が跡を継いだ。信玄公はこの時自分の長男義信を寺に閉じ込めて、義信に嫁いでいた義元の娘・嶺松院を駿府に送り返してしまったの。それで同盟は白紙になったわ」
「え、信玄は同盟を破ったんですか?どうしてですか?」
汐恩は興味深げに尋ねた。
「そうね、考えられるのは氏真が頼りなかったんでしょうね。戦国時代は弱肉強食、いくら親戚であっても弱くなれば攻めた。信玄公は京都に入って天下を狙いたい野望もあったから途中の駿府は欲しい。でも武田家の中でも今川をどうするかで揉めたんじゃないかしら。長男の義信は氏真の妹を嫁にしてたから気持ちは今川に近い。でも信玄公は義元がいなくなったこの機を狙って今川を攻めようとしていた。そんな時に信義が信玄公を暗殺する噂が流れた。だから寺に幽閉したのよ」
「そうだったんですか、丁寧な解説ありがとうございます」
丁重に頭を下げる汐恩へ武美は手を振った。
「別にお礼を言われる程じゃないけどね。それでその続きはこうなの。同盟を無しにされて怒った氏真が相模の北条氏康と相談して武田に塩を送る通路を塞いでしまった。これを塩止めっていうのよ。ここまではいい、松平さん?」
「何か社会の授業を受けてるみたい」
苦笑いした元であったが、武美の説明に前のめりで聴き入った。
「人は砂糖がなくても生きていけるけど塩が無いと死んでしまうのね。神奈川の北条も、静岡の今川も海があるから塩は簡単に手に入る。でも山梨・長野の武田は内陸で海が無いから塩を買わないといけない。それを止められたから信玄公には痛手だった。でも唯一新潟の上杉謙信だけはそういうやり方は卑怯だと塩止めをしなかった。だから越後からは長野を経由して塩が流入してきた。これが世に言う『敵に塩を送る』の語源になったのよ」
「へえ、直接塩をプレゼントしたんじゃないんだ」
「『我、兵を持って雌雄を戦いで決せん。塩をもって苦しめることはせぬ』とは謙信の言葉よ。まあ、苦しむ武田の足下を見て謙信が金儲けのために塩を高く売りつけたって身も蓋もない説もあるんだけどね。それにこの話自体の信憑性も疑われているの。さっきの謙信の言葉は江戸時代の『武将感状記』に記されているんだけど、著者であるはずの熊沢猪太郎正興の存在が明らかじゃなくて。そもそも信玄と氏真じゃ力が違いすぎる。武田が今川を攻めればあっという間に滅んでしまうだろうから塩止めの効果は無かったんじゃないかって。でも私は謙信との美談の方が好きだわ。信玄公が謙信に塩止めをしなかった礼に太刀を贈っててね、それは現存して『塩留めの太刀』と呼ばれてるのよ」
ここで汐恩が吉継に向いた。
「塩止めの歴史はよく分かりました。天与のお話は?」
吉継は武美からバトンを受けて説明を続けた。
「ああ、それからが繋がるんだ。謙信の計らいで越後から塩は入ってきた。でも信玄はそれを謙信の寛大な措置と領民には公言出来ない。何せ敵だからな。だからその塩を『天から与えられた塩』という名目で武田の民に与えたんだ。それが短く『天与』となり、やがて会社名がテンヨになったんだ」
「まさか、付け合わせのポテトサラダにも何らかの意味があると?」
「当たり。蕎麦の成分のルチンはビタミンCと一緒に摂ると吸収が良くてさ。ジャガイモには多量のビタミンCが含まれてる。それにジャガイモと山梨には切っても切れない無名の代官の物語が隠れてる」
「代官?どなたですの?」
「これは母さんから教えてもらった話だけど、中井清太夫(なかいせいだゆう)九敬という江戸後期の代官がその話の主役なんだ」
「幕府のお役人なのですね」
「うん。清太夫は甲府へ赴任して、農民を飢饉から救うために、その頃はまだジャガイモが日本に広まっていなかった時代なんだが、南米から長崎へ入ってきていた種芋を取り寄せて救荒食物として甲府の地に根付かせたんだ。それが成功し、甲府ではジャガイモのお陰で飢饉を乗り越えた農民が大勢いたという。それで甲府の一部ではジャガイモを清太夫芋とか清太芋と呼ぶんだ。清太夫が江戸へ戻る時には地元の皆が別れを惜しんで国境まで見送りに来ていたそうだ」
