「ね、ヨシ、私の事嫌いになった?これ絶対イジメだよね?」
固まったまま秀晶は白目を向けた。
「違う違う!断じて違う!何で俺がお前のこと嫌いになるもんか!」
吉継は濡れタオルで秀晶の顔と手を拭きながら慌てて弁明した。
「そ、そう?」
好きと言われた訳ではないが秀晶は嬉しそうに頬を染めた。すると吉継はそのまま皿を進めた。
「だから嫌いになってないからこの卵焼きも食べてくれ」
「鬼か!嫌よ、もうこんな拷問!」
「そんな事言わずに頼むよ。そうだ、今度晶のために美味い菓子何か作ってやるからさ」
「じゃあ、マカロン焼いてくれる?美味しいヤツ」
秀晶は間髪容れず注文した。
「へ、マカロンでいいのか?」
「その代わりちゃんと今月の十四日に頂戴よ」
「十四日?ああ、ホワイトデーな。何だ、そんな風に頼まなくてもちゃんと渡すつもりでいたぞ。お前からチョコレートもらったし」
「え、ほ、ホント?それって」
「クロと真央にも返さなきゃと思ってたし、じゃあ纏めて焼いて………いてて!」
ギリギリと骨が砕けるくらい手を思い切り握り返された。
「ソレハドウモアリガトウ」
「何怒ってるんだよ、そしてその機械的な返事も」
「ふん、それよりこの黒い物体食べなきゃ終わらないんでしょ。食べるわよ、食べれば良いんでしょうが、食べれば!」
自棄になって秀晶は豪快に卵焼きを半分バクリと食べた。
「!!」
そして突然バタリとカウンターに突っ伏せた。
「お、おい、晶、しっかりしろ!」
秀晶は震える片手を挙げ呟いた。
「ヨシ、私死ぬ………これはもはや毒物………ちゃんと味見した?」
「いいや、そんなにか」
吉継は残りの一部分を指で摘んで口に入れた。
「おえッ!!」
反射的にベッと掌に吐き出した。
秀晶が毒という意味が良く理解できた。外側が焦げ臭いのはもちろん、中は生焼けで、味も甘いのか酸っぱいのか、塩辛いのか、例えていうならヘドロである。
吉継はバックヤードに向いて叫んだ。
「汐恩、お前、卵液に何足した!」
「………汐恩?これ汐恩が作ったの?」
ガバッと起き上がった秀晶が険しい顔で聞き返した。
ハッと吉継は口を押さえた。
「何だ、そういう訳?二人して私をからかおうって魂胆なの」
「おいおい、それは」
「違います!!」
突然エプロンを着けた汐恩がバックヤードから秀晶の前に走ってきた。
「コバ君は悪くありません。悪いのは全て私です。コバ君は私に協力してくれただけです」
「協力?」
「仲直りのです。とにかくごめんなさい、晶さん。昨日、不快な思いをさせてしまって本当にごめんなさい!」
汐恩は深々と頭を下げた。
「私、晶さんには嫌われたくない。いいえ、クラスの皆さんにも嫌われたくないんです。でも私そういうのどうしていいか分からなくて。仲が良くなればどこかで破綻して離れていってしまうんじゃないかって恐れていたんです。それに気付いていたのですけど、認めたくなくてこんな風になってしまって」
「で、なんでそれがこんな激マズ料理と繋がるのよ」
半分疑った眼差しをして秀晶は皿を箸で叩いた。
「それは、その………」
言い淀む汐恩に代わって吉継が説いた。
「ほら、汐恩って家が家だからキッチンに入った経験もなくてさ、まともに料理したこと無いんだよ」
「でも家庭科の調理実習とかあるでしょ」
「それが、汐恩のグループ、全員さっきの晶みたいに倒れちゃってな。それ以降汐恩には料理させるなって暗黙の了解が出来たんだ」
「は、これってその出来なの?」
「汐恩の中では最高の出来上がりのはずだったんだが。汐恩、お前、今朝俺が教えた通りにやって何でこうなるんだよ?」
「食事好きの晶さんに喜んで頂きたかったんですもの」
「お握りはふっくら握れって教えたよな。米粒を潰さないように!」
「でも途中で崩れてはいけませんでしょ。だから昨日のコバ君のライスバンズみたいに強く握ったんです」
「加減ってのがあるだろうが!餅みたくなってたぞ。それにツナマヨも入れ過ぎだ」
「それは晶さんがツナマヨがお好きだと伺っていたので」
「具と米のバランスもあんの!それと卵焼きに何入れた?もはや出汁巻きの味じゃないぞ」
「それはもっとコクのある風にしようとお酢とか砂糖とかケチャップとか味噌とかマヨネーズとか色々混ぜたんです。それと健康を考慮してヨーグルトと納豆をさらに加えました。複雑な風味ならより楽しんで頂けると」
「なあ、それもう出汁巻きじゃないよな。それと味噌汁も味噌こしでしっかり漉して、具材も慌てずにしっかり切れって教えたはずだぞ。あー、もう、お前が自信持って途中から一人でやりますっていうから任せたのが俺のミスだったよ」
するとここで秀晶が、
「アッハッハハハハ!」
と腹を抱えて大笑いした。
「晶、さん?」
「何だ、あんた、普通に欠点のある駄目女子じゃない。馬鹿馬鹿しい」
「ば、馬鹿馬鹿しいなんて、酷いです、晶さん」
「そうじゃないよ。馬鹿馬鹿しいのは臍を曲げてた私。汐恩がやっと近くに感じたよ」
ずぶの料理素人が一晩でここまで仕上げるのは大変だったろうと秀晶も理解した。その証拠に汐恩の目の下にはクマが出来ていて全部の手の指には包丁で切ったのだろう、絆創膏だらけになっていた。
「超まずかったけど嬉しかったよ、ありがと、汐恩」
「ええ、それ素直に喜べないです」
「一応褒めてるから喜んでよ。それと私もゴメン。昨日は言い過ぎた」
秀晶はペコリと頭を下げた。
「晶さん………ではまた晶さんとお呼びしてよろしいのですか」
「いいよ、汐恩」
「ありがとうございます、晶さん」
少し潤んだ瞳で汐恩は笑った。
吉継は秀晶に感謝した。
「晶、サンキューな。じゃあまた茶会の菓子作りに戻ってきてくれるんだろ」
「うん、戻るけど、二つの条件を付ける」
「何だ?」
「ちゃんと伊知花と咲良も呼んでみんなで一緒に考える事。そして汐恩は私だけじゃなくクラスの女子全員を名前で呼ぶ事。いい、汐恩?」
「わ、分かりました。頑張ります」
「そんなに気負わなくて大丈夫だって。その前に解決しなきゃならない大きな問題があると思うよ、ね、ヨシ?」
