「わッ、これ、もしかして『ボルガライス』?」
「晶、武生(たけふ)で、好きでよく食べてたって言ってたろ。でもただのボルガライスじゃないぞ」
ボルガライスは福井県越前市武生地区の名物料理で、オムライスの上にトンカツを載せ、トマトソースやデミグラスソースなどを掛けた郷土グルメである。店舗によって中身がチキンライスやピラフ、チャーハンだったり、ソースも店舗によって変えたりするので一定の決まりも無く、その名の由来もロシア料理説やイタリア料理説など諸説あり決定的な定義は無い。
それでも武生地区では長く愛されているメニューなのである。
秀晶は生まれが敦賀でもこの武生のボルガライスには一家言持っていた。
「うん?見た目普通のボルガライスだよね。サワークリームが足されてるくらいで」
「いいから、食べてみ」
吉継は秀晶にスプーンを渡した。
秀晶はそれを受け取って一口トマトソースがかかっている熱々のカツを食べた。
するとシャクッと歯切れ良い感触と普通のトンカツには無い柔らかさがトロリとした食感と共に口の中で舞った。
「美味しーい!あ、これミルフィーユカツだ!それも肉の間にチーズが挟んである」
「大正解。ならそのままカツと一緒にオムライスも食べて」
「うん」
勧められるまま秀晶はその食べ方に従った。
「ん!んん!」
口に入れたのと同時に秀晶はどうしてミルフィーユカツなのかを瞬時に理解した。
薄切り豚肉を重ねて揚げた先程のミルフィーユカツに柔らかいフワトロオムレツとその下に隠れている、人参などの細かく切った野菜が混ぜ込まれている薄味のケチャップライスと、サワークリームに混じったコクのあるデミグラスソースが溶け合って絶妙に一体感を醸し出していた。
柔らかいカツだからこそ、柔らかいオムライスにマッチするのである。そしてチーズとカツと卵がトマトソースとデミグラスソースに絡まってより深い味わいになる。
「これ超美味しい!」
空腹と美味でパクパクとスプーンを進めていく秀晶であったが、
「あ、晶、ちょっとストップ」
と吉継から制止が掛かった。
「………何?」
「忘れてた。これも今日のお礼に」
吉継は大きめのグラスに注がれた鮮やかなグリーンの炭酸飲料を前に置いた。
上にはバニラアイスが浮いている。
「まさかこれ『さわやか』?」
さわやかとは「ローヤルさわやか」という福井のご当地メロンソーダである。吉継は山と湖がラベルになっている五百ミリのグリーンのペットボトルを見せて説明した。
「アイス足したから『さわやかフロート』かな。最近ウチでもメニューで扱おうって話でさ。最初はやっぱり福井出身の晶に飲んで欲しかったんだ。よく店手伝ってくれてありがとな。皆助かってるよ」
「えっと、うん………私こそいつもアリガト」
笑顔で礼を言われ急に照れ臭くなった秀晶は下を向いてストローでソーダをズズッとすすった。
「それはそうとさ、ヨシ、茶会どうするの。汐恩に付くの?それとも元?」
「その話は止めてくれ、頭が痛くなる」
毎日のようにLINEで汐恩から協力を要請されている吉継はげんなりとした顔を下げた。
「あはは、私も迷っているんだよね。女子の間でも引き抜き合いみたいになっててさ。今のところは中立」
「男子も似たようなもんだ。態度をはっきりさせているのは三大(みつひろ)と左人志だけ。三大は元の敵だから汐恩に付く。左人志は三大の連れだから離れない」
「こっちは真央と正沙子は根っからの元派だし、佳乃と孝奈と美豊と幸梅も元と仲いいんだよねえ」
「全く、元のヤツが茶屋比べもクラスの人気で競いましょうなんて焚き付けるからクラスが分裂して、居心地悪いったらないぞ。変な争いにみんなを巻き込むなって」
「あはは」
秀晶は食べながら苦笑した。
「おっと、晶はそのまま食べててくれ。俺と父さんは後で食べるから」
吉継は時計を見て慌てて再びキッチンで料理を始めた。いつもならさっさと片付けている時間である。秀晶は手を止めて野菜や肉などが載ったまな板を見た。
「ヨシ、何してるの?」
「仕事があるって言ったろ。これから特別なお客さんご一行がみえるんだ。その料理の下拵え」
「特別なお客さん?」
「定期的にウチにランチを予約して下さるんだけどな。あ、晶は今までタイミングがあってなかったから初めての顔合わせになるのか」
「てか、ヨシ、敬語で仰々しいんだけど。そのお客さんってどこかのお偉いさんなの?」
「うーん、お偉いさんといえばそうなんだけど。昔、ウチのスポンサーだった方だからな。父さん達がここで店を出す時に資金とか出資してもらって凄くお世話になったんだ。今はもう借り入れたお金は返済したけど恩人なんだよ」
「へー」
その点は関心なさそうに秀晶はボルガライスを再び食べ始めた。
吉継は笑って椎茸の軸をナイフで削いだ。
「晶、お前も無関係じゃないぞ」
「はんへ(なんで)?」
スプーンをくわえたまま尋ねる秀晶に吉継は答えた。
「その方々はウチのクラスメートの御両親だ。お前ももちろんよく知ってる」
誰?と秀晶が聞き返そうとすると店の扉が勢いよく開いた。
そして、
「Hola(オラ)!」
突然一陣の風と共に威勢の良い声が店を吹き抜けた。
見ると長くウェーブのかかった深い色の茶髪をした、彫りの深い青い瞳の女性が右手を挙げて元気よく入店してきた。年の頃は三十代後半といった所であるが、長い足とスレンダーなスタイルのためか黒いセーターに白いジーンズがシンプルだがよく映えている。
秀晶は予想外の出来事にグッと喉を詰まらせて、吉継の袖を引っ張り、その女性に向けてスプーンを差した。
「ヨシ、どうしよう。外人さんだよ!それもクララ・アロンソ似の超美人だよ」
「晶、その『外人さん』は失礼だぞ」
それと人にスプーンを向けるな、と吉継は秀晶を一旦落ち着かせその女性に声を掛けた。
「Bienvenida!Sra.(ビエンベニーダ、セニョーラ/いらっしゃい)¿Cómo está?(コモ・エスタ/お元気ですか)」
「へ?」
吉継から発せられた唐突な外国語に秀晶は目をぱちくりさせた。