「まあ、そんな方がお見えになったんですか。素晴らしいです」
汐恩は感慨深げに言った。
「だから山梨の上野原市では中井清太夫を『芋大明神』として今でも祀っている。一人の熱意が大勢の人命を救って、更に長野や新潟、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川まで甲州芋の名で広まり、それは人々の糧となった。清太夫のような命の基礎を作った偉人達こそ褒め称えるべきだって母さんは言ってるけどね。ついでに信玄の墓とされる石棺を在任中、塚の中から見付けたのも清太夫なんだ。上野原市ではその清太夫にあやかって『せいだ(清太)のたまじ』って小粒のジャガイモを味噌と砂糖で甘辛く煮た料理があるよ」
「それでポテトサラダを?」
「本当は話の繋がり上、アッシェ・パルマンティエを作った方がいいんだろうけど時間が無いのと、ある理由でサラダに変更した」
「アッシェ・パルマンティエ?」
「フランスの郷土料理だよ。ジャガイモと挽肉とチーズで作る重ね焼きの事。実は昔のフランスでもジャガイモ導入の状況は似てた。飢饉対策として持ち込まれたんだ。アントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエという農学者の登場でフランス革命の時に食糧難でジャガイモ栽培が進展したからな。それからポテトはフランス人の日常食になって、ヌイイ市にはパルマンティエの銅像が建てられている。日仏で崇められている二人とも似てるから、パルマンティエは『フランスの清太夫』、清太夫は『甲府のパルマンティエ』と言っていい」
両国の相似点を述べてから吉継はポテトサラダのレシピを語った。
「茹でで潰したジャガイモにゆで卵と乾燥のディルとマヨネーズとマスタードとレモン汁と生クリームとヨーグルトを和えたソースでミックスする。フレンチ風に少し酸味のあるサラダに仕上げたんだ」
「なるほど、料理全てが山梨や武田信玄に通じていたんですね。甲府出身で信玄愛好家の先生に喜んで頂こうと」
「表向きの理由はそうだ」
武美は寝室に戻るとベッド前のクッションに座りすっかり気落ちしていた。
「あのような何が何でも噛み付いてくる害のある気色悪い生き物を愛でる神経が私には到底理解出来かねます」
汐恩にしては珍しくきつい語気で武美を責めた。恥ずかしい弱点を図らずも露呈してしまったのか、未だに腹の虫が治まらないらしい。
武美は言い訳するように述べた。
「でもね、百足は前にしか進まないから潔さが武将に好かれたの。足が沢山あるから客足が絶えないって商売繁盛の意味もあるんだから」
「それでも今は時代が違います。もう地上から絶滅してほしいくらいです」
反論を許さず汐恩は言い返した。余程咬まれた記憶がトラウマになっているのだろう。
「まあまあ、汐恩、今回のはアクシデントだったんだから先生に当たるのは筋違いだぞ」
キッチンで調理を再開した吉継は寝室に向けて切り出した。
「それは、まあ、そうですけど」
「それに百足は毘沙門天の使いと貴ばれてて、武田軍団の中でも山県昌景とか高坂昌信とかの百足衆と呼ばれた使番十二人衆は一目置かれていたんだ。当時は剛勇で選ばれたエリート集団だったんだ。つまり百足は憧れの象徴でもあって武将にとっては神格化された最高の縁起物って訳」
「まあ、小早川君はさすがね」
急に援軍を得て武美は復活した。
「あれ、でも虫なら確かトンボも昔から縁起が良いんだよね」
元が思い出して言った。吉継は説明を足した。
「百足と同じ前に進む勝ち虫だからな。でもそれをバッサリと切ってしまった本田忠勝の『蜻蛉切り』はどうなんだって批判があるぞ」
