「あっはっはっは!」
壁に掛かった大きな模造和時計の針が夜九時を指す頃、ひすとり庵の幅広いキッチンに立つ吉継にカウンター席から三人の笑い声が響いた。
多忙な時間帯が過ぎ、ようやくオーダーが一段落した頃、学校の様子を尋ねられ、今日の出来事を話してのリアクションであった。
格子天井に関ヶ原の武将家紋をうっすらと透かした美濃和紙のシェードランプが微風に揺れ、日本庭園が隣に備えられたテーブル席の四組の客が銘々に談笑している。
檜のカウンターには一組の小綺麗なカジュアルスーツを着た夫婦が座っており、大笑いしていたのは母・音依とその夫妻である。
「笑うトコじゃないですよ、武田さん」
吉継は店の制服でもある真っ赤な居酒屋用バンダナキャップの歪みを仏頂面で直した。真っ直ぐになった帽子の中心には黒い丸の中にスプーンとフォークが交差しているマークが描かれている。
違い鎌ならぬ違いカトラリーである。
その下には「カフェ&ダイニングひすとり庵」の白抜き屋号がプリントされていた。
「いや、ごめんごめん。雑煮とカレーうどんでそこまでヒートアップするとは小学生の世界も大変だ」
「小学生の世界だから大変なんです。後で皇先生にも食べ物学校に持ってきたらダメでしょって散々説教されるし」
「私も学校から連絡来たわよ~。これで何度目かしらね~」
母の音依は吉継の緩んだ赤エプロンの後ろ紐をギュッと力任せに結んだ。
「あ、あれは俺が持ってきたんじゃないから」
「なあに、じゃあズボンのポッケにささってるその鉛筆が持ち込んだとでも?」
黒シャツの背中を軽く叩く母のジョークにどっとまた笑いが起きた。
冗談なのに笑えないのは初めてである。
「でもヨシちゃん、その嶋君だっけ、大いに素質ありよ。今度ウチにつれてらっしゃいな。御馳走振る舞ってあげるから」
いつの間にか小さな蠍(サソリ)を手にして音依は笑んでいた。
「何の素質だよ。ウチはそういう店じゃありません!」
壁の本日のお奨めメニューボードには「フレッシュハーブのローストチキン」や「自家製ソーセージのボリート(イタリア風おでん)」、「関ヶ原椎茸のクロケット・ブルギニヨンバターソース」の手書き文字が見えている。
グリルとフライパンから立ち上る煙の中、巧みに次々とオーダーをこなしながら吉継は苦い顔をした。
「あら、これ取引してる高木さんの店で売ってるのよ。高級食材だし、嶋君、喜ぶと思うけどな」
音依の指す高木さんとは国道沿いにある高木精肉店である。
「それともカエルの足か、ワニの肉の方がいいかしら」
共にリアルに店内販売している。メディアでもよくクローズアップされているから知る人ぞ知る肉屋でもある。ちなみに揚げたてコロッケも売れ筋である。
ワニ肉ならソテーかなと真剣に悩む音依に吉継は突っ撥ねた。
「マジ止めて。それにちゃんとした肉屋だからね、あそこ」
「しかし、愉快なテーマで揉めるね、ヨシ君のクラスは」
武田信義は空いたロックグラスを手に笑った。関ヶ原町の町章が彫り込まれたその表面は天井のオレンジ光をいくつも映している。
「毎度毎度たまったもんじゃないです。特にミツと元は天敵で、いつも何かに付け対立ですからね」
「ハハ、現代の石田と徳川の一戦か」
信義は音依からスコッチの三杯目を注がれたグラスを大理石コースターに置いた。グラスの底には刻まれた石田の旗印が透けて見える。
白髪交じりの四十代で簡易な服装をしているが地元大手石材会社の次期社長である。そしてその家紋コースターの製造者でもある。
隣には酔いが回った妻・須和子も腹を抱えて笑っていた。
「さすが五年一組・関ヶ原組。戦え、戦え。えいやッ」
可笑しそうに須和子は自在鉤が下がった奥の囲炉裏和室に刀を振る真似をした。西壁一面には関ヶ原合戦図屏風モザイク画が飾られている。そのモザイク壁画も信義の会社に作ってもらった特注品であった。
ちなみに須和子が口にした「関ヶ原組」というのは偶然にも、同じ漢字ではないが、五年一組全員が関ヶ原の参戦武将の苗字になっているためで、「甲冑パフォーマンス軍団」の方では無い。
吉継はグリルで串肉を焼きながら須和子に注意した。
「短時間に飲み過ぎです。もうワイン八杯目ですよ」
「いや~、ここのお酒と料理が安くて美味しいのがいけないのよ~」
シャルドネの更なるおかわりを音依に注文しつつ須和子は燻製枝豆と燻製豆腐のミックスサラダを口に入れた。
「うん、確かにこのラフロイグの十年物も名古屋では二倍以上の値だからね」
カランと丸氷の音がグラスに鳴った。
「何より味が丸い。氷をここの井戸水で作っているせいかな、おねさん」
「はい、関ヶ原の地下水が美味しい証拠です。この辺りは藤古川を通して伊吹山の雪解け水が流れてきますから。鍾乳洞側の玉倉部(たまくらべ)の清水が県の名水百選に選ばれていますし」
「日本武尊(やまとたける)の毒気を抜いた居醒(いざめ)の泉だね」
「酔いは逆に醒めないけどね~」
須和子は上機嫌でワインを一気に空けた。
酔っぱらいはこれだからと苦笑いした吉継は出来上がったばかりの皿を信義の前に置いた。
木の平皿にはハーブと燻塩で串焼きにされた鶏肉に、網焼きされたベーコンの厚切りとソーセージ、ブルーチーズが塗られた燻製沢庵が乗っている。
「ご注文の、鶏のブロシェット燻製ハーブソルト仕立てと自家製ベーコンと飛騨牛ソーセージのグリエ、そしてラディマリネのフロマージュブルー乗せの『フュメ・アソート』です」
「もー、ヨシちゃん、いつも言ってるでしょ~。ここは日本よ。フランス語なんて堅苦しい。『燻製三種盛り』でいいの。ブロシェットだって串焼きだし、ラディマリネだって沢庵なんだから」
母は怒ると甘ったれたような口調になる。不機嫌に頬を膨らす音依へ吉継は注意した。
「元フレンチシェフがそれを言っちゃ台無しでしょ」
