「何よ、さっきまでは汐恩だって忠興って呼び捨てにしてたくせに」
「あ、あれは」
「こらこら、二人とも話を遮るな。ここからが本題なんだから」
「ごめんなさい」「ごめん」
汐恩と秀晶は同時に謝った。
「そして重賢公が着手した政策で有名なのが徹底した質素倹約だった。着物を贅沢にしないとか、風呂の湯を毎日変えるのは不経済だとか、客の御馳走の質を落とすとか。それは広く『節倹耐乏(せっけんたいぼう)の生活』と呼ばれたんだ。そんな中、酒の肴として考案されたのが一文字ぐるぐるだった。安くて簡単で美味しいと評判になったその料理は忽ち熊本中に広まって、それがこの料理の起源って訳」
「なるほど、スペイン料理にしろ熊本料理にしろ様々な歴史がありますのね」
汐恩は箸を置いて声を落とした。
「それなのに私ときたら自分の感情で勝手に毛嫌いしていたとは本当に情けないです。お母様のへの態度もそうです。どれだけ謝罪しても到底許して頂けるとは思えません」
「そんな事はないさ、マリアさんは本当に汐恩の事が大好きだからな。謝れば許してくれるよ」
「しかし、それだけでは私の気が収まりません。むち打たれて牢獄にでも叩き込まれても軽い罰です」
「あのな、お前は一々大袈裟で言葉が重いんだよ。マリアさんを信じろ」
「でも………」
「ねえ、汐恩ちゃん」とここで音依が割って入った。
「マリアさんはサンティアゴだけでなく聖母も信仰しているのよ。キリスト教は『赦し』の教えでもあるの。そんな慈愛のある人が娘を許さないと思う?それにマリアさんは誰に対しても怒った事が無いのよ。もちろん今までの貴女の態度に対しても、ね」
「それでも私はお母様に対し何か償いをしないといけないと思うのです。ただ頭を下げるだけではとても」
「ふふッ、じゃあ一つとっておきの手があるわよ。ついでにマリアさんに凄く喜んでもらえる方法がね、試してみる?」
「な、何でしょうか!」
汐恩は勢いよく身を乗り出した。
「簡単よ、貴女が晶ちゃんにした同じ事をマリアさんにもするの」
「は?」
「つまり料理ね」
「え、それは大惨事になっちゃうんじゃ」「え、それは大惨事になっちゃうんじゃ」
吉継と秀晶が一語一句同じ台詞を言い放った。
「ちょっとお二人とも声を揃えて失礼です」
前歴がある汐恩は秀晶と吉継を拗ねた顔で見つめた。
音依は微笑んだ。
「大丈夫よ、私が直々にみてあげるから。今度の土曜日、ここを臨時休業にするから夜にマリアさんと忠時さんをスペイン料理のフルコースにご招待しましょう。もちろん、マリアさんには汐恩ちゃんが関わってるのは内緒でね」
「休業?いえ、そこまでして頂くのはさすがに」
汐恩は躊躇って頭を振った。
「いいのよ。今のひすとり庵があるのは忠時さんのお陰でもあるもの。これは小早川家が細川家に対しての恩返し。細川家の方々が幸せになってくれれば私も嬉しいわ」
「お母様、ありがとうございます」
「でも母さん、時間もそんなに無いよ。素人の汐恩にフルコース作らせるのって無理なんじゃ」
「何を言ってるの、コース料理はヨシちゃんの担当でしょ」
「は?だって今」
「コースは、って説明したでしょ。いい、みんな聞いてね。実はね………」
音依はそうして三人にとある考えを伝えた。

それから三日後の土曜日、午後七時。
「本日臨時休業」との手書きの紙が貼ってある玄関の扉がガラッと元気よく開いた。
「オラ、音依、ヨシ!ご厚意に甘えてやってきまシタ」
忠利のコートの腕に手を絡ませていたマリアが手を挙げて挨拶した。黒いスキニージーンズに茶革のブーツを履き、タータンチェックのシャツの上にはオレンジのブレザーと髪には白いニット帽をかぶっていた。ニット帽には「MI CARINO ES PARA TI」(ミ・カリーニョ・エス・パラ・ティ/私の愛情はあなたのために)とのエンブレムが縫いつけてあり、相変わらず名家の夫人とは思えない気軽な形である。
「やあ、音依さん、マリーに倣ってカジュアルでって指定があったから私もラフな格好で来たけど」
フィッシャーマンニットセーターに黒いダッフルコートを羽織った忠時が薄青のスラックスに掛かった小雪を払って笑った。