本田平八郎忠勝は家康を護る徳川四天王の一人であり、勇猛な槍遣いとして名高い。蜻蛉切りはそんな忠勝が所有していた大身槍で、鋭い穂先に止まったトンボが勝手に真っ二つに切れた由から命名された。
「あれはトンボが自滅しただけで別に忠勝がわざとやったんじゃないもん」
ぷうと不機嫌に膨れる元に吉継は笑った。
「冗談だって、それより忠勝とくれば元はあの言葉を知ってるだろう。家康に過ぎたるものが二つあり………」
「唐の頭(かしら)に本田平八」
「お、徳川を語らせたら日本一!」
吉継はわざと大袈裟に褒め称えた。
「まあね、家康関係なら任せなさい。唐の頭は兜、本田平八は負け知らずの本田忠勝よ。五十七回の戦いでも傷一つ負わなかった強者なんだから」
直ぐに機嫌を直して元は自慢した。すると吉継は更に踏み込んで聞き出そうとした。
「じゃあ、その唐の兜はどんなのだ?」
「え、ええっと、それは………」
元の額に冷や汗が滲んだ。忠勝の伝説は知っているが兜の詳細までは知識がない。ごめんなさい、知りませんと正直にうなだれる元に吉継は解説した。
「唐の頭は武田信玄と同じヤクの毛が使われた兜だよ。偶然かもしれないけど、武田と徳川の敵味方の主が同じような兜を被っていたかと思うと不思議だよな」
「それなら赤備(あかぞな)えもそうでしょう」
と武美が物知り顔で台所へ声を掛けた。
「小早川君、その着ているエプロンの左上に何か見えない?」
吉継は問われるまま目を下に向けた。すると気付いてなかったが、小さく黒い丸に花菱紋と「THE RED ARMOR」のアルファベットが見えた。
こんな所まで武田か、と吉継は呆れ笑った。
「山県昌景(やまがたまさかげ)ですね、これ。まさかこの赤いエプロンって赤備えなんですか」
「いいでしょ、通販で買ったのよ。去年の大河で赤備えは真田にお株を取られちゃってたけど、元々は武田の部隊だったんだから」
「げえ、私にとって山県昌景は天敵なんだよね」
元が苦り切った顔を武美に向けた。三方原の戦いで最後まで家康を散々苦しめたのがこの昌景であったからで、城に逃げ帰った家康は「山県という者、恐ろしき武将ぞ」と震えていたという。
武美は庇うように指摘した。
「でも逆に徳川を鍛えたのは武田と言えるわよ。だから武田家が滅した後、山県隊にいた赤備えの旧臣達を家康が引き取った時、井伊直政はその装備も引き継いだ。関ヶ原で活躍した井伊はつまり武田の志を受け継いでいたのね」
「武田軍団は信長でさえ恐れた戦国最強とも伝えられてますから」
吉継はトレーに出来上がった料理を乗せて寝室に運んできた。
「さて、大変お待たせしました。こちらが本日のメインディシュとなります」
「え?」
キーボードと本が片付けられたローテーブルに置かれたその料理を見て一同は愕然とした。
何と割り箸とレンゲが添えられた、蓋で閉じられたインスタントのカップうどんである。
「ヨシ、あんたねえ、一時間近くも掛かってこれはないんじゃないの!それにカップ麺は先生も食べ飽きたって言ってたじゃない!」
元は気色ばんだが、真向かいの汐恩は冷静でいた。
「松平さん、コバ君に限ってそんな筈はないでしょう。先生、蓋を開けてみて下さい」
「あ、ええ」
期待していた料理と違って些か落胆していた武美は取り敢えず蓋をペリッとめくった。
見ると確かに期待は裏切られていなかった。
中身の麺はインスタントのうどんではあるが、野菜の黄色に溶けたスープにはゴロッと残ったカット南瓜の塊と、焼けたシメジと煮込んだ白菜が具材としてトッピングしてある。
「これは!」
武美は目を大きく広げて、ウエイターのように立って待機している吉継を仰ぎ見た。
「これはまさか『南瓜ぼうとう』なの?」
ほうとうは山梨では誰もが知る郷土食である。
