翌日、登校してきた吉継は相変わらず窓側の一角だけ静まった教室の不自然さに閉口しつつも自分の席に座った。
「おは、よう、大谷さん」
武美の要請通り、進展させなければならない吉継はファーストコンタクトとしてぎこちなく挨拶をしてみた。
「………」
しかし、予想通り返答がないばかりか振り向いてももらえない。昨日の傘の一件も聞き出したかったのだが、それ以前の問題である。こりゃ前途多難だなと眉を集めて吉継が前を向くと、クラス中から不可解な視線を送られた。
すると長月が高速で近寄ってきて耳元でささやいた。
「ちょっと何でヨシが挨拶してるの?」
ここで吉継はピンと悟った。クラス全員が秀晶を無視しているのに何故敢えて関与するのかとの苛立ちの空気が流れている。
換言すれば「裏切り者は敵」との怒りでもある。
所詮少数派は多数派には勝てない。団体の中で生存するには「寄らば大樹の陰」的な生き方をするのが楽なのは吉継も知っている。それでも武美の言う通りこのまま歪な人間関係を放置しておくのも釈然としない。
そのため吉継の返答は小声になった。
「少し訳ありでな」
「まさか、テンムちゃん絡みなの?」
長月は小さく核心を突いた。鋭い嗅覚に吉継は肯定的な言葉を選んだ。
「ま、色々とな」
「それでも関わっちゃダメだって。ヨシも巻き添え食うから」
心配そうな声色で長月は警告した。別に徒党を組んで秀晶をイジメようと決めたのではないだろうが、敵を一人に絞る事でクラスには変な団結心が生まれていた。
その敵にコンタクトを試みようとするなら変心したとも捉えられかねない。
手助けの事情を探知した長月だけは敵に回る事もないであろうが、クラス全体となれば多勢に無勢でリスキーな行為となる。
今なら無責任に降りる事も出来るのだが、金吾との協定もあるし、何より武美の依頼を無碍に断るのも憚られた。
「サンキュ。気を付けるよ」
平然と吉継は一時限目の国語の教科書とノートを机の上に並べた。
チャイムが鳴るとブツブツ不平を口にしながら長月は席へ戻った。
【おい、主、大谷娘の足下を見よや】
授業が始まって五分くらいしてから金吾が何かに感付いたのか不意に話し掛けてきた。
【足?】
その言葉通りに秀晶の机の下の足を垣間見ると生徒規定の上履きでなく教員用のスリッパを履いている。
(これは悪循環のパターンだな)
傘といい、上履きといい何が起きてきたのか想像するに難くない。
このような実力行使に出られたら事態が収拾困難になる。
傷も軽傷の内に治療しなければ手遅れになるのと同じで、まして五年生のクラスはそのままクラス替えもなく六年に繰り上がるから後二月の辛抱という解決策では済まず、イジメが反抗を増し更にイジメが強固になる。
負のスパイラル現象はどこかで食い止めなければならない。
何かのきっかけがあればと吉継が思案していると、朗読の順番が秀晶になった。
秀晶は教科書を開けて立ち上がったのだが、慣れないスリッパで足がもつれ、ノートや筆入れなど机の上の文具一式が床にバラバラと落ちた。
いい気味と皆から嘲笑される中、秀晶はそれを慌てて拾いにかかった。
すると開いていた黒猫のイラストが描かれたピンク生地の筒状ソフトペンケースから二つの消しゴムが吉継の足下に転げ落ちてきた。
吉継は反射的にその二個を拾い上げた。
見れば両方とも透明フィルムが巻かれたままの新品のトンボ社製MONO消しゴムである。
青白黒の三色帯のスリーブケースは特許庁にも認められた程メジャーになっていて、上からPLASTIC ERASERと書かれた青色帯と白い帯の中央には黒くMONOのゴシック文字が、そして下の黒帯にはトンボのロゴマークとTOMBOWの文字が白抜きされている。
生徒の消しゴムの使用率はキャラクター消しゴムでなければ大抵MONO消しゴムと断じて良い。
逆に言えば珍しくも何ともないのだが、吉継はその二つの消しゴムから何やら奇異な感じを受けた。
ところが、
「なぶるな(触るな)!!」
ビリビリと耳をつんざくような大声を張り上げ秀晶はその消しゴムを吉継の掌から奪い取った。
呆然となる吉継とクラスに武美も、「どうかしたの、大谷さん、大丈夫?」と案じた。
「何でもありません。お騒がせしました」
消しゴムをペンケースに戻すと秀晶は冷静沈着な面持ちになって朗読を始めた。
(………何だ、この妙な感じは)
吉継は滔々と本を読む秀晶の机を見た。
ペンケースの中には先程の新品の大小MONO消し二個と使い差しの他メーカーの消しゴムが入っている。
予備にとはいえ、消しゴムを三個も所持しているのは見掛けた事がない。
収集するにしても普通キャラクター版か、変わった形の物を集めるだろう。
それに消しゴムを取った掌に言い様もない違和感があった。また一瞬だったのだが、単なるMONO消しゴムではないような不自然な感じが拭えない。
(まさか………いやさすがにそれはないだろう)
吉継の脳裏にとある推考が頭を過ぎったが直ぐに打ち消した。
それよりこの強情な隣席の住人と、七日後に控えたカタバミ会の料理の内容を何とかせねばと思いを巡らせた。
それから土日を挟んだ翌月曜、吉継は懲りずに秀晶に挨拶をしたり、体育の時間に積極的にペアを申し込んだりした。それは結局悉く無視されるか拒否されたのだが、それでも吉継は諦めずに秀晶に接触を試みた。
次の日もその翌日も何とか少しの遣り取りだけでも成し遂げようと骨を折ったのだが、どれも不首尾に終わった。
見えない壁で阻んでいる頑なさはもはや異常である。
吉継は武美と金吾の頼みとはいえ、もう無理かなと半ば音を上げそうになっていた。
しかし、その翌日の放課後、遂に風向きが変わった。
副担任の柴田から図工室の後片付けを頼まれた吉継は思いも寄らない時間を取られ、急いで帰宅しようと教室へランリュックを取りに戻った。
その時である。
普通なら皆とっくに家に帰っている夕刻遅くに秀晶が一人薄暗い教室に残っていた。
それもロッカーや机の下など、フローリングにも這いつくばり、必死な形相をして何かを探しているようで吉継にも気付いていなかった。
「何か捜し物?」
吉継が近寄って声を掛けるとギョッと秀晶が飛び上がった。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
どうせまた無視されるだけだと吉継はロッカーからリュックを取り出し肩に掛けその場を去ろうとした。
「………筆入れ」
「は?」
久しぶりに耳にした正常の声が微かな呟きであった。
「………私の筆入れ知らない?大事な物なの」
必死に小声を絞り出した秀晶は、暗がりの中でハッキリしなかったが涙ぐんでいるように見えた。散々無視してきた相手に助けを求めるのは癪なのだろうが、それでも敢えて尋ねてきたのは余程大切な物に違いない。
吉継は聞いた。
「黒猫の絵のヤツ?」
「ん…」
小さく秀晶は頷いた。
「無くなった時間は?」
「今日の昼休みまではあった」
「じゃあ給食の後か」
吉継はリュックを下ろし教室の床を見渡した。落ちていないならば誰かが故意に隠したのだろう。悪戯も積み重なると段々陰湿になってくる。
吉継は苛められていた自分の過去を思い出した。そして無性に腹が立ってきて、絶対見付けてやると意地になった。
「もうゴミで捨てられたのかな………」
秀晶は最悪の状況を思い浮かべ落ち込んだ。
吉継は木製シェードに囲われた蛍光灯のスイッチを付けて断言した。
「大丈夫、必ず見付ける」
その言葉に秀晶は何かボソボソと口を動かしたが、どこにあるんだと推測中の吉継には聞こえなかった。
それから三十分も経った頃だろうか、目視出来る場所は全て探し尽くしたが全く発見出来る気配もない。秀晶はやがて諦めてリュックに手を掛けた。
「もういい、帰る」
すると電気を消して立ち去ろうとする秀晶の腕を吉継は取った。
「もう五分だけ探させてほしい」
「いいよ、もう。もうどうなってもいい。私なんて」
この時吉継は残照にぼやける秀晶の寂しそうな憂い顔を見逃さなかった。
父親が亡くなり、母親は昼夜交替の病院勤めで不在が多い。見知らぬ土地に転校してきて家には独りぼっち。反感を持たれたのは秀晶が原因なのだろうが、味方がいないのはどれだけ心細いだろう。
吉継は更に喪失感に満ちた秀晶と、捨て鉢になっていた過去の自分が重なり合った。しかし自分には優しい父母がいつもそばにいてくれた。
それに比べ秀晶の不安や孤独はもっと深い。自暴自棄なのも、孤立しているのも光明を求めている裏返しの表現なのではないか。
吉継は「もう少しだけ」と躍起になって懸命に探した。
するとここで「あ」と閃いた。
(もしかしてアイツが隠したならあそこにあるかも)
吉継は教卓の下に潜って裏側を見た。
「あった!大谷さん、見付けた!」
予想通り筆入れは木製教卓の裏側にガムテープで貼り付けてあった。吉継はそれを静かに剥がすと、待ち構えていた秀晶に手渡した。
秀晶は急いでジッパーを開け中身を確認した。そして例の二つのMONO消しゴムを感極まった両掌で優しく覆い、ポツリポツリとか細い声で呟いた。
「ギョ、ウブゴ、スケ、良かった」
「………何?」
呪文のような聞き慣れない言葉に吉継は尋ねた。しかし「何でもない」と秀晶はさっと消しゴムを筆入れに戻した。
「でもよっぽどその消しゴムに思い入れがあるんだね」
人助けを達成した吉継は軽い笑みを浮かべ、白く汚れた制服の埃を払った。
秀晶は頷いて聞いた。
「でも、小早川君にはどうして隠し場所が分かったの?こんな所絶対思い付かないけど」
「それは、うん、そう、第六感かな」
吉継には犯人に目星が付いていた。クラスメートの一人である。だが、まさか名を明かす訳にはいかない。そのため曖昧な返答になった。
だが、秀晶はそれを誤解して突如睨んできた。
「まさかこれ、あなたが隠したんじゃないでしょうね」
「え、いやそれは」
「なんで誤魔化すの」
「………いや、別にそんなつもりは」
「さては私の傘を壊したのも、上履きを隠したのもあなたね!」
「いや、それは違………」
「私に近付いてきたのだってどうせ最後には全員で笑い者にする算段だったんでしょう。私も随分とコケにされたものね」
弁解すらまともに取り合おうともしないで筆入れをリュックに片付けると秀晶はくるりとドアに向いた。
「ちょっ、大谷さん、待っ………」
と吉継がその肩に手を掛けると、秀晶は振り向きざま握り拳を振り上げると手加減無く思い切り吉継の顔を殴った。
「がはッ」
左頬にクリーンヒットして倒れ込む吉継に秀晶は言い捨てた。
「やっぱり裏切り者の小早川は大嫌い!」
「ヨシ、どうしたの、それ?」
翌朝、大きめの湿布を頬に貼って登校してきた吉継に長月が寄ってきた。
真央や汐恩も何事という不可解な案じ顔で歩んできた。
「ああ、昨日の夜寝ぼけて部屋の机の角にぶつけた」
チラっと隣席を見るが秀晶は相変わらず能面を崩していなかった。ただ、殴った右手の指関節にはいくつか絆創膏が貼り付けてあった。
「あはは、ヨシらしいドジね」
「からかうなよ、真央。誰にだってこういう失敗はあるさ」
吉継はランリュックを開けて自嘲気味に笑った。
「あ、そうだ。今、汐恩に試食してもらいたいのがあるんだけどいいか」
「私に?」
唐突な吉継の提案に訝しげに汐恩は聞いた。
「あー、ずるい、汐恩だけ」
試食と耳にして長月と真央は揃って文句を連ねた。
吉継は、
「先ずは汐恩にな。それから二人にも食べてもらうから」
と封筒に入った付箋に似た紙の束を汐恩に手渡した。
「食べるって、これは紙ではありません?」
「可食シートって食べられる紙なんだ。インクもそれ専用でさ。ウチの店で菓子とか料理の飾り付けに使おうかと思って」
「そうですか?あ………」
汐恩はその紙に何か小さな文字が印刷されているのを発見した。そして急に心得顔に変えて一枚ペロリと舌に乗せた。
「早く溶けるんですね。でもこれは大勢に意見を求められた方がよろしいのでは?」
「ああ、本当にそうだ。それに出来れば早く食べてもらいたい」
「分かりました。私が責任を持って四時限目が終わるまでには配っておきます」
「助かるよ」
「これは貸しにしておきますね、コバ君」
ニコリと汐恩は小悪魔的な笑みを浮かべ、秀晶の手を見てから、次いで吉継の湿布を指で軽く突いた。
「いてて、何をする」
