と、この時不意に扉からノック音が響いた。
「どうぞ」と汐恩が声を掛けるとドアが勢いよく開いて、
「¡Bienvenidos a nuestra casa!(ビエンベニードス・ア・ヌエストラ・カサ/みんな我が家へようこそ)」
とマリアがいつもの軽装でお手伝いさんを五人連れて入ってきた。
全員の手には菓子が載ったトレーが見える。
マリアはトレーを机に置かせると彼女らに「ご苦労サマ」と礼を言って下がらせた。
「ママ、どうしたんですか、これ?変わったお菓子ばかりですね」
「フフン、何かワタシもボニータの力になれないかと思ってスペインのお菓子作って持ってキマシタ」
「わざわざ作って下さったんですか!ああ、ママ、グラシアス!」
汐恩はマリアに強くハグした。
「あれ、汐恩ってこんなラテン系キャラだっけ?」
伊知花がむくっと起き上がりながら笑った。
「聖母に出会って改心したんだよ、な、汐恩?」
「コバ君、その事は内緒です」
照れ臭そうな膨れ顔を汐恩は向けた。
「あはは、悪い悪い。で、マリアさん、またスペイン菓子大量にありますね」
「ボニータに食べてもらいタイのもありますケド、茶会の菓子の参考にならないカト」
マリアは指をさしながら説明した。
「先ずはチュロスデス。これはホットココアに浸して食べマス。そしてこれはマサパンデス。アーモンドと蜂蜜で作られてるノデ堅めのお饅頭みたいデスヨ。パナジェッツはそのマサパンにマッシュポテトを加えて、松の実をまぶして焼いたものデス。ポルボロンは日本の落雁みたいな感じのお菓子デス。ロスコデヴィノはマスカットワインの入ったクッキーデス。それと………」
「ママ、お待ちになって。これはさすがに使えません。油で揚げてあるとか、バターとか油脂のものが多いのでしょう?」
「Si、でも何かのヒントになればと思ってたのデスガ、迷惑でシタカ?」
しゅんと項垂れるマリアに汐恩はその手を笑顔で握った。
「いいえ、そのお気持ちはとても嬉しいのです。ありがとう、ママ」
「ボニータ………」
「あのー、マリアさん、取り込み中すんません。あっちでもう勝手にムシャムシャ食い散らかしてるのが一人いるんですけど」
吉継は止めどなく追加の菓子を食べ続ける咲良を指さした。
「………咲良さん、貴女の胃袋は一体いくつあるんですの?」
さすがに汐恩もその食べっぷりに唖然としていた。
「どれも美味しいよ~。私スペインのお菓子って始めて食べるけど、どれも好き~」
「マア、アナタとても良い子デス。ドウゾ残りも持ち帰りして下サイ」
「わーい!ありがとうございます~」
「こら、咲良、少しは遠慮しろ。あ、そうだ、汐恩。折角だからマリアさんにも創作菓子の意見聞いたらどうだ?マリアさんも三斎流のお茶も習っているんだし菓子にも詳しいだろ」
「え、あ、そうですわね。ママ、力を貸して頂きたいのですけど。ヒントでも結構ですので」
汐恩は母に今までの事情と経過を話した。
「ウーン、ガラシャの菓子デスカ。食べ物のエピソードが無い分、確かに難しいデスネ」
真面目な顔でマリアは考え込んだ。
「願わくばガラシャの生き様とか、人生観のようなものを表現したいのですが」
「ガラシャの人生デスカ………」
そして暫くしてからマリアは「あ」と何かを思い付いた顔を汐恩に向けた。
「卵を使った菓子なんてどうデショウ?」
「卵?どうしてですか?」
「ホラ、ガラシャの名前は『タマコ』ですカラ」
「駄洒落かいッ!」
伊知花が思わずツッコんだ。しかし汐恩は至極真剣な顔を作った。
「なるほど卵の菓子ですか。卵はキリスト教では再生のシンボルですもの。キリシタンのガラシャにピッタリですわ。コバ君、何かよい品あります?」
「卵卵してる菓子ならさっき食べた長崎蔦屋さんの『カスドース』か福岡松家さんの『鶏卵素麺』だな。どっちも基本は南蛮菓子だし」
「コバ君、お忘れですか?これは飽くまでも試食であって、私達はオリジナルの茶菓子を作らねばならないんですよ」
「それは分かってるけどさ、卵ってだけのイメージでガラシャの菓子作れってのが思い浮かばない。母さんならパパッと解決するんだろうけどな。子供は子供で知恵を絞りなさいって絶対教えてくれないし」