「だって高影さんもヨシちゃんも私の付ける名前にいつも駄目出しするんだもん。屋号だって~」
「『裏切らない味・ヒデアキッチン』?そりゃ寡黙な父さんだってクレーム付けるよ」
店のレイアウトをはじめ、屋号やメニュー名も全て高影が決めていた。音依の外れた感性では理解不能な店舗になっていただろう。料理の腕は超一流なのにその手のセンスに欠けているのが玉に瑕である。
また、ひすとり庵という歴史的な屋号の割にゴテゴテと鎧や兜の装飾品が飾って無いのは一般客も気軽に入店できるようにとの高影の配慮であった。
「それはそうとこの店の燻製はどれも絶品だね。スコッチとの相性も抜群だし」
ベーコンを平らげた信義はスコッチを飲んで吉継を見た。
「ウチの看板商品の一つですからね。ランチで出すBLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドイッチも評判いいですよ。父さんの焼くパンが人気なのもありますけど」
吉継はオーブンの中で熱を帯びていく半身のアボカドを眺めながら返答した。
「高影さんの煎れるブレンドコーヒーも秀逸だからね。ところでこの沢庵の燻製とブルーチーズも合うね。沢庵は秋田名産のいぶりがっこかな、ヨシ君」
「いえ、いぶりがっこは燻製した大根を漬けたもので、ウチのは自家製の沢庵漬けを燻りましたから、製法は逆なんです」
吉継は焼きアボカドの味付けと、燻製用鍋の中身の燻り具合を母に確認してもらいながら器用に受け答えしていた。そして須和子をチラッと一瞥して音依に何かを耳打ちしていた。すると音依は須和子の前に立ち別のメニュー表を渡した。
「奥様、そろそろワインでなくカクテルは如何ですか」
「カクテル?」
「当店のオリジナルカクテルです」
「ふーん、武将カクテルか~」
須和子は頬杖をついてカラフルなドリンクメニューを眺めた。音依の勧めたオリジナルカクテルというのは、関ヶ原合戦に参加した有名大名の一人一人をイメージした「武将カクテル」である。
「何かお薦めあるの?」
「『佐和山の夕景』です」
「あれ、それって確か石田三成のだよね。飲んだことないけど」
「よろしければ是非」
「んー、じゃあ、お願いしちゃおっかな~」
かなり酔っている声で須和子はオーダーした。
「では」
と、音依は冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、ブランデーとウオッカ、それとリキュールを正確に量るとそれをシェイカーで鮮やかに振った。
バーテンダーの経験も積んでいた音依はあっという間にシャンパングラスに完成品を注いだ。
グラスの側面には大一大万大吉の文字がデザインされている。
「どうぞ」
差し出された華やかなオレンジ色のカクテルは溢れそうな程グラスに満ちていた。須和子は静かにグラスの脚を持ち上げ、くいと一口飲んだ。
トロリとしつつ、フレッシュな味覚が喉にすうっと通っていく。
「美味しい。そして何だか懐かしいわ。どうしてかしら」
「それはこの割材(わりざい)のためでしょう」
しみじみと陶酔する須和子の前に音依は先程の缶ジュースを置いた。
表面には柿の写真と「岐阜の富有柿 かきドリンク果汁三十%」のラベルが見えた。駅前交流館でも販売している飲み物である。
因みに割材とはカクテルのベースとなる酒に加えるジュースや炭酸飲料のような副材料の一つを指す。
須和子は缶を取って納得した。
「あー、オレンジじゃなくて柿」
「西濃は名産地ですから。これ一缶に二個分の富有柿が入っています。それにリンゴもブレンドしてあるので飲みやすいんです」
「だから懐かしさを感じたのね」
「はい。でもこのカクテル、柿リキュールで風味は整えていますが、元来はもう少しブランデーとウオッカが強いんです。けれど今日は控え目にしました」
「何故?」
「それはご主人様にお聞き下さい」
音依は信義を横目で見た。須和子は不思議そうに夫を瞠った。振られた彼は微笑して妻を見返した。
「何よ、アナタだけ分かった顔して」
「酔いが覚めたら教えてあげるよ。しかし三成に柿とは皮肉だね。おねさん」
石田三成が処刑される前、喉の渇きから湯を所望した所、湯の代わりに柿(干し柿)を勧められたが、「柿は胆の毒」と断ったエピソードは有名である。そのため、関ヶ原民俗資料館や駅前交流館には柿の「胆の毒ゼリー」なる土産も売られていて、毒と大きく表記されたそれは強烈に目を引く。
「今の話の流れではこのカクテルは毒ではなく薬ですけれど」
「あはは、なるほどね。でももう一種類あるね、三成のカクテル」
メニューの三成の欄には深緑色の酒も載っていた。グラスでなく抹茶茶碗を器にしたミルクで割られたカクテルには抹茶アイスと甘栗が浮かんでいて、むしろ甘味に近い。
「カルーア抹茶を使用した『三献の勝栗』ですね。柿が苦手な方はそちらのスイーツカクテルをお勧めしています。三献の茶でも知名度がありますからね、治部ちゃんは」
「………治部ちゃん、か」
微苦笑するしかない信義だが、声が大きかったので他の客からも失笑が漏れた。石田三成をちゃん付けするのは音依くらいだろう。馴染みのお客は音依の少女らしいキャラも認めている。天下人豊臣秀吉の妻・寧(ねい)と同音の名前も許される理由の一つになっていた。
「それより今ヨシ君が作ってるのが例の新作メニューかい?」
信義は興味津々にカウンターからキッチンを覗き込んだ。
「ええ、そのためにグルメのご夫妻にわざわざお出で頂いたんですから」
「そりゃあ楽しみだね。じゃあ、その料理の前にオリジナルカクテルを私にも作ってくれないかな。三成の以外で」
大概がブランデーかウイスキー党の信義がカクテルを注文するのは珍しい。それもマティーニやジンライム、ソルティードッグというメジャーなカクテルばかりでオリジナルは初めてである。