秀晶は意味深に吉継へ視線を向けた。
吉継は汐恩にほくそ笑んだ。
「そうだ。決戦は水曜日だな」
それから三日後の三月八日、午後七時。
定休日のひすとり庵にはキッチンに定番の赤いユニフォームを着た吉継と、その隣には音依が立っている。そしてすっかりカウンター席に馴染んだ汐恩とその右隣には秀晶が座っていた。
「さて、今日は汐恩にご馳走を振る舞うんだけど、その前に一つ俺から汐恩にどうしても言っておきたい事がある」
「何でしょう?」
学校からそのままやってきていた制服姿の汐恩は尋ね返した。
吉継は口を開いた。
「細川忠興公の事だ。お前、忠興公が乱暴者でガラシャに酷い扱いをした。そして子供達も手荒く扱ったって理由で嫌いなんだよな」
「忠興に公の敬称など必要ありません。特に味土野に押し込めておいて側室を持つという発言には嫌悪しか感じませんから」
汐恩はキッと眉を集めて続けた。
「私は味土野へ実際行って参りました。山深く人との接点もなくガラシャはどれだけ心許なかったでしょう。それなのに忠興はそんなガラシャの気持ちも察せずのうのうと側室などとは!清廉潔白な高山右近を見習うべきです!」
「なるほど。お前の主張はよく分かったよ。でも反論させてくれ」
「どうぞ何なりと」
反り返って汐恩は腕を組んだ。
「味土野に閉じたのは本能寺の変を起こした光秀には荷担しない忠興の表明だったのは知ってるよな。そして山深いそこには血気にはやってガラシャを襲おうとする者もいない。つまりはガラシャを庇護したんだ。俺はその点において忠興なりの不器用な優しさだと思う」
「ふん、それは忠興擁護派が使う陳腐な言い逃れですわね。幽閉は全て忠興が自分の名誉のためにした事ですわよ。あの冷血漢にそのような情けがあるものですか」
「じゃあ、側室の件についてだ。右近はキリシタン。教えに従い一夫一婦制を守ったけど、忠興はキリシタンじゃない。それに当時の大名は大抵嫡子を作るために側室を持つのが当たり前だった。だからそもそも忠興が右近と比べられるのは変だ」
「それはそうですけど、父親である幽斎も妻は麝香(じゃこう)だけでしたし、ガラシャの父であった明智光秀も妻は煕子(ひろこ)一人でしたわ」
「でもそれは忠興の周りがたまたまそうだったというだけだ。お前は信長・秀吉・家康の三英傑にも同じ事が言えるのか?側室を持つのは間違っていると」
「そ、それは………」
「おっと、勘違いするなよ、俺は別に側室を持つべきだと勧めてるんじゃ無い。当時はそれが当たり前の時代だっただけだ。それに忠興が側室を増やすという発言はもしかしたら別の思惑があったんじゃないかと俺は考えてる」
「別の、思惑?」
「これはあくまでも俺の持論だが」
と吉継は前置きして述べた。
「忠興はガラシャが勝手にキリシタンへ改宗したから腹を立てていた。時代はキリシタン禁制へと向かっていた。そんな中での改宗は果たして忠興の主であった秀吉からはどう映ると思う?それもガラシャは信長を殺した張本人の娘。もし忠興がそれを黙って見逃していたら………」
「あ、謀反の可能性が!」
秀晶が気付いて言った。
「そうだ。秀吉はキリシタンの勢力を豊臣の権力を脅かす存在として恐れていた。自分の正室がそのキリシタンになった。九州を平定して益々力を付けてきた秀吉に忠興は焦った。細川家に難癖を付けて潰すことなど造作もないだろう。忠興は侍女の鼻を削いでからガラシャの喉元にも刀を突き付けた。それでもガラシャは頑なにキリシタン信仰を止めようとしなかった。忠興はガラシャをその場で殺すことも出来た。でもそれはせず代わりに側室の話を持ち出した」
「だからどうしてそうなるんですの!」
「分からないか?秀吉は大の女好きだ。その秀吉を真似て忠興も女に狂ったとなれば秀吉は忠興がガラシャの意向を受けて謀反するなど疑いもしないだろう。これは忠興の細川家を守る当主としての最適な手段だった」
「そのような事、牽強付会(けんきょうふかい・都合の良い屁理屈)も甚だしいですわ!単なる忠興の女好きです!」
汐恩は憤激してカウンターに手を突いて立ち上がった。
「落ち着けって、俺の持論だって先に言ったろ。別に証明されてるわけじゃない」
「あ、はい。それは、そうですわね」
汐恩は冷静になって座り直した。
「でも、忠興が細川家を守るという点では特に気を遣っていたのは確かだ。味土野幽閉を秀吉から解かれても忠興は大阪の玉造屋敷にガラシャへ監視を付け外出出来ないようにした。それはガラシャが『逆賊の娘』である事実に変わりなく秀吉に警戒されないようにしたからだ」
「いいえ、それは忠興の嫉妬による束縛に過ぎませんわ。そこまで深く考える人間ではありません」
「ま、それは否めないな。ガラシャと目があった庭師を斬り殺しているのもこの頃だったし」
「でしょう?」
「ただ、細川家は室町以来の名門とはいえ、その立場はいつも危うかった。昔、前将軍を殺され主人を失った幽斎は後の将軍となる義昭を擁立しようと全国を転々と渡り歩いた。その時幼少の忠興は家臣の家に預けられ貧しい暮らしをしていた。そのトラウマもあったのだろうと思う、忠興は他の大名以上に家を守る事に必死になった。本能寺の変の時光秀に味方するかどうかも一大決断だった。間違った選択をすればいくら名門であっても、時は戦国、容易に潰されてしまうだろう。もちろん関ヶ原の時もそうだった。細川家は織田・豊臣・徳川の激流の中を必死に生き抜いたんだ。ところで汐恩は長男の忠隆と次男の興秋に忠興が無情な行いをしたと癪に障っている。そうだな?」
「そうです」