「Muy bien.(ムイ・ビエーン/ええ、とても元気よ)!」
明るい笑顔で女性は親指をグイと立てた。
どうも吉継の知り合いらしい。秀晶は小声で尋ねた。
「ヨシ、どちらさん?」
「こちらが今日の特別なお客さん」
「日本人じゃないって聞いてないよ!」
「いや、もうお一方は日本人だぞ。まだみえてないのかな。とりあえず先に紹介するよ。そちらはMaria Berry Del Monte(マリア・ベリー・デル・モンテ)さん」
「………色々美味しそうな名前だね」
「ハハ、今は姓が違うけどな。マリアさんはスペインアラゴン州テルエル県アルバラシン村出身で今は結婚して関ヶ原に住んでいる」
すると吉継は今度はマリアに向いて秀晶を紹介した。
「Sra.Maria Se llama Hideakira(セニョーラ・マリア・セ・ラマ・ヒデアキラ/マリアさん、この子は秀晶です)、Ella es mi mejor amiga(エーラ・エス・ミ・メホール・アミーガ/この子は俺の親友です)」
「¡Mucho gusto! Hideakira(ムーチョ・グスト・ヒデアキラ)」
マリアは右手を挙げて挨拶した。
「ほら、晶、初めましてってさ。こっも挨拶」
「ちょっと、ヨシ、私、スペイン語なんて話せないよ」
「俺だって簡単な日常会話くらいしか勉強してないぞ」
「でも………」
秀晶がひるむと、いいからいいからと吉継に肩を押されマリアの前に立った。
「あ、う……さ、サ………」
「Sa?」
初めて生の外国人に面した秀晶は何を話して良いのか分からず、思わず母のヨーロッパ旅行雑誌に載っていたスペインの記憶を辿って言い放った。
「サグラダ・ファミリア!」
「おい、それ、挨拶じゃない!」
世界遺産の聖家族教会の名前出してどうする、と吉継は突っ込んだ。
するとマリアはクッと吹き出し、やがてケラケラ笑い出した。
「アハハ、随分と面白くて可愛いお友達ナノネ。初めまシテ、秀晶サン、ワタシ、マリアデス。ヨロシクネ」
多少のイントネーションの違いはあってもスラスラと日本語で自己紹介したマリアは秀晶に握手を求めた。
「え、ああ、こ、こちらこそ。晶って呼んで下さい」
日本語上手と感心しつつ秀晶は恐る恐る手を握り返した。
「おー、アナタが晶ネ!家で学校の話聞いてマス。アナタも可愛いケド、私のbonitaの方がもっと可愛いデスヨ」
「ボニータ?」
「可愛いって事だよ。娘って意味でも通じる。さっき説明しただろ。クラスメートの親御さんだって」
「じゃあマリアさんって母親なの?誰の?」
と、その時、扉の外側で、
「ほら、早く入りなさい。いつまでもお待たせするとご迷惑になるから」
と男の声が聞こえてきた。そしてその声は店に近付いてやがて一人の人影が姿を見せた。
「やあ、ヨシ君、高影さん。少し遅くなったけどお邪魔するよ」
フレームレスの眼鏡を掛けた、九曜紋がついた長身の紺和服姿の男性は何故か扉の外側を気にしつつ吉継と高影に挨拶した。今度は生粋の日本人である。
年はマリアと同年程であり、黒髪細身の美男子である。
マリアは聞いた。
「guapo(グァポ)、どうしたノ?」
親しげにその男性を呼ぶ様からどうやら夫らしい。グァポはスペイン語で男女とも美形を指し、この場合ハンサムなダーリンという感じである。
「ああ、何故か今になって躊躇っているようなんだ。ヨシ君、ちょっと待ってくれかい」
「いらっしゃい、忠時(ただとき)さん。あれ、今日のご予約は三名様となっていましたけど。お見えにならないんですか?」
「いや、ここにいるんだが。ほら、いい加減になさい。ヨシ君に話があるんだろう」
忠時は扉に手を伸ばして外の手を店内へ引いた。
するとそこには見慣れた顔が現れた。
細川汐恩である。
「げ!」
吉継は無意識に口を歪めた。今まで、ただの一度もひすとり庵を訪れていない汐恩がまさか今日登場するとは夢にも思っていなかった。
「あら、クラスメートに向かって『げ』とは随分失礼な物言いではありませんか、コバ君」
額に青筋を立てて汐恩は腕を組んだ。
清楚な白いワンピース姿の背後にはどす黒い怒気が揺れている。
吉継は慌てて言い繕った。
「あ、いや、今日は忠時さんが誰か別のお客さんを連れてくるかと思い込んでたからさ」
「私が来店すると困る事情がおありなんですか!?」
「まあまあ、汐恩。落ち着きなさい。ヨシ君をビックリさせようと黙っていた私が悪いのだから」
「しかし、お父様、コバ君のあの態度はあまりにも………」
「ボニータ、その辺りで良いじゃアリマセンカ」
「お母様、その呼び名はお止め下さいと何度も申し上げているではありませんか!」
「じゃ、Hija Mía(イハ・ミア)デ。可愛い娘という意味デス」
「言い方の問題ではありません!」
「デモまだ私をママとは呼んでくれないノネ?」
「ここは日本です!お母様も日本国籍なのですから日本人らしくお振る舞い下さらねば細川家としても立場がありません。大体その身形は何ですか、洋装にしても軽薄すぎます」
と、ここで、秀晶が汐恩に近付いてマジマジとその顔を見た。
「へえ、汐恩ってハーフだったんだ!でも髪とか目の色はお父さんの遺伝なのかな」
「あ、晶さん、どうしてコバ君のお店に?」
汐恩は驚いて後ずさった。
「………あはは、私の姿見えてなかったんだ。今日はここの手伝い。それと夜ご飯は結構ヨシの家でご馳走になってるし、ヨシのお母さんに料理も少しずつだけど教わってるんだ」
「あら、料理のお勉強を?」
「それより忠時さん、そろそろいつものテーブル席に着いてもらって良いですか?もう粗方用意が出来ていますので」
苦笑した吉継がフライパンを揺すりながら終わりそうにない話を切り上げさせた。
「そうだね。いや、今日はカウンター席でいいかな、ヨシ君?」
忠時が何かを思い付いたのか不意に言った。
「カウンター席ですか?珍しいですね。どうぞ」
「では着席しよう。ほら、汐恩は私達の間に座りなさい。うん、どうしたんだい、汐恩?」