季節の根菜類を味噌の出汁で平たい麺を煮込むのであるが、まさかここで口にするとは想像していなかった。南瓜ぼうとうは名前の通り、南瓜が具のメインで溶けるほど煮込むためスープに丁度良いコクが出る。
武美と向かい合う席に腰を下ろした吉継は頭を横に振った。
「正確には『ほうとう風』です。どうぞ熱い内に召し上がって下さい」
「ええ!」
懐かしい郷土料理に目を輝かせた武美は割り箸を折ると、早速麺をズズッと啜った。途端火傷しそうなくらいの熱く濃厚なスープが麺にまとわりついてきた。
「熱!でも美味しい!何、これ、ほうとうの汁じゃないわ」
武美は正面の吉継に説明を求めた。
吉継は掌に隠し持っていた小さな緑色の箱を武美に見せた。
「汁にはこれを使いました」
その箱のパッケージには「かぼちゃのポタージュ」と書かれていた。お湯を注ぐだけで完成するインスタントスープの素である。
「ポタージュ!?」
驚いた武美は黄色いスープをレンゲで飲んで味を確かめた。
「あ、パンプキンポタージュね、確かに!」
吉継は微笑して解説した。
「ほうとうの南瓜が溶けた汁を再現するにはこれが手っ取り早いんです。洋風南瓜ぼうとう、という感じでしょうか」
「そうね、まさに洋風だわ」
レンゲで再び味わう武美に吉継はレシピを話した。
「作り方は簡単です。カップうどんの付属のスープ粉を使わずに、その代わりにこの南瓜のポタージュ粉末を、お湯を注いでから四分経ってから投入しました」
「四分?何故?最初から入れないの?」
「このカップうどんは熱湯を注いでから五分待つタイプです。一方南瓜のポタージュはお湯を入れてから十秒かき混ぜて一分放置しなければいけません。その時間差を考えて出来上がるおよそ一分前に、熱湯の量を考慮して、二袋のポタージュ粉末をうどんに入れるんです。そうしてグルグルと麺をかき混ぜてから最後にシメジなどの残りの具材を足すんです。南瓜もスープだけでは寂しいので、冷蔵庫にあった栗南瓜マヨネーズサラダを加えました。そうすると食感が南瓜ぼうとうに似てきます。ただし、洋風にしたため味噌は敢えて入れてません」
「はー、よく考えたわね。まさかポタージュでうどんを食べるとは。ほうとうとは趣が違うけどとろりとして美味しい」
幸せが溢れた笑み顔で箸を進める武美に吉継は解説した。
「粘性のある熱い食品は胃に入っても熱が冷めにくいんです。ですから体が温まるポタージュは風邪の食事に最適なんです。フランスでは、ポトフやスープ、ポタージュが喜ばれます。ウチも風邪の時は決まってポタージュです。特に南瓜はビタミンAに変わるβカロチンなどの粘膜や呼吸器を守る要素が強いですから風邪にはもってこいの食べ物で、他にもビタミンC、E、カルシウム、鉄分がバランス良く含まれているから冷え性や体力回復にも効果があるんです」
「そうね、昔から冬至の南瓜も知らず内に風邪予防になっていたんでしょうね」
納得した武美は無我夢中でほうとう風うどんを食べ続けた。
するとここで、羨ましそうに隣で指をくわえて眺める元に吉継は問いを出した。
「元、俺がこれはほうとう風だって説明した理由は二つあるんだ。一つ目はスープが洋風なのと、もう一つ、分かるか?」
「え、何?入ってる具材が違うの?」
「いや、具じゃなくて問題は麺なんだ」
「麺?普通のうどんだよね」
元は啜られる麺を確認した。
「このカップ麺の場合はな。ところが、ほうとうは実はうどんじゃないんだ。山梨じゃ別に『吉田うどん』があるけど、ほうとうは地元ではうどんと認められていない。それは塩で変わる」
「塩?」
「うどんは小麦粉を塩水で練って寝かせて作る。でも本格的なほうとうは塩が入っていない麺だから粉食料理とされている。ジャンルは水団(すいとん)と同じ。それと打ち粉が付いたまま麺を煮込むからスープに独特のとろみが生まれる。そこがうどんとの決定的な違いなんだ」