「でもそれは一方的なガラシャ目線だ。長男の忠隆は、ガラシャが死んだ時、逃げた嫁・千世を庇った。しかもその嫁は前田利家の娘だ。関ヶ原に勝利した家康が恐れていたのは毛利と前田だ。毛利は何とか調略に成功し所領を減らす事が出来た。しかし、なお力を持っていたのは前田だ。利家の妻まつを江戸に人質に取っていたとはいえ油断出来ない。豊臣家も秀頼が生きている。前田との縁戚は徳川にとって目の上のこぶだ。関ヶ原以前、謀反を計画したと噂された前田利長と縁戚だった細川家も家康から同じ罪を問われた苦い経験がある。だから戦後であろうが忠興はその前田の嫁をいつまでも離縁しない忠隆を跡継ぎから除いた。これは間違いなく細川家を守るための決断だったろう。世は徳川に傾いていた。三男の忠利を江戸に遣わして徳川と強固な関係を築きたい忠興にとって忠隆は排除しなければいけない、いわば見せしめだった」
「それでも親として温情を持てたのではないですか!」
「情けは充分にあったさ。京都の幽斎のもとに逃げ込んでいた忠隆夫妻を忠興は手に掛けなかった。もちろんその夫婦の存在を公に認める訳にはいかないから生活費を融通する事はしなかった。そのために貧しくなった忠隆は最終的に妻を離縁した。それから後に忠興は忠隆と和解し、時にはお茶を点て、熊本の八代で共に暮らそうとまで誘っている。本当に忠興が冷酷であればとっくに忠隆を見捨てている」
「では次男の興秋はどうなのです?いくら大阪の陣で豊臣方についたとはいえ、家康は戦後許してやると明言したのですよ。それを忠興は認めず自害に追い込んだ。これは惨い仕打ちとしか言いようがありません」
「そうかな?俺には忠興の気持ちが何となく分かるよ。興秋は忠隆が廃嫡された後、細川の跡継ぎは当然次男の自分だと思っていた。しかし、徳川家が陰で口を出し三男の忠利を選んだ。そりゃそうだ。江戸にいた忠利は秀忠のお気に入りだったからな。『徳川実記』には興秋は弟が家督を継ぐ事を喜んだと書いてあるが、それが本当かどうか分からない」
吉継はふうと一旦息を吐いてから話を継続した。
「忠興は興秋がキリシタンである事から家督を忠利に決めたという説もある。忠興は忠利の代わりに江戸への人質に興秋を選んだ。興秋はその途上で脱走しやがて豊臣に味方し大坂の陣を戦った。大坂についたのは跡を継げなかった自暴自棄のせいだったのか、大坂方にキリシタンが多くいた事が理由だったかも不明だ。でもこれは江戸にとっては途轍もなく危ない思想だった。そんな危険分子を、いくら家康の裁量とはいえ、許したとしたとあれば細川家は警戒されるかもしれない。許すと言ったのも忠興の出方を窺っていただけかもしれない。現にお家騒動で徳川家によって改易された大名は多い。小さな綻びも放置しておけば大きな破れとなる。忠興はだから興秋に自害を強いた。でも忠興も怒りながら心の内では泣く泣く処断したと思う。誰が好き好んで大事な息子を殺すもんか」
「しかし忠興はガラシャを見殺しにしたのも同然です」
汐恩は別の方向に話を逸らせた。
「もし忠興が有事の折には逃げろと端から命じていればガラシャは死なずに済んだのです。それを………」
悔しそうに唇を噛む汐恩に吉継は恬として言った。
「へえ、俺はあの時にガラシャが亡くなってよかったと思ってるぞ」
「な!」
汐恩は驚いて、そして気色ばんだ目で吉継を睨んだ。
「どういう意味ですの!返答次第ではいくらコバ君でも許しませんわよ!」
対して吉継は冷静に答えた。
「汐恩、お前ガラシャの辞世の句を覚えるだろ。詠んでみてくれ」
「はあ?」
「いいから頼むよ」
「散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ、ですわよ」
「それだよ。その句のようにガラシャは自分で死の頃合いを見計らったんだ。本当は三成の軍隊に囲まれてても落ち延びることは出来た。実際忠隆の嫁もそうだし、侍女とかも生き延びているからな。でもガラシャはここが自分の死に時だと細川の屋敷で細川家家臣の小笠原少斎に胸を突かせ生涯を終えた」
「えっと、西軍に捕らえられたら忠興に迷惑が掛かると思ってそうしたんだっけ」
秀晶が伝記を思い出して言い足した。
「それもある。でもガラシャは前々から己の人生や生死について悩んでいた。宣教師へもしもの時には死を覚悟していますと打ち明けていたしな。それは一方でキリスト教を通じて天国に憧れていたからだ。ガラシャの人生は波瀾万丈だった。忠興は家を守るので懸命だったけど、ガラシャにはそれ以上に不幸が降り掛かった。父は逆臣と討たれ、母も死亡。ガラシャ自身も巻き添えになった。玉造屋敷でも駕籠の鳥のように押し込めらた環境にいたガラシャがキリスト教を信仰するにつれ罪も汚れも無い天国へ行きたいと願ったのは当然だろう。そして三成の隊に囲まれたその時こそ自分の魂が救済されると考えたはずだ。跡継ぎ候補となる男児を三人も産み、夫の忠興には力もある。細川家は自分がいなくてももう大丈夫。後は如何に自分の魂を昇天させるか、そうガラシャは思い至ってあの辞世を詠んだと思う」
「それは」
「実際、ガラシャが教会から送られたキリシタンのテキストである『こんてむつすむん地(Contemptus mundi/キリストに倣いて)』にはこう記されている。『でうすの御くにはなんだちのうちにありといふごなり。こゝろのそこよりでうすにたちかへり奉り、此はかなきせかいをいとうふべし。しからばなんぢのあにまくつろぎを見つくべし』」
「え?」
「『神の国はあなたがたの内に在ると主はいわれる。心を傾けて主に向かいなさい。そしてこのみじめな世を捨てなさい。そうすればあなたの魂は平安を見出すであろう』だよ。それにもう一つ。もしガラシャが生き延びていたら後の世はガラシャにとって生き地獄になっただろうな。何せ徳川も結局キリシタン弾圧に回ったからさ。島原天草一揆の様はガラシャも聞いていられなかったろうよ」
「う」
「ガラシャは他のキリシタンが殺されていくのを黙って見過ごすか。もしかすると細川家に累が及ばないように離縁を望んで磔刑になっていたかもしれない。子供達を嘆き悲しませていたかもしれない。いずれにせよそれはガラシャが希望する道ではなかったと思う。だからあのタイミングでの死はガラシャにとって最も幸せだったんじゃないかって俺は考えるんだ」
「………」
汐恩はうつむいて黙ってしまった。