一向にカウンターに座ろうとせず、奥座敷やテーブル席を眺めている娘に忠時は尋ねた。
汐恩は露骨に嫌な表情を作った。
「お父様、やはりテーブル席に致しましょう。かような狭苦しい末々(すえずえ)の好むカウンター席など我等細川家の者が座る場所ではありません」
「狭苦しい?末々?」
ここでカチンと来た吉継が汐恩を暗い顔で睨んだ。
「酷い言い草だな、汐恩。ウチは老舗料亭じゃない。気軽に誰もが楽しめるカフェダイニングだ。そんなに嫌ならとっとと帰ってくれ」
「何を怒っていらっしゃるの、コバ君?」
涼しい顔で疑問符を浮かべる汐恩に余計吉継は立腹した。
「カウンターは俺達料理人にとって格別な席だ。お前は何も分かっちゃいない」
「あら、テーブル席の方が格別で高貴ですわよ。どなたが見ても」
「汐恩!止めなさい!」
ここで忠時が声を張り上げて窘めた。そして、
「ヨシ君、高影さん、どうか娘の無礼お許し頂きたい」
と深々と頭を下げた。
吉継はハッと我に返り手を振った。
「あ、いえ、忠時さんに言ったのではありませんから頭を上げて下さい」
「いや、娘の失言は親たる私の責任。謝罪するのは当然」
「お父様、何故謝るのです。私は細川の人間として間違った事は申し上げておりません」
毅然とした顔で汐恩は父親に言い返した。
「汐恩、お前は………」
忠時はグッと拳を握った。
「グァポ」
その二人の間にマリアが屈託のない笑顔で割って入り、
「それよりワタシ、とてもお腹空きマシタ。私今日をとても楽しみにしてマス。早く席に着きまショ」
と汐恩と忠時の腕を取ってカウンター近くのテーブル席に座らせ吉継へ手を振った。
「ヨシ、昼のオーダー、お願いしマス」
「Si señora(シ・セニョーラ/分かりました)」
苛立っていた吉継だったが、マリアの明るさにつられて明朗に返答し、料理に取り掛かった。
「あ、そうだ、マリアさん、初めはいつもの『マオウ』でいいですか?」
吉継はフライヤーで何かを揚げながら、マリアに親指と小指を立てた拳を口に傾けて尋ねた。
マリアは「シ」と頷いた。
「まおう?信長?」
秀晶が横から聞いた。
「それは第六天魔王!」
段々元に感化されてきたぞ、お前、と吉継はランチを食べ終わった秀晶に半笑いした。
「それよりお父様とお母様はもう注文の品はお決めになられているのですか?」
吉継と秀晶の会話を無視して汐恩はテーブルのランチメニューを眺めながら両親を見比べた。
「私とマリーは午前中にヨシ君に伝えてあるんだ。メニューには載っていない特別料理だ。お前はそのメニューから好きなものを選びなさい。お勧めはヨシ君の卵料理だがね」
「卵料理?」
「代表的なのはオムレツだ」
忠時はメニューの「関ヶ原スフレオムレツセット(トマトソースまたは関ヶ原椎茸のソース)サラダ・パン・ドリンク付」の欄を指さした。
「………今更スフレオムレツなど、当家のシェフに飽きる程作らせているではありませんか」
汐恩は渋った目を細めた。
「そうかな?一度食してみなさい。そうすれば私が勧める理由が理解出来るだろう」
つまらなそうに嘆息する汐恩に忠時は片笑みを浮かべた。
「そこまでお父様が仰るのであれば注文致します」
汐恩は不承不承にオムレツセットのドリンクを目で追った。
ドリンクはブレンドやキリマンジャロを初めとする世界の各種コーヒー、それ以外にカプチーノ・エスプレッソなどがある。紅茶はアッサム・ダージリン・ニルギリ等のブランドの他、あっさり和紅茶(高木製茶やアイスティーとソフトドリンクが見える。
「あら、ケーキも種類がございますのね」
汐恩は「関ヶ原マフィン・レアチーズケーキ・関ヶ原スコーン(クロテッドクリームと柿ジャム付き)シフォンケーキ・パンケーキ・クレープ・コーヒーゼリー・フレンチトースト・ミニハニートースト」の欄に目を向けた。
関ヶ原マフィン(第四話参照)は覚えていたが、「ミニハニートースト」は聞き覚えがなかった。
「コバ君、このミニハニートーストとは如何なるデザートですの?」
「ああ、それは小さく焼いたキューブ食パンにメープルシロップとバニラアイスと生クリームとフルーツを載せたものだ。普通のハニートーストは大型の食パンを使ってみんなで分けて食べる事が多いんだけど、ウチでは一人でも楽しめるように小型化させたんだよ」
キッチンで料理する時の吉継は別人のように真剣になる。
先程の汐恩への怒りはもう無く、熱心にメニューの説明をした。
「ハニクレも美味しいんだよね」
秀晶がさわやかをストローで飲みながら言い足した。
「ハニクレ?それは何ですの、晶さん?」
「ハニートーストクレープ。一度ヨシに季節外れだけど作ってもらったんだ。ここで焼いた食パンをスティック状に切ってそこにハチミツとかのシロップを染み込ませてそこに生クリームを絞ってクレープで巻いてアイスと関ヶ原苺ジャムを上に載せるの。それを関ヶ原合戦武将の家紋が印刷してある紙で包んで出来上がり。ひすとり庵夏場のテイクアウトの人気メニュー。通称『ハニクレ』。テイクアウトならアイスクリームも出来るよ。山桃・柿・柚子・薩摩芋味とかのオリジナルアイス。武将に関係している食材で作っているんだよ。これも夏場限定だけどね、ね、ヨシ?」
「ご丁寧な解説痛み入るよ」
吉継はフランスパンに薄切り肉を挟みながら笑って汐恩に聞いた。
「さて、オーダーはどうする?」
「ではスフレオムレツセットで椎茸ソース、サラダのドレッシングは胡麻、そして飲み物はロイヤルミルクティーを。ミニハニートーストは食後にミルクティーと共にお願い致しますわ」
汐恩はパタンとメニューを閉じたが、吉継は暫し考えて汐恩に勧めた。
「ロイヤルより変わったミルクティーがあるぞ。今の汐恩にピッタリの」
「何です?」
「秘密だ」
「では、それでお任せいたします」
何かを企んでいる目を怪しんだが、主導権は吉継にある。汐恩はメニュー表を閉じて了承した。
「了解。ただし汐恩の注文分は忠時さんとマリアさんの料理を冷めない内に出してからな」
吉継はキッチンを出て、大きなトレーに料理を何皿も載せテーブル席にやってきた。