「へえ、うどんかと勝手に思ってたけど違うんだね」
「思い込みだな。あ、思い込みっていえばトンボもそうか」
吉継はある雑話を思い起こした。
「何?」
「トンボが縁起物ってさっきの話、あれ西洋じゃ逆に悪魔になっててさ」
「は?悪魔?」
「トンボは英語でDRAGONFLY(ドラゴンフライ)と言って、これは竜の虫って意味なんだけど、海外じゃキリスト教のせいか、竜は悪魔の化身とされていて忌み嫌われてる。トンボはまさに綴りの如く悪魔の虫なんだ。形も針に似ているから『悪魔の針』とも怖がられてる」
「えー、向こうじゃそんな扱いなの?トンボ可愛いのに!」
「ハハ、価値観の違いだな。コオロギとか蝉の鳴き声も風流と感じられるのは日本人とポリネシア人だけという研究もある。他の民族には雑音としか捉えられていないらしい。どうも育った地域の言語の影響でそうなっているみたいだぞ」
ここで右横の汐恩が感嘆した。
「料理以外も博識なんですね、コバ君」
「あ、ああ。まあ、トンボには色々因縁があるからな」
金吾鉛筆はトンボ社製の二色鉛筆を模倣した文具である。何か秀秋の成仏に関係あるかと調べまくっていたので必然トンボ生態や知識には詳しくなっていた。
吉継は武美の食べ終わる頃を見計らい汐恩へ問い掛けた。
「それより、汐恩。今のほうとう風うどんと、次に持ってくる料理には一つの関連性があるんだ。それを当ててみてくれ」
「私が、ですか?」
「食に詳しそうだからな。少し細工がある」
意味深な笑みで吉継は立ち上がり、すっかり空になったうどんの容器を退けると二品目の皿を運んできてテーブルに置いた。
「どうぞ、先生。本日の二品目です」
フォークとナイフが添えられた白い皿の上にはクレープに似た焦げ茶色の皮に、カンペール巻きという、端を四角く折りたたんで具を包んだ六センチ四方の料理が二つ並んでいた。
一つ目の茶色い具の上には半熟目玉焼きが乗っていて、その上に薄茶のソースが掛かっている。対して二つ目には溶けたチーズがたっぷりトッピングされていた。
そして付け合わせには半球に整えられた、細長いハーブが混ざったポテトサラダが添えられている。
「………これはもしかしてガレット・コンプレットの類ではありませんか?それに中身はハムでなくステーキと言った所でしょうか」
汐恩は気の抜けた感じで肩を落とした。ステーキのガレットも専属シェフを抱える細川家にとっては別段珍しくもない料理である。しかし、武美は肉と耳にして単純に喜んでいた。
「あらあら、お肉は控えるって駄目出しされたのにリクエストに応えてくれたのね、小早川君」
「名前は『二種のガレット』です。お召し上がり下さい」
肯定も否定もせずに裏を含んだ笑みを崩さず吉継は座って料理を勧めた。
汐恩はその様を不可解に思ったが、武美はナイフでガレットを一口切ってとろりとした卵に絡まったそれをフォークで口に入れた。
「美味しい!」
と直ぐに反応したが、
「けど肉じゃない!」
連続の驚きリアクションで武美は吉継を見た。吉継はしてやったりという片笑みを浮かべた。
「もう一口、よく噛んでみて下さい。具材が分かりますから」
武美は直ぐにもう一切れを食べた。そしてじっくりと味わってある記憶に辿り着いた。
「そうか。これ信玄豆腐ね、小早川君!」
「当たりです。乾物ですから戻す時に普通は水かお湯を使うんですが、今回は味を深めるために熱いコンソメスープを使いました。そして軽く絞ってから薄力粉をまぶして焼くと肉のようになるんです。それと卵の上に掛かっているのは、冷蔵庫にあった山梨の甲府味噌で作ったソースです」
「ああ、米麹と麦麹の甲府味噌がまた蕎麦のガレットに合う」
忽然とした表情で食べる武美に吉継は言った。