「いつも和服ですからたまにはよろしいんじゃないですか。さ、カウンター席へどうぞ」
玄関に出迎えていた音依が二人の上着を預かって着座を勧めた。
「Buenas noches(ブエナス・ノーチェス/こんばんは)、忠時さん、マリアさん」
いつもの赤いユニフォームの胸ポケットに赤、黄、赤に並んだ横三色のスペイン国旗の簡易ワッペンを貼り付けた吉継がキッチンから挨拶を返した。
マリアは席に着くなり周りを見渡した。いつもと異なってカウンターの空いた場所には赤いカーネーションの鉢植えがいくつも並べてある。
「オウ、Clavel(クラベル)はスペインの国花デス。今日はスペイン一色デスね」
「はい、いつも細川家の方々にはお世話になっていますので母さんに頼んで買ってきてもらいました。特にマリアさんに喜んで頂ければ」
「グラシアス(ありがとう)、ヨシ!」
「さ、ヨシちゃん。料理の方、お願いね。私はお酒を担当するから」
キッチンに戻った音依が吉継に頼んだ。
「ダコール、メトレス(師匠)!」
吉継はエプロンの紐をギュッと締め直すと調理に取り掛かった。
音依はカウンターの前に立つと二人に聞いた。
「さて、忠時さん、マリアさん、今夜のお酒は私が選ばせて頂いてよろしいでしょうか?」
「もちろん。お任せという話ですからね。マリーもそれでいいかい?」
「Si」
「では少々お待ちください」
音依は二つのタンブラーに、片方は白ワインと黄色いフルーツジャムを、もう片方には赤ワインにレモン炭酸水を注ぎクラッシュゼリーとキューブアイスを追加してステアした。そして直ぐに出来上がったそのカクテルを九曜紋のコースターに載せて二人に差し出した。
「お待たせしました。細川コンビカクテルです」
「コンビカクテル?」
忠時は二杯のグラスを見比べた。
「別名カップルカクテルです。二人で来店されてこれを頼むと特別価格で提供させて頂いてます。忠利さんのは忠興公のオリジナルカクテル『比翼連理(ひよくれんり)』、マリアさんのはガラシャの『ティント・デ・パスクワ』です」
「ほう、比翼の鳥、連理の枝かい?なるほど仲の良い象徴だね」
比翼の鳥は雌雄それぞれ目と翼を一つずつ持ち、常に一体となって飛ぶ空想上の生き物で、連理の枝は別の木の幹や枝同士が途中で絡まったもので、離れがたい仲の例えである。忠興とガラシャは夫婦であったのでその名が付けられた。
忠時は忠興の「tadawoqui」とローマ字刻印されたプラスチックマドラーが差し入れられたカクテルを見た。下に沈殿したジャムが層になっていて、忠時はそれを混ぜて飲んだ。
すると白ワインの甘さの中に馴染みのあるほろ苦さが見え隠れした。
「む、これは晩白柚のジャムだね!それも皮入りのジャムだ、違うかい、音依さん?」
「はい、熊本は晩白柚の産地なので。それに合わせるつもりで白ワインは熊本ワイン肥後六花シリーズの『デラウェア』を選びました」
「肥後六花って熊本藩士が育てた六種類の花?」
「ええ、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、肥後朝顔(ひごあさがお)、肥後菊(ひごぎく)、肥後山茶花(ひごさざんか)の六種です。それをラベルに使ったワインがそれです。忠時さんのは白椿、マリアさんのは花菖蒲の赤ワインを使用しています」
なるほどと頷いた忠時は隣のマリアのカクテルを眺めた。
するとマリアは口を付けずにマドラー袋に印刷されていた細筆の文字を難しい顔でずっと眺めていた。躊躇いもなく力強い筆遣いである。
「うーん、ワタシ、まだこういう読み取り苦手デス、グァポ、コレ分かりますか?」
「どれどれ、貸してごらん………うん、これは確かガラシャ直筆の短冊じゃないかな?東京の永青文庫で見た記憶があるよ」
「では何テ書いてあるのデスカ?」
「えっと、何だったかな」
必死に思い出そうとしている忠時に音依は袋の裏に訳が書いてありますよ、と助け船を出し、説明を更に重ねた。
「『たつねゆくまほろしもなつてにても たのありかをそことしるへく(尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく)』。源氏物語の桐壺からガラシャはその歌を選びました」