「お待たせしました。先ずは忠時さんとマリアさんのオーダーです。『シイタケ・ア・ラ・プランチャ』『クロケッタ・デ・バカラオ』『カラマレス・フリートス・ア・ラ・ロマーナ』『トルティージャ・デ・パタタスとハモン・デ・テルエルのボカディージョ』です」
「うわー、聞いた事ないメニューばっか。スペイン料理?」
秀晶が興味津々にテーブルに置かれた料理を眺めた。
吉継はカウンターに向いて教えた。
「シイタケ・ア・ラ・プランチャはチョリソーソーセージと刻みニンニク・パセリを椎茸の傘に詰めてオリーブオイルを掛けて鉄板で焼いた物、クロケッタは鱈のクリームコロッケ、カラマレスはイカのリング揚げ、ボカディージョはパンシージョというスペインの小型フランスパンを横に切ってオリーブオイルを塗って具を挟むサンドイッチだ。トルティージャはジャガイモとタマネギをオリーブオイルで揚げ煮にしてそれをオムレツにしたもの、これは晶も食べたろ?」
「あ、スパニッシュ・オムレツ?」
「そう!それをサンドイッチにしたんだ。スペインの定番だよ。それとハモン・デ・テルエルという生ハムを挟んだのがもう一つのサンドイッチさ」
「聞かない名前だね」
「そうか?世界じゃ有名な生ハムだぞ。その味たるや正に極上だ。だけど高級品だからウチではとても扱えない。マリアさんのためだけに輸入してこうして時折出しているのさ」
「そんなに美味しいんだ。いいなあ」
満足そうに生ハムがたっぷり挟まったサンドイッチをちぎって食べる夫婦を秀晶はよだれが出そうな顔で見つめた。
「ほら、晶、余ってた分があるから食べてみるか」
吉継はキッチンへ向かい小皿に載った一枚の薄切り生ハムを差し出した。
「わ、いいの。ありがと!」
すぐさま秀晶は指でハムを掴んで口に入れた。
と、その途端、
「ああ!何コレ!」
あっさりとした塩味に、濃い香りだけれど口の中でじわっと蕩ける熟成したサシの風味が口の中で優しく踊っている。それに噛めば噛むほど深い味がじんわりと広がる。
「うわあ、生ハムってこんなに美味しかったっけ~」
幸せを噛み締めるように放心状態になる秀晶にマリアは笑った。
「ハモン・デ・テルエルはハモン・セラーノの中でも特に珍重されている生ハムデス。故郷の自慢なのデスヨ」
「ハモン・セラーノ?」
「晶はイベリコ豚って知ってマスカ?」
「あ、えっと確か私のお母さんに聞いた事があります。ドングリ食べさせる豚でしたよね?」
「そうデス。でもあれは黒豚。ハモン・セラーノは白豚デス。ですカラ脂身がくどくなく上品な甘さがありマス。テルエルで生まれた豚を処理して皮まま熟成させるのデス。期間は十八ヶ月。なのでとても深い風味になりマス」
「へー」
ここで吉継が飲み物を運んできて補足説明をした。
「晶、ハモン・セラーノは中国の金華火腿、イタリアのプロシュートと並んで世界三大生ハムと言われているんだ。テルエル産はその最高峰だ。美味しいに決まってる。さ、ドリンクをお持ちしました。忠時さんはレモンスカッシュ、そしてマリアさんにはセルベッサ(瓶ビール)です」
吉継は忠時の前にはタンブラーのレモンスカッシュ、そしてマリアには黄金色の瓶と空のビアグラスを置いて中身を注いだ。
ペールラガーの香りに細かい泡が立ち上った。
「おう、久し振りのマオウデス!」
マリアは上機嫌に手を合わせた。
「え、マオウってビールだったの?」
秀晶は瓶の赤ラベルの五つ星のマークと「Mahou」の文字を見て驚いた。
「そうだ、正確にはマオウ・シンコ・エストレージャス。スペインマオウ醸造所の五つ星ビール。サッカーのリーガ・エスパニョーラのオフィシャルビールでレアル・マドリードのオフィシャルスポンサーにもなってる」
「そっか、私はてっきり漢字の『魔王』かと」
「ちなみにそれは日本の焼酎な」
しかし、ここで予想外の事態が起きた。
バンと汐恩がテーブルを破壊する勢いで叩いたのである。
「ビールですって!こんな真昼間から細川の者が!」
腕をワナワナと震わせて汐恩は母を睨んだ。
「おい、汐恩」
「コバ君は黙っていて下さい。お母様、ワインならともかく粗野なビールだなんて!こんな極まり悪い姿を他の者に見られたから如何なさるんですか!恥とは思わないんですか!」
「ビール、恥ずかしいデスカ?グァポもそう思いマスカ?」
困惑してマリアは隣の主人に首をむけた。
「いや、全く恥ずかしくないよ。ビールは古代エジプト以来長い間世の中に愛飲されてきた伝統ある飲み物だ。私も大好きだよ、マリーと同じくらいにね」
「グァポ、テ・キェロ (愛してます)!」
嬉しそうにマリアは忠時の左頰にキスをした。
「ぐ、ガ!」
汐恩が立腹のあまり壊れたラジオのような声を出した。はしたないと怒鳴るつもりがおかしく変換されてしまったらしい。忠時は興奮する娘に諭した。
「汐恩、そもそもお前が世間体を気にするといけないからこうして人のいない閉店後に来ているんだ。ここなら誰の目も憚る事は無い」
「しかし、お父様………」
「聞きなさい。分家とはいえマリーはいつも関ヶ原細川家のためによく務めていてくれている。息抜きも必要だ。それゆえに私はヨシ君へ、マリーのために『バル』の雰囲気を味あわせて欲しいと頼んでいるのだよ」
「バル?」
「スペインの居酒屋だ。カフェとレストランも兼ねている。スペインでは水の価格で気軽にお酒が飲める。マリーが育ったアルバラシンにもバルはある。せめてビールとつまみであるタパスくらい許されてもいいと思わないかね?」
「しかし」
「汐恩、お前は幼少期からスペイン料理を嫌っているね。スペイン料理が出る度、お前は大泣きして食卓を出て行ってしまった。それ以来家のシェフにはスペイン料理は作らせない。だが、私はマリーに故郷の料理を味わってもらいたい。これでも私はお前に最大限の譲歩をしているつもりだ。だからこの店での事には口を出さないでほしい」
「………」
それを聞いて汐恩は何故か急に黙り込んでしまった。