「棚にガレットミックス粉があって助かりました。蕎麦粉で作る普通のガレットは腕がなければある程度寝かさないと上手く生地が焼けないので。これはその過程が無い分楽でした」
「あら、私の菓子好きも役に立ったみたいね」
「そうですね。じゃあもう一つの方も味をみて下さい」
武美は吉継に勧められるまま、チーズの乗ったガレットも一口食べてみた。
「ん、こっちも信玄豆腐なのね。でも味が甘辛タレで全然違う。チーズに混ざって醤油の味がする」
「こっちも冷蔵庫の調味料を使いました。岐阜では馴染みのないものですけど何か分かりますか?多分甲府の実家から送ってもらっている物だと思いますけど」
「まさか、ビミサン?」
「はい、またまた大正解です」
パチパチと吉継は手を叩いた。
「さっきと同じように戻した豆腐を焼く時、ビミサンに砂糖とみりんを合わせた濃いタレで絡めるんです。味噌とはまた違って香ばしくなったでしょ?」
「ねえ、ヨシ、ビミサンって何よ?」
元がしびれを切らせて答えを急かした。
すると吉継は立ち上がって冷蔵庫へ向かい、黒い液体が入った一リットルペットボトルを持ってきてテーブルに置いた。ボトルの黄色いラベルには着物を着た少女のイラストと「テンヨのだしつゆ ビミサン」の文字が印刷してある。
「これがテンヨという甲府市の会社が作った濃縮出汁つゆ『ビミサン』だ。鰹節出汁と醤油をブレンドしたもので、甲信越地方じゃメジャーな調味料になってる。歴史ある会社の商品で醤油代わりに使われる事が多いんだ」
胡座をかいた吉継はガレットをパクパクと美味しそうに平らげていく武美を横目に簡単な説明を終えるとそのまま汐恩に向いた。
「ところで、汐恩、答えは分かったか?」
「さっぱりです。降参致しますわ」
汐恩は残念そうな表情で小さく両手を挙げた。
吉継は答えを明かした。
「実はほうとうとガレットの中身には武田信玄という共通点があるんだ」
「信玄が?」
「先ずほうとうなんだが、起源は諸説あって、信玄が上杉謙信との戦いの際の陣中食として兵士に振る舞ったとか、米が穫れず飢えに苦しむ農民に奨めたとか、伝家の宝刀(ほうとう)で食材を切ったからこの名前が付いたとか色々言われてる。でもほうとう自体は平安とか室町時代からあったから信玄が発明したというより広めたという方がしっくりくる」
「なるほど」
「それに野菜とかキノコ類とかをどっさり鍋に入れれば小麦粉も少なくて済むし、グツグツと煮込むから温まる上に栄養価も高い。まして本物は味噌も入れるからその分旨味も増す。もしかすると武田軍団の強みの基はほうとうだったかも知れないぞ」
「ではガレットは何ですの?」
「皮じゃなく中身な。信玄豆腐って先生も言ってたろ」
「でも耳慣れない食材ですので」
「そりゃそうだ。一般的には凍り豆腐、凍み豆腐。この辺りじゃ高野豆腐って名前だからな」
「あら、高野豆腐なのですか」
在り来たりの名前に汐恩は少し目を大きくした。
「山梨じゃ信玄豆腐の名称で通っている。それは信玄がこれまた兵糧食として採用していたとからと伝わってる。豆腐をカラカラに干してあるから傷まないし、軽いし携帯には便利だ。元来が大豆だからタンパク質やカルシウムや鉄分も豊富で、ビタミン・ミネラルの含有も優れていて完全食に近い。その上、血中の悪玉コレステロールの減少や脂質の吸着を防ぐレジスタントタンパクの割合も多く健康やダイエットを目指す人間には誂え向きの食品だ。修行僧が肉を食べず精進料理で乗り切れるのはこの高野豆腐のおかげとも言われてる」
「そうでしたの、ほうとうと高野豆腐にはそんな因果関係があったのですね」
「ああ、でも信玄繋がりならこの料理にはもう一つ隠れたエピソードがあるんだ」と吉継はビミサンのペットボトルを握った。
「このテンヨってメーカー、正式にはテンヨ武田って言うんだ。創業者は武田一族の末裔で、このテンヨも漢字で『天与』と書く。これには上杉謙信と関係がある。汐恩、『敵に塩を送る』ってことわざは知ってるだろ」