そんな気落ちする汐恩に吉継はポケットから取り出した、灯籠が映っていた一枚の写真を見せた。
それは竿の部分がない火袋までの歪な三角形のような石灯籠で、上の宝珠の部分が座った鶏と変わり、くり抜かれた丸い火口には十字架が見え、その真下には雌雄の鹿が向かい合いに彫られていた。
「これは?」
汐恩は全体的に朽ちた灯籠に見入った。
「京都玉屋の奥庭にあるガラシャ灯籠と伝わっているものだ。下にガラシャとローマ字が彫られている。ガラシャの灯籠といえば高桐院の春日灯籠ばかりに目がいくけど、これも貴重品だ」
「ガラシャ灯籠………」
「面白い作りしているだろ。火口の十字架なんて露骨にキリシタン灯籠だよ。上の鶏は聖書でいう『ペテロの鶏』で、鹿は、これは春日神社の眷属ではあるけれど、キリスト教における鹿は『詩篇(しへん)』で別の意味に捉えられていると思うんだ」
「ペテロ、詩篇?」
「俺も聖書は詳しくないから母さんに教えてもらったんだけどな。福音書の記載で、キリストが処刑される前に弟子のペテロが師であるキリストの事を、処刑を見に来ていた見物人からペテロ自身が迫害されないように、鶏が鳴く前に三度あんな人は知らないと周囲に言うだろうと予言され、その通りの状況になった。ペテロは鶏の鳴き声で師の予言を思い出し激しく泣いたんだ。それからキリスト教における鶏は、罪に対する懺悔とか目覚めの象徴となった。よく教会の屋根に風見鶏が飾られているのはそれが起源さ」
「鹿は?」
「旧約聖書の詩篇四十二編二節、『水の川床を前に喘ぐ鹿のように、神よ、わたしの魂はあなたに喘いでいます』から鹿は神への憧れのシンボルになった。つまりこれは聖書を現してる灯籠でガラシャの死後供養のために作られた可能性が高い。そしてその依頼主が忠興だとも考えられなくもない」
「な、何故です。その根拠は!」
「その向かい合った夫婦鹿だよ。それは忠興が添い遂げられなかったガラシャを思って彫らせたんじゃないか?忠興はガラシャのキリシタン改宗に怒ったが、その死後は逆にキリスト教に対してとても寛容になったんだ。それに息子・忠利からの依頼もあってガラシャの葬儀をオルガンティーノ司祭に一任しミサを執り行わせた。その時、忠興は金の延べ棒五本を司祭に送っている。忠興自身もミサに参列し、その荘厳さに感動した。その後も小倉の領地に教会を建てたり宣教師と親しくなったりまるで人が変わったようになった。ガラシャの供養のために九曜紋が付いた南蛮鐘を小倉の南蛮寺に送ってるしな。ある時なんかはキリシタン嫌いの清正と宗派について言い争いになった程だ」
それでも、と反論しかけた口を掌で押し止めて吉継は補説した。
「ただ後々徳川がキリシタン弾圧に踏み切ったから忠興もそれに従わざるを得なかった。もしかして忠興は自分が死んだらガラシャとまた昔のように仲の良い夫婦に戻りたいと願ったんじゃないか。新婚当初は二人とも仲睦まじく、忠興はガラシャに手作りの百人一首を作ってプレゼントしてるし、ガラシャも忠興のために露払いっていう雨具を自分で織って仕上げてるしな」
「………」
「確かに忠興は短気で乱暴者だっただろう。残されている悪い逸話も多い。でもその一方で高山右近が徳川の命でマニラに追放が決まった時もそれを躍起になって取り成そうとしたり、利休の処分が決まった時も見送りに来たのは織部と忠興だけだった。それに息子の忠利が病気になったら食事の内容に気を付けるよう心配の手紙も出している。その辺りはおねと秀吉の間を気遣った信長に似てる部分があるのかもしれない。そして晩年には性格も穏やかになり、『善人とは明石浦の荒波に揉まれ滑らかになった牡蠣殻の如きを善き人』とまで将軍秀忠へ進言している」
「コバ君は結局何が言いたいのですか!?」
気が揉めた汐恩はその真意を問い詰めた。
吉継は真っ直ぐに汐恩を見た。
「汐恩、お前、本当は忠興が嫌いじゃないだろ」
「そんな事ありません。大嫌いです!」
「そうか?高山右近はつい最近カトリックの総本山バチカンから福者(ふくしゃ・聖人に次ぐ崇敬の対象)の認定を受けた。でもガラシャはその対象には選ばれない。なぜならガラシャはキリストの教義のためじゃなく細川の家のために命を落としたからだ。あれだけ酷い目にあった家のためにその身を犠牲にした不条理が納得出来てないんだろ。どうせなら信仰のために死を選んで欲しかった、とお前はそう考えてるはずだ」
「あ、う」
「それとお前がわだかまっているのはガラシャが無駄死にしたと伝えられている事にじゃないのか。そういった事をお前は忠興憎しの感情に置き換えているだけにしか俺には見えないぞ」
「く………うッ」
色々反論しようとしたけども総じて図星だったのか汐恩は口を閉ざしてしまった。
「ガラシャが死んだ事に対しての評価は様々だ。妻の死を知った忠興が怒りでがむしゃらに戦い勝利を収めたという人間もいれば、その死が関ヶ原合戦に大して影響を及ぼさなかったと言い切る人間もいる。汐恩はもしかしてガラシャには死んで欲しくなかったんじゃないか?どうして逃げなかったんだとどこかで嘆いているんじゃないか。俺はそう感じるよ」
汐恩は頭を垂れると暫く沈黙した。そして間を置いてから訥々(とつとつ)と話し出した。
「それはそうだと思います。私は苦難の中堪えて生きた力強いガラシャが好きです。だからどんな手を使ってでも生き延びてほしかった。もしかすると生きてても殺されはせず右近のように外国へ追放されていたかもしれません。それはガラシャにとって天国だったと思うのです。しかし、ガラシャは死を選んだ。それが本当にガラシャにとって幸せだったのかどうか正直分からないのです」
「いや、俺は幸せだったと確信してるぞ」
と吉継は断言した。
「ガラシャはキリスト教に出会うまでは傲慢な性格だった。でも改宗してその真理を探究するにつれ穏やかに変化したという。いつも死と隣り合わせの戦乱の中でやっと安らげる場所を見つけたんだ。そして憧れていた神の元へ行ける。それはきっと究極の幸せだったと思うぜ」
「コバ君………」
固まったまま秀晶は白目を向けた。