「音依なりの優しさなんデスヨ、ソレハ」
マリアは言った。
「音依が作っタラ、それはヨシ達の菓子になりまセン。子供を甘やかさずに自立させるのが親の役目デス。ア、それヨリ、ワタシ、お茶点ててあげマス。ボニータ、疲れたデショ?」
「早速甘やかしてるじゃないですか!」
「ソレとコレとは話が別デス」
「汐恩、お前の性格がマリアさん譲りなのようやく納得したよ」
哀れんだ眼差しで吉継が汐恩の肩をポンと叩いた。
「コバ君、それどういう意味ですの?」
「ちょっと、汐恩もヨシも静かにマリアさんのお点前見てようよ。私マリアさんのお茶って好きなんだ」
秀晶が恍惚とした目付きでマリアの手付きを眺めていた。
「でも何か変わった光景だね。外国の人がお茶を点てるの」
伊知花が心底不思議そうに口に出した。
「そうデスカ?」
「お茶って日本のイメージしかないんで」
「実はそうでも無いんデスヨ」
マリアは点てたお茶を汐恩に渡して教授した。
「戦国時代、日本に渡ってきた宣教師は教会に茶室を設けてましたカラ」
「教会の中に茶室が?」
「Si。宣教師は茶室が日本人にとってどれ程大事か熟知してマシタ。お茶で接待して教会へ入りやすくしたんだと思いマス。それとキリスト教のミサの所作が茶道のソレととてもよく似ていマス」
マリアは茶の前に配って食べる茶菓子と、ミサの時に回して食べる聖体(種なしパン)、それと濃茶を回し飲む動作が、聖杯(カリス/ワインを入れた杯)を回し飲むのと似ていると説明した。
「へえ、茶道とキリスト教にそんな相似点が!ヨシ、面白いね………ってヨシ?」
秀晶はその話をマリアから耳にした途端、吉継が惚けたように「教会・お茶・ガラシャ」と呪文のようにブツブツと繰り返して呟いている様子に案じた。
「あ、ああ?どうした晶?」
「それは私の台詞だよ。どうしたの?」
「いや、何かイメージが一瞬浮かんだような気がしたから。でも何か曖昧でしかなくて。とにかくまたみんなで色々議論しよう」
マリアの点てたお茶を飲みながら、マリアも含めて、茶屋や茶道具、そして茶菓子のアイデアを出し合ったが、汐恩の意に添うものは一つも無く、その日は夕方には結局成果も見いだせないまま解散となった。

「あれあれ、コバ、目の下にクマまで作って随分と苦労してるみたいだけど。ご苦労ねえ」
翌日の月曜日、登校するなり元が席に近寄ってニヒヒと勝ち誇った顔で嫌味を言ってきた。
「悪いけど月曜の朝っぱらから喧嘩買う気力なんてねえよ」
帰宅してからも、茶菓子はもちろん、茶屋建築や茶道具についても遅くまで調べ物をしていた吉継は机に突っ伏せた。
「これはまた情けない事。私達なんて昨日はみんなで祝勝会やってたのよ」
「………祝勝会?」
吉継は顔だけ元へ向けた。
「だってもう私達はあんたらに勝ったみたいなもんでしょ。だから先にお祝いしたって訳。大垣でボーリングとかカラオケとかしてたっぷり楽しんだわよ」
「ふん、気の早いこって。余裕見せてあとで吠え面かくなよ。今度は反省会の会場予約しておけ」
「アハハ、負け犬の遠吠えにしか聞こえないわ」
元はケラケラと高笑いした。
「ついでに教えといてあげるけど、私達のお運びは全員お揃いの江戸小紋の着物レンタルしたからね。そっちは間違っても制服とかジャージで誤魔化すんじゃないわよ。勝負にならないし茶会の品位が落ちるから」
「あら、横柄な貴女からまさか品位という言葉を聞くとは思いませんでしたけど」
以前のストレートヘアに髪型を戻した汐恩が元の後ろから言い放った。
「おやおや、親玉のお出ましか。それよかそっちは頭数は揃ったの?」
「元さん、クラスメートを頭数と呼ぶのは止めて下さい。皆大事なお友達です。それこそ品位に関わる物言いではありませんか?」
「ぐッ、うるさいわね。ちょっとした言葉の親よ!」
「それを仰るなら『言葉の綾』です。しっかり国語を勉強して下さい」
「ふん、その気取った態度が茶会の後でも続くと良いわね」
元は鼻を鳴らしてズカズカと席に戻っていった。
汐恩は秀晶の席に座って吉継の様子を心配した。
「コバ君。大丈夫ですか。顔色が優れないみたいですけど」
「昨日は三時間しか寝てないから超眠い。お前も眠そうだぞ」