「それに嘘ならもっとお上手に」
「な、何の話だ」
「さあ、何の話でしょうね」
汐恩は再び微笑すると早速皆にその紙片を小声で配っていった。
(あいつ、絶対将来日本を裏から牛耳りそうだな)
吉継は頼もしくも末恐ろしい汐恩に目を向けて苦笑した。
それから放課後のチャイムが鳴り、クラスの皆は各自スマホを見たりカードで遊んだりしていた。
吉継も三大や左人志と給食の献立の話題で盛り上がっていた。
秀晶はそんな皆に目もくれずさっさと荷物を持って教室から一人出て行った。
吉継は急に廊下に走って秀晶の姿を確認した。
足が速いのかもう消えていた。
そして教室の扉を閉めると吉継は教壇に立った。
皆は静かに前を向いた。
「ヨシ、あのオブラートみたいな紙に書いてあった話って何だ?」
戸田重成が椅子を揺らしながら切り出した。
吉継が汐恩に配ってもらった可食シートには「今日の放課後重要な話あり。大谷さん以外は全員残って。小早川吉継」との印刷がされていた。LINEでもよかったのだが、必ず読むとは限らないし、ログが残ると面倒にもなりかねない。その点、可食シートであれば証拠も残らないし、汐恩が細かく説明してくれたようで、皆はそれを理解し隠滅してくれた。
「えっと、みんな、大谷さんと敵対しないでもっとうまく付き合ってくれないかな。それと………」
吉継は真面目に話し始めた。すると、
「おい、ヨシ。お前、裏切る気か!?」
浮田修(おさむ)が言葉を遮り机を叩いて叫んだ。
「そうよ、最近、コバ君、あんな子と親しくしようとして!」
池田愛輝(あき)も追従して怒りを露わにした。
そうすると皆の不平不満が次々と爆発して収拾がつかなくなった。
この大揉めは吉継の予想の範疇とはいえ、まるで自分が集中砲火を浴びているようで喉も渇き鼓動も早くなる。
【主、よければ吾がこの場を収めるが】
金吾が胸元から心配して提案してきた。
【いや、ここは俺がやる】
折れそうになる心を奮い立たせた吉継は深呼吸をして黒板に向いた。
そしていきなり爪を立てて黒板を引っ掻いた。
キキイという耳障りな音が鳴り響き皆は思わず耳を塞いだ。
「な、何をする、ヨシ?」
三大が歪んだ口で咎めた。
「皆さん、お静かに」
ここで汐恩が立ち上がって騒ぎを制した。
「コバ君には何か別の発言があるようです。一応最後まで伺いましょう」
さすが色々と察してくれているようで吉継は礼の笑みを汐恩に向けてから話を再開した。
「実は立て続けに大谷さんの持ち物に悪戯がされている。傘が壊され、上履きが盗まれた。そして昨日は筆入れが隠された」
シンと教室が静まった。
「俺は別に犯人を暴こうとしてるんじゃない。それに反抗的な態度を取る大谷さんにも非はあると思う。でも隠したり盗んだりする物理的なイジメは止めて欲しい。物がなくなるのは精神的にもこたえるんだ」
吉継は間を置いて目を伏せささめいた。
「経験した俺にはよく分かる」
過去に小早川の姓でイジメにあっていた吉継の言葉には重みがあった。かつての実行犯であったクラスの数人はバツ悪く視線を背けた。
「それにこういうのが続くと多分マズイ流れになると思う」
「マズイ流れって?」
元が聞いた。吉継は室内掲示板に目を向けた。
「明日の土曜は授業参観だ。授業が終わったら父兄が集まっての懇談会がある。もし大谷さんが親にいじめを告げていたら、親はそれをその場で騒ぎ立てるかもしれない。他の父兄も黙っちゃいないだろう。だったらその時テンムちゃんはどうなると思う、元?」
「………親から攻撃の的になるね、きっと」
楽観的な憶測を差し引いてもその可能性は高い。まさか自分たちの態度が担任まで巻き込む騒動になるとは思いもしなかった。
武美は校内でも優しくて人気のある教師である。そんな担任まで困らせると気付いた元はしょげた肩を落とした。
「それだけじゃない。みんなにも手は伸びる。この学校はイジメに対して撲滅運動をしているから徹底して個別に調査される。場合によっては教育委員が出張ってきたり、親の呼び出しもあるだろうな」
さあっとクラスメートの額が青くなった。
「別に大谷さんと無理に仲良くしろとは言わない。挨拶だってしたくなければしなくていい。無視したければそうすればいい。でも物に罪はないんだ。そこを理解してほしい」
吉継は頭を垂れた。
「話はそれで終わりか、ヨシ?」
三大が一本調子な声で確認した。
「ああ」
「じゃ、俺、塾があるから帰るな」
三大は無表情にランリュックを持つとそそくさと教室を出て行った。続くように皆もクラスをぞろぞろ後にし、殆どの生徒がいなくなった。
現状では皆が納得してくれたのか分からない。それでもやるべき事はやったと自分に言い聞かせた吉継は次いで教室を出ようとする長月を呼び止めた。
「クロ、ちょっといいか?」
「………何?」
そうしてクラスには吉継と長月だけが残った。ところが吉継は無言でじっと長月を見つめるだけで何もアクションを起こさない。
「何?」
長月は苛立った声を出した。
やっと吉継は切り出した。
「昔、俺はお前に何度も救われた。いじめられていた俺を見捨てなかったのはお前だけだ。だから俺はクロに感謝してる」
「え、何、急に?」
妙に落ち着かずに足を揺する長月は返答の声もたどたどしかった。
吉継はきっぱりと直言した。
「だからこれ以上お前には大谷さんイジメに荷担してほしくない」
「な、何の事か分からないよ」
「とぼけても無駄だ。傘と上履きは知らないが、筆入れの単語でお前は少し反応した。それに昔、遊びで探索ゲームをした時、お前は必ず教卓の裏に隠した。決まった癖だな」
カッと長月の気色が変わった。
「私がやったって証拠は………」
「勘違いするな。俺は怒っても責めてもいない」
吉継は長月の頭にポンと手を置いた。
「ただ、イジメの辛さを知っているクロだけにはもう止めてほしいんだ。頼むよ」
「………だってあの子が悪いんだよ」
長月が訥々と話し始めた。
「あの子がヨシの親切をいつも無視してるからさ。それにあの子私のこれをキモイって馬鹿にしたんだよ」
長月は藤の花のジッパーチャームを手に握って目を閉じた。
「これヨシがお祭りの時に輪投げで取ってくれたものだから余計に許せなくて」
「ん?話に脈絡がないな。大谷さんが前触れもなくそのアクセを馬鹿にしたのか?」
「………」
「クロ!」
「いつまでも調子に乗るなってこのカード見せた」
長月はタロットの「塔」のカードをめくった。
それは落雷で壊れ二人の人間が墜落するバベルの塔が描かれたカードであった。
見たまま「災難」や「転落」の不吉なイメージを宿している。
「はー、それはクロが悪い。大谷さんも言い返して当然だ」
「えー、だって」
「だっては無し。さ、遅くなったしそろそろ帰るか」
「そうだね………いや、待って、ヨシ」
と、ここで何故か長月は顔を強ばらせ唐突に吉継の袖を引っ張り、
「誰?誰かそこにいるの!?」
と無人の扉に向かって声を張り上げた。
「どうした?誰もいないぞ」
吉継はドアに近付いて周りを見渡したが生徒も教師も見えなかった。
「ううん、間違いなく今誰かの気配がした。私の女神アンテナがビビッと反応したもん」
「………お前はまたそういう厨二を発動するのな。まあいい、今日はマジもう帰らないと」
小走りになる吉継を長月は追った。
「なんで急いでいるの?」
「例の土佐の飲み会があるから」
「ああ、アレ今日だっけ」
息を切らして二人は会話した。
「ならメニュー決まったんだ」
「まあな。結構自信ある」
すると昇降口に差し掛かった時、二人の前に一人の大柄な生徒がぬっと現れた。
「ヨシ、待ってたぞ」
吉継と同じくらい背の高いその男子は吉継を柱に追いやって筋肉質の片手を柱に突いた。クラスメートの平塚義博である。
ソフトモヒカンの髪型のイメージ通り厳ついガキ大将である。
「おい、今日のは何だ、一体?」
どうやらさっきの会合に納得がいっていないようで、牙が突き出た赤鬼が刺繍された巾着袋を肩に背負い、三角の目で凄んでくる。
「ツカ、悪いけど文句なら明日な」
急いでいるんだと吉継は後ずさりして小さく降参の手を上げたが話を聞いてくれない。
「いいか、俺は裏切りは絶対許さない。寝返りは人間のクズだ」
「そ、そうだな」
「大体お前の苗字には反吐が出る」
そりゃあそうだろうと吉継は苦く思った。
関ヶ原合戦の時、小早川秀秋の裏切りに最後まで奮闘したのは大谷吉継だけではない。平塚為広と戸田重政の両大名も大谷軍の寄騎として戦い命を落としている。
特に平塚為広は大谷吉継と辞世の句を遣り取りした程の盟友でもあったから、その苗字を持つ義博が小早川の苗字を嫌うのは無理からぬ事であった。
「けど、ヨシ、お前の名前の方は良い。それは認める」
「………まさか、そのためだけに待ってたのか?」
「たわけ、俺はそんな暇人じゃないわ。そら、これを受け取れ」
義博は巾着袋から膨らんだビニール大袋を取り出し、それを吉継に差し出した。
中を見ると酸味漂う黄色い球体がぎっしり詰まっていた。
「親戚のじいちゃんが山ほど送ってくれた柚子(ゆず)だ。お前の店で使え」
「どうして俺に?」
「この前、風邪で休んだ時、お前家にプリント届けてくれたろ。その礼だ」
「いや、あれはテンムちゃんのお願いだから」
「いいや、どんな理由にしろ恩を受けたら義理を返すのがウチの家訓だからな。じゃあな、これで借りは返したぞ」
渡すだけ渡して義博はズカズカ足音を響かせながら帰っていった。
今日日、家訓も無かろうが義理堅い奴だ、と笑いながらも吉継は安堵して長月に片笑んだ。
「どうやらお前の感じた気配はツカだったみたいだな」
「やあ、今晩も盛況だね、ヨシ君」
石材会社の次期社長の武田信義がひすとり庵のスライド扉にかかっている、屋号が白く染め抜かれた赤い暖簾を潜って現れた。
外まで笑い声や大きな歓声が漏れていたようで些か遠慮がちである。
次期社長の肩書きであっても殆ど社長と大差ない働きをしているため、社員からは社長と呼ばれている。
キッチンで燻製ナッツサラダにドレッシングをかけながら吉継は挨拶した。
「あ、武田さん。いらっしゃい」
「もしかして貸し切りだったかな」
「いえ、それは奥座敷だけです。カウンターは空いてますからどうぞ」
カウンター席に座るなり信義は奥でわいわい盛り上がっている一団に目をやった。
隙間が空いた竹の屏風越しにもその賑わしさが見て取れた。
様々な年齢層の男女が混ざって二十人はいるだろうか、囲炉裏に備えられた大鍋から何かをすくったり、皿の料理を平らげたり、ワイングラスを傾けたり、史談に興じたり、大騒ぎとなっていた。
「また一段と賑やかだね」
いつもの酒盛り以上の賑々しさに信義は笑った。
「今日は『カタバミ会』、全国から訪れた長宗我部盛親好きの、ファンの集いです」
「元親でなく盛親か。それは通だね」
「関ヶ原ですから」
「なるほど。で、長宗我部ならもしや今日は高知県の料理が出るのかい?」
吉継はひすとり庵のトレードマークになっている赤いバンダナキャップの頭を、もちろん、と縦に振った。
「ところでヨシ君、その頬は?少し腫れているみたいだけど」
「これは昨日ドジして転んだんです。さっきまで湿布を貼っていたから大分引いたんですけど、見苦しくてすみません」
「いやいや、怪我には気を付けてよ」
「ありがとうございます」
「そういえばおねさんは?」
先程よりキッチンに姿を見せていない音依を信義は目で探した。
「母さんは一晩、会の接待役です。今日は会のメインが洋風鍋なのでその鍋の世話に。それより、そちらはお連れの方ですか?」
アルマーニの細いスーツを着込んだ見慣れないサラリーマン風の新客が信義の右に黙って座っていた。三十代前半で神経質そうな細い目で吉継を観察している。
「おお、そうだ。紹介が遅れたね。三月から名古屋支社から本社に赴任してくる我が社期待のホープ、上杉景臣(かげおみ)君だ。今日は前祝いにリトルシェフのいるこの店でご馳走してあげようと思ってね。ヨシ君、これから彼をよろしく頼むよ」
「はい。こちらこそお願いします」
吉継は新参の彼にペコリと会釈したが、景臣は挨拶もせず吉継に不信感を含んだ視線を投げ掛けた。そして隣を向いて率直に意見した。
「社長、申し訳ありませんが、私にはどうしてもこの少年が店の料理を任されているとは信じられません。リトルシェフとは聞きましたが、どう見ても高々中学生でしょう」