「違う違う!断じて違う!何で俺がお前のこと嫌いになるもんか!」
吉継は濡れタオルで秀晶の顔と手を拭きながら慌てて弁明した。
「そ、そう?」
好きと言われた訳ではないが秀晶は嬉しそうに頬を染めた。すると吉継はそのまま皿を進めた。
「だから嫌いになってないからこの卵焼きも食べてくれ」
「鬼か!嫌よ、もうこんな拷問!」
「そんな事言わずに頼むよ。そうだ、今度晶のために美味い菓子何か作ってやるからさ」
「じゃあ、マカロン焼いてくれる?美味しいヤツ」
秀晶は間髪容れず注文した。
「へ、マカロンでいいのか?」
「その代わりちゃんと今月の十四日に頂戴よ」
「十四日?ああ、ホワイトデーな。何だ、そんな風に頼まなくてもちゃんと渡すつもりでいたぞ。お前からチョコレートもらったし」
「え、ほ、ホント?それって」
「クロと真央にも返さなきゃと思ってたし、じゃあ纏めて焼いて………いてて!」
ギリギリと骨が砕けるくらい手を思い切り握り返された。
「ソレハドウモアリガトウ」
「何怒ってるんだよ、そしてその機械的な返事も」
「ふん、それよりこの黒い物体食べなきゃ終わらないんでしょ。食べるわよ、食べれば良いんでしょうが、食べれば!」
自棄になって秀晶は豪快に卵焼きを半分バクリと食べた。
「!!」
そして突然バタリとカウンターに突っ伏せた。
「お、おい、晶、しっかりしろ!」
秀晶は震える片手を挙げ呟いた。
「ヨシ、私死ぬ………これはもはや毒物………ちゃんと味見した?」
「いいや、そんなにか」
吉継は残りの一部分を指で摘んで口に入れた。
「おえッ!!」
反射的にベッと掌に吐き出した。
秀晶が毒という意味が良く理解できた。外側が焦げ臭いのはもちろん、中は生焼けで、味も甘いのか酸っぱいのか、塩辛いのか、例えていうならヘドロである。
吉継はバックヤードに向いて叫んだ。
「汐恩、お前、卵液に何足した!」
「………汐恩?これ汐恩が作ったの?」
ガバッと起き上がった秀晶が険しい顔で聞き返した。
ハッと吉継は口を押さえた。
「何だ、そういう訳?二人して私をからかおうって魂胆なの」
「おいおい、それは」
「違います!!」
突然エプロンを着けた汐恩がバックヤードから秀晶の前に走ってきた。
「コバ君は悪くありません。悪いのは全て私です。コバ君は私に協力してくれただけです」
「協力?」
「仲直りのです。とにかくごめんなさい、晶さん。昨日、不快な思いをさせてしまって本当にごめんなさい!」
汐恩は深々と頭を下げた。
「私、晶さんには嫌われたくない。いいえ、クラスの皆さんにも嫌われたくないんです。でも私そういうのどうしていいか分からなくて。仲が良くなればどこかで破綻して離れていってしまうんじゃないかって恐れていたんです。それに気付いていたのですけど、認めたくなくてこんな風になってしまって」
「で、なんでそれがこんな激マズ料理と繋がるのよ」
半分疑った眼差しをして秀晶は皿を箸で叩いた。
「それは、その………」
言い淀む汐恩に代わって吉継が説いた。
「ほら、汐恩って家が家だからキッチンに入った経験もなくてさ、まともに料理したこと無いんだよ」
「でも家庭科の調理実習とかあるでしょ」
「それが、汐恩のグループ、全員さっきの晶みたいに倒れちゃってな。それ以降汐恩には料理させるなって暗黙の了解が出来たんだ」
「は、これってその出来なの?」
「汐恩の中では最高の出来上がりのはずだったんだが。汐恩、お前、今朝俺が教えた通りにやって何でこうなるんだよ?」
「食事好きの晶さんに喜んで頂きたかったんですもの」
「お握りはふっくら握れって教えたよな。米粒を潰さないように!」
「でも途中で崩れてはいけませんでしょ。だから昨日のコバ君のライスバンズみたいに強く握ったんです」
「加減ってのがあるだろうが!餅みたくなってたぞ。それにツナマヨも入れ過ぎだ」
「それは晶さんがツナマヨがお好きだと伺っていたので」
「具と米のバランスもあんの!それと卵焼きに何入れた?もはや出汁巻きの味じゃないぞ」
「それはもっとコクのある風にしようとお酢とか砂糖とかケチャップとか味噌とかマヨネーズとか色々混ぜたんです。それと健康を考慮してヨーグルトと納豆をさらに加えました。複雑な風味ならより楽しんで頂けると」
「なあ、それもう出汁巻きじゃないよな。それと味噌汁も味噌こしでしっかり漉して、具材も慌てずにしっかり切れって教えたはずだぞ。あー、もう、お前が自信持って途中から一人でやりますっていうから任せたのが俺のミスだったよ」
するとここで秀晶が、
「アッハッハハハハ!」
と腹を抱えて大笑いした。
「晶、さん?」
「何だ、あんた、普通に欠点のある駄目女子じゃない。馬鹿馬鹿しい」
「ば、馬鹿馬鹿しいなんて、酷いです、晶さん」
「そうじゃないよ。馬鹿馬鹿しいのは臍を曲げてた私。汐恩がやっと近くに感じたよ」
ずぶの料理素人が一晩でここまで仕上げるのは大変だったろうと秀晶も理解した。その証拠に汐恩の目の下にはクマが出来ていて全部の手の指には包丁で切ったのだろう、絆創膏だらけになっていた。
「超まずかったけど嬉しかったよ、ありがと、汐恩」
「ええ、それ素直に喜べないです」
「一応褒めてるから喜んでよ。それと私もゴメン。昨日は言い過ぎた」
秀晶はペコリと頭を下げた。
「晶さん………ではまた晶さんとお呼びしてよろしいのですか」
「いいよ、汐恩」
「ありがとうございます、晶さん」
少し潤んだ瞳で汐恩は笑った。
吉継は秀晶に感謝した。
「晶、サンキューな。じゃあまた茶会の菓子作りに戻ってきてくれるんだろ」
「うん、戻るけど、二つの条件を付ける」
「何だ?」
「ちゃんと伊知花と咲良も呼んでみんなで一緒に考える事。そして汐恩は私だけじゃなくクラスの女子全員を名前で呼ぶ事。いい、汐恩?」
「わ、分かりました。頑張ります」
「そんなに気負わなくて大丈夫だって。その前に解決しなきゃならない大きな問題があると思うよ、ね、ヨシ?」
秀晶は意味深に吉継へ視線を向けた。
吉継は汐恩にほくそ笑んだ。