「晶、武生(たけふ)で、好きでよく食べてたって言ってたろ。でもただのボルガライスじゃないぞ」
ボルガライスは福井県越前市武生地区の名物料理で、オムライスの上にトンカツを載せ、トマトソースやデミグラスソースなどを掛けた郷土グルメである。店舗によって中身がチキンライスやピラフ、チャーハンだったり、ソースも店舗によって変えたりするので一定の決まりも無く、その名の由来もロシア料理説やイタリア料理説など諸説あり決定的な定義は無い。
それでも武生地区では長く愛されているメニューなのである。
秀晶は生まれが敦賀でもこの武生のボルガライスには一家言持っていた。
「うん?見た目普通のボルガライスだよね。サワークリームが足されてるくらいで」
「いいから、食べてみ」
吉継は秀晶にスプーンを渡した。
秀晶はそれを受け取って一口トマトソースがかかっている熱々のカツを食べた。
するとシャクッと歯切れ良い感触と普通のトンカツには無い柔らかさがトロリとした食感と共に口の中で舞った。
「美味しーい!あ、これミルフィーユカツだ!それも肉の間にチーズが挟んである」
「大正解。ならそのままカツと一緒にオムライスも食べて」
「うん」
勧められるまま秀晶はその食べ方に従った。
「ん!んん!」
口に入れたのと同時に秀晶はどうしてミルフィーユカツなのかを瞬時に理解した。
薄切り豚肉を重ねて揚げた先程のミルフィーユカツに柔らかいフワトロオムレツとその下に隠れている、人参などの細かく切った野菜が混ぜ込まれている薄味のケチャップライスと、サワークリームに混じったコクのあるデミグラスソースが溶け合って絶妙に一体感を醸し出していた。
柔らかいカツだからこそ、柔らかいオムライスにマッチするのである。そしてチーズとカツと卵がトマトソースとデミグラスソースに絡まってより深い味わいになる。
「これ超美味しい!」
空腹と美味でパクパクとスプーンを進めていく秀晶であったが、
「あ、晶、ちょっとストップ」
と吉継から制止が掛かった。
「………何?」
「忘れてた。これも今日のお礼に」
吉継は大きめのグラスに注がれた鮮やかなグリーンの炭酸飲料を前に置いた。
上にはバニラアイスが浮いている。
「まさかこれ『さわやか』?」
さわやかとは「ローヤルさわやか」という福井のご当地メロンソーダである。吉継は山と湖がラベルになっている五百ミリのグリーンのペットボトルを見せて説明した。
「アイス足したから『さわやかフロート』かな。最近ウチでもメニューで扱おうって話でさ。最初はやっぱり福井出身の晶に飲んで欲しかったんだ。よく店手伝ってくれてありがとな。皆助かってるよ」
「えっと、うん………私こそいつもアリガト」
笑顔で礼を言われ急に照れ臭くなった秀晶は下を向いてストローでソーダをズズッとすすった。
「それはそうとさ、ヨシ、茶会どうするの。汐恩に付くの?それとも元?」
「その話は止めてくれ、頭が痛くなる」
毎日のようにLINEで汐恩から協力を要請されている吉継はげんなりとした顔を下げた。
「あはは、私も迷っているんだよね。女子の間でも引き抜き合いみたいになっててさ。今のところは中立」
「男子も似たようなもんだ。態度をはっきりさせているのは三大(みつひろ)と左人志だけ。三大は元の敵だから汐恩に付く。左人志は三大の連れだから離れない」
「こっちは真央と正沙子は根っからの元派だし、佳乃と孝奈と美豊と幸梅も元と仲いいんだよねえ」
「全く、元のヤツが茶屋比べもクラスの人気で競いましょうなんて焚き付けるからクラスが分裂して、居心地悪いったらないぞ。変な争いにみんなを巻き込むなって」
「あはは」
秀晶は食べながら苦笑した。
「おっと、晶はそのまま食べててくれ。俺と父さんは後で食べるから」
吉継は時計を見て慌てて再びキッチンで料理を始めた。いつもならさっさと片付けている時間である。秀晶は手を止めて野菜や肉などが載ったまな板を見た。
「ヨシ、何してるの?」
「仕事があるって言ったろ。これから特別なお客さんご一行がみえるんだ。その料理の下拵え」
「特別なお客さん?」
「定期的にウチにランチを予約して下さるんだけどな。あ、晶は今までタイミングがあってなかったから初めての顔合わせになるのか」
「てか、ヨシ、敬語で仰々しいんだけど。そのお客さんってどこかのお偉いさんなの?」
「うーん、お偉いさんといえばそうなんだけど。昔、ウチのスポンサーだった方だからな。父さん達がここで店を出す時に資金とか出資してもらって凄くお世話になったんだ。今はもう借り入れたお金は返済したけど恩人なんだよ」
「へー」
その点は関心なさそうに秀晶はボルガライスを再び食べ始めた。
吉継は笑って椎茸の軸をナイフで削いだ。
「晶、お前も無関係じゃないぞ」
「はんへ(なんで)?」
スプーンをくわえたまま尋ねる秀晶に吉継は答えた。
「その方々はウチのクラスメートの御両親だ。お前ももちろんよく知ってる」
誰?と秀晶が聞き返そうとすると店の扉が勢いよく開いた。
そして、
「Hola(オラ)!」
突然一陣の風と共に威勢の良い声が店を吹き抜けた。
見ると長くウェーブのかかった深い色の茶髪をした、彫りの深い青い瞳の女性が右手を挙げて元気よく入店してきた。年の頃は三十代後半といった所であるが、長い足とスレンダーなスタイルのためか黒いセーターに白いジーンズがシンプルだがよく映えている。
秀晶は予想外の出来事にグッと喉を詰まらせて、吉継の袖を引っ張り、その女性に向けてスプーンを差した。
「ヨシ、どうしよう。外人さんだよ!それもクララ・アロンソ似の超美人だよ」
「晶、その『外人さん』は失礼だぞ」
それと人にスプーンを向けるな、と吉継は秀晶を一旦落ち着かせその女性に声を掛けた。
「Bienvenida!Sra.(ビエンベニーダ、セニョーラ/いらっしゃい)¿Cómo está?(コモ・エスタ/お元気ですか)」
「へ?」
吉継から発せられた唐突な外国語に秀晶は目をぱちくりさせた。
「Muy bien.(ムイ・ビエーン/ええ、とても元気よ)!」