大きく欠伸をして吉継は汐恩を眺めた。
「はい、実は私もコバ君と同じくらいの時間しか眠っていません」
汐恩も責任を感じてか、やはり自分なりに茶屋比べの事を研究していたようで口から漏れそうになる欠伸を口で隠していた。
「汐恩もたまには授業中に居眠りしろ。給食終わった後の一眠りなんて最高だぞ」
「シエスタ(昼寝休憩)ですね。ママから聞きました。体内時計の活性が低くなっている午後に眠るのは生体リズムからすれば理に適っていると」
「そうそう、昼寝は人間の本能だよ。スペインとかは良い文化を持ってる。汐恩もこうやって腕を枕にして机で寝てみろよ。気持ち良いから」
「こうですか」と汐恩は意外にも素直に吉継の真似をして机に伏した。
「あら、本当に気持ちいいですね。初めての経験ですけどこのままぐっすり眠ってしまいそうです」
「だろ?本当は昼寝枕が欲しいくらいだ」
「でもコバ君みたいに寝てて先生に注意されるのはいけませんけど。フフフッ」
汐恩は柔らかい笑みで笑った。
「ちょっとあんた達、二人揃って朝から何まどろんでるのよ」
秀晶が知らず内に横に立っていた。
「あッ、晶さん、お早うございます」
「お早うございますじゃないでしょ。そこ私の席!」
「あ、ごめんなさい。直ぐに退きます」
ハッと起きて席を立ち去ろうとする汐恩に吉継は「ああ」と思い出して呼び止めた。
「汐恩、チーム全員に今週水曜の放課後俺ん家に来るよう伝えてくれ」
「水曜の放課後ですか?」
「母さんがヨーロッパ風の茶会に招待したいんだと。コーヒーと手作りのケーキででもてなしたいそうだ。それもガラシャに関しての茶会で『姫様の茶会』だとさ」
「ガラシャに関するヨーロッパ風?」
「俺にも詳しい内容は分からないけど、和菓子から少し離れてみるのもいいんじゃないかって」
「わ、何!音依さんのスイーツが食べれるの?」
途端秀晶が目を輝かせて顔を近付けた。
「ああ、いくつか種類作るみたいだから夕食食べずに来てくれ」
「了解!うははー、今から明後日が超楽しみだなー」
鼻歌交じりに秀晶はラーンバッグを片付けた。
「晶さん、そんなに美味しいんですか、お母様のお菓子?」
「そんなレベルじゃないよ。感動して泣く。汐恩も食べてみれば分かるよ。あ、私、伊知花と咲良に伝えてくる」
早速秀晶は登校してきた伊知花と咲良に声を掛けていた。

それから翌々日の水曜日の放課後。午後五時。
定休日のプレートが掛かったひすとり庵の中で汐恩、秀晶、伊知花、咲良が奥から順にカウンターへ座っていた。
「咲良ちゃん、伊知花ちゃん、お久しぶりね」
白い制服に白いコック帽と黄色いコックタイを締めた音依が二人に挨拶した。
全員学校帰りなので制服なのだが、音依の姿はいつもの赤いユニフォームではなかった。
「今日は何か格好が違いますね、音依さん」
伊知花が音依をジロジロと見つめた。
「本日はお茶会だから、昔のパティシェしてた時のものを着てみたのよ」
「なるほど。で、コバは何でキッチンにいるのさ?」
「しょうが無いだろ、姫様のお茶会に男が同席しちゃ変って母さんに釘刺されたんだから」
「ヨシちゃんはここで給仕の手伝いをしながら食べてもらいます。今日はリトルプリンセス達に精一杯尽くすのよ」
「わー、私達プリンセスだって~」
咲良が嬉しそうに照れてみんなに首を振った。
「若干ワイルドなプリンセスも混じってるけどな」
ぼそっと吉継は呟いた。
「ちょっとそれ誰の事よ?」
伊知花が聞き逃さず吉継に詰問した。
「まあまあ、伊知花、いいじゃない、別に。今日は音依さんのお菓子が食べられるんだからさ」
秀晶が機嫌良く吉継を庇った。
「何よ、晶。随分ご機嫌じゃない?」
ここで汐恩がその訳を明かした。
「あら、伊知花さんは気付きませんでした?晶さん、昨日からこうでしたわよ」
「昨日から?」
「コバ君にバレンタインのお返しとしてマカロンを貰ったんですって」
「晶、ホワイトデーにマカロン貰ったの?」
「う、うん。えへへ。普通のアーモンドプードルじゃなくてココナッツパウダーのでイチゴジャムとかピーナツクリームとかサンドしてあって凄く美味しかったんだ」
「嘘、マジ?晶、マカロンなんてやったじゃん」