「そうだ。決戦は水曜日だな」
それから三日後の三月八日、午後七時。
定休日のひすとり庵にはキッチンに定番の赤いユニフォームを着た吉継と、その隣には音依が立っている。そしてすっかりカウンター席に馴染んだ汐恩とその右隣には秀晶が座っていた。
「さて、今日は汐恩にご馳走を振る舞うんだけど、その前に一つ俺から汐恩にどうしても言っておきたい事がある」
「何でしょう?」
学校からそのままやってきていた制服姿の汐恩は尋ね返した。
吉継は口を開いた。
「細川忠興公の事だ。お前、忠興公が乱暴者でガラシャに酷い扱いをした。そして子供達も手荒く扱ったって理由で嫌いなんだよな」
「忠興に公の敬称など必要ありません。特に味土野に押し込めておいて側室を持つという発言には嫌悪しか感じませんから」
汐恩はキッと眉を集めて続けた。
「私は味土野へ実際行って参りました。山深く人との接点もなくガラシャはどれだけ心許なかったでしょう。それなのに忠興はそんなガラシャの気持ちも察せずのうのうと側室などとは!清廉潔白な高山右近を見習うべきです!」
「なるほど。お前の主張はよく分かったよ。でも反論させてくれ」
「どうぞ何なりと」
反り返って汐恩は腕を組んだ。
「味土野に閉じたのは本能寺の変を起こした光秀には荷担しない忠興の表明だったのは知ってるよな。そして山深いそこには血気にはやってガラシャを襲おうとする者もいない。つまりはガラシャを庇護したんだ。俺はその点において忠興なりの不器用な優しさだと思う」
「ふん、それは忠興擁護派が使う陳腐な言い逃れですわね。幽閉は全て忠興が自分の名誉のためにした事ですわよ。あの冷血漢にそのような情けがあるものですか」
「じゃあ、側室の件についてだ。右近はキリシタン。教えに従い一夫一婦制を守ったけど、忠興はキリシタンじゃない。それに当時の大名は大抵嫡子を作るために側室を持つのが当たり前だった。だからそもそも忠興が右近と比べられるのは変だ」
「それはそうですけど、父親である幽斎も妻は麝香(じゃこう)だけでしたし、ガラシャの父であった明智光秀も妻は煕子(ひろこ)一人でしたわ」
「でもそれは忠興の周りがたまたまそうだったというだけだ。お前は信長・秀吉・家康の三英傑にも同じ事が言えるのか?側室を持つのは間違っていると」
「そ、それは………」
「おっと、勘違いするなよ、俺は別に側室を持つべきだと勧めてるんじゃ無い。当時はそれが当たり前の時代だっただけだ。それに忠興が側室を増やすという発言はもしかしたら別の思惑があったんじゃないかと俺は考えてる」
「別の、思惑?」
「これはあくまでも俺の持論だが」
と吉継は前置きして述べた。
「忠興はガラシャが勝手にキリシタンへ改宗したから腹を立てていた。時代はキリシタン禁制へと向かっていた。そんな中での改宗は果たして忠興の主であった秀吉からはどう映ると思う?それもガラシャは信長を殺した張本人の娘。もし忠興がそれを黙って見逃していたら………」
「あ、謀反の可能性が!」
秀晶が気付いて言った。
「そうだ。秀吉はキリシタンの勢力を豊臣の権力を脅かす存在として恐れていた。自分の正室がそのキリシタンになった。九州を平定して益々力を付けてきた秀吉に忠興は焦った。細川家に難癖を付けて潰すことなど造作もないだろう。忠興は侍女の鼻を削いでからガラシャの喉元にも刀を突き付けた。それでもガラシャは頑なにキリシタン信仰を止めようとしなかった。忠興はガラシャをその場で殺すことも出来た。でもそれはせず代わりに側室の話を持ち出した」
「だからどうしてそうなるんですの!」
「分からないか?秀吉は大の女好きだ。その秀吉を真似て忠興も女に狂ったとなれば秀吉は忠興がガラシャの意向を受けて謀反するなど疑いもしないだろう。これは忠興の細川家を守る当主としての最適な手段だった」
「そのような事、牽強付会(けんきょうふかい・都合の良い屁理屈)も甚だしいですわ!単なる忠興の女好きです!」
汐恩は憤激してカウンターに手を突いて立ち上がった。
「落ち着けって、俺の持論だって先に言ったろ。別に証明されてるわけじゃない」
「あ、はい。それは、そうですわね」
汐恩は冷静になって座り直した。
「でも、忠興が細川家を守るという点では特に気を遣っていたのは確かだ。味土野幽閉を秀吉から解かれても忠興は大阪の玉造屋敷にガラシャへ監視を付け外出出来ないようにした。それはガラシャが『逆賊の娘』である事実に変わりなく秀吉に警戒されないようにしたからだ」
「いいえ、それは忠興の嫉妬による束縛に過ぎませんわ。そこまで深く考える人間ではありません」
「ま、それは否めないな。ガラシャと目があった庭師を斬り殺しているのもこの頃だったし」
「でしょう?」
「ただ、細川家は室町以来の名門とはいえ、その立場はいつも危うかった。昔、前将軍を殺され主人を失った幽斎は後の将軍となる義昭を擁立しようと全国を転々と渡り歩いた。その時幼少の忠興は家臣の家に預けられ貧しい暮らしをしていた。そのトラウマもあったのだろうと思う、忠興は他の大名以上に家を守る事に必死になった。本能寺の変の時光秀に味方するかどうかも一大決断だった。間違った選択をすればいくら名門であっても、時は戦国、容易に潰されてしまうだろう。もちろん関ヶ原の時もそうだった。細川家は織田・豊臣・徳川の激流の中を必死に生き抜いたんだ。ところで汐恩は長男の忠隆と次男の興秋に忠興が無情な行いをしたと癪に障っている。そうだな?」
「そうです」
「でもそれは一方的なガラシャ目線だ。長男の忠隆は、ガラシャが死んだ時、逃げた嫁・千世を庇った。しかもその嫁は前田利家の娘だ。関ヶ原に勝利した家康が恐れていたのは毛利と前田だ。毛利は何とか調略に成功し所領を減らす事が出来た。しかし、なお力を持っていたのは前田だ。利家の妻まつを江戸に人質に取っていたとはいえ油断出来ない。豊臣家も秀頼が生きている。前田との縁戚は徳川にとって目の上のこぶだ。関ヶ原以前、謀反を計画したと噂された前田利長と縁戚だった細川家も家康から同じ罪を問われた苦い経験がある。だから戦後であろうが忠興はその前田の嫁をいつまでも離縁しない忠隆を跡継ぎから除いた。これは間違いなく細川家を守るための決断だったろう。世は徳川に傾いていた。三男の忠利を江戸に遣わして徳川と強固な関係を築きたい忠興にとって忠隆は排除しなければいけない、いわば見せしめだった」