「え、ええ。敵を助けるという意味です」
突然の問題にもかかわらず汐恩はすぐさま正解を答えた。
「由来は?」
「それは上杉謙信が武田信玄に塩を送った、との逸話でしょう?」
「うん、さすが汐恩。でも、語源としては正解なんだけど史実としてはちょっと違うんだ。ね、先生?」
ガレットをすっかり食べ終わって満足そうにくつろぐ武美に吉継は話を振った。
「あ、ああ。それは塩止めの話かしら」
武美は生徒同士の話に聞き入っていたが、自分に話題が向けられて慌てて答えた。
「はい、解説をお願いします。甲府武田は先生のエリアでしょうから」
「もう、仕方ないわね」
武美はすると教師らしくノートを側の鞄から取り出し、簡単な日本地図と戦国の勢力図を書いて説明した。
「塩のことわざに関係してくるのは、武田と上杉と北条と今川の四家ね。甲府の武田信玄公は駿河の今川義元・相模の北条氏康とお互いに血縁関係を結んで甲相駿三国同盟を結んでいた。義元の娘を信玄公の息子に、信玄公の娘を北条氏康の息子に、北条氏康の娘を今川義元の息子にとお互い嫁がせたの。こうすると安心して自分の領地を守れるでしょ、細川さん?」
「そうです」
目を向けられた汐恩は頷いた。
武美は続けた。
「だけど今川は義元が桶狭間で信長に討たれ、息子の氏真(うじざね)が跡を継いだ。信玄公はこの時自分の長男義信を寺に閉じ込めて、義信に嫁いでいた義元の娘・嶺松院を駿府に送り返してしまったの。それで同盟は白紙になったわ」
「え、信玄は同盟を破ったんですか?どうしてですか?」
汐恩は興味深げに尋ねた。
「そうね、考えられるのは氏真が頼りなかったんでしょうね。戦国時代は弱肉強食、いくら親戚であっても弱くなれば攻めた。信玄公は京都に入って天下を狙いたい野望もあったから途中の駿府は欲しい。でも武田家の中でも今川をどうするかで揉めたんじゃないかしら。長男の義信は氏真の妹を嫁にしてたから気持ちは今川に近い。でも信玄公は義元がいなくなったこの機を狙って今川を攻めようとしていた。そんな時に信義が信玄公を暗殺する噂が流れた。だから寺に幽閉したのよ」
「そうだったんですか、丁寧な解説ありがとうございます」
丁重に頭を下げる汐恩へ武美は手を振った。
「別にお礼を言われる程じゃないけどね。それでその続きはこうなの。同盟を無しにされて怒った氏真が相模の北条氏康と相談して武田に塩を送る通路を塞いでしまった。これを塩止めっていうのよ。ここまではいい、松平さん?」
「何か社会の授業を受けてるみたい」
苦笑いした元であったが、武美の説明に前のめりで聴き入った。
「人は砂糖がなくても生きていけるけど塩が無いと死んでしまうのね。神奈川の北条も、静岡の今川も海があるから塩は簡単に手に入る。でも山梨・長野の武田は内陸で海が無いから塩を買わないといけない。それを止められたから信玄公には痛手だった。でも唯一新潟の上杉謙信だけはそういうやり方は卑怯だと塩止めをしなかった。だから越後からは長野を経由して塩が流入してきた。これが世に言う『敵に塩を送る』の語源になったのよ」
「へえ、直接塩をプレゼントしたんじゃないんだ」
「『我、兵を持って雌雄を戦いで決せん。塩をもって苦しめることはせぬ』とは謙信の言葉よ。まあ、苦しむ武田の足下を見て謙信が金儲けのために塩を高く売りつけたって身も蓋もない説もあるんだけどね。それにこの話自体の信憑性も疑われているの。さっきの謙信の言葉は江戸時代の『武将感状記』に記されているんだけど、著者であるはずの熊沢猪太郎正興の存在が明らかじゃなくて。そもそも信玄と氏真じゃ力が違いすぎる。武田が今川を攻めればあっという間に滅んでしまうだろうから塩止めの効果は無かったんじゃないかって。でも私は謙信との美談の方が好きだわ。信玄公が謙信に塩止めをしなかった礼に太刀を贈っててね、それは現存して『塩留めの太刀』と呼ばれてるのよ」