「いや、ヨシ君は小学五年生だ」
「では十歳じゃありませんか!」
「そうだよ。でも法的には何の問題も無い。彼はこの店の子供だし、母親の、座敷で給仕してる音依さんが調理師免許を持っている」
「いえ、法律云々ではありません。子供が作る料理なんて幼稚臭くて食べれたものじゃない。よくマスコミがこの手の雑題を取り上げてますが所詮は素人。美食家の社長がお勧めだからと期待して来たんですけど、まさかこんな茶番に付き合わされるとは思いませんでした。まあ、端からこんな田舎の居酒屋に腕の立つ料理人がいるなど望んでいませんけど」
面と向かって悪態を並べた部下に信義は笑いながら吉継に詫びた。
「ヨシ君、すまないね。なにぶん彼はおべんちゃらを嫌う正直者でね。そこも私は買っているんだ」
「構いませんよ。慣れてますから」
涼しい顔で吉継はおしぼりを二つ出した。
「それで今日は何に致します?お勧めはヤガラと胡麻鯖と白魚(しらうお)ですけど」
「おッ、ヤガラがあるのかい?」
「高知で昨日獲れたばかりの赤ヤガラです。少し値は張りますがよろしければ是非。土佐の生冷酒と一緒に」
「嬉しいね。まさか関ヶ原でヤガラが食べられると思わなかったよ」
「………ヤガラって何です、社長?」
気の抜けた体で景臣が尋ねてきた。信義はスマホで写真検索してその姿を見せた。オレンジ色の細長い胴体に長いクチバシが特徴的な魚である。
「うへえ、こんなグロテスクな魚が美味いんですかね?」
不気味そうに口を歪め景臣はおしぼりで手を拭いた。
「滅多に食べれない高級魚だ。何事も見た目で判断しちゃいけないよ、上杉君」
部下の不信に息を抜いた信義はおしぼりを畳んで説いて聞かせた。
「それは小学生だから料理が拙いだなんて先入観も同じだよ。それにここのダイニングは便宜上、居酒屋とみんな気楽に呼んでるけど、フランス料理店ランクではビストロに近いんだ」
フレンチレストランの名前の格はおおよそ「カフェ(軽喫茶店)」「サロン・ド・テ(高級喫茶店)」「ブラッスリー(カジュアル飲食店)」「ビストロ(中程度料理店)」「レストラン(要正装の料理店)」「オーベルジュ(高級レベルの料理店)」「グランメゾン(三つ星クラスの超高級料理店)」の順に高級となっている。
「しかしですよ、社長」
「まあまあ、百聞は一食にしかずだ。そういえば、ヨシ君、日本酒を勧めるならヤガラは和風かな?」
「イタリアンと和食の折衷です。細工がありまして」
「楽しみだね。じゃあそれを二人前で」
「はい」と、吉継は店内で働く、音依の妹である叔母の朝妃(あさひ)に日本酒のオーダーを任せて、刺身を目の前で切り始めた。
景臣はちらと吉継を見た。そして瞬時に驚いた。
その刺身包丁の鮮やかな捌き振りはとても子供の技とは思えない。
プロの料理人の調理術は動きに無駄がなく芸術的であるとさえ評されている。
思わず身を正し、景臣は吉継の手練を凝視した。
丁寧だが手際良い動作であっという間に料理が仕上がっていく。そして円形に並べられた刺身の上に、イタリアンパセリとディルなどのミックスハーブがちりばめられ、最後にグレープシードオイルがソースでかけられた。
「お待たせしました。『赤ヤガラの和様カルパッチョ』です。お箸でどうぞ。土佐の銘酒『酔鯨・特別純米酒・絞りたて生酒』と共にお召し上がり下さい」
「おお、美しいね」
信義が刺身を一口箸で食べた。
「うーん、美味だ!素晴らしい!ほら、上杉君も」
「………ま、試しに」
上司の満足そうに食して勧める様子に景臣も恐る恐る刺身を口に運んだ。
すると、途端に口の中に鯛と鱧が溶け合ったようなヤガラのコクとペーストにしたとニンニクとグレープシードオイルの繊細なとろみが絶妙に組み合わさった。それにハーブの爽やかさが追走し後味をさっぱりとさせる。
その美味のループが止まらない。
「ああ、これは、何とも言えない!!」
人が変わったように景臣は一心不乱に短時間で一皿を食べ尽くした。
その景臣に吉継はもう一品を差し出した。
それは白い角皿に三つ並んだ、サイコロを一回り大きくした卵豆腐のようで、とろりとした橙色のソースが皿の縁に一匙分放射状に添えてある。
「これは?注文していないけど」
景臣は不可解に目を細めた。
特別サービスです、と吉継はナイフとフォークを渡して勧めた。
「そのソースをつけて召し上がって下さい。武田さんの分も用意してありますのでどうぞ」
二人は揃ってそれを口に入れた。
一噛みするとプルンとした食感に甘い野菜の味と魚の出汁がじゅわっと溢れてきた。そして同時に濃厚な卵黄に似た味が広がった。
「む!これもまた美味い!」
と景臣は瞬く間に三つの固まりを完食してしまった。そして聞いた。
「これは野菜のゼリー?」
吉継は答えた。
「はい。『アスペルジュ・ブランシュのジュレ、ソース・オヴェール・フィメーレ・ド・エトリーユ』です」
「何?」
「ホワイトアスパラガスのゼリー寄せ、渡り蟹の内子(うちこ)ソース添えです」
「ハハ、日本語でも長いね」
苦笑する景臣に代わって信義が、「ルセット(レシピ)は?」と料理法を吉継に尋ねた。
吉継は簡単に説明した。
「ヤガラのアラで出汁を取りそれを綺麗に漉(こ)してから、溶かした粉ゼラチンと粉寒天を混ぜます。そこにミキサーにかけた茹でホワイトアスパラガスと少量の塩をミックスして型に入れ、冷やし固めたのが今の料理です。ソースにはエガニの卵巣である内子を使いました」
「エガニ?」
「ノコギリガザミです。渡り蟹の別名で、高知県ではこの時期、土佐湾で獲れる雌のエガニは高級品の一つになっています」
「なるほど、内子をソースにとは考えたね。そしてヤガラの出汁を使っているから余計に美味しさが増す」
「はい。ヤガラは、刺身はもちろん、良い出汁が出る骨や頭も吸い物などに使われます。それをゼリー寄せに応用してみました」
「しかし、それだけじゃない。内子のソースも何か違うような」
「お分かりですか?」
「うーん、どこかで食べた感じがするんだけど………」
信義は腕を組んで思案してみたが解明出来なかった。暫くして参った、と信義が白旗を揚げると吉継は、答えはこれです、と一枚の乾燥昆布を見せた。
信義は直ぐにピンと来た。
「まさか内子を昆布締めにしたのかい!」
「その通りです。一時間程かけて昆布の旨味を内子に移しました。ソースはただの内子でもよかったんですが、味を濃くするにはこの方法が一番適していたので」
「なんとまあ、貪欲に思い付くものだね。さすがはひすとり庵の三枚看板の一人だ。一見シンプルだが幾つもの手間が隠れている」
吉継を高評価に褒めてから信義は皮肉の眼差しで部下を見た。
「しかし、上杉君、君も幼稚な料理をしっかりと平らげたね」
「う………」
急に恥ずかしくなった景臣はやがて吉継に向いて手を合わせた。
「子供だと侮った失言は撤回します。この二品で君の非凡な技量を充分思い知りました。謝ります、この通り!」
「やめて下さい、上杉さん。美味しいと思って頂ければそれで充分です」
「社長、彼は本当に十歳ですか?」
礼儀正しい吉継に感動して景臣は枡酒を更に飲んだ。信義はビックリしただろうと笑いつつ、カルパッチョの謎を吉継に尋ねた。
「ヤガラ自体の旨味があるとはいえ、刺身がもっと深いコクを出している。匂いにクセのあるオリーブオイルでなくグレープシードオイルにしたのもそうだけど後は何をしたんだい?これも分からない。種明かしをしてもらうと有り難いけど」
「簡単な仕掛けです。ヤガラの身に柚子の絞り汁を少量だけスプレーし、ソースとしてのグレープシードオイルの中にアルコールを飛ばした日本酒と醤油とそしてこれを少し足したんです」
と吉継は「昆布茶」の缶を前に置いた。
「昆布茶。ああ、それで和風に感じたのか」
「昆布茶は分量さえ間違えなければオイルとの相性はいいんですよ。ヤガラも内子のように材料の昆布締めでは面白くないのでわざと変化させました」
「またまたお見事!ところであっちの料理は?」
信義は奥座敷を再度覗いた。囲炉裏に備えられた大鍋の蓋からは湯気が立ち上っている。
「あれは母さんが発案した『炉端(ろばた)パエリア』です。スペインのパエリア大鍋からの着想でして」
「特注かい?初めて見たけど」
「大型の井桁五徳(いげたごとく)もそうです。最近仕入れました」
吉継は音依の書いた注文書を信義に見せた。二十人をまかなうパエリア大鍋のサイズも驚きだが、四角い格子状の囲炉裏灰に置く五徳も鍋の尺に合うよう設計してあった。
「パエリアは具材によって様々に変化がつけられますから土着の料理にアレンジしやすいんです。今日のは限定版の土佐パエリアです。具材はヤガラのアラとカサゴの切り身、長太郎貝とぶつ切りにしたエガニ、トマトとパプリカ、ニンニクのみじん切りと玉ねぎです」
「長太郎貝って?」
「高知の名産で緋扇貝(ヒオウギガイ)です。ホタテより美味しいと評判で」
「ふむ、珍しいね。あれは私達も注文出来るのかな?」
「いえ、パエリアは会の特別注文の限定品なのでまたの機会に。その代わりにこちらではパスタや握り寿司などを用意しています」
信義と景臣は示された本日のお勧めメニューボードを見た。「高知を食べよう」と記された文字の下に三つの献立が載っていた。
【ドロメのベニエと四万十川(しまんとがわ)海苔のヴェルミセル-フルール・ド・コルザ和え。室戸鯖の漬け握り寿司。室戸鯖とクルジェットとポワヴロンのマリネ】
「………詳しく説明して貰えるのかな」
ちんぷんかんぷんの献立名に景臣は頭を掻いた。
「すみません、フランス語表記は主に父さんの意向なので」
と吉継は簡単にメニューの説明をした。
「ドロメとは高知の白魚です。それを軽く燻製してからベニエ、すなわち粉を付けて揚げたものをトッピングとし、太めのスパゲティであるヴェルミチェッリに四万十川海苔で作ったソースを絡めます。それにフルール・ド・コルザ、つまり菜の花を彩りに少々和えます」
「四万十川海苔のパスタ、燻製白魚の揚げ物、菜の花和えって意味でいいのかな」
「はい」と吉継は笑顔で答えて続けた。
「握り寿司は今回仕入れた高知の鯖を使います。室戸鯖は正式名称が『室戸無神経鯖』といって室戸市のブランド胡麻鯖です」
「無神経?凄い名前だね」
「室戸沖で漁師さんが釣ったそばから血抜きをして背中の神経を針金で破壊するんです。そのために鮮度や旨味を保てるんです。中でも脂が乗ったものを選別するので注目されている胡麻鯖ですね。当店ではその胡麻鯖の切り身を燻製醤油漬けにして握ります」
「ほほう、聞いているだけでヨダレがでるよ。私はそれを一貫頂こうかな。後はビールを」
「瓶ですか?ジョッキですか?瓶でしたらアサヒ・サントリー・サッポロ・キリンなど色々なメーカーを揃えてますけど」
ドリンクメニューを見て景臣は決めた。
「では瓶のスーパードライで」
「畏まりました。武田さんは?」
「私はマルサネのロゼを頂こうか。ボトルでね」
「はい。朝妃さーん、ドライ一、マルサネロゼボトル一、カウンターにお願いします」
吉継は忙しく立ち回る叔母にビールとワインのオーダーを通した。
信義はメニューを置くと吉継に注文した。
「それで私の料理はマリネを頼むよ。ズッキーニとパプリカの。それとパスタも、それは上杉君と私の二人前で」
吉継は注文を受けるや直ぐにパスタを茹でながら胡麻鯖の切り身の皮にバーナーの炎を当て始めた。残りの日本酒を空けながら景臣は、メニューの説明無しで注文した上司に感心した。
「社長がフランス語に堪能とは知りませんでした」
「ははは、少しだけだよ。しかし、ヨシ君。高知の酒も美味しいね」
「高知はアルコール消費量がトップクラスだと母さんが教えてくれました。学校の地理ではそういうのは習いませんから」
「まあ、義務教育で呑兵衛が多い地域と白地図に記入させる訳にはいかないだろうしね」
それはそうです、と笑って吉継は炙った身を切った。
やがて朝妃がビールとボトルワインを運んできて、上司と部下のお互いが差しつ差されつグラスにビールとワインを注ぎながら痛飲していると、間もなく完成した一皿が武田の前に差し出された。
「お待たせしました。先ずは胡麻鯖のマリネからどうぞ」
マリネとは酢などの液体に食材を漬けた料理で、味や香りを高め、繊維をやわらかくする効果もある。