「それでも親として温情を持てたのではないですか!」
「情けは充分にあったさ。京都の幽斎のもとに逃げ込んでいた忠隆夫妻を忠興は手に掛けなかった。もちろんその夫婦の存在を公に認める訳にはいかないから生活費を融通する事はしなかった。そのために貧しくなった忠隆は最終的に妻を離縁した。それから後に忠興は忠隆と和解し、時にはお茶を点て、熊本の八代で共に暮らそうとまで誘っている。本当に忠興が冷酷であればとっくに忠隆を見捨てている」
「では次男の興秋はどうなのです?いくら大阪の陣で豊臣方についたとはいえ、家康は戦後許してやると明言したのですよ。それを忠興は認めず自害に追い込んだ。これは惨い仕打ちとしか言いようがありません」
「そうかな?俺には忠興の気持ちが何となく分かるよ。興秋は忠隆が廃嫡された後、細川の跡継ぎは当然次男の自分だと思っていた。しかし、徳川家が陰で口を出し三男の忠利を選んだ。そりゃそうだ。江戸にいた忠利は秀忠のお気に入りだったからな。『徳川実記』には興秋は弟が家督を継ぐ事を喜んだと書いてあるが、それが本当かどうか分からない」
吉継はふうと一旦息を吐いてから話を継続した。
「忠興は興秋がキリシタンである事から家督を忠利に決めたという説もある。忠興は忠利の代わりに江戸への人質に興秋を選んだ。興秋はその途上で脱走しやがて豊臣に味方し大坂の陣を戦った。大坂についたのは跡を継げなかった自暴自棄のせいだったのか、大坂方にキリシタンが多くいた事が理由だったかも不明だ。でもこれは江戸にとっては途轍もなく危ない思想だった。そんな危険分子を、いくら家康の裁量とはいえ、許したとしたとあれば細川家は警戒されるかもしれない。許すと言ったのも忠興の出方を窺っていただけかもしれない。現にお家騒動で徳川家によって改易された大名は多い。小さな綻びも放置しておけば大きな破れとなる。忠興はだから興秋に自害を強いた。でも忠興も怒りながら心の内では泣く泣く処断したと思う。誰が好き好んで大事な息子を殺すもんか」
「しかし忠興はガラシャを見殺しにしたのも同然です」
汐恩は別の方向に話を逸らせた。
「もし忠興が有事の折には逃げろと端から命じていればガラシャは死なずに済んだのです。それを………」
悔しそうに唇を噛む汐恩に吉継は恬として言った。
「へえ、俺はあの時にガラシャが亡くなってよかったと思ってるぞ」
「な!」
汐恩は驚いて、そして気色ばんだ目で吉継を睨んだ。
「どういう意味ですの!返答次第ではいくらコバ君でも許しませんわよ!」
対して吉継は冷静に答えた。
「汐恩、お前ガラシャの辞世の句を覚えるだろ。詠んでみてくれ」
「はあ?」
「いいから頼むよ」
「散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ、ですわよ」
「それだよ。その句のようにガラシャは自分で死の頃合いを見計らったんだ。本当は三成の軍隊に囲まれてても落ち延びることは出来た。実際忠隆の嫁もそうだし、侍女とかも生き延びているからな。でもガラシャはここが自分の死に時だと細川の屋敷で細川家家臣の小笠原少斎に胸を突かせ生涯を終えた」
「えっと、西軍に捕らえられたら忠興に迷惑が掛かると思ってそうしたんだっけ」
秀晶が伝記を思い出して言い足した。
「それもある。でもガラシャは前々から己の人生や生死について悩んでいた。宣教師へもしもの時には死を覚悟していますと打ち明けていたしな。それは一方でキリスト教を通じて天国に憧れていたからだ。ガラシャの人生は波瀾万丈だった。忠興は家を守るので懸命だったけど、ガラシャにはそれ以上に不幸が降り掛かった。父は逆臣と討たれ、母も死亡。ガラシャ自身も巻き添えになった。玉造屋敷でも駕籠の鳥のように押し込めらた環境にいたガラシャがキリスト教を信仰するにつれ罪も汚れも無い天国へ行きたいと願ったのは当然だろう。そして三成の隊に囲まれたその時こそ自分の魂が救済されると考えたはずだ。跡継ぎ候補となる男児を三人も産み、夫の忠興には力もある。細川家は自分がいなくてももう大丈夫。後は如何に自分の魂を昇天させるか、そうガラシャは思い至ってあの辞世を詠んだと思う」
「それは」
「実際、ガラシャが教会から送られたキリシタンのテキストである『こんてむつすむん地(Contemptus mundi/キリストに倣いて)』にはこう記されている。『でうすの御くにはなんだちのうちにありといふごなり。こゝろのそこよりでうすにたちかへり奉り、此はかなきせかいをいとうふべし。しからばなんぢのあにまくつろぎを見つくべし』」
「え?」
「『神の国はあなたがたの内に在ると主はいわれる。心を傾けて主に向かいなさい。そしてこのみじめな世を捨てなさい。そうすればあなたの魂は平安を見出すであろう』だよ。それにもう一つ。もしガラシャが生き延びていたら後の世はガラシャにとって生き地獄になっただろうな。何せ徳川も結局キリシタン弾圧に回ったからさ。島原天草一揆の様はガラシャも聞いていられなかったろうよ」
「う」
「ガラシャは他のキリシタンが殺されていくのを黙って見過ごすか。もしかすると細川家に累が及ばないように離縁を望んで磔刑になっていたかもしれない。子供達を嘆き悲しませていたかもしれない。いずれにせよそれはガラシャが希望する道ではなかったと思う。だからあのタイミングでの死はガラシャにとって最も幸せだったんじゃないかって俺は考えるんだ」
「………」
汐恩はうつむいて黙ってしまった。
そんな気落ちする汐恩に吉継はポケットから取り出した、灯籠が映っていた一枚の写真を見せた。