明るい笑顔で女性は親指をグイと立てた。
どうも吉継の知り合いらしい。秀晶は小声で尋ねた。
「ヨシ、どちらさん?」
「こちらが今日の特別なお客さん」
「日本人じゃないって聞いてないよ!」
「いや、もうお一方は日本人だぞ。まだみえてないのかな。とりあえず先に紹介するよ。そちらはMaria Berry Del Monte(マリア・ベリー・デル・モンテ)さん」
「………色々美味しそうな名前だね」
「ハハ、今は姓が違うけどな。マリアさんはスペインアラゴン州テルエル県アルバラシン村出身で今は結婚して関ヶ原に住んでいる」
すると吉継は今度はマリアに向いて秀晶を紹介した。
「Sra.Maria Se llama Hideakira(セニョーラ・マリア・セ・ラマ・ヒデアキラ/マリアさん、この子は秀晶です)、Ella es mi mejor amiga(エーラ・エス・ミ・メホール・アミーガ/この子は俺の親友です)」
「¡Mucho gusto! Hideakira(ムーチョ・グスト・ヒデアキラ)」
マリアは右手を挙げて挨拶した。
「ほら、晶、初めましてってさ。こっも挨拶」
「ちょっと、ヨシ、私、スペイン語なんて話せないよ」
「俺だって簡単な日常会話くらいしか勉強してないぞ」
「でも………」
秀晶がひるむと、いいからいいからと吉継に肩を押されマリアの前に立った。
「あ、う……さ、サ………」
「Sa?」
初めて生の外国人に面した秀晶は何を話して良いのか分からず、思わず母のヨーロッパ旅行雑誌に載っていたスペインの記憶を辿って言い放った。
「サグラダ・ファミリア!」
「おい、それ、挨拶じゃない!」
世界遺産の聖家族教会の名前出してどうする、と吉継は突っ込んだ。
するとマリアはクッと吹き出し、やがてケラケラ笑い出した。
「アハハ、随分と面白くて可愛いお友達ナノネ。初めまシテ、秀晶サン、ワタシ、マリアデス。ヨロシクネ」
多少のイントネーションの違いはあってもスラスラと日本語で自己紹介したマリアは秀晶に握手を求めた。
「え、ああ、こ、こちらこそ。晶って呼んで下さい」
日本語上手と感心しつつ秀晶は恐る恐る手を握り返した。
「おー、アナタが晶ネ!家で学校の話聞いてマス。アナタも可愛いケド、私のbonitaの方がもっと可愛いデスヨ」
「ボニータ?」
「可愛いって事だよ。娘って意味でも通じる。さっき説明しただろ。クラスメートの親御さんだって」
「じゃあマリアさんって母親なの?誰の?」
と、その時、扉の外側で、
「ほら、早く入りなさい。いつまでもお待たせするとご迷惑になるから」
と男の声が聞こえてきた。そしてその声は店に近付いてやがて一人の人影が姿を見せた。
「やあ、ヨシ君、高影さん。少し遅くなったけどお邪魔するよ」
フレームレスの眼鏡を掛けた、九曜紋がついた長身の紺和服姿の男性は何故か扉の外側を気にしつつ吉継と高影に挨拶した。今度は生粋の日本人である。
年はマリアと同年程であり、黒髪細身の美男子である。
マリアは聞いた。
「guapo(グァポ)、どうしたノ?」
親しげにその男性を呼ぶ様からどうやら夫らしい。グァポはスペイン語で男女とも美形を指し、この場合ハンサムなダーリンという感じである。
「ああ、何故か今になって躊躇っているようなんだ。ヨシ君、ちょっと待ってくれかい」
「いらっしゃい、忠時(ただとき)さん。あれ、今日のご予約は三名様となっていましたけど。お見えにならないんですか?」
「いや、ここにいるんだが。ほら、いい加減になさい。ヨシ君に話があるんだろう」
忠時は扉に手を伸ばして外の手を店内へ引いた。
するとそこには見慣れた顔が現れた。
細川汐恩である。
「げ!」
吉継は無意識に口を歪めた。今まで、ただの一度もひすとり庵を訪れていない汐恩がまさか今日登場するとは夢にも思っていなかった。
「あら、クラスメートに向かって『げ』とは随分失礼な物言いではありませんか、コバ君」
額に青筋を立てて汐恩は腕を組んだ。
清楚な白いワンピース姿の背後にはどす黒い怒気が揺れている。
吉継は慌てて言い繕った。
「あ、いや、今日は忠時さんが誰か別のお客さんを連れてくるかと思い込んでたからさ」
「私が来店すると困る事情がおありなんですか!?」
「まあまあ、汐恩。落ち着きなさい。ヨシ君をビックリさせようと黙っていた私が悪いのだから」
「しかし、お父様、コバ君のあの態度はあまりにも………」
「ボニータ、その辺りで良いじゃアリマセンカ」
「お母様、その呼び名はお止め下さいと何度も申し上げているではありませんか!」
「じゃ、Hija Mía(イハ・ミア)デ。可愛い娘という意味デス」
「言い方の問題ではありません!」
「デモまだ私をママとは呼んでくれないノネ?」
「ここは日本です!お母様も日本国籍なのですから日本人らしくお振る舞い下さらねば細川家としても立場がありません。大体その身形は何ですか、洋装にしても軽薄すぎます」
と、ここで、秀晶が汐恩に近付いてマジマジとその顔を見た。
「へえ、汐恩ってハーフだったんだ!でも髪とか目の色はお父さんの遺伝なのかな」
「あ、晶さん、どうしてコバ君のお店に?」
汐恩は驚いて後ずさった。
「………あはは、私の姿見えてなかったんだ。今日はここの手伝い。それと夜ご飯は結構ヨシの家でご馳走になってるし、ヨシのお母さんに料理も少しずつだけど教わってるんだ」
「あら、料理のお勉強を?」
「それより忠時さん、そろそろいつものテーブル席に着いてもらって良いですか?もう粗方用意が出来ていますので」
苦笑した吉継がフライパンを揺すりながら終わりそうにない話を切り上げさせた。
「そうだね。いや、今日はカウンター席でいいかな、ヨシ君?」
忠時が何かを思い付いたのか不意に言った。
「カウンター席ですか?珍しいですね。どうぞ」
「では着席しよう。ほら、汐恩は私達の間に座りなさい。うん、どうしたんだい、汐恩?」
一向にカウンターに座ろうとせず、奥座敷やテーブル席を眺めている娘に忠時は尋ねた。
汐恩は露骨に嫌な表情を作った。