「ああ、この料理もカラフルだね」
グリエして一晩オリーブオイルのタレに漬け込んだ緑の輪切りズッキーニと赤と黄色のパプリカの層の上に炙り胡麻鯖の切り身が乗っている。
吉継は食べ方を示した。
「上下二層でマリネの味を変えてあります。先ずは上の鯖を半身、それから下の野菜を召し上がって下さい」
勧められるように信義はナイフとフォークで鯖と野菜を一口ずつ食べた。
「うん、いけるね」
鯖の身からはさっぱりした酢の香りと甘い柑橘の香りが立ち上った。
「へえ、白ワインの冷製マリネではないんだね」
「はい。今回は和風を意識して非加熱で仕上げました」
フランスのマリネは熱を加えるタイプと熱を加えない非加熱のタイプがある。
目的に応じてマリネは様々なバリエーションがあるのだが、加熱の場合、白ワインとワインビネガー、そして香味野菜に塩を加え沸かしたクールブイヨンで食材をゆっくり煮て冷ます。
反対に非加熱の場合は塩をして酢やオイル、香料などを組み合わせた液に漬ける。
信義は味わって材料を確かめた。
「このマリナード(マリネ液)はワインビネガーと、オリーブオイルとオレンジ、いや、高知であればこの香りはポンカンだね。それに鯖の皮は炙ってあるから香ばしい。下の野菜のマリネは、これは醤油ダレだ。でも酢が少し柔らかいような」
「そこに気付かれるとはさすがです。酢は酢でも土佐酢なんです」
「土佐酢?」と景臣が赤くなった酔顔で割って入った。吉継は答えた。
「三杯酢に鰹節の出汁を加えた酢です。普通の酢ではきつくなりやすいので、今回は野菜本来の甘さを引き出すためにオイルの量を控え敢えて土佐酢を使用しました。上は濃い目の洋風で下は薄目の和風です」
「なるほど和洋二層のマリネか。しかし、この鯖は胡麻鯖なのに適度な脂もあって身もプリプリ弾力があるね」
「新鮮な無神経鯖ならではの食感です。それに高知の清水市には『清水鯖』というブランド胡麻鯖もありますよ。こっちは出荷直前に活き締めをします。清水鯖も鯖好きの間では有名です」
と、説明を終えて吉継は漬け握りを景臣の前に二貫出した。
上にはアサツキのみじん切りと煎り胡麻が振り掛けてある。
最初の貶していた勢いはどこへやら、美味い美味いと満足げに寿司を頬張る景臣の姿に信義は笑った。
「もうすぐパスタもあがりますよ」
吉継が掛け時計で茹で時間を計っていると、離れた場所で途方に暮れた朝妃が音依を呼び、小声で何かヒソヒソと話していた。さっきから忙しなく走り回っている叔母の様子が気になって吉継は聞いた。
「どうしたの、朝妃さん?」
叔母の朝妃も音依ほどではないが整った面差しをしているものの音依の陽気さとは逆で堅物ともいえる真面目な気性をしていた。それに叔母さんと呼ばれるのをとても嫌う。眉間に皺を寄せて朝妃はカクテルのメニューをしきりに眺めた。
「それが土佐カクテルの材料が足りなくなりそうで。他のカクテルで代用しなきゃいけないかもしれないの」
「足りないのってビール?サイダー?」
「いえ、柚子が、ね。今回のカクテルが思わぬ人気で。折角皆さん楽しんで頂いてるのにホント弱ったわ」
「あ、それなら待ってて」
吉継はダッシュでキッチン奥のバックヤードへ駆けていき、間もなくビニール袋一杯の柚子を朝妃に差し出した。
「はい。これで量、足りそう?」
「あら、どうしたの、これ」
「今日たまたま同級生にもらったんだ。使ってくれって」
「グッドタイミング!もう充分すぎるわよ。助かったわ」
するとここで音依が吉継を力一杯ハグして嬉しそうに声を上げた。
「Bravo!Mon fils mignon(ブラボー!モン・フィス・ミニョン)」
万歳、私の可愛い息子というフランス語なのだが、音依がベラベラと意識無くフランス語を発するのは一つの習性がある。吉継は上機嫌な母を押し戻して問い詰めた。
「さては生ビール飲んだね、母さん?」
「一杯だけよ、一杯だけ~」
頬も赤く既にヘロヘロになっている。音依はワインやカクテルなどは平気なのだが、不思議に生ビールだけには少量でも酔うおかしな体質の持ち主なのである。それを知らないカタバミ会の誰かが勧めてきたらしいのだが雰囲気で断れなかったらしい。
「会の接待役続けられる?」
「大丈ヴイ!」
満面の笑みでVサインを親父ギャグで出している所がもう既に大丈夫ではない。ただ、朝妃がサポートしてくれているので座敷は任せるしかなかった。
「すみません、母が、もう」
キッチンに戻りパスタをトングで盛り付けながら吉継が気恥ずかしそうに武田たちに謝った。
「アハハ、お酒で陽気なのもおねさんらしいよ」
「いつも会の接待役を張り切ってくれるのはいいんですけど、たまにああしてハジけてしまうので」
「関ヶ原ビンゴ大会開始~!イエーイ!」と大盛り上がりにはしゃぐ音依を吉継は遠目で呆れて見た。
「でも、おねさんの溢れるアイデアはもはや才能だと思うけど。関ヶ原ビンゴも東西ジャンケンも皆楽しそうにやってるよ」
濃緑に絡んだ四万十海苔と白く揚がった白魚のベニエが乗っている菜の花パスタを食しながら信義は語った。
ちなみに関ヶ原ビンゴとは、ルールは変わらないが、カードが数字の代わりに関ヶ原合戦参戦武将の名が書いてある音依のオリジナルで、ネットからダウンロードしたテンプレートに手を加えて作っている。
好きな武将の名前がクジで挙がると一喜一憂するので会でのファンは多い。
また東西ジャンケンとはグー・チョキ・パーの指の形を変えた物で、グーは握った拳の中指だけ少し突き出す。これは種子島銃の弾丸を弾く家康の南蛮甲冑を意味し、チョキは親指と人差し指を立てた鉄砲の形、そしてパーは握り拳の人差し指だけ真っ直ぐ伸ばす。これは槍を意味している。南蛮甲冑は鉄砲に勝ち、近接戦の槍は甲冑に勝ち、遠距離攻撃の鉄砲は槍に勝つというこれまた音依が考案した遊びである。
そして掛け声も独特で、丁度ビンゴが二人同時に揃ったのか、カタバミ会の男女二人が東西ジャンケンに挑もうとしていた。
「はい、いいですか~」
音依が開始の調子を歌った。
「関ヶ原~、関ヶ原~、三成、家康、ヨヨイノヨイ」
女性は甲冑、男性は鉄砲で女性に軍配が上がったようである。
「はーい、ビンゴ景品の一位にはこの盛親ちゃんの水彩画色紙。二位には垂井『勲玉』、後は参加賞のひすとり庵特製『クラストラスク』を一袋ずつプレゼントでーす!」
わーッと拍手喝采で盛り上がる一同を見て信義は升酒を追加して感心した。
「相変わらず上手いものだね、おねさんの水彩画は」
甲冑姿の盛親の絵は素人とは思えない程生き生きと色彩豊かに描かれていた。
「ネーミングセンスの無さだけを除けば母さんは完璧超人ですからね。あの発想力はとても真似出来ません。勲玉もクラストラスクもそうですけど」
「垂井慈鶏園の卵を使った燻製卵かい?」
ええ、と頷いて吉継は言った。
「盛親が陣を布いたのは関ヶ原でなく垂井南宮山の南。南宮大社は神武天皇が東征した時、金鵄(きんし)を遣わせ、そのまばゆい光の目くらましのおかげで敵に勝利した。その逸話が後に金鵄勲章として使われた。勲章と燻製をかけて『勲玉』よ、なんて説明をされましたけど、そんな趣向は母さん以外誰も思い付かないでしょう」
「ラスクもそうだね。朝のモーニングセットで余ったサンドイッチのクラスト(耳)。それをチョコとハーブで二種のラスクに仕上げるなんて大した着眼だよ」
「あれはゴミを減らす結果らしいです。何せ野菜屑で簡単にフレンチの一皿を作り上げるくらいですから。ビンゴの景品もそうです。水彩画にしろ勳玉にしろ少額に抑えられていますし。日本中の市場や魚河岸にも顔が利くのは母さんくらいでしょう。訳あり食材を半値で仕入れるから料理も安く提供出来る。商才でもとても敵いません」
弟子が師匠を超えたいと願うのは世の常である。羨ましそうな視線で母を見る吉継に信義はポケットから志と書かれた封筒を取り出して渡した。
「はい、これ。ヨシ君の商才もなかなかのものだと思うよ」
「え、何です?」
裏を見ると三千円とペンで記してあった。
「早いけど今日の料理のチップ」
「おわああ、ありがとうございます。感謝感激です!!でも、いいんですか、こんなに」
「この前はおねさんに減額されちゃったからね」
「くーッ、武田大明神として奉りますよ、俺は」
「何ですか、社長?」
吉継から手を合わせられた信義に隣の景臣はその理由を尋ねてきた。信義は吉継が案出した新しいメニューを認められると小遣いが上がるこの家の制度を教えた。
「あはは、料理が玄人はだしでもそういう所はやはり子供ですね」
大笑いする景臣は大分酔っているようで、パスタのフォークを持つ手もどことなく泳いでいるように見える。
そんな部下を横目に信義はドリンクメニューを吉継に示した。
「そういえば、さっき朝妃さんが話していた土佐カクテルってこの『一領金波(いちりょうきんぱ)』かい?何か人気みたいだけど」
写真には泡立つ薄い金色のカクテルが載っている。
「ええ。ビールベースのカクテルで甘くて飲みやすいんです。ホップの苦さが苦手な人にも好評ですよ。特に最近の二十代のお客さんは男女関係なくこのタイプのカクテルをオーダーする数が増えていますね」
「そうかあ、ビールが嫌いな若者が多いってニュースでもやっていたものなあ。時代の流れってヤツなんだろうね」
「こればかりは好みですから。ビールベースではジンジャーエールで割った『シャンデーガフ』や、レモンソーダで割った『パナシェ』、トマトジュースで割った『レッドアイ』も好まれていますが、柚子が出回っている時期ではこの一領金波の生果汁タイプが一番人気です」
「では私はそれを一杯貰います」
と、景臣が手を挙げた。
「おいおい、上杉君、大丈夫かい。大分回っているけど」
「平気ですよ、社長。未だこれだけしか飲んでいないですから」
よく見ると追加追加でもう三本も空けていた。それでも景臣は押し通した。
「それに歳と性別で余所ではなかなかカクテルなんて頼めるチャンスもなかったですから。前から興味はあったんですよ。だからオーダーを」
「分かった、分かった。じゃあ、もう今日はそれで最後に。ヨシ君、私にも一杯頼むよ。おっと、朝妃さんは忙しそうだね」
会のドリンク注文が多いのか、手が離せず未だあちこちと立ち回っている。
「大丈夫ですよ、武田さん。それならここで作れますから」
「え、ヨシ君が?」
「少々お待ち下さいね。先にガーニッシュ(カクテルの飾り)を仕上げます」
吉継はフルーツナイフで器用に柚子の皮を細くカットし、それをハートの形に整えると、マラスキーノチェリーにそれを差し込み、マドラー代わりのストローの途中にそれを飾り付け、瓶ビールからピルスナーグラスに泡を壊さないように半分静かに注いだ。それからソーダを半分注いでストローをドリンクに差し入れ、七つ酢漿草(カタバミ)の家紋コースターの上に置いた。
「お待たせしました。長宗我部盛親のオリジナルカクテル『一領金波』生タイプです。最後に柚子の絞り汁を好みの分量だけ混ぜて下さい」
吉継はカクテルと同時に二つにカットして、絞りやすいように実に切り込みを入れた柚子とスクイーザー(レモン絞り器)を二つ差し出した。
「へえ、自分で絞るのかい、面白いね」
「出来合いの瓶の果汁でなく、生の絞りたてですから風味もフレッシュなんです。これも人気の一つです」
「ほう、これは絞る時に柑橘の良い香りも漂うねえ」と景臣は気に入って早速絞り汁をカクテルに入れてストローで混ぜてグラスを傾けた。
「くはあー、これはいい!もはやビールとは違うけどさっぱり甘い。人気があるのもうなずけるよ。病みつきになりそうだ」
「ふむ、上杉君の言う通り、確かに口当たりも爽やかだ」
信義は半分飲んだカクテルを眺め、しみじみと思い浮かんだ情景を語った。
「しかし一領金波とはよく名付けたものだね。死生知らずの野武士なりと有名な土佐の下級兵である一領具足が活躍し、四国の覇者となった長宗我部元親。彼の本拠地であった浦戸城に映える土佐の海はまさにこのカクテルの如く金色の波が輝いて見えただろう。だが、跡継ぎの盛親は関ヶ原で敗れ、所領は全て没収。波は打ってまた引いていく。金波とは美しいが長宗我部家の無常を感じるね」
「そうです。そのカクテルの名付け親の父さんも同じ風に語ってました。ガーニッシュのサクランボの赤は沈みゆく夕暮れの太陽だって」