「あ、そうだ、確か、味土野の幽閉の時に」
「その通りです。この桐壺帝の歌は元々白居易の長恨歌(ちょうごんか)の、亡くなった楊貴妃の魂を方士(幻術師)に探させた玄宗皇帝の詩から引用されたものです。桐壺の帝の歌は亡くなった更衣の魂を探してくれるような方士がいてくれれば、という悲しみに満ちています。でもその短冊の文字にはガラシャなりの感情が込められている気がしてなりません」
「え、どういう事だい、音依さん?」
すると音依は袋を手にして文のある部分を指さした。
「ガラシャの書いたこの歌には実は原文の『たま(魂)』から『ま』の字が抜けています。正式は『たまのありかをそことしるへく』です。ガラシャはいつも手紙の署名に簡略した『た』を記しています。明智たまの『た』です。この一字省略は戦国時代では珍しい事ではありません。つまり『た』はガラシャ自身。つまり魂の行方を捜している、というのはガラシャ自身が自分の心の拠り所を探しているとも考えられるのです」
「ほほう、なるほどね」
「それからやがてガラシャはキリスト教徒となり、後の手紙には『からしや』と記しています。その歌はいわゆるガラシャの人生の分岐点となったような歌なのです。ガラシャは味土野へ護送される時も家臣から自害を勧められましたが、それを拒否しています。生きたいと願う心が降り掛かる困難に立ち向かっていったのです。苦難の連続でガラシャの心はいつも迷っていたと思います。しかし、関ヶ原前までガラシャは苦しみに堪えました。堪えながらも必死に力強くこの歌を綴ったのです。ですから当店ではマドラー袋にそれをプリント致しました」
「オー、よく分かりマシタ。コレでスッキリしてお酒が飲めマース」
マリアは先がスプーンになっているマドラーでクラッシュされたレモンゼリーをすくいつつワインカクテルを口にした。
「ン、コレはティント・デ・ベラノですネ!懐かしいデス!それと混ぜてあるのただのレモン果汁でなく、ゼリーにしてるの面白いデスネ」
マリアは嬉々としてそれを飲んだ。
夏の赤ワインを意味するティント・デ・ベラノは地元民にとってはメジャーなカクテルでバルではサングリア(赤ワインに炭酸飲料と砂糖漬けにしたフルーツを混ぜたカクテル)よりよく飲まれている。
「普通はもっと安い赤ワインを使うんですけど折角なので熊本で統一しました」
笑う音依に忠時は尋ねた。
「でもパスクワってスペイン語で復活祭だよね。ティント・デ・パスクワなら復活祭の赤?どうしてガラシャのカクテルにその名前を?」
「それには二つの理由があります」
音依は指を二本立てた。
「秀吉から味土野の幽閉を解かれてもガラシャが完全に自由の身になった訳ではありません。移ってきた大坂屋敷は、秀吉の住む大坂城とは目と鼻の先にあり、そのためいつも監視が付いてました。それでもキリスト教の教義を聴いて感心を持ったガラシャは洗礼を受けるためにこっそり屋敷を抜け出し、教会へ向かいました。その時が実は復活祭の期間だったのです」
「へえ、それは知らなかったな」
「そしてもう一つ。ガラシャは正体を隠していたためにその場では洗礼を授けられませんでした。屋敷に帰る後を付けて教会が忠興公の妻だと知ってから後に侍女の清原いとを通して洗礼を授けました。その時に付いた洗礼名がガラシャで、その名を侍女を通じて与えたとされるのがスペイン人の祭司、グレゴリオ・デ・セスペデスです。もちろんこれには諸説あります」
音依はペンでメモ用紙にいくつかの単語を書いて見せた。
「ポルトガル語のgraça(ガラサ)から変化したものだとか、イタリア人司祭・オルガンティーノがgratia(グラツィア)から名付けたとか。事実、『アヴェマリアの祈り』の冒頭ではAve Maria,gratia plena(アヴェ・マリア・グラツィア・プレーナ/アヴェマリア、恵みに満ちた方)とありますしね。しかしながらセスペデスはガラシャの死後もその命日に追悼ミサを行いました。ですからこのカクテルにはスペインの名前を付けたのです」
するとここで背後の吉継が音依に声を掛けた。
「母さん、前菜出来たよ」