ましてカクテルは甘口辛口、アルコール度数の高低がある。
「そうですね。武田さんはお強いですから、度数が高めでもよろしいですか」
暫し考えてから音依は了解を求めた。
「構わないよ」
では、と音依は様々なウイスキーボトルや全国の地酒が並んでいる後ろの棚から一本の麦焼酎を選び出した。そしてそれをドライジンとレモンジュースでシェイクして丸に十文字が彫り込んであるカクテルグラスに注いだ。
そして最後は槍の形をしたプラスチックカクテルピンにグラニュー糖をまとった薄黄のドライフルーツを突きさしてカクテルの底に沈めた。
「お待たせしました。銘は『薩摩疾風(はやて)です』
どうぞと差し出された半透明なカクテルグラスを持ち上げて信義は眺めた。
「へえ、薩摩なら島津義弘のカクテルかな」
「もちろん。でもそれだけではありません。島津家全体のカクテルです。先ずは一口カクテルを、そして沈んでいるデコレーションフルーツを召し上がってからまたお飲み下さい」
それから信義は黙ってカクテルを口に含んだ。そしてそのまま音依の推奨する順番をこなした。
「うん、すっきりしていて美味しい。フルーツは柑橘系のコンフィ(砂糖漬)かな。甘酸っぱくていいアクセントだね」
深く頷いて信義はもう一口飲んだ。
「しかし鹿児島で麦焼酎とは意外だね」
「日置市の『さつま隼人』という銘柄の麦焼酎です。本来は芋焼酎を使うんでしょうけどジンと合うのは麦の方でしたから」
「なるほど、日置市は関ヶ原町と兄弟都市盟約を結んでいるものね。でも何故ジンを?ウオッカでもよかったんじゃ」
「ちょっとした文字のこじつけなんです。島津のここでの歴史は?」
「関ヶ原合戦の敵中突破、退口における捨て奸(すてがまり)の戦法だね。追撃してくる徳川勢を振り切り、烏頭坂へ向けて逃げ切った」
「その坂には何が建ってます?」
「えーっと、確か島津豊久の碑かな。義弘を守るためにそこで戦死したんだよね」
「ではその碑に一七五三年から一七五五年にかけて参拝に訪れた方々は御存知ですか」
「江戸時代?」
「宝暦です」
「あ!もしかして宝暦治水かい。となれば烏頭坂を訪れたのは薩摩藩士………ああ、そうか、ジンを使った理由は油島の千本松原か」
ポンと手を叩いた信義に隣の須和子は「ごめん、全然分からない。教えて」と赤ら顔で説明を求めた。
「木曽三川(さんせん)は知ってるだろ、岐阜県と愛知県との境にある木曽川・長良川・揖斐川の三つの川を総称して三川。その川は昔何度も氾濫して大勢の農民が犠牲になっていた。そこで地元から陳情を受けていた幕府が薩摩島津家にその河川の御手伝普請を命じたんだ」
「あ、それは昔どこかで習った。海津市の歴史よね。でもなんで薩摩なの?あんな遠い所から」
「薩摩の経済力を削ぐため幕府が嫌がらせをしたとの説が一般的だね。有力な藩が力を付けるのを恐れていたから」
「そんなに薩摩って豊かだったの」
「逆だよ。七十七万石の石高であっても内情は火の車、慢性的に巨額な負債を抱えていたんだ。それでも江戸の命令には逆らえなかった。当時の工事は命懸けだった。だから三十二名の藩士の命が失われ、四十万両(約三百億円)の費用が使い捨てにされたんだ。それでも生き残った人達が最後まで堪えて完成させてくれたんだけれど」
有り難いね、と信義はグラスの家紋を静かに見つめてからまた一口飲んだ。
「普請の終了記念として多くの松の木が油島の堤沿いに植えられた。日向松という種類のね。それが『千本松原』なんだ。そしてそれに携わった藩士たちは薩摩義士と呼ばれ、木曽三川公園の近くにある治水神社で顕彰されているよ」
「いい話ね。鹿児島がもっと好きになりそう」
「で、ジンとどう繋がるかは………」
上目遣いで信義は音依に仄めかした。その先の詳細は譲ると示した視線であった。音依は軽く口元を緩めた。
「いえ、深意はないんですよ。大麦やトウモロコシなどの蒸留酒で出来たものに薬草や香草、それにジュニパー・ベリー、日本語では西洋杜松(ねず)の実を加えたものがジンなんです」
「杜松?」
「ヒノキの仲間です。それでも名称の漢字だけは松なので薩摩義士の千本松原と関連付けたんですよ。現在も日置市からは毎年夏に関ヶ原跡踏破隊で青少年たちが島津の足取りを辿って関ヶ原から治水神社とかへ歩いていきます」
「毎年か。凄いのねえ」
「鹿児島と岐阜の繋がりは深いですよ。海津市の平田は、その宝暦治水事業の総奉行を務めていた島津家家老の平田靱負(ゆきえ)から地名を取っていますし、この歴史が縁となり、岐阜県と鹿児島県は昭和四十六年に日本で初めて『姉妹県盟約』を締結しました。都市同士の提携は数多ありますが、県同士では珍しいんです」
「おねさん、ところで飾りのフルーツは?レモン?」
槍のカクテルピンを立てて信義は尋ねた。
「あ、いえ、ボンタンピールです」
「ボンタン?アメの?」
「文旦とかザボンとも。グレープフルーツを大きくした感じの果物です。そのボンタンの皮をシロップで煮込んで干したものなんです。発祥地が鹿児島の阿久根ですからオリーブの代わりに使いました。近年日置市ではオリーブ栽培の計画を立てていますが、それが広まったらこの店でもマティーニに使おうと思ってます。楽しみで」
すると、
「母さん、前菜二つ仕上がったよ」
後ろから二つの同じ皿を手にして吉継が声を掛けた。
そしてそのまま夫妻の前に料理と銀のスプーンを置いて言った。
「お待たせしました。本日の試作品、アスペルジュ・ブランシュとアボカ、ジョーヌドゥフのオードブル『レ・トロワ・グラン』セルクル仕立てです」
目の前の白い皿には手鞠を半分に切った形に油揚げされたライスペーパーが器となり、その中には円柱のセルクル型で抜かれた二層に重なった野菜が見えた。下段は茹でたホワイトアスパラガス、そして上段にはキューブにカットされたアボカドが微かな湯気を立てている。更にその最上段には生卵の黄身が二個並んでおり、皿の周りには、ミニトマトに刺さった三国の国旗が三つ三角の等間隔に並べられていた。