「お父様、やはりテーブル席に致しましょう。かような狭苦しい末々(すえずえ)の好むカウンター席など我等細川家の者が座る場所ではありません」
「狭苦しい?末々?」
ここでカチンと来た吉継が汐恩を暗い顔で睨んだ。
「酷い言い草だな、汐恩。ウチは老舗料亭じゃない。気軽に誰もが楽しめるカフェダイニングだ。そんなに嫌ならとっとと帰ってくれ」
「何を怒っていらっしゃるの、コバ君?」
涼しい顔で疑問符を浮かべる汐恩に余計吉継は立腹した。
「カウンターは俺達料理人にとって格別な席だ。お前は何も分かっちゃいない」
「あら、テーブル席の方が格別で高貴ですわよ。どなたが見ても」
「汐恩!止めなさい!」
ここで忠時が声を張り上げて窘めた。そして、
「ヨシ君、高影さん、どうか娘の無礼お許し頂きたい」
と深々と頭を下げた。
吉継はハッと我に返り手を振った。
「あ、いえ、忠時さんに言ったのではありませんから頭を上げて下さい」
「いや、娘の失言は親たる私の責任。謝罪するのは当然」
「お父様、何故謝るのです。私は細川の人間として間違った事は申し上げておりません」
毅然とした顔で汐恩は父親に言い返した。
「汐恩、お前は………」
忠時はグッと拳を握った。
「グァポ」
その二人の間にマリアが屈託のない笑顔で割って入り、
「それよりワタシ、とてもお腹空きマシタ。私今日をとても楽しみにしてマス。早く席に着きまショ」
と汐恩と忠時の腕を取ってカウンター近くのテーブル席に座らせ吉継へ手を振った。
「ヨシ、昼のオーダー、お願いしマス」
「Si señora(シ・セニョーラ/分かりました)」
苛立っていた吉継だったが、マリアの明るさにつられて明朗に返答し、料理に取り掛かった。
「あ、そうだ、マリアさん、初めはいつもの『マオウ』でいいですか?」
吉継はフライヤーで何かを揚げながら、マリアに親指と小指を立てた拳を口に傾けて尋ねた。
マリアは「シ」と頷いた。
「まおう?信長?」
秀晶が横から聞いた。
「それは第六天魔王!」
段々元に感化されてきたぞ、お前、と吉継はランチを食べ終わった秀晶に半笑いした。
「それよりお父様とお母様はもう注文の品はお決めになられているのですか?」
吉継と秀晶の会話を無視して汐恩はテーブルのランチメニューを眺めながら両親を見比べた。
「私とマリーは午前中にヨシ君に伝えてあるんだ。メニューには載っていない特別料理だ。お前はそのメニューから好きなものを選びなさい。お勧めはヨシ君の卵料理だがね」
「卵料理?」
「代表的なのはオムレツだ」
忠時はメニューの「関ヶ原スフレオムレツセット(トマトソースまたは関ヶ原椎茸のソース)サラダ・パン・ドリンク付」の欄を指さした。
「………今更スフレオムレツなど、当家のシェフに飽きる程作らせているではありませんか」
汐恩は渋った目を細めた。
「そうかな?一度食してみなさい。そうすれば私が勧める理由が理解出来るだろう」
つまらなそうに嘆息する汐恩に忠時は片笑みを浮かべた。
「そこまでお父様が仰るのであれば注文致します」
汐恩は不承不承にオムレツセットのドリンクを目で追った。
ドリンクはブレンドやキリマンジャロを初めとする世界の各種コーヒー、それ以外にカプチーノ・エスプレッソなどがある。紅茶はアッサム・ダージリン・ニルギリ等のブランドの他、あっさり和紅茶(高木製茶やアイスティーとソフトドリンクが見える。
「あら、ケーキも種類がございますのね」
汐恩は「関ヶ原マフィン・レアチーズケーキ・関ヶ原スコーン(クロテッドクリームと柿ジャム付き)シフォンケーキ・パンケーキ・クレープ・コーヒーゼリー・フレンチトースト・ミニハニートースト」の欄に目を向けた。
関ヶ原マフィン(第四話参照)は覚えていたが、「ミニハニートースト」は聞き覚えがなかった。
「コバ君、このミニハニートーストとは如何なるデザートですの?」
「ああ、それは小さく焼いたキューブ食パンにメープルシロップとバニラアイスと生クリームとフルーツを載せたものだ。普通のハニートーストは大型の食パンを使ってみんなで分けて食べる事が多いんだけど、ウチでは一人でも楽しめるように小型化させたんだよ」
キッチンで料理する時の吉継は別人のように真剣になる。
先程の汐恩への怒りはもう無く、熱心にメニューの説明をした。
「ハニクレも美味しいんだよね」
秀晶がさわやかをストローで飲みながら言い足した。
「ハニクレ?それは何ですの、晶さん?」
「ハニートーストクレープ。一度ヨシに季節外れだけど作ってもらったんだ。ここで焼いた食パンをスティック状に切ってそこにハチミツとかのシロップを染み込ませてそこに生クリームを絞ってクレープで巻いてアイスと関ヶ原苺ジャムを上に載せるの。それを関ヶ原合戦武将の家紋が印刷してある紙で包んで出来上がり。ひすとり庵夏場のテイクアウトの人気メニュー。通称『ハニクレ』。テイクアウトならアイスクリームも出来るよ。山桃・柿・柚子・薩摩芋味とかのオリジナルアイス。武将に関係している食材で作っているんだよ。これも夏場限定だけどね、ね、ヨシ?」
「ご丁寧な解説痛み入るよ」
吉継はフランスパンに薄切り肉を挟みながら笑って汐恩に聞いた。
「さて、オーダーはどうする?」
「ではスフレオムレツセットで椎茸ソース、サラダのドレッシングは胡麻、そして飲み物はロイヤルミルクティーを。ミニハニートーストは食後にミルクティーと共にお願い致しますわ」
汐恩はパタンとメニューを閉じたが、吉継は暫し考えて汐恩に勧めた。
「ロイヤルより変わったミルクティーがあるぞ。今の汐恩にピッタリの」
「何です?」
「秘密だ」
「では、それでお任せいたします」
何かを企んでいる目を怪しんだが、主導権は吉継にある。汐恩はメニュー表を閉じて了承した。
「了解。ただし汐恩の注文分は忠時さんとマリアさんの料理を冷めない内に出してからな」
吉継はキッチンを出て、大きなトレーに料理を何皿も載せテーブル席にやってきた。