伊知花が浮かれる秀晶の右肩を押した。
ホワイトデーのお返しは、飴が「好きです」との告白、マシュマロは逆に「嫌いです」との意味、クッキーは「ただの友達」、バームクーヘンは「あなたとの関係が続くように」、そしてマカロンは「特別な人」という誰かが流布した言い伝えが出来ていた。
するとここでも汐恩が口を挟んだ。
「別にそのマカロンには深い意味もないでしょう。それに晶さんだけでなく、長月さんや真央さんも同じお返をしコバ君から貰っていましたけど!」
「あれ~、どうして汐恩ちゃんが怒ってるの~?」
咲良が聞いた。汐恩は顔を顰めて弁明した。
「私は怒ってなどおりません。それより、お母様、お茶会を始めて下さいませ」
「はいはい、ご機嫌が斜めにならない内に姫様の仰る通りに致しましょう。ヨシちゃん、あれそろそろ焼けているだろうからオーブンから出して」
「ウィ、メトレス」
吉継はオーブンを開けると中から四人分の煮えている小さめの四角いグラタン皿を取り出して、皆の前に置いた。上には焼けたチーズが掛かっているが中身は見えない。
音依はそこへスプーンとクロワッサンが載った皿を追加で出した。
「お菓子の前に少しご飯にしましょうか」
「お母様、これは?」
「まあ、とりあえず食べてみて」
音依はどうぞと掌を汐恩達に向けた。
皆はスプーンで中身をすくうと直ぐにその正体が分かった。チーズの下は厚い二段の層になっており、上はマッシュポテト、下はこんがり焼けた挽肉と刻んだタマネギとマッシュルームが見えた。
秀晶が不意に思い出して言った。
「これ、『アッシェ・パルマンティエ』だ!フランスの家庭料理の!」
「晶ちゃんはさすがにウチで食べるの二回目だから覚えてたみたいね。でも正確には『Hachis parmentier(アシ・パルマンティエ)よ」
「パルマンティエ?あら、どこかで聞いた記憶が………」
考える汐恩に秀晶が話題を過去に遡らせた。
「何言ってるの、汐恩。テンムちゃんのお見舞いに行った時、ヨシがジャガイモで説明してた(第三話参照)でしょ!」
「ああ、思い出しました。例のポテトと肉の重ね焼きですか………って、どうしてそこにいなかった晶さんがそれをご存じなんですか?」
汐恩はジロリと不審の眼差しを向けた。
秀晶はしまったとの表情を見せた。まさか透明化してその現場に立ち会っていたとは言えない。
慌てて吉継が困惑する秀晶をフォローした。
「ああ、俺があとで晶に様子を細かく伝えたんだよ。晶、先生の容態とか食事とか心配してたからさ」
「そうですの?」
「それより熱い内に食べてくれ。母さんのパルマンティエは最高だぞ」
「ホントだ、超美味しー」
既に咲良が一足先に食べ始めていた。
すると全員が遅れまいと揃ってスプーンでそれを口に入れた。
「まあ、これは!!!」
汐恩も驚いた。
アシ・パルマンティエは基本的に残った肉を再利用するために誕生した家庭料理であるが、音依の作ったそれはもっと深い旨味が感じられた。
秀晶は問いを投げた。
「音依さん、これ、前の食べた時よりずっと美味しいのはどうして?」
音依は二本の指を立てて言った。
「今回は姫様仕立てだから少し材料を変えてみたのよ。挽肉は最高級の飛騨牛ミンチをナツメグとかのスパイスと赤ワインで軽く臭み抜きしてから使ったのよ。それと香りを付けるようにマッシュルームはトリュフ塩で別で炒めてあるの。それが秘訣」
「へー、それで!」
「いいえ、それだけではありませんわよ、晶さん。上層の滑らかなポテトピューレも風味がある上、舌触りがふんわりと軽いですもの」
「ふふ、さすがは汐恩ちゃんはグルメな細川家の御息女ね」
音依は肩をすくめて種明かしした。
「ポテトをマッシュする時に混ぜたのがゲラントの塩、そしてバターは生クリームを遠心分離させた自家製の無塩バターを使ったのよ。だからフレッシュな味覚がするでしょ?」
「はい、軽いポテトとあっさりしつつも重厚感のある肉の旨味が見事に調和しております」
「そう高評価してもらうと嬉しいわ。では一緒にクロワッサンも召し上がれ」
汐恩はクロワッサンを千切った食べた。
「ああ、これもまた共にフレンチですもの、合わない訳がございません」