そしてスプーンの下に敷かれた紙ナプキンには家康の花押とリンカーンとナポレオンの署名の写しが印刷されていた。
「このトマトの国旗は日本の日の丸とアメリカの星条旗と………」
信義は黒と黄と赤の三色旗に記憶を廻らせた。
「ベルギーよ、これ。チョコレートの包み紙で見た覚えがある」
と、思い出したのは隣の須和子であった。
信義はここでやっと料理の内容に気付いた。
「そうか、ヨシ君、これは三大古戦場の前菜なんだね」
「はい。レ・トロワ・グランとはフランス語で三大という意味です。日本の関ヶ原古戦場、アメリカのゲティスバーグ古戦場、ベルギーのワーテルロー古戦場。その三つに関するものを一皿にまとめました」
関ヶ原町は平成二十八年に地元を世界に発信しようと、南北戦争のアメリカ、そしてナポレオン戦争のベルギーとの三カ国サミットを開催し、「世界三大古戦場」における戦争の意義と平和への共同宣言をした。
「いや、予想外だったね。てっきり戦国武将の一品だとばかり」
「今回はわざと趣向を変えてみました」
吉継は説明を始めた。
「先ず下の段はベルギーです。茹でたホワイトアスパラガスを、潰したゆで卵のバターソースで和えてあります。これはベルギーの有名な『アスペルジュ・ア・ラ・フラマン』いう料理です。この場合スプーンに乗るよう短めにカットしました」
「え、アスペ、何?」
「フラマンド風アスパラガスです。ベルギーではホワイトアスパラガスは春先の名産で、メッヘレンの貴婦人と呼ばれている程馴染みがある食材なんです」
「ほう」
「ウチの裏の小屋では母が何年も前から促成のアスパラガスの軟白栽培を手掛けてますからそれを使いました」
「光を当てない栽培方法だね」
「他に黄ニラやウドも育ててます。そして上の段のアボカドはアメリカの『アボカドエッグボード』を参考にしました。本来はアボカドを縦半分にカットして種を抜いたくぼみへ卵を割り入れて焼くものですが、この皿では卵を入れず、食べやすいようにオーブンで軽く塩をかけベイクしてから細かく賽の目に切り、アスパラの上に乗せました」
「うん?では残りの日本が卵かい。日の丸にしては二つだね」
「それはきっと直ぐ分かります。先ず二つの黄身を潰し、それを軽くアボカドに絡ませて、そして全部でなく縦に半身だけ上段から召し上がって下さい」
信義は吉継の勧める方法でスプーンを入れた。
「んッ!」
口にするなり即座に理解した。ウニのようなトロリと濃厚な黄身の味がアボカドにマッチする。単なる黄身ではなく親しみのある風味に信義は唸った。
「この黄身は醤油漬けだね!!」
吉継はパンと手を打った。
「さすがです。更に卵は町の垂井町の慈鶏園の産みたて卵を使っています」
「垂井の南宮山も関ヶ原合戦地の一部だからね。でもそれ以外にも香りが強いけど」
「それは一日漬けた黄身を最後に軽く燻製用鍋で燻したからですよ」
信義は先程の吉継の行動を思い返し納得した。確かにスモークポットで燻していたのを音依に確認してもらっていた。
「またお手間入りだ」
醤油漬けも燻製も調理しすぎると堅くなる。そうなればアボカドに絡まらずソースとしての役割も果たさない。その見極めが重要だが、吉継の卵は完璧に仕上がっていた。
「アボカドの濃厚さに合わせるには燻すのが丁度良いんです。でもそれだけじゃありません。黄身を漬けた下地は『関ヶ原たまり』です」
「あの宮内庁御用達のたまり醤油かい。そりゃまた高級な材料を」
「料理の世界では知る人ぞ知る名品ですからね。普通の醤油より格段に味が上がります」
「そうか。関ヶ原、アメリカ、ベルギー。確かに三大古戦場の料理だ」
「ねー、それよりこのオードブル美味しわよ、アスパラも缶詰のより柔らかいし甘いし。やっぱり生は違うわね」
と、須和子は知らぬ間に半分を食べきり、残った方にもスプーンを入れようとしていた。
「あ、ちょっと待って下さい。その半分は食べ方を変えるんです」
「食べ方を?」
「例えればフレンチ版ひつまぶしです」
吉継は二人の前にアボカドの半分に切った器を差し出した。中身がくり抜かれた皮の中には黒いプルプルとした物体が揺れている。
「これを残りの上からかけてアボカドとアスパラガスとを全部かき混ぜて下さい」
「え、折角綺麗に層になっているのに」
勿体なさそうに須和子は眉をひそめたが、吉継は自信ありげに応じた。
「また別の料理に変身しますから」
言われた通り武田夫妻はアボカド器の中身を全部かけてライスペーパーの半球の中で混ぜ合わせた。そして揃ってミックスされた料理を口にした。
すると瞬間、二人とも吉継に驚きの顔を上げた。
「美味しい!何、これ。ゼリー?」
「たまり醤油のジェルドレッシングです。黄身を漬けた残り汁をみりんで割ってゼラチンで固めました」
吉継は盛られる前の固まったゼリーが入ったバットをカウンターに乗せて種明かしをした。
「アボカドは醤油との相性が抜群ですし、アスパラガスのソースもバターとゆで卵、これも醤油との良い組み合わせです。ホワイトアスパラガスとアボカドのマヨネーズサラダもあるくらい二つの素材もうまく馴染むんです。お互いを引き立てる、いわゆるマリアージュです」
次いで吉継は小さめの本わさびを出して見せた。
「プラスそこに鮫皮ですり下ろした大垣の名水わさびを少しだけ加えてあります。大垣城は関ヶ原合戦の時、石田三成の本陣でもありましたから」
「そうか、混じり合ってまた新しい料理になる。鰻飯が途中からお茶漬けになるひつまぶしに似ているね」
「一度に二度楽しめる方が面白いでしょう」
吉継は舌鼓を打つ夫妻に満足げに笑った。