「じゃあこのピールのハート型はカタバミの形だね。長宗我部の家紋の」
「はい。子孫が繁栄する縁起の良い植物です。この辺りでは見慣れませんが高知では有名な紋ですよ。母さんはその形から『長宗我部ハート❤盛り盛り』とか変な名前をこのカクテルに付けようとしてましたからね」
「………相変わらずおねさんのセンスは独特だね」
「そういえば長宗我部は岐阜とも深い縁がありますから、このカクテルには父さんも思い入れがあるみたいです」
「うん、元親の母も妻も美濃の斎藤氏だからね。つまり盛親にとっても母親が斎藤になる。しかし、その斉藤家の血筋は明智光秀に繋がっていて、光秀は信長の四国侵攻を巡って対立し、やがて本能寺の変を起こしたとする新説も近年唱えられたね」
「さすが関ヶ原街角案内ボランティアガイドを兼任している武田さん。お詳しい」
関ヶ原では駅前観光交流館を拠点として観光客に道案内をするガイドを春から秋の間常駐させている。信義は協会の中でもトップクラスの歴史知識を有していた。主な業務が施設内においての案内係であるので、史跡の場所さえ分かっていれば事足りるのだが、それでは遠方から楽しみに訪れたお客さんに申し訳ないと猛烈に戦国史を学んだ。それゆえに関ヶ原に関する武将の知識のみならず、戦国から幕末までの造詣も深く、観光に訪れた人から何か尋ねられたら即座に蘊蓄を披露するまでになっていた。
「休みの日だけ、ね。ヨシ君は中学生になったら夏休みにガイド体験をするの?協会の方は募集しているけど」
「いえいえ、店の手伝いもありますし、何より名前がちょっと」
「ああ、観光客にからかわれちゃうか」
「ん、からかわれるってどういう事です、社長」
景臣がその意味を問い質した。
「ヨシ君の苗字は小早川なんだ」
「え、あの小早川秀秋の?」
「あんな裏切り者とは一切関係ありませんけどね、ウチは!!」
吉継は力を入れて即座に否定した。
【おい、主、本人を前にしてその口舌はなかろう】
胸元の金吾が不機嫌に割り込んできた。
吉継は額に青筋を立てて返した。
【黙れ、この酒乱】
【何を申す。未だビールを一瓶空けたのみじゃ】
【こら、やっぱり上杉さんの酒の減りはてめえのせいか!】
「………あの、ヨシ君、平気かい?」
胸ポケットを見続けている吉継を心配して信義は声を掛けてきた。
「あ、いや、何でもありません。それよりこの盛親のカクテルですが、柚子以外で欠かせない物があるんです」
「おや、ソーダとビールと柚子果汁の他に何か入ってたかな」
グラスの中を確認する信義に「これです」と吉継はとあるメーカーの瓶ビールを置いた。
キリンのラガービールである。
「ラガーが?」
「いえ、酒の銘柄でなくポイントはラベルデザインです」
「ああ、麒麟だよね。空想上の動物で霊獣とされている」
「ええ、父さんが教えてくれたんですけど、実はキリンビールの前身であったジャパンブルワリーカンパニーの重役をしていたのがトーマス・グラバーなんです。その時代に創られたのがこの麒麟のデザインで」
「グラバー?あの幕末に暗躍したスコットランドの貿易商?」
「そうです。そのグラバーと繋がりがあったのが坂本龍馬です。この麒麟のデザインの基となったのは狛犬だとか太宰府天満宮にある麒麟の像だとか説が色々あるんですが、龍馬の名前から連想されたという伝説もあるんです」
「あー、なるほど。そういう関連性か」
「どういう関連性です?」
ここで景臣が首を傾げた。二人の応酬がさっぱり理解出来ない。
信義は言った。
「上杉君はグラバーの名前くらい知っているだろう」
「長崎のグラバー園のですよね」
「おは、よう、大谷さん」
武美の要請通り、進展させなければならない吉継はファーストコンタクトとしてぎこちなく挨拶をしてみた。
「………」
しかし、予想通り返答がないばかりか振り向いてももらえない。昨日の傘の一件も聞き出したかったのだが、それ以前の問題である。こりゃ前途多難だなと眉を集めて吉継が前を向くと、クラス中から不可解な視線を送られた。
すると長月が高速で近寄ってきて耳元でささやいた。
「ちょっと何でヨシが挨拶してるの?」
ここで吉継はピンと悟った。クラス全員が秀晶を無視しているのに何故敢えて関与するのかとの苛立ちの空気が流れている。
換言すれば「裏切り者は敵」との怒りでもある。
所詮少数派は多数派には勝てない。団体の中で生存するには「寄らば大樹の陰」的な生き方をするのが楽なのは吉継も知っている。それでも武美の言う通りこのまま歪な人間関係を放置しておくのも釈然としない。
そのため吉継の返答は小声になった。
「少し訳ありでな」
「まさか、テンムちゃん絡みなの?」
長月は小さく核心を突いた。鋭い嗅覚に吉継は肯定的な言葉を選んだ。
「ま、色々とな」
「それでも関わっちゃダメだって。ヨシも巻き添え食うから」
心配そうな声色で長月は警告した。別に徒党を組んで秀晶をイジメようと決めたのではないだろうが、敵を一人に絞る事でクラスには変な団結心が生まれていた。
その敵にコンタクトを試みようとするなら変心したとも捉えられかねない。
手助けの事情を探知した長月だけは敵に回る事もないであろうが、クラス全体となれば多勢に無勢でリスキーな行為となる。
今なら無責任に降りる事も出来るのだが、金吾との協定もあるし、何より武美の依頼を無碍に断るのも憚られた。
「サンキュ。気を付けるよ」
平然と吉継は一時限目の国語の教科書とノートを机の上に並べた。
チャイムが鳴るとブツブツ不平を口にしながら長月は席へ戻った。
【おい、主、大谷娘の足下を見よや】
授業が始まって五分くらいしてから金吾が何かに感付いたのか不意に話し掛けてきた。
【足?】
その言葉通りに秀晶の机の下の足を垣間見ると生徒規定の上履きでなく教員用のスリッパを履いている。
(これは悪循環のパターンだな)
傘といい、上履きといい何が起きてきたのか想像するに難くない。
このような実力行使に出られたら事態が収拾困難になる。
傷も軽傷の内に治療しなければ手遅れになるのと同じで、まして五年生のクラスはそのままクラス替えもなく六年に繰り上がるから後二月の辛抱という解決策では済まず、イジメが反抗を増し更にイジメが強固になる。
負のスパイラル現象はどこかで食い止めなければならない。
何かのきっかけがあればと吉継が思案していると、朗読の順番が秀晶になった。
秀晶は教科書を開けて立ち上がったのだが、慣れないスリッパで足がもつれ、ノートや筆入れなど机の上の文具一式が床にバラバラと落ちた。
いい気味と皆から嘲笑される中、秀晶はそれを慌てて拾いにかかった。
すると開いていた黒猫のイラストが描かれたピンク生地の筒状ソフトペンケースから二つの消しゴムが吉継の足下に転げ落ちてきた。
吉継は反射的にその二個を拾い上げた。
見れば両方とも透明フィルムが巻かれたままの新品のトンボ社製MONO消しゴムである。
青白黒の三色帯のスリーブケースは特許庁にも認められた程メジャーになっていて、上からPLASTIC ERASERと書かれた青色帯と白い帯の中央には黒くMONOのゴシック文字が、そして下の黒帯にはトンボのロゴマークとTOMBOWの文字が白抜きされている。
生徒の消しゴムの使用率はキャラクター消しゴムでなければ大抵MONO消しゴムと断じて良い。
逆に言えば珍しくも何ともないのだが、吉継はその二つの消しゴムから何やら奇異な感じを受けた。
ところが、
「なぶるな(触るな)!!」
ビリビリと耳をつんざくような大声を張り上げ秀晶はその消しゴムを吉継の掌から奪い取った。
呆然となる吉継とクラスに武美も、「どうかしたの、大谷さん、大丈夫?」と案じた。
「何でもありません。お騒がせしました」
消しゴムをペンケースに戻すと秀晶は冷静沈着な面持ちになって朗読を始めた。
(………何だ、この妙な感じは)
吉継は滔々と本を読む秀晶の机を見た。
ペンケースの中には先程の新品の大小MONO消し二個と使い差しの他メーカーの消しゴムが入っている。
予備にとはいえ、消しゴムを三個も所持しているのは見掛けた事がない。
収集するにしても普通キャラクター版か、変わった形の物を集めるだろう。
それに消しゴムを取った掌に言い様もない違和感があった。また一瞬だったのだが、単なるMONO消しゴムではないような不自然な感じが拭えない。
(まさか………いやさすがにそれはないだろう)
吉継の脳裏にとある推考が頭を過ぎったが直ぐに打ち消した。
それよりこの強情な隣席の住人と、七日後に控えたカタバミ会の料理の内容を何とかせねばと思いを巡らせた。
それから土日を挟んだ翌月曜、吉継は懲りずに秀晶に挨拶をしたり、体育の時間に積極的にペアを申し込んだりした。それは結局悉く無視されるか拒否されたのだが、それでも吉継は諦めずに秀晶に接触を試みた。
次の日もその翌日も何とか少しの遣り取りだけでも成し遂げようと骨を折ったのだが、どれも不首尾に終わった。
見えない壁で阻んでいる頑なさはもはや異常である。
吉継は武美と金吾の頼みとはいえ、もう無理かなと半ば音を上げそうになっていた。
しかし、その翌日の放課後、遂に風向きが変わった。
副担任の柴田から図工室の後片付けを頼まれた吉継は思いも寄らない時間を取られ、急いで帰宅しようと教室へランリュックを取りに戻った。
その時である。
普通なら皆とっくに家に帰っている夕刻遅くに秀晶が一人薄暗い教室に残っていた。
それもロッカーや机の下など、フローリングにも這いつくばり、必死な形相をして何かを探しているようで吉継にも気付いていなかった。
「何か捜し物?」
吉継が近寄って声を掛けるとギョッと秀晶が飛び上がった。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
どうせまた無視されるだけだと吉継はロッカーからリュックを取り出し肩に掛けその場を去ろうとした。
「………筆入れ」
「は?」
久しぶりに耳にした正常の声が微かな呟きであった。
「………私の筆入れ知らない?大事な物なの」
必死に小声を絞り出した秀晶は、暗がりの中でハッキリしなかったが涙ぐんでいるように見えた。散々無視してきた相手に助けを求めるのは癪なのだろうが、それでも敢えて尋ねてきたのは余程大切な物に違いない。
吉継は聞いた。
「黒猫の絵のヤツ?」
「ん…」
小さく秀晶は頷いた。
「無くなった時間は?」
「今日の昼休みまではあった」
「じゃあ給食の後か」
吉継はリュックを下ろし教室の床を見渡した。落ちていないならば誰かが故意に隠したのだろう。悪戯も積み重なると段々陰湿になってくる。
吉継は苛められていた自分の過去を思い出した。そして無性に腹が立ってきて、絶対見付けてやると意地になった。
「もうゴミで捨てられたのかな………」
秀晶は最悪の状況を思い浮かべ落ち込んだ。
吉継は木製シェードに囲われた蛍光灯のスイッチを付けて断言した。
「大丈夫、必ず見付ける」
その言葉に秀晶は何かボソボソと口を動かしたが、どこにあるんだと推測中の吉継には聞こえなかった。
それから三十分も経った頃だろうか、目視出来る場所は全て探し尽くしたが全く発見出来る気配もない。秀晶はやがて諦めてリュックに手を掛けた。
「もういい、帰る」
すると電気を消して立ち去ろうとする秀晶の腕を吉継は取った。
「もう五分だけ探させてほしい」
「いいよ、もう。もうどうなってもいい。私なんて」
この時吉継は残照にぼやける秀晶の寂しそうな憂い顔を見逃さなかった。
父親が亡くなり、母親は昼夜交替の病院勤めで不在が多い。見知らぬ土地に転校してきて家には独りぼっち。反感を持たれたのは秀晶が原因なのだろうが、味方がいないのはどれだけ心細いだろう。
吉継は更に喪失感に満ちた秀晶と、捨て鉢になっていた過去の自分が重なり合った。しかし自分には優しい父母がいつもそばにいてくれた。
それに比べ秀晶の不安や孤独はもっと深い。自暴自棄なのも、孤立しているのも光明を求めている裏返しの表現なのではないか。
吉継は「もう少しだけ」と躍起になって懸命に探した。
するとここで「あ」と閃いた。
(もしかしてアイツが隠したならあそこにあるかも)
吉継は教卓の下に潜って裏側を見た。
「あった!大谷さん、見付けた!」