「うーん、ところがそれは厳密には間違いなのよね、汐恩ちゃん」
「間違い、ですか?」
「クロワッサンは元来オーストリア生まれ、ジャガイモはドイツから持ち込まれたのよ。ヨシちゃんからフランスのジャガイモの歴史は聞いた?」
「はい。飢饉対策に。それをもたらしたのが農学者のパルマンティエであるとも」
「そうね。でもパルマンティエは一人でジャガイモをフランスに広めた訳ではないのよ。そこにはある女性が関わっているの。それが今日の姫様茶会の理由の一つでもあるわ。特に汐恩ちゃんに関わるかもしれない女性がね」
「私に関わる女性?」
「さて、みんな食べ終わったみたいだから、今日のデザートに入りましょうか」
「わあい」と汐恩以外は皆驚喜の声を上げた。
「ヨシちゃん、準備できてる?」
音依は吉継に振り向いた。
「今淹れ終わったよ」
プンと店内にコーヒーの香りが漂ってきた。
「さあ、先ずはカフェオレよ」
音依は吉継から湯気の立った四つのコーヒーカップを皆の前に置いた。次いで、
「これが本日のメインデザートになります」
と五百円玉程の角の立った白い菓子を三つずつ小皿に載せて差し出した。
「………音依さん、これがデザート?」
「そうよ。『ムラング』、いわゆる焼きメレンゲ。見た目に反して結構手間が掛かるのよ。焼くと言ってもオーブンで乾燥させるから温度管理もしなきゃいけないし大変なの。さ、食べて」
「はあ、頂きます………」
拍子抜けした顔で全員がそれを食べた。
「どう、美味しい、汐恩ちゃん?」
「え、ええ。美味しい、です。外はカリッとしてて口に入れるとすうっと溶けていくのは感じます」
「あはは、気を遣わなくてもいいのよ。今じゃ正直さして美味しい訳でもないでしょうからね。ここに生クリームでもつければ幾分マシでしょうけど」
「え?」
「この焼きメレンゲはね、古のフランスでとある女性が自分の子供と一緒に作っていたのよ。これはその再現ね。その女性はさっきの料理と関係あるの。誰だか分かる?」
「いいえ」
「その女性は細川ガラシャの生き方にとても感銘を受けたと伝わってるわ。汐恩ちゃんはきっとその人物を知ってるはずよ。フランス革命の悲劇と言えば思い出さない?」
「あ!」と汐恩は両手の指を合わせた。
「もしやマリー=アントワネットですか?」
「正解。だったらガラシャとの繋がりが分かったでしょ?」
「なるほど、そういう事ですか」
「汐恩、マリー=アントワネットって、あの、パンがなければケーキを食べればいいじゃないって言ったフランスのお姫様?」
伊知花が汐恩に質問した。
「ええ、そうです。でもそうでは無いんです」
「え?え?何のトンチ?」
「伊知花さんの仰ってる人物はマリーなんですけどその言葉が間違っているんです。ケーキでなくブリオッシュであるとか、そもそもその台詞はマリーのものではないというのが現在の定説です」
「ブリオッシュって何?」
「伊知花ちゃん、そう言うと思って用意してあるのよ、ブリオッシュ。食べてみる?」
音依がカウンターの下から人数分のダルマ型のパンを差し出した。
「ちなみにこれはブリオッシュ・ア・テート(頭のついたブリオッシュ)ね。フランスの菓子パンの一種なの」
「わお、バターしっかりきいてて美味しい」
美味しさのあまり伊知花が一気に食べ切った。
「ブリオッシュは卵とバターをふんだんに使っているからリッチなパンとも呼ばれているの。そこがバターを使わない本物のフランスパンとの違いなのね。でも当時ブリオッシュはお菓子扱いで主食のフランスパンより価値が低かった。それがいつの間にかマリーがケーキなんて言葉に変わってしまったのよ」
「へー」
「パンが無ければケーキをというのは英語で『Let Them Eat Cake(レット・ゼム・イート・ケイク)』、フランス語で『Laissez-les manger le gâteau(レッセレ・モンジェ・ル・ガトー)』。でもその有名な句は実はマリーは話していないの」
音依はメモ帳を取り出してそこに名前や文字を書いて皆に説明した。