壁に掛かった大きな模造和時計の針が夜九時を指す頃、ひすとり庵の幅広いキッチンに立つ吉継にカウンター席から三人の笑い声が響いた。
多忙な時間帯が過ぎ、ようやくオーダーが一段落した頃、学校の様子を尋ねられ、今日の出来事を話してのリアクションであった。
格子天井に関ヶ原の武将家紋をうっすらと透かした美濃和紙のシェードランプが微風に揺れ、日本庭園が隣に備えられたテーブル席の四組の客が銘々に談笑している。
檜のカウンターには一組の小綺麗なカジュアルスーツを着た夫婦が座っており、大笑いしていたのは母・音依とその夫妻である。
「笑うトコじゃないですよ、武田さん」
吉継は店の制服でもある真っ赤な居酒屋用バンダナキャップの歪みを仏頂面で直した。真っ直ぐになった帽子の中心には黒い丸の中にスプーンとフォークが交差しているマークが描かれている。
違い鎌ならぬ違いカトラリーである。
その下には「カフェ&ダイニングひすとり庵」の白抜き屋号がプリントされていた。
「いや、ごめんごめん。雑煮とカレーうどんでそこまでヒートアップするとは小学生の世界も大変だ」
「小学生の世界だから大変なんです。後で皇先生にも食べ物学校に持ってきたらダメでしょって散々説教されるし」
「私も学校から連絡来たわよ~。これで何度目かしらね~」
母の音依は吉継の緩んだ赤エプロンの後ろ紐をギュッと力任せに結んだ。
「あ、あれは俺が持ってきたんじゃないから」
「なあに、じゃあズボンのポッケにささってるその鉛筆が持ち込んだとでも?」
黒シャツの背中を軽く叩く母のジョークにどっとまた笑いが起きた。
冗談なのに笑えないのは初めてである。
「でもヨシちゃん、その嶋君だっけ、大いに素質ありよ。今度ウチにつれてらっしゃいな。御馳走振る舞ってあげるから」
いつの間にか小さな蠍(サソリ)を手にして音依は笑んでいた。
「何の素質だよ。ウチはそういう店じゃありません!」
壁の本日のお奨めメニューボードには「フレッシュハーブのローストチキン」や「自家製ソーセージのボリート(イタリア風おでん)」、「関ヶ原椎茸のクロケット・ブルギニヨンバターソース」の手書き文字が見えている。
グリルとフライパンから立ち上る煙の中、巧みに次々とオーダーをこなしながら吉継は苦い顔をした。
「あら、これ取引してる高木さんの店で売ってるのよ。高級食材だし、嶋君、喜ぶと思うけどな」
音依の指す高木さんとは国道沿いにある高木精肉店である。
「それともカエルの足か、ワニの肉の方がいいかしら」
共にリアルに店内販売している。メディアでもよくクローズアップされているから知る人ぞ知る肉屋でもある。ちなみに揚げたてコロッケも売れ筋である。
ワニ肉ならソテーかなと真剣に悩む音依に吉継は突っ撥ねた。
「マジ止めて。それにちゃんとした肉屋だからね、あそこ」
「しかし、愉快なテーマで揉めるね、ヨシ君のクラスは」
武田信義は空いたロックグラスを手に笑った。関ヶ原町の町章が彫り込まれたその表面は天井のオレンジ光をいくつも映している。
「毎度毎度たまったもんじゃないです。特にミツと元は天敵で、いつも何かに付け対立ですからね」
「ハハ、現代の石田と徳川の一戦か」
信義は音依からスコッチの三杯目を注がれたグラスを大理石コースターに置いた。グラスの底には刻まれた石田の旗印が透けて見える。
白髪交じりの四十代で簡易な服装をしているが地元大手石材会社の次期社長である。そしてその家紋コースターの製造者でもある。
隣には酔いが回った妻・須和子も腹を抱えて笑っていた。
「さすが五年一組・関ヶ原組。戦え、戦え。えいやッ」
可笑しそうに須和子は自在鉤が下がった奥の囲炉裏和室に刀を振る真似をした。西壁一面には関ヶ原合戦図屏風モザイク画が飾られている。そのモザイク壁画も信義の会社に作ってもらった特注品であった。
ちなみに須和子が口にした「関ヶ原組」というのは偶然にも、同じ漢字ではないが、五年一組全員が関ヶ原の参戦武将の苗字になっているためで、「甲冑パフォーマンス軍団」の方では無い。
吉継はグリルで串肉を焼きながら須和子に注意した。
「短時間に飲み過ぎです。もうワイン八杯目ですよ」
「いや~、ここのお酒と料理が安くて美味しいのがいけないのよ~」
シャルドネの更なるおかわりを音依に注文しつつ須和子は燻製枝豆と燻製豆腐のミックスサラダを口に入れた。
「うん、確かにこのラフロイグの十年物も名古屋では二倍以上の値だからね」
カランと丸氷の音がグラスに鳴った。
「何より味が丸い。氷をここの井戸水で作っているせいかな、おねさん」
「はい、関ヶ原の地下水が美味しい証拠です。この辺りは藤古川を通して伊吹山の雪解け水が流れてきますから。鍾乳洞側の玉倉部(たまくらべ)の清水が県の名水百選に選ばれていますし」
「日本武尊(やまとたける)の毒気を抜いた居醒(いざめ)の泉だね」
「酔いは逆に醒めないけどね~」
須和子は上機嫌でワインを一気に空けた。
酔っぱらいはこれだからと苦笑いした吉継は出来上がったばかりの皿を信義の前に置いた。
木の平皿にはハーブと燻塩で串焼きにされた鶏肉に、網焼きされたベーコンの厚切りとソーセージ、ブルーチーズが塗られた燻製沢庵が乗っている。
「ご注文の、鶏のブロシェット燻製ハーブソルト仕立てと自家製ベーコンと飛騨牛ソーセージのグリエ、そしてラディマリネのフロマージュブルー乗せの『フュメ・アソート』です」
「もー、ヨシちゃん、いつも言ってるでしょ~。ここは日本よ。フランス語なんて堅苦しい。『燻製三種盛り』でいいの。ブロシェットだって串焼きだし、ラディマリネだって沢庵なんだから」
母は怒ると甘ったれたような口調になる。不機嫌に頬を膨らす音依へ吉継は注意した。
「元フレンチシェフがそれを言っちゃ台無しでしょ」