「あ、仕上がった?じゃ、ここからはヨシちゃんにバトンタッチね。忠時さん、マリアさん、私は料理に合わせたワインをお持ちしますから後ほど」
音依は今晩のメニュー表を見て地下のワインセラーへ降りていき、代わりに吉継がカウンターの前に立った。
「お待たせ致しました。先ずは前菜の『Vieira gratinada(ビエイラ・グラティナーダ)』です」
吉継はホタテの貝殻にグツグツと湯気立つグラタンをバゲットスライスと共に二人に差し出した。
「これはホタテ貝のグラタンかい?」
「はい、スペイン沿岸部は、特にガリシア地方は魚介の宝庫でもありますので。ベシャメルソースの定番ですが」
「ふむ、美味しそうだ」
忠時はスプーンを受け取ると、早速熱々の具にスプーンを差し込んで口に運んだ。
「むッ!!」
忠時は直ぐに驚いた。定番とは言葉の引っ掛けで、口に入るとズッキーニやネギや人参とは別に複雑な貝の甘さとコクがたっぷり入っているホタテに絡み合ってきた。
「オウ、これとても美味しいデス。ムール貝や海老は入っていまセンガ、普通のビエイラ・グラティナーダとは全然違いマス。何デスカ、コレ?」
忠時と同時にマリアも驚いて吉継を見上げた。
吉継は手柄顔で笑った。
「実は具材の貝に細工をしたんです」
「貝ニ?」
「本来は生のホタテを使うのですが、今回は三種のホタテを用いました。一つは生、二つ目は乾燥ホタテを戻したもの、三つ目はホタテのライト燻製です」
「そうか、乾燥ホタテと燻製ホタテを使ったからスープにコクと香りが出たんだね」
「はい、中華の技法を応用しました。貝は天日に干す事でグッと美味しくなりますから。あ、それと前菜はもう一つあるんです」
吉継はそう言うと、小さな小皿に載った、串に刺さった、ニンニクとオリーブオイルで煮込まれたホタテが二つと、三センチ程の小さく赤い瓢箪が二つ串打ちされたものを前に置いた。
「ビエイラのアルアヒージョと瓢箪のピンチョスです」
「へえ、ホタテのアヒージョをピンチョスにしたのかい?どれどれ、うん、これも面白いね」
忠時はホタテを満足そうに頬張った。
対してマリアは瓢箪串を不思議そうに見ていた。
「マリー、どうしたんだい?」
「グァポ、コレ、食べれるのデスカ?スペインでは瓢箪は食べ物じゃありまセン」
「それは食用瓢箪だよ」
「食用?」
「マリアさん、それは隣の養老町で作られている漬け物なんです。ほら、マリアさん、小聖堂で秀吉の瓢箪の事話してたでしょう。それでオリーブの実やピクルスの代わりに今回はそれを使ってみたんです」
「あ、ああ………そうだったんデスカ」
小聖堂の瓢箪と聞いてマリアは少し動揺しつつ、漬け物をコリコリと口にした。
「オ、コレは中々乙な味デス」
相変わらず日本語が堪能なマリアに吉継は苦笑いしつつ、前菜を食べ終えた二人へ音依が持ってきた白ワインをグラスに注いだ。
「どうぞ、ガリシア州のワイン『ビオンタ・アルバリーニョ』です。辛口なのでシーフードにはこれが最適との母さんの薦めですので」
「へえ、ガリシアにはガリシアって訳だね」
「はい。その後にはこれをどうぞ」
吉継は次いでスープを出した。
「『ソパ・デ・マリスコス』です」
魚介類のスープというスペイン料理の皿には頭付きのオマール海老・ホタテ貝・鱈の切り身が浮いていた。
「お、オマール海老とは嬉しいね。それにこれにもホタテが入っているね」
「はい、炒めたタマネギとニンニクを足してフュメドポワソンで魚介を煮込みました。貝はアサリ等を使う場合が多いのですが、今回は良いホタテが手に入りましたのでそちらを使用しました。バゲットを浸して召し上がっても美味しいですよ」
「なるほど、そうしてみよう」
忠時は勧められるままバゲットと共にスープを楽しんだが、マリアはじっとスプーンに載ったホタテ貝を黙って眺めていた。
「マリー、どうしたんだい?冷めてしまうよ」
ハッとしたマリアは、
「あはは、そうデスネ」
と慌ててスープを食べた。
「三品目は『Arroz con pulpo y vieiras(アロス・コン・ポルポ・イ・ビエイラス)』です。タコとホタテのリゾットはガリシアのメジャーな料理でもありますね』