「元々その言葉はジャン=ジャック・ルソーという哲学者が書いた『告白』という著作から抜き出されたものなの。『百姓どもにはパンがございません、といわれて、では菓子パンを食べるがよいと答えたという、さる大公婦人の苦し紛れの文句を思い出した』、この『qu’ils mangent de la brioche(キル・モンジュ・ドゥ・ラ・ブリオーシュ)』の原文が知らず内にマリーが話したとすり替えられてしまったのよ。何よりこの本が書かれたのはマリーが九歳でフランスにも嫁いでいない時で、マリーにはこの台詞を言いたくても言いようがなかったのよ。伊知花ちゃんと咲良ちゃんはフランス革命って聞いたことある?」
「あ~私、それ漫画で読んだ事ある~。伊知花ちゃんにも貸してあげたよ~」
「じゃあ、話は早いかしらね。フランス革命は簡単に言うと飢えた国民が贅沢で無能なブルボン王朝を倒せって起きた事件なの。王様はルイ十六世、その妃がマリー=アントワネット。結局二人とも捕まって処刑されてしまったけどね。その時は、処刑されたのは贅沢をしていたマリーが悪いんだってフランスの国民はみんなそう思ってた。咲良ちゃんはマリーをどう思う?」
「やっぱり悪女かな~」
「ふふ、大抵はそうね。でも最近はマリーの評価は見直されつつあるのよ」
音依は更にメモに字を書き足した。
「マリーの本名はMarie-Antoinette-Josephe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d‘Autriche(マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ)。長い名前だけど、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家のマリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌという意味なの。マリーはオーストリアからフランスのルイ十六世の元へお嫁に来た。昔はオーストリアのハプスブルグ家とフランスのブルボン家はすごく仲が悪くて三百年も対立してたけど、他の国との関係が崩れてきてね、そろそろ同盟を結びましょうと言って二人を結婚させたのよ。つまり政略結婚ね」
「ふむふむ~」
「でも僅か十四才でフランスにお嫁に来てもあの女は元憎き敵国のオーストリア人だってフランスの貴族はマリーを認めようとはしなかった。国民はマリーが二つの国の橋渡しとなってくれるのを期待したけどそれは裏切られたの。元々オーストリアにいた時は自由気ままにしていたのにフランスへ来てからは、やれしきたりだとかとかやれ伝統とかでガチガチに縛られてしまったマリーは欲求不満で贅沢に走っちゃったのね。ただ貴族だから贅沢はしても、みんなが思っている国を傾けたとかの大袈裟なレベルじゃなかった。でも他の貴族は面白くないからマリーの噂をあることないこと並べ立てて国中に流したの。で、国民はそれを信じちゃった」
「何かイジメられた子がもっと酷い被害者になっちゃったみたい」
「正にその通りよ、伊知花ちゃん。もうマリーは少数の友人以外は誰も信じられなくなっていたの。息の詰まったマリーの心の拠り所となったのがベルサイユ宮殿の一角に建てた小トリアノン離宮で、マリーはそこを立ち入り禁止にして、農村の庭、ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌを作って子供達とのんびりした日々を過ごしたのよ。それでその庭でマリーが手作りしたお菓子がさっきの『焼きメレンゲ』なの。マリーはその素朴な味が好きだったんでしょうね」
「何かそう説明されると急に有り難く思えてきました」
「あはは、でもマリーが好きなものはそれだけじゃないの。さっきのクロワッサンもコーヒーもマリーがオーストリアから持ち込んだものなのよ。クロワッサンはオーストリアではキプフェルンと呼ばれていたの。それにカフェオレにしたのはみんなが小学生でコーヒーが苦手だろうってのもあるけど茶道と共通してるからそれを選んだのよ」
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