「だって高影さんもヨシちゃんも私の付ける名前にいつも駄目出しするんだもん。屋号だって~」
「『裏切らない味・ヒデアキッチン』?そりゃ寡黙な父さんだってクレーム付けるよ」
店のレイアウトをはじめ、屋号やメニュー名も全て高影が決めていた。音依の外れた感性では理解不能な店舗になっていただろう。料理の腕は超一流なのにその手のセンスに欠けているのが玉に瑕である。
また、ひすとり庵という歴史的な屋号の割にゴテゴテと鎧や兜の装飾品が飾って無いのは一般客も気軽に入店できるようにとの高影の配慮であった。
「それはそうとこの店の燻製はどれも絶品だね。スコッチとの相性も抜群だし」
ベーコンを平らげた信義はスコッチを飲んで吉継を見た。
「ウチの看板商品の一つですからね。ランチで出すBLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドイッチも評判いいですよ。父さんの焼くパンが人気なのもありますけど」
吉継はオーブンの中で熱を帯びていく半身のアボカドを眺めながら返答した。
「高影さんの煎れるブレンドコーヒーも秀逸だからね。ところでこの沢庵の燻製とブルーチーズも合うね。沢庵は秋田名産のいぶりがっこかな、ヨシ君」
「いえ、いぶりがっこは燻製した大根を漬けたもので、ウチのは自家製の沢庵漬けを燻りましたから、製法は逆なんです」
吉継は焼きアボカドの味付けと、燻製用鍋の中身の燻り具合を母に確認してもらいながら器用に受け答えしていた。そして須和子をチラッと一瞥して音依に何かを耳打ちしていた。すると音依は須和子の前に立ち別のメニュー表を渡した。
「奥様、そろそろワインでなくカクテルは如何ですか」
「カクテル?」
「当店のオリジナルカクテルです」
「ふーん、武将カクテルか~」
須和子は頬杖をついてカラフルなドリンクメニューを眺めた。音依の勧めたオリジナルカクテルというのは、関ヶ原合戦に参加した有名大名の一人一人をイメージした「武将カクテル」である。
「何かお薦めあるの?」
「『佐和山の夕景』です」
「あれ、それって確か石田三成のだよね。飲んだことないけど」
「よろしければ是非」
「んー、じゃあ、お願いしちゃおっかな~」
かなり酔っている声で須和子はオーダーした。
「では」
と、音依は冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、ブランデーとウオッカ、それとリキュールを正確に量るとそれをシェイカーで鮮やかに振った。
バーテンダーの経験も積んでいた音依はあっという間にシャンパングラスに完成品を注いだ。
グラスの側面には大一大万大吉の文字がデザインされている。
「どうぞ」
差し出された華やかなオレンジ色のカクテルは溢れそうな程グラスに満ちていた。須和子は静かにグラスの脚を持ち上げ、くいと一口飲んだ。
トロリとしつつ、フレッシュな味覚が喉にすうっと通っていく。
「美味しい。そして何だか懐かしいわ。どうしてかしら」
「それはこの割材(わりざい)のためでしょう」
しみじみと陶酔する須和子の前に音依は先程の缶ジュースを置いた。
表面には柿の写真と「岐阜の富有柿 かきドリンク果汁三十%」のラベルが見えた。駅前交流館でも販売している飲み物である。
因みに割材とはカクテルのベースとなる酒に加えるジュースや炭酸飲料のような副材料の一つを指す。
須和子は缶を取って納得した。
「あー、オレンジじゃなくて柿」
「西濃は名産地ですから。これ一缶に二個分の富有柿が入っています。それにリンゴもブレンドしてあるので飲みやすいんです」
「だから懐かしさを感じたのね」
「はい。でもこのカクテル、柿リキュールで風味は整えていますが、元来はもう少しブランデーとウオッカが強いんです。けれど今日は控え目にしました」
「何故?」
「それはご主人様にお聞き下さい」
音依は信義を横目で見た。須和子は不思議そうに夫を瞠った。振られた彼は微笑して妻を見返した。
「何よ、アナタだけ分かった顔して」
「酔いが覚めたら教えてあげるよ。しかし三成に柿とは皮肉だね。おねさん」
石田三成が処刑される前、喉の渇きから湯を所望した所、湯の代わりに柿(干し柿)を勧められたが、「柿は胆の毒」と断ったエピソードは有名である。そのため、関ヶ原民俗資料館や駅前交流館には柿の「胆の毒ゼリー」なる土産も売られていて、毒と大きく表記されたそれは強烈に目を引く。
「今の話の流れではこのカクテルは毒ではなく薬ですけれど」
「あはは、なるほどね。でももう一種類あるね、三成のカクテル」
メニューの三成の欄には深緑色の酒も載っていた。グラスでなく抹茶茶碗を器にしたミルクで割られたカクテルには抹茶アイスと甘栗が浮かんでいて、むしろ甘味に近い。
「カルーア抹茶を使用した『三献の勝栗』ですね。柿が苦手な方はそちらのスイーツカクテルをお勧めしています。三献の茶でも知名度がありますからね、治部ちゃんは」
「………治部ちゃん、か」
微苦笑するしかない信義だが、声が大きかったので他の客からも失笑が漏れた。石田三成をちゃん付けするのは音依くらいだろう。馴染みのお客は音依の少女らしいキャラも認めている。天下人豊臣秀吉の妻・寧(ねい)と同音の名前も許される理由の一つになっていた。
「それより今ヨシ君が作ってるのが例の新作メニューかい?」
信義は興味津々にカウンターからキッチンを覗き込んだ。
「ええ、そのためにグルメのご夫妻にわざわざお出で頂いたんですから」
「そりゃあ楽しみだね。じゃあ、その料理の前にオリジナルカクテルを私にも作ってくれないかな。三成の以外で」
大概がブランデーかウイスキー党の信義がカクテルを注文するのは珍しい。それもマティーニやジンライム、ソルティードッグというメジャーなカクテルばかりでオリジナルは初めてである。