それは竿の部分がない火袋までの歪な三角形のような石灯籠で、上の宝珠の部分が座った鶏と変わり、くり抜かれた丸い火口には十字架が見え、その真下には雌雄の鹿が向かい合いに彫られていた。
「これは?」
汐恩は全体的に朽ちた灯籠に見入った。
「京都玉屋の奥庭にあるガラシャ灯籠と伝わっているものだ。下にガラシャとローマ字が彫られている。ガラシャの灯籠といえば高桐院の春日灯籠ばかりに目がいくけど、これも貴重品だ」
「ガラシャ灯籠………」
「面白い作りしているだろ。火口の十字架なんて露骨にキリシタン灯籠だよ。上の鶏は聖書でいう『ペテロの鶏』で、鹿は、これは春日神社の眷属ではあるけれど、キリスト教における鹿は『詩篇(しへん)』で別の意味に捉えられていると思うんだ」
「ペテロ、詩篇?」
「俺も聖書は詳しくないから母さんに教えてもらったんだけどな。福音書の記載で、キリストが処刑される前に弟子のペテロが師であるキリストの事を、処刑を見に来ていた見物人からペテロ自身が迫害されないように、鶏が鳴く前に三度あんな人は知らないと周囲に言うだろうと予言され、その通りの状況になった。ペテロは鶏の鳴き声で師の予言を思い出し激しく泣いたんだ。それからキリスト教における鶏は、罪に対する懺悔とか目覚めの象徴となった。よく教会の屋根に風見鶏が飾られているのはそれが起源さ」
「鹿は?」
「旧約聖書の詩篇四十二編二節、『水の川床を前に喘ぐ鹿のように、神よ、わたしの魂はあなたに喘いでいます』から鹿は神への憧れのシンボルになった。つまりこれは聖書を現してる灯籠でガラシャの死後供養のために作られた可能性が高い。そしてその依頼主が忠興だとも考えられなくもない」
「な、何故です。その根拠は!」
「その向かい合った夫婦鹿だよ。それは忠興が添い遂げられなかったガラシャを思って彫らせたんじゃないか?忠興はガラシャのキリシタン改宗に怒ったが、その死後は逆にキリスト教に対してとても寛容になったんだ。それに息子・忠利からの依頼もあってガラシャの葬儀をオルガンティーノ司祭に一任しミサを執り行わせた。その時、忠興は金の延べ棒五本を司祭に送っている。忠興自身もミサに参列し、その荘厳さに感動した。その後も小倉の領地に教会を建てたり宣教師と親しくなったりまるで人が変わったようになった。ガラシャの供養のために九曜紋が付いた南蛮鐘を小倉の南蛮寺に送ってるしな。ある時なんかはキリシタン嫌いの清正と宗派について言い争いになった程だ」
それでも、と反論しかけた口を掌で押し止めて吉継は補説した。
「ただ後々徳川がキリシタン弾圧に踏み切ったから忠興もそれに従わざるを得なかった。もしかして忠興は自分が死んだらガラシャとまた昔のように仲の良い夫婦に戻りたいと願ったんじゃないか。新婚当初は二人とも仲睦まじく、忠興はガラシャに手作りの百人一首を作ってプレゼントしてるし、ガラシャも忠興のために露払いっていう雨具を自分で織って仕上げてるしな」
「………」
「確かに忠興は短気で乱暴者だっただろう。残されている悪い逸話も多い。でもその一方で高山右近が徳川の命でマニラに追放が決まった時もそれを躍起になって取り成そうとしたり、利休の処分が決まった時も見送りに来たのは織部と忠興だけだった。それに息子の忠利が病気になったら食事の内容に気を付けるよう心配の手紙も出している。その辺りはおねと秀吉の間を気遣った信長に似てる部分があるのかもしれない。そして晩年には性格も穏やかになり、『善人とは明石浦の荒波に揉まれ滑らかになった牡蠣殻の如きを善き人』とまで将軍秀忠へ進言している」
「コバ君は結局何が言いたいのですか!?」
気が揉めた汐恩はその真意を問い詰めた。
吉継は真っ直ぐに汐恩を見た。
「汐恩、お前、本当は忠興が嫌いじゃないだろ」
「そんな事ありません。大嫌いです!」
「そうか?高山右近はつい最近カトリックの総本山バチカンから福者(ふくしゃ・聖人に次ぐ崇敬の対象)の認定を受けた。でもガラシャはその対象には選ばれない。なぜならガラシャはキリストの教義のためじゃなく細川の家のために命を落としたからだ。あれだけ酷い目にあった家のためにその身を犠牲にした不条理が納得出来てないんだろ。どうせなら信仰のために死を選んで欲しかった、とお前はそう考えてるはずだ」
「あ、う」
「それとお前がわだかまっているのはガラシャが無駄死にしたと伝えられている事にじゃないのか。そういった事をお前は忠興憎しの感情に置き換えているだけにしか俺には見えないぞ」
「く………うッ」
色々反論しようとしたけども総じて図星だったのか汐恩は口を閉ざしてしまった。
「ガラシャが死んだ事に対しての評価は様々だ。妻の死を知った忠興が怒りでがむしゃらに戦い勝利を収めたという人間もいれば、その死が関ヶ原合戦に大して影響を及ぼさなかったと言い切る人間もいる。汐恩はもしかしてガラシャには死んで欲しくなかったんじゃないか?どうして逃げなかったんだとどこかで嘆いているんじゃないか。俺はそう感じるよ」
汐恩は頭を垂れると暫く沈黙した。そして間を置いてから訥々(とつとつ)と話し出した。
「それはそうだと思います。私は苦難の中堪えて生きた力強いガラシャが好きです。だからどんな手を使ってでも生き延びてほしかった。もしかすると生きてても殺されはせず右近のように外国へ追放されていたかもしれません。それはガラシャにとって天国だったと思うのです。しかし、ガラシャは死を選んだ。それが本当にガラシャにとって幸せだったのかどうか正直分からないのです」
「いや、俺は幸せだったと確信してるぞ」
と吉継は断言した。
「ガラシャはキリスト教に出会うまでは傲慢な性格だった。でも改宗してその真理を探究するにつれ穏やかに変化したという。いつも死と隣り合わせの戦乱の中でやっと安らげる場所を見つけたんだ。そして憧れていた神の元へ行ける。それはきっと究極の幸せだったと思うぜ」
「コバ君………」
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