「ガリシア、ホタテ………」
マリアはまたしてもトマトソースで煮込まれた米から覗くホタテ貝をスプーンで掘り出して何かを考えていた。
「マリー?」
「あッ、ハイ、食べマス、ワタシ」
しかし美味しいという評価も無く、ただひたすらにマリアはリゾットを平らげた。
吉継はそれを見計らって次の料理を出した。
「四品目は肉料理です。『Pollo al chilindrón(ポジョ・アル・チリンドロン)』、御存知マリアさんの出身のアラゴンの名物煮込み料理です。タマネギ、トマト、ピーマンの炒め煮ですが、肉は羊肉を使いました」
「これは懐かしいね。私もテルエルにいた時に食べたよ。うん、生ハムもちゃんと使ってあって美味しいよ、ヨシ君」
忠時はナイフとフォークを持って料理を楽しんでいた。
「ありがとうございます。では肉なのでこちらの赤ワインは如何でしょうか。『ウルトレイア・サン・ジャック』2013年ものです」
「ほう、これもスパニッシュワインかい?」
「そうです。産地はガリシア州に近いカスティーリャ・イ・レオン州のビジャフランカ・デル・ビエルソです………マリアさんは如何ですか?」
吉継は躊躇った顔でマリアに尋ねた。またしても料理に口を付けず黙って陶器の器を見ていた。
その深皿は真ん中がくびれていて瓢箪の形をしている。
「ヨシ、コレどうして瓢箪の形の器なんデスカ?」
突然、聞いてきた。吉継は口籠もって返答した。
「え?それはさっきも、言いましたけど、ほら、秀吉の」
「フーン、そうデスカ………」
マリアは不可解に満ちた表情で吉継を見上げた。
「ところでこのワインは音依が選んだんですヨネ?ナノニその音依がいないのはどうしてデスカ?」
不審げにキッチンを見渡すマリアに吉継は焦って食事の続きを促した。
「またワインセラーへ行ったんじゃないですかね。それより冷めない内に召し上がって下さい」
「まあ、別にいいですケド」
マリアは急に楽しいという風情もなく淡々とそれを食べ切った。
「さて、最後はデザートとコーヒーです。デザートはこちらのアーモンドケーキになります」
吉継は大皿に載った茶色のホールケーキをカウンターに置いた。
「コレは!!」
マリアはそれを見るなり驚愕に固まった。
こんがり焼かれた丸いカステラ生地のケーキの上には粉砂糖で型抜かれたサンティアゴ騎士団の十字架がシルエットでクッキリと現れていたからである。
「『タルタ・デ・サンティアゴ』です。サンティアゴ・デ・コンポステーラの修道院で作られたのが始まりの、スペインを代表する伝統的なケーキです」
よく見ると、ケーキの載ってる皿には縁に沿ってチョコレート文字で「Buen camino Peregrina!(ブエン・カミーノ・ペルグリーナ/よき巡礼を、女性巡礼者よ)と書かれてあった。
「………ヨシ、いくつか尋ねたいコトありマス」
強ばった表情を向けてマリアは立て続けに質問した。
「どうして今日はガリシア料理が多かったのデスカ?ワインの産地ビエルソはカミーノ巡礼路の途中にありマス。それにウルトレイアはフランス語でもっと前にと巡礼者にかける言葉デス。理由を教えて下サイ」
その青い瞳は懐疑と焦燥に満ちていた。
「ごめんなさい、マリアさん。実は全部忠時さんから聞きました」
料理の真意を見抜かれた吉継は申し訳なさそうにスッとマリアの前に例のクレデンシャルを差し出した。
ここで全てを察したマリアは血相を変え忠時に向かって声を張り上げた。
「Yo pense que estaba extraño!Guapo,¿Por qué has hablado con Yoshi? Era un secreto!(ヨ・ペンセ・ケ・エスタバ・エクストラーニョ!グァポ、ポル・ケ・ハズ・ハブラド・コン・ヨシ? エラ・ウン・セクレト/何か変だと思った!グァポ、どうしてヨシに話したの?秘密だったのに!)」
「ああ、マリアさん、待って下さい!巡礼の事に気付いたのは俺なんです。忠時さんはただ俺の疑問に答えてくれただけなんです」
詳しいスペイン語は分からずともニュアンスで推量した吉継は興奮するマリアに謎を解いた経緯を最初から説明した。