予想通り筆入れは木製教卓の裏側にガムテープで貼り付けてあった。吉継はそれを静かに剥がすと、待ち構えていた秀晶に手渡した。
秀晶は急いでジッパーを開け中身を確認した。そして例の二つのMONO消しゴムを感極まった両掌で優しく覆い、ポツリポツリとか細い声で呟いた。
「ギョ、ウブゴ、スケ、良かった」
「………何?」
呪文のような聞き慣れない言葉に吉継は尋ねた。しかし「何でもない」と秀晶はさっと消しゴムを筆入れに戻した。
「でもよっぽどその消しゴムに思い入れがあるんだね」
人助けを達成した吉継は軽い笑みを浮かべ、白く汚れた制服の埃を払った。
秀晶は頷いて聞いた。
「でも、小早川君にはどうして隠し場所が分かったの?こんな所絶対思い付かないけど」
「それは、うん、そう、第六感かな」
吉継には犯人に目星が付いていた。クラスメートの一人である。だが、まさか名を明かす訳にはいかない。そのため曖昧な返答になった。
だが、秀晶はそれを誤解して突如睨んできた。
「まさかこれ、あなたが隠したんじゃないでしょうね」
「え、いやそれは」
「なんで誤魔化すの」
「………いや、別にそんなつもりは」
「さては私の傘を壊したのも、上履きを隠したのもあなたね!」
「いや、それは違………」
「私に近付いてきたのだってどうせ最後には全員で笑い者にする算段だったんでしょう。私も随分とコケにされたものね」
弁解すらまともに取り合おうともしないで筆入れをリュックに片付けると秀晶はくるりとドアに向いた。
「ちょっ、大谷さん、待っ………」
と吉継がその肩に手を掛けると、秀晶は振り向きざま握り拳を振り上げると手加減無く思い切り吉継の顔を殴った。
「がはッ」
左頬にクリーンヒットして倒れ込む吉継に秀晶は言い捨てた。
「やっぱり裏切り者の小早川は大嫌い!」
「ヨシ、どうしたの、それ?」
翌朝、大きめの湿布を頬に貼って登校してきた吉継に長月が寄ってきた。
真央や汐恩も何事という不可解な案じ顔で歩んできた。
「ああ、昨日の夜寝ぼけて部屋の机の角にぶつけた」
チラっと隣席を見るが秀晶は相変わらず能面を崩していなかった。ただ、殴った右手の指関節にはいくつか絆創膏が貼り付けてあった。
「あはは、ヨシらしいドジね」
「からかうなよ、真央。誰にだってこういう失敗はあるさ」
吉継はランリュックを開けて自嘲気味に笑った。
「あ、そうだ。今、汐恩に試食してもらいたいのがあるんだけどいいか」
「私に?」
唐突な吉継の提案に訝しげに汐恩は聞いた。
「あー、ずるい、汐恩だけ」
試食と耳にして長月と真央は揃って文句を連ねた。
吉継は、
「先ずは汐恩にな。それから二人にも食べてもらうから」
と封筒に入った付箋に似た紙の束を汐恩に手渡した。
「食べるって、これは紙ではありません?」
「可食シートって食べられる紙なんだ。インクもそれ専用でさ。ウチの店で菓子とか料理の飾り付けに使おうかと思って」
「そうですか?あ………」
汐恩はその紙に何か小さな文字が印刷されているのを発見した。そして急に心得顔に変えて一枚ペロリと舌に乗せた。
「早く溶けるんですね。でもこれは大勢に意見を求められた方がよろしいのでは?」
「ああ、本当にそうだ。それに出来れば早く食べてもらいたい」
「分かりました。私が責任を持って四時限目が終わるまでには配っておきます」
「助かるよ」
「これは貸しにしておきますね、コバ君」
ニコリと汐恩は小悪魔的な笑みを浮かべ、秀晶の手を見てから、次いで吉継の湿布を指で軽く突いた。
「いてて、何をする」
「それに嘘ならもっとお上手に」
「な、何の話だ」
「さあ、何の話でしょうね」
汐恩は再び微笑すると早速皆にその紙片を小声で配っていった。
(あいつ、絶対将来日本を裏から牛耳りそうだな)
吉継は頼もしくも末恐ろしい汐恩に目を向けて苦笑した。
それから放課後のチャイムが鳴り、クラスの皆は各自スマホを見たりカードで遊んだりしていた。
吉継も三大や左人志と給食の献立の話題で盛り上がっていた。
秀晶はそんな皆に目もくれずさっさと荷物を持って教室から一人出て行った。
吉継は急に廊下に走って秀晶の姿を確認した。
足が速いのかもう消えていた。
そして教室の扉を閉めると吉継は教壇に立った。
皆は静かに前を向いた。
「ヨシ、あのオブラートみたいな紙に書いてあった話って何だ?」
戸田重成が椅子を揺らしながら切り出した。
吉継が汐恩に配ってもらった可食シートには「今日の放課後重要な話あり。大谷さん以外は全員残って。小早川吉継」との印刷がされていた。LINEでもよかったのだが、必ず読むとは限らないし、ログが残ると面倒にもなりかねない。その点、可食シートであれば証拠も残らないし、汐恩が細かく説明してくれたようで、皆はそれを理解し隠滅してくれた。
「えっと、みんな、大谷さんと敵対しないでもっとうまく付き合ってくれないかな。それと………」
吉継は真面目に話し始めた。すると、
「おい、ヨシ。お前、裏切る気か!?」
浮田修(おさむ)が言葉を遮り机を叩いて叫んだ。
「そうよ、最近、コバ君、あんな子と親しくしようとして!」
池田愛輝(あき)も追従して怒りを露わにした。
そうすると皆の不平不満が次々と爆発して収拾がつかなくなった。
この大揉めは吉継の予想の範疇とはいえ、まるで自分が集中砲火を浴びているようで喉も渇き鼓動も早くなる。
【主、よければ吾がこの場を収めるが】
金吾が胸元から心配して提案してきた。
【いや、ここは俺がやる】
折れそうになる心を奮い立たせた吉継は深呼吸をして黒板に向いた。
そしていきなり爪を立てて黒板を引っ掻いた。
キキイという耳障りな音が鳴り響き皆は思わず耳を塞いだ。
「な、何をする、ヨシ?」
三大が歪んだ口で咎めた。
「皆さん、お静かに」
ここで汐恩が立ち上がって騒ぎを制した。
「コバ君には何か別の発言があるようです。一応最後まで伺いましょう」
さすが色々と察してくれているようで吉継は礼の笑みを汐恩に向けてから話を再開した。
「実は立て続けに大谷さんの持ち物に悪戯がされている。傘が壊され、上履きが盗まれた。そして昨日は筆入れが隠された」
シンと教室が静まった。
「俺は別に犯人を暴こうとしてるんじゃない。それに反抗的な態度を取る大谷さんにも非はあると思う。でも隠したり盗んだりする物理的なイジメは止めて欲しい。物がなくなるのは精神的にもこたえるんだ」
吉継は間を置いて目を伏せささめいた。
「経験した俺にはよく分かる」
過去に小早川の姓でイジメにあっていた吉継の言葉には重みがあった。かつての実行犯であったクラスの数人はバツ悪く視線を背けた。
「それにこういうのが続くと多分マズイ流れになると思う」
「マズイ流れって?」
元が聞いた。吉継は室内掲示板に目を向けた。
「明日の土曜は授業参観だ。授業が終わったら父兄が集まっての懇談会がある。もし大谷さんが親にいじめを告げていたら、親はそれをその場で騒ぎ立てるかもしれない。他の父兄も黙っちゃいないだろう。だったらその時テンムちゃんはどうなると思う、元?」
「………親から攻撃の的になるね、きっと」
楽観的な憶測を差し引いてもその可能性は高い。まさか自分たちの態度が担任まで巻き込む騒動になるとは思いもしなかった。
武美は校内でも優しくて人気のある教師である。そんな担任まで困らせると気付いた元はしょげた肩を落とした。
「それだけじゃない。みんなにも手は伸びる。この学校はイジメに対して撲滅運動をしているから徹底して個別に調査される。場合によっては教育委員が出張ってきたり、親の呼び出しもあるだろうな」
さあっとクラスメートの額が青くなった。
「別に大谷さんと無理に仲良くしろとは言わない。挨拶だってしたくなければしなくていい。無視したければそうすればいい。でも物に罪はないんだ。そこを理解してほしい」
吉継は頭を垂れた。
「話はそれで終わりか、ヨシ?」
三大が一本調子な声で確認した。
「ああ」
「じゃ、俺、塾があるから帰るな」
三大は無表情にランリュックを持つとそそくさと教室を出て行った。続くように皆もクラスをぞろぞろ後にし、殆どの生徒がいなくなった。
現状では皆が納得してくれたのか分からない。それでもやるべき事はやったと自分に言い聞かせた吉継は次いで教室を出ようとする長月を呼び止めた。
「クロ、ちょっといいか?」
「………何?」
そうしてクラスには吉継と長月だけが残った。ところが吉継は無言でじっと長月を見つめるだけで何もアクションを起こさない。
「何?」
長月は苛立った声を出した。
やっと吉継は切り出した。
「昔、俺はお前に何度も救われた。いじめられていた俺を見捨てなかったのはお前だけだ。だから俺はクロに感謝してる」
「え、何、急に?」
妙に落ち着かずに足を揺する長月は返答の声もたどたどしかった。
吉継はきっぱりと直言した。
「だからこれ以上お前には大谷さんイジメに荷担してほしくない」
「な、何の事か分からないよ」
「とぼけても無駄だ。傘と上履きは知らないが、筆入れの単語でお前は少し反応した。それに昔、遊びで探索ゲームをした時、お前は必ず教卓の裏に隠した。決まった癖だな」
カッと長月の気色が変わった。
「私がやったって証拠は………」
「勘違いするな。俺は怒っても責めてもいない」
吉継は長月の頭にポンと手を置いた。
「ただ、イジメの辛さを知っているクロだけにはもう止めてほしいんだ。頼むよ」
「………だってあの子が悪いんだよ」
長月が訥々と話し始めた。
「あの子がヨシの親切をいつも無視してるからさ。それにあの子私のこれをキモイって馬鹿にしたんだよ」
長月は藤の花のジッパーチャームを手に握って目を閉じた。
「これヨシがお祭りの時に輪投げで取ってくれたものだから余計に許せなくて」
「ん?話に脈絡がないな。大谷さんが前触れもなくそのアクセを馬鹿にしたのか?」
「………」
「クロ!」
「いつまでも調子に乗るなってこのカード見せた」
長月はタロットの「塔」のカードをめくった。
それは落雷で壊れ二人の人間が墜落するバベルの塔が描かれたカードであった。
見たまま「災難」や「転落」の不吉なイメージを宿している。
「はー、それはクロが悪い。大谷さんも言い返して当然だ」
「えー、だって」
「だっては無し。さ、遅くなったしそろそろ帰るか」
「そうだね………いや、待って、ヨシ」
と、ここで何故か長月は顔を強ばらせ唐突に吉継の袖を引っ張り、
「誰?誰かそこにいるの!?」
と無人の扉に向かって声を張り上げた。
「どうした?誰もいないぞ」
吉継はドアに近付いて周りを見渡したが生徒も教師も見えなかった。
「ううん、間違いなく今誰かの気配がした。私の女神アンテナがビビッと反応したもん」
「………お前はまたそういう厨二を発動するのな。まあいい、今日はマジもう帰らないと」
小走りになる吉継を長月は追った。
「なんで急いでいるの?」
「例の土佐の飲み会があるから」
「ああ、アレ今日だっけ」
息を切らして二人は会話した。
「ならメニュー決まったんだ」
「まあな。結構自信ある」
すると昇降口に差し掛かった時、二人の前に一人の大柄な生徒がぬっと現れた。
「ヨシ、待ってたぞ」
吉継と同じくらい背の高いその男子は吉継を柱に追いやって筋肉質の片手を柱に突いた。クラスメートの平塚義博である。
ソフトモヒカンの髪型のイメージ通り厳ついガキ大将である。
「おい、今日のは何だ、一体?」
どうやらさっきの会合に納得がいっていないようで、牙が突き出た赤鬼が刺繍された巾着袋を肩に背負い、三角の目で凄んでくる。
「ツカ、悪いけど文句なら明日な」
急いでいるんだと吉継は後ずさりして小さく降参の手を上げたが話を聞いてくれない。
「いいか、俺は裏切りは絶対許さない。寝返りは人間のクズだ」
「そ、そうだな」
「大体お前の苗字には反吐が出る」
そりゃあそうだろうと吉継は苦く思った。
関ヶ原合戦の時、小早川秀秋の裏切りに最後まで奮闘したのは大谷吉継だけではない。平塚為広と戸田重政の両大名も大谷軍の寄騎として戦い命を落としている。
特に平塚為広は大谷吉継と辞世の句を遣り取りした程の盟友でもあったから、その苗字を持つ義博が小早川の苗字を嫌うのは無理からぬ事であった。
「けど、ヨシ、お前の名前の方は良い。それは認める」
「………まさか、そのためだけに待ってたのか?」