ましてカクテルは甘口辛口、アルコール度数の高低がある。
「そうですね。武田さんはお強いですから、度数が高めでもよろしいですか」
暫し考えてから音依は了解を求めた。
「構わないよ」
では、と音依は様々なウイスキーボトルや全国の地酒が並んでいる後ろの棚から一本の麦焼酎を選び出した。そしてそれをドライジンとレモンジュースでシェイクして丸に十文字が彫り込んであるカクテルグラスに注いだ。
そして最後は槍の形をしたプラスチックカクテルピンにグラニュー糖をまとった薄黄のドライフルーツを突きさしてカクテルの底に沈めた。
「お待たせしました。銘は『薩摩疾風(はやて)です』
どうぞと差し出された半透明なカクテルグラスを持ち上げて信義は眺めた。
「へえ、薩摩なら島津義弘のカクテルかな」
「もちろん。でもそれだけではありません。島津家全体のカクテルです。先ずは一口カクテルを、そして沈んでいるデコレーションフルーツを召し上がってからまたお飲み下さい」
それから信義は黙ってカクテルを口に含んだ。そしてそのまま音依の推奨する順番をこなした。
「うん、すっきりしていて美味しい。フルーツは柑橘系のコンフィ(砂糖漬)かな。甘酸っぱくていいアクセントだね」
深く頷いて信義はもう一口飲んだ。
「しかし鹿児島で麦焼酎とは意外だね」
「日置市の『さつま隼人』という銘柄の麦焼酎です。本来は芋焼酎を使うんでしょうけどジンと合うのは麦の方でしたから」
「なるほど、日置市は関ヶ原町と兄弟都市盟約を結んでいるものね。でも何故ジンを?ウオッカでもよかったんじゃ」
「ちょっとした文字のこじつけなんです。島津のここでの歴史は?」
「関ヶ原合戦の敵中突破、退口における捨て奸(すてがまり)の戦法だね。追撃してくる徳川勢を振り切り、烏頭坂へ向けて逃げ切った」
「その坂には何が建ってます?」
「えーっと、確か島津豊久の碑かな。義弘を守るためにそこで戦死したんだよね」
「ではその碑に一七五三年から一七五五年にかけて参拝に訪れた方々は御存知ですか」
「江戸時代?」
「宝暦です」
「あ!もしかして宝暦治水かい。となれば烏頭坂を訪れたのは薩摩藩士………ああ、そうか、ジンを使った理由は油島の千本松原か」
ポンと手を叩いた信義に隣の須和子は「ごめん、全然分からない。教えて」と赤ら顔で説明を求めた。
「木曽三川(さんせん)は知ってるだろ、岐阜県と愛知県との境にある木曽川・長良川・揖斐川の三つの川を総称して三川。その川は昔何度も氾濫して大勢の農民が犠牲になっていた。そこで地元から陳情を受けていた幕府が薩摩島津家にその河川の御手伝普請を命じたんだ」
「あ、それは昔どこかで習った。海津市の歴史よね。でもなんで薩摩なの?あんな遠い所から」
「薩摩の経済力を削ぐため幕府が嫌がらせをしたとの説が一般的だね。有力な藩が力を付けるのを恐れていたから」
「そんなに薩摩って豊かだったの」
「逆だよ。七十七万石の石高であっても内情は火の車、慢性的に巨額な負債を抱えていたんだ。それでも江戸の命令には逆らえなかった。当時の工事は命懸けだった。だから三十二名の藩士の命が失われ、四十万両(約三百億円)の費用が使い捨てにされたんだ。それでも生き残った人達が最後まで堪えて完成させてくれたんだけれど」
有り難いね、と信義はグラスの家紋を静かに見つめてからまた一口飲んだ。
「普請の終了記念として多くの松の木が油島の堤沿いに植えられた。日向松という種類のね。それが『千本松原』なんだ。そしてそれに携わった藩士たちは薩摩義士と呼ばれ、木曽三川公園の近くにある治水神社で顕彰されているよ」
「いい話ね。鹿児島がもっと好きになりそう」
「で、ジンとどう繋がるかは………」
上目遣いで信義は音依に仄めかした。その先の詳細は譲ると示した視線であった。音依は軽く口元を緩めた。
「いえ、深意はないんですよ。大麦やトウモロコシなどの蒸留酒で出来たものに薬草や香草、それにジュニパー・ベリー、日本語では西洋杜松(ねず)の実を加えたものがジンなんです」
「杜松?」
「ヒノキの仲間です。それでも名称の漢字だけは松なので薩摩義士の千本松原と関連付けたんですよ。現在も日置市からは毎年夏に関ヶ原跡踏破隊で青少年たちが島津の足取りを辿って関ヶ原から治水神社とかへ歩いていきます」
「毎年か。凄いのねえ」
「鹿児島と岐阜の繋がりは深いですよ。海津市の平田は、その宝暦治水事業の総奉行を務めていた島津家家老の平田靱負(ゆきえ)から地名を取っていますし、この歴史が縁となり、岐阜県と鹿児島県は昭和四十六年に日本で初めて『姉妹県盟約』を締結しました。都市同士の提携は数多ありますが、県同士では珍しいんです」
「おねさん、ところで飾りのフルーツは?レモン?」
槍のカクテルピンを立てて信義は尋ねた。
「あ、いえ、ボンタンピールです」
「ボンタン?アメの?」
「文旦とかザボンとも。グレープフルーツを大きくした感じの果物です。そのボンタンの皮をシロップで煮込んで干したものなんです。発祥地が鹿児島の阿久根ですからオリーブの代わりに使いました。近年日置市ではオリーブ栽培の計画を立てていますが、それが広まったらこの店でもマティーニに使おうと思ってます。楽しみで」
すると、
「母さん、前菜二つ仕上がったよ」
後ろから二つの同じ皿を手にして吉継が声を掛けた。
そしてそのまま夫妻の前に料理と銀のスプーンを置いて言った。
「お待たせしました。本日の試作品、アスペルジュ・ブランシュとアボカ、ジョーヌドゥフのオードブル『レ・トロワ・グラン』セルクル仕立てです」
目の前の白い皿には手鞠を半分に切った形に油揚げされたライスペーパーが器となり、その中には円柱のセルクル型で抜かれた二層に重なった野菜が見えた。下段は茹でたホワイトアスパラガス、そして上段にはキューブにカットされたアボカドが微かな湯気を立てている。更にその最上段には生卵の黄身が二個並んでおり、皿の周りには、ミニトマトに刺さった三国の国旗が三つ三角の等間隔に並べられていた。