「ソウ、だったんデスカ。あの時コンチャを見つけられたのは迂闊(うかつ)デシタ」
聞き終わったマリアは他人に秘密を知られたせいか意気消沈して腰を下ろした。
「マリアさん」
と吉継は呼び掛けて言った。
「最後にもう一品だけ召し上がって頂きたい料理があるんです」
「ごめんなサイ、今はもう何も食べたくありまセン」
実はマリアはいつも心の中でコンチャに汐恩の事全てにおいて願掛けをしていた。そのコンチャはいわばサンティアゴとの秘密の約束であり、それを暴露されてしまったのが余程ショックだったのかマリアは視線を落として首を振った。
「いいえ、これだけは何としてもお願いします。マリアさんの今後にとっても大事な料理なんです!お願いします、一口だけでいいんです!」
吉継は固い声で真剣な顔を向けた。
「………分かりマシタ。一口だけナラ」
マリアは小声で渋々了承した。
「ではちょっとお待ち下さい」
吉継はバックヤードへ駆けていき、そして直ぐに一皿の料理を持ってきてマリアに出した。
どうぞと差し出されたのは件のミガスである。
「コレは、テルエルの………」
マリアは馴染み深い料理を前に複雑な顔をした。そして汐恩にひっくり返された過去の映像が過ぎった。分かってもらいたかったけれど、失敗してしまった。スペイン料理全体を嫌いにさせたきっかけとなったのがこのミガスである。あれ以降ミガスはマリア自身も口にしていなかった。
「さあ、約束です、一口だけ」
スプーンを渡して吉継は鬼気迫る表情で迫った。
「Si」と不本意ながらマリアはそれを一口すくって食べた。
「どうですか?」
「………炒め過ぎデス。それとオリーブオイルが少なくて全体的にパサパサデス。目玉焼きも焦げてマス。ヨシらしくありまセン」
マリアは顔を伏せスプーンを置いて溜息を吐いた。
「やっぱりですか。これでも一応当人なりに頑張ったんですよ。ここまで教える母さんも大変だったんですから」
「………え、ヨシが作ったのではないのデスカ、コレ?」
「ええ、ちゃんとしたミガスの料理法、これを作った本人に伝授してあげて下さい。今から呼びますね」
「?」
疑問符を浮かべた顔のマリアにニコリとしてから吉継はバックヤードに声を掛けた。
「おーい、そろそろ、出てきていいぞ、汐恩!」
するとそこからしずしずと赤いエプロンを着けた汐恩がうつむいたまま現れた。
「ボニータ………」
マリアは愕然として立ち上がった。
汐恩はカウンターを抜けて母親の前に立った。
「このミガス、もしかしてアナタが作っタノ?」
「はい」とだけ汐恩は答えると突然マリアに勢いよく抱き付いた。
「お母様、今までごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
大声で泣きじゃくりながら汐恩はただ何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。
マリアは不測の事態に困惑して皆を見渡した。そこには笑顔の忠時をはじめ、吉継と、隠れていた音依と秀晶までもが揃って笑みを浮かべていた。
仕組まれた状況に感付いたマリアは忠時に向いた。
「グァポ、コレは一体」
「騙したみたいで悪かったね、マリー。でも、汐恩に本当の事を分かってくれる日がきてほしいって願っていただろう。今日がまさにその日なんだよ」
「で、デモ」
「間接的ではあるけれども全てはサンティアゴ様と聖母マリア様の思し召しさ。ヨシ君は私達にとって汐恩に目覚めを与えてくれた神の使いだったんだよ。感謝しよう」
忠時はマリアに向かって十字を切った。
マリアはいつまでも泣きやまない娘の頭を優しく撫でた。
「ボニータ、グラシアス」
「お母様、どうしてお礼なんて………ぶって下さいまし。私お母様にずっと酷い事ばかり………巡礼の貝も壊してしまって………ミガスもひっくり返してしまって、取り返しの付かない事を………私悪い子供でした、ですから私、どんな罰でも受けますから、許して下さい」
汐恩は泣き濡れた顔を上げてひたすら謝った。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。