「たわけ、俺はそんな暇人じゃないわ。そら、これを受け取れ」
義博は巾着袋から膨らんだビニール大袋を取り出し、それを吉継に差し出した。
中を見ると酸味漂う黄色い球体がぎっしり詰まっていた。
「親戚のじいちゃんが山ほど送ってくれた柚子(ゆず)だ。お前の店で使え」
「どうして俺に?」
「この前、風邪で休んだ時、お前家にプリント届けてくれたろ。その礼だ」
「いや、あれはテンムちゃんのお願いだから」
「いいや、どんな理由にしろ恩を受けたら義理を返すのがウチの家訓だからな。じゃあな、これで借りは返したぞ」
渡すだけ渡して義博はズカズカ足音を響かせながら帰っていった。
今日日、家訓も無かろうが義理堅い奴だ、と笑いながらも吉継は安堵して長月に片笑んだ。
「どうやらお前の感じた気配はツカだったみたいだな」
「やあ、今晩も盛況だね、ヨシ君」
石材会社の次期社長の武田信義がひすとり庵のスライド扉にかかっている、屋号が白く染め抜かれた赤い暖簾を潜って現れた。
外まで笑い声や大きな歓声が漏れていたようで些か遠慮がちである。
次期社長の肩書きであっても殆ど社長と大差ない働きをしているため、社員からは社長と呼ばれている。
キッチンで燻製ナッツサラダにドレッシングをかけながら吉継は挨拶した。
「あ、武田さん。いらっしゃい」
「もしかして貸し切りだったかな」
「いえ、それは奥座敷だけです。カウンターは空いてますからどうぞ」
カウンター席に座るなり信義は奥でわいわい盛り上がっている一団に目をやった。
隙間が空いた竹の屏風越しにもその賑わしさが見て取れた。
様々な年齢層の男女が混ざって二十人はいるだろうか、囲炉裏に備えられた大鍋から何かをすくったり、皿の料理を平らげたり、ワイングラスを傾けたり、史談に興じたり、大騒ぎとなっていた。
「また一段と賑やかだね」
いつもの酒盛り以上の賑々しさに信義は笑った。
「今日は『カタバミ会』、全国から訪れた長宗我部盛親好きの、ファンの集いです」
「元親でなく盛親か。それは通だね」
「関ヶ原ですから」
「なるほど。で、長宗我部ならもしや今日は高知県の料理が出るのかい?」
吉継はひすとり庵のトレードマークになっている赤いバンダナキャップの頭を、もちろん、と縦に振った。
「ところでヨシ君、その頬は?少し腫れているみたいだけど」
「これは昨日ドジして転んだんです。さっきまで湿布を貼っていたから大分引いたんですけど、見苦しくてすみません」
「いやいや、怪我には気を付けてよ」
「ありがとうございます」
「そういえばおねさんは?」
先程よりキッチンに姿を見せていない音依を信義は目で探した。
「母さんは一晩、会の接待役です。今日は会のメインが洋風鍋なのでその鍋の世話に。それより、そちらはお連れの方ですか?」
アルマーニの細いスーツを着込んだ見慣れないサラリーマン風の新客が信義の右に黙って座っていた。三十代前半で神経質そうな細い目で吉継を観察している。
「おお、そうだ。紹介が遅れたね。三月から名古屋支社から本社に赴任してくる我が社期待のホープ、上杉景臣(かげおみ)君だ。今日は前祝いにリトルシェフのいるこの店でご馳走してあげようと思ってね。ヨシ君、これから彼をよろしく頼むよ」
「はい。こちらこそお願いします」
吉継は新参の彼にペコリと会釈したが、景臣は挨拶もせず吉継に不信感を含んだ視線を投げ掛けた。そして隣を向いて率直に意見した。
「社長、申し訳ありませんが、私にはどうしてもこの少年が店の料理を任されているとは信じられません。リトルシェフとは聞きましたが、どう見ても高々中学生でしょう」
「いや、ヨシ君は小学五年生だ」
「では十歳じゃありませんか!」
「そうだよ。でも法的には何の問題も無い。彼はこの店の子供だし、母親の、座敷で給仕してる音依さんが調理師免許を持っている」
「いえ、法律云々ではありません。子供が作る料理なんて幼稚臭くて食べれたものじゃない。よくマスコミがこの手の雑題を取り上げてますが所詮は素人。美食家の社長がお勧めだからと期待して来たんですけど、まさかこんな茶番に付き合わされるとは思いませんでした。まあ、端からこんな田舎の居酒屋に腕の立つ料理人がいるなど望んでいませんけど」
面と向かって悪態を並べた部下に信義は笑いながら吉継に詫びた。
「ヨシ君、すまないね。なにぶん彼はおべんちゃらを嫌う正直者でね。そこも私は買っているんだ」
「構いませんよ。慣れてますから」
涼しい顔で吉継はおしぼりを二つ出した。
「それで今日は何に致します?お勧めはヤガラと胡麻鯖と白魚(しらうお)ですけど」
「おッ、ヤガラがあるのかい?」
「高知で昨日獲れたばかりの赤ヤガラです。少し値は張りますがよろしければ是非。土佐の生冷酒と一緒に」
「嬉しいね。まさか関ヶ原でヤガラが食べられると思わなかったよ」
「………ヤガラって何です、社長?」
気の抜けた体で景臣が尋ねてきた。信義はスマホで写真検索してその姿を見せた。オレンジ色の細長い胴体に長いクチバシが特徴的な魚である。
「うへえ、こんなグロテスクな魚が美味いんですかね?」
不気味そうに口を歪め景臣はおしぼりで手を拭いた。
「滅多に食べれない高級魚だ。何事も見た目で判断しちゃいけないよ、上杉君」
部下の不信に息を抜いた信義はおしぼりを畳んで説いて聞かせた。
「それは小学生だから料理が拙いだなんて先入観も同じだよ。それにここのダイニングは便宜上、居酒屋とみんな気楽に呼んでるけど、フランス料理店ランクではビストロに近いんだ」
フレンチレストランの名前の格はおおよそ「カフェ(軽喫茶店)」「サロン・ド・テ(高級喫茶店)」「ブラッスリー(カジュアル飲食店)」「ビストロ(中程度料理店)」「レストラン(要正装の料理店)」「オーベルジュ(高級レベルの料理店)」「グランメゾン(三つ星クラスの超高級料理店)」の順に高級となっている。
「しかしですよ、社長」
「まあまあ、百聞は一食にしかずだ。そういえば、ヨシ君、日本酒を勧めるならヤガラは和風かな?」
「イタリアンと和食の折衷です。細工がありまして」
「楽しみだね。じゃあそれを二人前で」
「はい」と、吉継は店内で働く、音依の妹である叔母の朝妃(あさひ)に日本酒のオーダーを任せて、刺身を目の前で切り始めた。
景臣はちらと吉継を見た。そして瞬時に驚いた。
その刺身包丁の鮮やかな捌き振りはとても子供の技とは思えない。
プロの料理人の調理術は動きに無駄がなく芸術的であるとさえ評されている。
思わず身を正し、景臣は吉継の手練を凝視した。
丁寧だが手際良い動作であっという間に料理が仕上がっていく。そして円形に並べられた刺身の上に、イタリアンパセリとディルなどのミックスハーブがちりばめられ、最後にグレープシードオイルがソースでかけられた。
「お待たせしました。『赤ヤガラの和様カルパッチョ』です。お箸でどうぞ。土佐の銘酒『酔鯨・特別純米酒・絞りたて生酒』と共にお召し上がり下さい」
「おお、美しいね」
信義が刺身を一口箸で食べた。
「うーん、美味だ!素晴らしい!ほら、上杉君も」
「………ま、試しに」
上司の満足そうに食して勧める様子に景臣も恐る恐る刺身を口に運んだ。
すると、途端に口の中に鯛と鱧が溶け合ったようなヤガラのコクとペーストにしたとニンニクとグレープシードオイルの繊細なとろみが絶妙に組み合わさった。それにハーブの爽やかさが追走し後味をさっぱりとさせる。
その美味のループが止まらない。
「ああ、これは、何とも言えない!!」
人が変わったように景臣は一心不乱に短時間で一皿を食べ尽くした。
その景臣に吉継はもう一品を差し出した。
それは白い角皿に三つ並んだ、サイコロを一回り大きくした卵豆腐のようで、とろりとした橙色のソースが皿の縁に一匙分放射状に添えてある。
「これは?注文していないけど」
景臣は不可解に目を細めた。
特別サービスです、と吉継はナイフとフォークを渡して勧めた。
「そのソースをつけて召し上がって下さい。武田さんの分も用意してありますのでどうぞ」
二人は揃ってそれを口に入れた。
一噛みするとプルンとした食感に甘い野菜の味と魚の出汁がじゅわっと溢れてきた。そして同時に濃厚な卵黄に似た味が広がった。
「む!これもまた美味い!」
と景臣は瞬く間に三つの固まりを完食してしまった。そして聞いた。
「これは野菜のゼリー?」
吉継は答えた。
「はい。『アスペルジュ・ブランシュのジュレ、ソース・オヴェール・フィメーレ・ド・エトリーユ』です」
「何?」
「ホワイトアスパラガスのゼリー寄せ、渡り蟹の内子(うちこ)ソース添えです」
「ハハ、日本語でも長いね」
苦笑する景臣に代わって信義が、「ルセット(レシピ)は?」と料理法を吉継に尋ねた。
吉継は簡単に説明した。
「ヤガラのアラで出汁を取りそれを綺麗に漉(こ)してから、溶かした粉ゼラチンと粉寒天を混ぜます。そこにミキサーにかけた茹でホワイトアスパラガスと少量の塩をミックスして型に入れ、冷やし固めたのが今の料理です。ソースにはエガニの卵巣である内子を使いました」
「エガニ?」
「ノコギリガザミです。渡り蟹の別名で、高知県ではこの時期、土佐湾で獲れる雌のエガニは高級品の一つになっています」
「なるほど、内子をソースにとは考えたね。そしてヤガラの出汁を使っているから余計に美味しさが増す」
「はい。ヤガラは、刺身はもちろん、良い出汁が出る骨や頭も吸い物などに使われます。それをゼリー寄せに応用してみました」
「しかし、それだけじゃない。内子のソースも何か違うような」
「お分かりですか?」
「うーん、どこかで食べた感じがするんだけど………」
信義は腕を組んで思案してみたが解明出来なかった。暫くして参った、と信義が白旗を揚げると吉継は、答えはこれです、と一枚の乾燥昆布を見せた。
信義は直ぐにピンと来た。
「まさか内子を昆布締めにしたのかい!」
「その通りです。一時間程かけて昆布の旨味を内子に移しました。ソースはただの内子でもよかったんですが、味を濃くするにはこの方法が一番適していたので」
「なんとまあ、貪欲に思い付くものだね。さすがはひすとり庵の三枚看板の一人だ。一見シンプルだが幾つもの手間が隠れている」
吉継を高評価に褒めてから信義は皮肉の眼差しで部下を見た。
「しかし、上杉君、君も幼稚な料理をしっかりと平らげたね」
「う………」
急に恥ずかしくなった景臣はやがて吉継に向いて手を合わせた。
「子供だと侮った失言は撤回します。この二品で君の非凡な技量を充分思い知りました。謝ります、この通り!」
「やめて下さい、上杉さん。美味しいと思って頂ければそれで充分です」
「社長、彼は本当に十歳ですか?」
礼儀正しい吉継に感動して景臣は枡酒を更に飲んだ。信義はビックリしただろうと笑いつつ、カルパッチョの謎を吉継に尋ねた。
「ヤガラ自体の旨味があるとはいえ、刺身がもっと深いコクを出している。匂いにクセのあるオリーブオイルでなくグレープシードオイルにしたのもそうだけど後は何をしたんだい?これも分からない。種明かしをしてもらうと有り難いけど」
「簡単な仕掛けです。ヤガラの身に柚子の絞り汁を少量だけスプレーし、ソースとしてのグレープシードオイルの中にアルコールを飛ばした日本酒と醤油とそしてこれを少し足したんです」
と吉継は「昆布茶」の缶を前に置いた。
「昆布茶。ああ、それで和風に感じたのか」
「昆布茶は分量さえ間違えなければオイルとの相性はいいんですよ。ヤガラも内子のように材料の昆布締めでは面白くないのでわざと変化させました」
「またまたお見事!ところであっちの料理は?」
信義は奥座敷を再度覗いた。囲炉裏に備えられた大鍋の蓋からは湯気が立ち上っている。
「あれは母さんが発案した『炉端(ろばた)パエリア』です。スペインのパエリア大鍋からの着想でして」
「特注かい?初めて見たけど」
「大型の井桁五徳(いげたごとく)もそうです。最近仕入れました」
吉継は音依の書いた注文書を信義に見せた。二十人をまかなうパエリア大鍋のサイズも驚きだが、四角い格子状の囲炉裏灰に置く五徳も鍋の尺に合うよう設計してあった。
「パエリアは具材によって様々に変化がつけられますから土着の料理にアレンジしやすいんです。今日のは限定版の土佐パエリアです。具材はヤガラのアラとカサゴの切り身、長太郎貝とぶつ切りにしたエガニ、トマトとパプリカ、ニンニクのみじん切りと玉ねぎです」