そしてスプーンの下に敷かれた紙ナプキンには家康の花押とリンカーンとナポレオンの署名の写しが印刷されていた。
「このトマトの国旗は日本の日の丸とアメリカの星条旗と………」
信義は黒と黄と赤の三色旗に記憶を廻らせた。
「ベルギーよ、これ。チョコレートの包み紙で見た覚えがある」
と、思い出したのは隣の須和子であった。
信義はここでやっと料理の内容に気付いた。
「そうか、ヨシ君、これは三大古戦場の前菜なんだね」
「はい。レ・トロワ・グランとはフランス語で三大という意味です。日本の関ヶ原古戦場、アメリカのゲティスバーグ古戦場、ベルギーのワーテルロー古戦場。その三つに関するものを一皿にまとめました」
関ヶ原町は平成二十八年に地元を世界に発信しようと、南北戦争のアメリカ、そしてナポレオン戦争のベルギーとの三カ国サミットを開催し、「世界三大古戦場」における戦争の意義と平和への共同宣言をした。
「いや、予想外だったね。てっきり戦国武将の一品だとばかり」
「今回はわざと趣向を変えてみました」
吉継は説明を始めた。
「先ず下の段はベルギーです。茹でたホワイトアスパラガスを、潰したゆで卵のバターソースで和えてあります。これはベルギーの有名な『アスペルジュ・ア・ラ・フラマン』いう料理です。この場合スプーンに乗るよう短めにカットしました」
「え、アスペ、何?」
「フラマンド風アスパラガスです。ベルギーではホワイトアスパラガスは春先の名産で、メッヘレンの貴婦人と呼ばれている程馴染みがある食材なんです」
「ほう」
「ウチの裏の小屋では母が何年も前から促成のアスパラガスの軟白栽培を手掛けてますからそれを使いました」
「光を当てない栽培方法だね」
「他に黄ニラやウドも育ててます。そして上の段のアボカドはアメリカの『アボカドエッグボード』を参考にしました。本来はアボカドを縦半分にカットして種を抜いたくぼみへ卵を割り入れて焼くものですが、この皿では卵を入れず、食べやすいようにオーブンで軽く塩をかけベイクしてから細かく賽の目に切り、アスパラの上に乗せました」
「うん?では残りの日本が卵かい。日の丸にしては二つだね」
「それはきっと直ぐ分かります。先ず二つの黄身を潰し、それを軽くアボカドに絡ませて、そして全部でなく縦に半身だけ上段から召し上がって下さい」
信義は吉継の勧める方法でスプーンを入れた。
「んッ!」
口にするなり即座に理解した。ウニのようなトロリと濃厚な黄身の味がアボカドにマッチする。単なる黄身ではなく親しみのある風味に信義は唸った。
「この黄身は醤油漬けだね!!」
吉継はパンと手を打った。
「さすがです。更に卵は町の垂井町の慈鶏園の産みたて卵を使っています」
「垂井の南宮山も関ヶ原合戦地の一部だからね。でもそれ以外にも香りが強いけど」
「それは一日漬けた黄身を最後に軽く燻製用鍋で燻したからですよ」
信義は先程の吉継の行動を思い返し納得した。確かにスモークポットで燻していたのを音依に確認してもらっていた。
「またお手間入りだ」
醤油漬けも燻製も調理しすぎると堅くなる。そうなればアボカドに絡まらずソースとしての役割も果たさない。その見極めが重要だが、吉継の卵は完璧に仕上がっていた。
「アボカドの濃厚さに合わせるには燻すのが丁度良いんです。でもそれだけじゃありません。黄身を漬けた下地は『関ヶ原たまり』です」
「あの宮内庁御用達のたまり醤油かい。そりゃまた高級な材料を」
「料理の世界では知る人ぞ知る名品ですからね。普通の醤油より格段に味が上がります」
「そうか。関ヶ原、アメリカ、ベルギー。確かに三大古戦場の料理だ」
「ねー、それよりこのオードブル美味しわよ、アスパラも缶詰のより柔らかいし甘いし。やっぱり生は違うわね」
と、須和子は知らぬ間に半分を食べきり、残った方にもスプーンを入れようとしていた。
「あ、ちょっと待って下さい。その半分は食べ方を変えるんです」
「食べ方を?」
「例えればフレンチ版ひつまぶしです」
吉継は二人の前にアボカドの半分に切った器を差し出した。中身がくり抜かれた皮の中には黒いプルプルとした物体が揺れている。
「これを残りの上からかけてアボカドとアスパラガスとを全部かき混ぜて下さい」
「え、折角綺麗に層になっているのに」
勿体なさそうに須和子は眉をひそめたが、吉継は自信ありげに応じた。
「また別の料理に変身しますから」
言われた通り武田夫妻はアボカド器の中身を全部かけてライスペーパーの半球の中で混ぜ合わせた。そして揃ってミックスされた料理を口にした。
すると瞬間、二人とも吉継に驚きの顔を上げた。
「美味しい!何、これ。ゼリー?」
「たまり醤油のジェルドレッシングです。黄身を漬けた残り汁をみりんで割ってゼラチンで固めました」
吉継は盛られる前の固まったゼリーが入ったバットをカウンターに乗せて種明かしをした。
「アボカドは醤油との相性が抜群ですし、アスパラガスのソースもバターとゆで卵、これも醤油との良い組み合わせです。ホワイトアスパラガスとアボカドのマヨネーズサラダもあるくらい二つの素材もうまく馴染むんです。お互いを引き立てる、いわゆるマリアージュです」
次いで吉継は小さめの本わさびを出して見せた。
「プラスそこに鮫皮ですり下ろした大垣の名水わさびを少しだけ加えてあります。大垣城は関ヶ原合戦の時、石田三成の本陣でもありましたから」
「そうか、混じり合ってまた新しい料理になる。鰻飯が途中からお茶漬けになるひつまぶしに似ているね」
「一度に二度楽しめる方が面白いでしょう」
吉継は舌鼓を打つ夫妻に満足げに笑った。
スポンサードリンク