ここで汐恩が吉継に向いた。
「塩止めの歴史はよく分かりました。天与のお話は?」
吉継は武美からバトンを受けて説明を続けた。
「ああ、それからが繋がるんだ。謙信の計らいで越後から塩は入ってきた。でも信玄はそれを謙信の寛大な措置と領民には公言出来ない。何せ敵だからな。だからその塩を『天から与えられた塩』という名目で武田の民に与えたんだ。それが短く『天与』となり、やがて会社名がテンヨになったんだ」
「まさか、付け合わせのポテトサラダにも何らかの意味があると?」
「当たり。蕎麦の成分のルチンはビタミンCと一緒に摂ると吸収が良くてさ。ジャガイモには多量のビタミンCが含まれてる。それにジャガイモと山梨には切っても切れない無名の代官の物語が隠れてる」
「代官?どなたですの?」
「これは母さんから教えてもらった話だけど、中井清太夫(なかいせいだゆう)九敬という江戸後期の代官がその話の主役なんだ」
「幕府のお役人なのですね」
「うん。清太夫は甲府へ赴任して、農民を飢饉から救うために、その頃はまだジャガイモが日本に広まっていなかった時代なんだが、南米から長崎へ入ってきていた種芋を取り寄せて救荒食物として甲府の地に根付かせたんだ。それが成功し、甲府ではジャガイモのお陰で飢饉を乗り越えた農民が大勢いたという。それで甲府の一部ではジャガイモを清太夫芋とか清太芋と呼ぶんだ。清太夫が江戸へ戻る時には地元の皆が別れを惜しんで国境まで見送りに来ていたそうだ」
「まあ、そんな方がお見えになったんですか。素晴らしいです」
汐恩は感慨深げに言った。
「だから山梨の上野原市では中井清太夫を『芋大明神』として今でも祀っている。一人の熱意が大勢の人命を救って、更に長野や新潟、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川まで甲州芋の名で広まり、それは人々の糧となった。清太夫のような命の基礎を作った偉人達こそ褒め称えるべきだって母さんは言ってるけどね。ついでに信玄の墓とされる石棺を在任中、塚の中から見付けたのも清太夫なんだ。上野原市ではその清太夫にあやかって『せいだ(清太)のたまじ』って小粒のジャガイモを味噌と砂糖で甘辛く煮た料理があるよ」
「それでポテトサラダを?」
「本当は話の繋がり上、アッシェ・パルマンティエを作った方がいいんだろうけど時間が無いのと、ある理由でサラダに変更した」
「アッシェ・パルマンティエ?」
「フランスの郷土料理だよ。ジャガイモと挽肉とチーズで作る重ね焼きの事。実は昔のフランスでもジャガイモ導入の状況は似てた。飢饉対策として持ち込まれたんだ。アントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエという農学者の登場でフランス革命の時に食糧難でジャガイモ栽培が進展したからな。それからポテトはフランス人の日常食になって、ヌイイ市にはパルマンティエの銅像が建てられている。日仏で崇められている二人とも似てるから、パルマンティエは『フランスの清太夫』、清太夫は『甲府のパルマンティエ』と言っていい」
両国の相似点を述べてから吉継はポテトサラダのレシピを語った。
「茹でで潰したジャガイモにゆで卵と乾燥のディルとマヨネーズとマスタードとレモン汁と生クリームとヨーグルトを和えたソースでミックスする。フレンチ風に少し酸味のあるサラダに仕上げたんだ」
「なるほど、料理全てが山梨や武田信玄に通じていたんですね。甲府出身で信玄愛好家の先生に喜んで頂こうと」
「表向きの理由はそうだ」
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