「お待たせしました。先ずは忠時さんとマリアさんのオーダーです。『シイタケ・ア・ラ・プランチャ』『クロケッタ・デ・バカラオ』『カラマレス・フリートス・ア・ラ・ロマーナ』『トルティージャ・デ・パタタスとハモン・デ・テルエルのボカディージョ』です」
「うわー、聞いた事ないメニューばっか。スペイン料理?」
秀晶が興味津々にテーブルに置かれた料理を眺めた。
吉継はカウンターに向いて教えた。
「シイタケ・ア・ラ・プランチャはチョリソーソーセージと刻みニンニク・パセリを椎茸の傘に詰めてオリーブオイルを掛けて鉄板で焼いた物、クロケッタは鱈のクリームコロッケ、カラマレスはイカのリング揚げ、ボカディージョはパンシージョというスペインの小型フランスパンを横に切ってオリーブオイルを塗って具を挟むサンドイッチだ。トルティージャはジャガイモとタマネギをオリーブオイルで揚げ煮にしてそれをオムレツにしたもの、これは晶も食べたろ?」
「あ、スパニッシュ・オムレツ?」
「そう!それをサンドイッチにしたんだ。スペインの定番だよ。それとハモン・デ・テルエルという生ハムを挟んだのがもう一つのサンドイッチさ」
「聞かない名前だね」
「そうか?世界じゃ有名な生ハムだぞ。その味たるや正に極上だ。だけど高級品だからウチではとても扱えない。マリアさんのためだけに輸入してこうして時折出しているのさ」
「そんなに美味しいんだ。いいなあ」
満足そうに生ハムがたっぷり挟まったサンドイッチをちぎって食べる夫婦を秀晶はよだれが出そうな顔で見つめた。
「ほら、晶、余ってた分があるから食べてみるか」
吉継はキッチンへ向かい小皿に載った一枚の薄切り生ハムを差し出した。
「わ、いいの。ありがと!」
すぐさま秀晶は指でハムを掴んで口に入れた。
と、その途端、
「ああ!何コレ!」
あっさりとした塩味に、濃い香りだけれど口の中でじわっと蕩ける熟成したサシの風味が口の中で優しく踊っている。それに噛めば噛むほど深い味がじんわりと広がる。
「うわあ、生ハムってこんなに美味しかったっけ~」
幸せを噛み締めるように放心状態になる秀晶にマリアは笑った。
「ハモン・デ・テルエルはハモン・セラーノの中でも特に珍重されている生ハムデス。故郷の自慢なのデスヨ」
「ハモン・セラーノ?」
「晶はイベリコ豚って知ってマスカ?」
「あ、えっと確か私のお母さんに聞いた事があります。ドングリ食べさせる豚でしたよね?」
「そうデス。でもあれは黒豚。ハモン・セラーノは白豚デス。ですカラ脂身がくどくなく上品な甘さがありマス。テルエルで生まれた豚を処理して皮まま熟成させるのデス。期間は十八ヶ月。なのでとても深い風味になりマス」
「へー」
ここで吉継が飲み物を運んできて補足説明をした。
「晶、ハモン・セラーノは中国の金華火腿、イタリアのプロシュートと並んで世界三大生ハムと言われているんだ。テルエル産はその最高峰だ。美味しいに決まってる。さ、ドリンクをお持ちしました。忠時さんはレモンスカッシュ、そしてマリアさんにはセルベッサ(瓶ビール)です」
吉継は忠時の前にはタンブラーのレモンスカッシュ、そしてマリアには黄金色の瓶と空のビアグラスを置いて中身を注いだ。
ペールラガーの香りに細かい泡が立ち上った。
「おう、久し振りのマオウデス!」
マリアは上機嫌に手を合わせた。
「え、マオウってビールだったの?」
秀晶は瓶の赤ラベルの五つ星のマークと「Mahou」の文字を見て驚いた。
「そうだ、正確にはマオウ・シンコ・エストレージャス。スペインマオウ醸造所の五つ星ビール。サッカーのリーガ・エスパニョーラのオフィシャルビールでレアル・マドリードのオフィシャルスポンサーにもなってる」
「そっか、私はてっきり漢字の『魔王』かと」
「ちなみにそれは日本の焼酎な」
しかし、ここで予想外の事態が起きた。
バンと汐恩がテーブルを破壊する勢いで叩いたのである。
「ビールですって!こんな真昼間から細川の者が!」
腕をワナワナと震わせて汐恩は母を睨んだ。
「おい、汐恩」
「コバ君は黙っていて下さい。お母様、ワインならともかく粗野なビールだなんて!こんな極まり悪い姿を他の者に見られたから如何なさるんですか!恥とは思わないんですか!」
「ビール、恥ずかしいデスカ?グァポもそう思いマスカ?」
困惑してマリアは隣の主人に首をむけた。
「いや、全く恥ずかしくないよ。ビールは古代エジプト以来長い間世の中に愛飲されてきた伝統ある飲み物だ。私も大好きだよ、マリーと同じくらいにね」
「グァポ、テ・キェロ (愛してます)!」
嬉しそうにマリアは忠時の左頰にキスをした。
「ぐ、ガ!」
汐恩が立腹のあまり壊れたラジオのような声を出した。はしたないと怒鳴るつもりがおかしく変換されてしまったらしい。忠時は興奮する娘に諭した。
「汐恩、そもそもお前が世間体を気にするといけないからこうして人のいない閉店後に来ているんだ。ここなら誰の目も憚る事は無い」
「しかし、お父様………」
「聞きなさい。分家とはいえマリーはいつも関ヶ原細川家のためによく務めていてくれている。息抜きも必要だ。それゆえに私はヨシ君へ、マリーのために『バル』の雰囲気を味あわせて欲しいと頼んでいるのだよ」
「バル?」
「スペインの居酒屋だ。カフェとレストランも兼ねている。スペインでは水の価格で気軽にお酒が飲める。マリーが育ったアルバラシンにもバルはある。せめてビールとつまみであるタパスくらい許されてもいいと思わないかね?」
「しかし」
「汐恩、お前は幼少期からスペイン料理を嫌っているね。スペイン料理が出る度、お前は大泣きして食卓を出て行ってしまった。それ以来家のシェフにはスペイン料理は作らせない。だが、私はマリーに故郷の料理を味わってもらいたい。これでも私はお前に最大限の譲歩をしているつもりだ。だからこの店での事には口を出さないでほしい」
「………」
それを聞いて汐恩は何故か急に黙り込んでしまった。
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