「長太郎貝って?」
「高知の名産で緋扇貝(ヒオウギガイ)です。ホタテより美味しいと評判で」
「ふむ、珍しいね。あれは私達も注文出来るのかな?」
「いえ、パエリアは会の特別注文の限定品なのでまたの機会に。その代わりにこちらではパスタや握り寿司などを用意しています」
信義と景臣は示された本日のお勧めメニューボードを見た。「高知を食べよう」と記された文字の下に三つの献立が載っていた。
【ドロメのベニエと四万十川(しまんとがわ)海苔のヴェルミセル-フルール・ド・コルザ和え。室戸鯖の漬け握り寿司。室戸鯖とクルジェットとポワヴロンのマリネ】
「………詳しく説明して貰えるのかな」
ちんぷんかんぷんの献立名に景臣は頭を掻いた。
「すみません、フランス語表記は主に父さんの意向なので」
と吉継は簡単にメニューの説明をした。
「ドロメとは高知の白魚です。それを軽く燻製してからベニエ、すなわち粉を付けて揚げたものをトッピングとし、太めのスパゲティであるヴェルミチェッリに四万十川海苔で作ったソースを絡めます。それにフルール・ド・コルザ、つまり菜の花を彩りに少々和えます」
「四万十川海苔のパスタ、燻製白魚の揚げ物、菜の花和えって意味でいいのかな」
「はい」と吉継は笑顔で答えて続けた。
「握り寿司は今回仕入れた高知の鯖を使います。室戸鯖は正式名称が『室戸無神経鯖』といって室戸市のブランド胡麻鯖です」
「無神経?凄い名前だね」
「室戸沖で漁師さんが釣ったそばから血抜きをして背中の神経を針金で破壊するんです。そのために鮮度や旨味を保てるんです。中でも脂が乗ったものを選別するので注目されている胡麻鯖ですね。当店ではその胡麻鯖の切り身を燻製醤油漬けにして握ります」
「ほほう、聞いているだけでヨダレがでるよ。私はそれを一貫頂こうかな。後はビールを」
「瓶ですか?ジョッキですか?瓶でしたらアサヒ・サントリー・サッポロ・キリンなど色々なメーカーを揃えてますけど」
ドリンクメニューを見て景臣は決めた。
「では瓶のスーパードライで」
「畏まりました。武田さんは?」
「私はマルサネのロゼを頂こうか。ボトルでね」
「はい。朝妃さーん、ドライ一、マルサネロゼボトル一、カウンターにお願いします」
吉継は忙しく立ち回る叔母にビールとワインのオーダーを通した。
信義はメニューを置くと吉継に注文した。
「それで私の料理はマリネを頼むよ。ズッキーニとパプリカの。それとパスタも、それは上杉君と私の二人前で」
吉継は注文を受けるや直ぐにパスタを茹でながら胡麻鯖の切り身の皮にバーナーの炎を当て始めた。残りの日本酒を空けながら景臣は、メニューの説明無しで注文した上司に感心した。
「社長がフランス語に堪能とは知りませんでした」
「ははは、少しだけだよ。しかし、ヨシ君。高知の酒も美味しいね」
「高知はアルコール消費量がトップクラスだと母さんが教えてくれました。学校の地理ではそういうのは習いませんから」
「まあ、義務教育で呑兵衛が多い地域と白地図に記入させる訳にはいかないだろうしね」
それはそうです、と笑って吉継は炙った身を切った。
やがて朝妃がビールとボトルワインを運んできて、上司と部下のお互いが差しつ差されつグラスにビールとワインを注ぎながら痛飲していると、間もなく完成した一皿が武田の前に差し出された。
「お待たせしました。先ずは胡麻鯖のマリネからどうぞ」
マリネとは酢などの液体に食材を漬けた料理で、味や香りを高め、繊維をやわらかくする効果もある。
「ああ、この料理もカラフルだね」
グリエして一晩オリーブオイルのタレに漬け込んだ緑の輪切りズッキーニと赤と黄色のパプリカの層の上に炙り胡麻鯖の切り身が乗っている。
吉継は食べ方を示した。
「上下二層でマリネの味を変えてあります。先ずは上の鯖を半身、それから下の野菜を召し上がって下さい」
勧められるように信義はナイフとフォークで鯖と野菜を一口ずつ食べた。
「うん、いけるね」
鯖の身からはさっぱりした酢の香りと甘い柑橘の香りが立ち上った。
「へえ、白ワインの冷製マリネではないんだね」
「はい。今回は和風を意識して非加熱で仕上げました」
フランスのマリネは熱を加えるタイプと熱を加えない非加熱のタイプがある。
目的に応じてマリネは様々なバリエーションがあるのだが、加熱の場合、白ワインとワインビネガー、そして香味野菜に塩を加え沸かしたクールブイヨンで食材をゆっくり煮て冷ます。
反対に非加熱の場合は塩をして酢やオイル、香料などを組み合わせた液に漬ける。
信義は味わって材料を確かめた。
「このマリナード(マリネ液)はワインビネガーと、オリーブオイルとオレンジ、いや、高知であればこの香りはポンカンだね。それに鯖の皮は炙ってあるから香ばしい。下の野菜のマリネは、これは醤油ダレだ。でも酢が少し柔らかいような」
「そこに気付かれるとはさすがです。酢は酢でも土佐酢なんです」
「土佐酢?」と景臣が赤くなった酔顔で割って入った。吉継は答えた。
「三杯酢に鰹節の出汁を加えた酢です。普通の酢ではきつくなりやすいので、今回は野菜本来の甘さを引き出すためにオイルの量を控え敢えて土佐酢を使用しました。上は濃い目の洋風で下は薄目の和風です」
「なるほど和洋二層のマリネか。しかし、この鯖は胡麻鯖なのに適度な脂もあって身もプリプリ弾力があるね」
「新鮮な無神経鯖ならではの食感です。それに高知の清水市には『清水鯖』というブランド胡麻鯖もありますよ。こっちは出荷直前に活き締めをします。清水鯖も鯖好きの間では有名です」
と、説明を終えて吉継は漬け握りを景臣の前に二貫出した。
上にはアサツキのみじん切りと煎り胡麻が振り掛けてある。
最初の貶していた勢いはどこへやら、美味い美味いと満足げに寿司を頬張る景臣の姿に信義は笑った。
「もうすぐパスタもあがりますよ」
吉継が掛け時計で茹で時間を計っていると、離れた場所で途方に暮れた朝妃が音依を呼び、小声で何かヒソヒソと話していた。さっきから忙しなく走り回っている叔母の様子が気になって吉継は聞いた。
「どうしたの、朝妃さん?」
叔母の朝妃も音依ほどではないが整った面差しをしているものの音依の陽気さとは逆で堅物ともいえる真面目な気性をしていた。それに叔母さんと呼ばれるのをとても嫌う。眉間に皺を寄せて朝妃はカクテルのメニューをしきりに眺めた。
「それが土佐カクテルの材料が足りなくなりそうで。他のカクテルで代用しなきゃいけないかもしれないの」
「足りないのってビール?サイダー?」
「いえ、柚子が、ね。今回のカクテルが思わぬ人気で。折角皆さん楽しんで頂いてるのにホント弱ったわ」
「あ、それなら待ってて」
吉継はダッシュでキッチン奥のバックヤードへ駆けていき、間もなくビニール袋一杯の柚子を朝妃に差し出した。
「はい。これで量、足りそう?」
「あら、どうしたの、これ」
「今日たまたま同級生にもらったんだ。使ってくれって」
「グッドタイミング!もう充分すぎるわよ。助かったわ」
するとここで音依が吉継を力一杯ハグして嬉しそうに声を上げた。
「Bravo!Mon fils mignon(ブラボー!モン・フィス・ミニョン)」
万歳、私の可愛い息子というフランス語なのだが、音依がベラベラと意識無くフランス語を発するのは一つの習性がある。吉継は上機嫌な母を押し戻して問い詰めた。
「さては生ビール飲んだね、母さん?」
「一杯だけよ、一杯だけ~」
頬も赤く既にヘロヘロになっている。音依はワインやカクテルなどは平気なのだが、不思議に生ビールだけには少量でも酔うおかしな体質の持ち主なのである。それを知らないカタバミ会の誰かが勧めてきたらしいのだが雰囲気で断れなかったらしい。
「会の接待役続けられる?」
「大丈ヴイ!」
満面の笑みでVサインを親父ギャグで出している所がもう既に大丈夫ではない。ただ、朝妃がサポートしてくれているので座敷は任せるしかなかった。
「すみません、母が、もう」
キッチンに戻りパスタをトングで盛り付けながら吉継が気恥ずかしそうに武田たちに謝った。
「アハハ、お酒で陽気なのもおねさんらしいよ」
「いつも会の接待役を張り切ってくれるのはいいんですけど、たまにああしてハジけてしまうので」
「関ヶ原ビンゴ大会開始~!イエーイ!」と大盛り上がりにはしゃぐ音依を吉継は遠目で呆れて見た。
「でも、おねさんの溢れるアイデアはもはや才能だと思うけど。関ヶ原ビンゴも東西ジャンケンも皆楽しそうにやってるよ」
濃緑に絡んだ四万十海苔と白く揚がった白魚のベニエが乗っている菜の花パスタを食しながら信義は語った。
ちなみに関ヶ原ビンゴとは、ルールは変わらないが、カードが数字の代わりに関ヶ原合戦参戦武将の名が書いてある音依のオリジナルで、ネットからダウンロードしたテンプレートに手を加えて作っている。
好きな武将の名前がクジで挙がると一喜一憂するので会でのファンは多い。
また東西ジャンケンとはグー・チョキ・パーの指の形を変えた物で、グーは握った拳の中指だけ少し突き出す。これは種子島銃の弾丸を弾く家康の南蛮甲冑を意味し、チョキは親指と人差し指を立てた鉄砲の形、そしてパーは握り拳の人差し指だけ真っ直ぐ伸ばす。これは槍を意味している。南蛮甲冑は鉄砲に勝ち、近接戦の槍は甲冑に勝ち、遠距離攻撃の鉄砲は槍に勝つというこれまた音依が考案した遊びである。
そして掛け声も独特で、丁度ビンゴが二人同時に揃ったのか、カタバミ会の男女二人が東西ジャンケンに挑もうとしていた。
「はい、いいですか~」
音依が開始の調子を歌った。
「関ヶ原~、関ヶ原~、三成、家康、ヨヨイノヨイ」
女性は甲冑、男性は鉄砲で女性に軍配が上がったようである。
「はーい、ビンゴ景品の一位にはこの盛親ちゃんの水彩画色紙。二位には垂井『勲玉』、後は参加賞のひすとり庵特製『クラストラスク』を一袋ずつプレゼントでーす!」
わーッと拍手喝采で盛り上がる一同を見て信義は升酒を追加して感心した。
「相変わらず上手いものだね、おねさんの水彩画は」
甲冑姿の盛親の絵は素人とは思えない程生き生きと色彩豊かに描かれていた。
「ネーミングセンスの無さだけを除けば母さんは完璧超人ですからね。あの発想力はとても真似出来ません。勲玉もクラストラスクもそうですけど」
「垂井慈鶏園の卵を使った燻製卵かい?」
ええ、と頷いて吉継は言った。
「盛親が陣を布いたのは関ヶ原でなく垂井南宮山の南。南宮大社は神武天皇が東征した時、金鵄(きんし)を遣わせ、そのまばゆい光の目くらましのおかげで敵に勝利した。その逸話が後に金鵄勲章として使われた。勲章と燻製をかけて『勲玉』よ、なんて説明をされましたけど、そんな趣向は母さん以外誰も思い付かないでしょう」
「ラスクもそうだね。朝のモーニングセットで余ったサンドイッチのクラスト(耳)。それをチョコとハーブで二種のラスクに仕上げるなんて大した着眼だよ」
「あれはゴミを減らす結果らしいです。何せ野菜屑で簡単にフレンチの一皿を作り上げるくらいですから。ビンゴの景品もそうです。水彩画にしろ勳玉にしろ少額に抑えられていますし。日本中の市場や魚河岸にも顔が利くのは母さんくらいでしょう。訳あり食材を半値で仕入れるから料理も安く提供出来る。商才でもとても敵いません」
弟子が師匠を超えたいと願うのは世の常である。羨ましそうな視線で母を見る吉継に信義はポケットから志と書かれた封筒を取り出して渡した。
「はい、これ。ヨシ君の商才もなかなかのものだと思うよ」
「え、何です?」
裏を見ると三千円とペンで記してあった。
「早いけど今日の料理のチップ」
「おわああ、ありがとうございます。感謝感激です!!でも、いいんですか、こんなに」
「この前はおねさんに減額されちゃったからね」
「くーッ、武田大明神として奉りますよ、俺は」
「何ですか、社長?」
吉継から手を合わせられた信義に隣の景臣はその理由を尋ねてきた。信義は吉継が案出した新しいメニューを認められると小遣いが上がるこの家の制度を教えた。
「あはは、料理が玄人はだしでもそういう所はやはり子供ですね」
大笑いする景臣は大分酔っているようで、パスタのフォークを持つ手もどことなく泳いでいるように見える。
そんな部下を横目に信義はドリンクメニューを吉継に示した。
「そういえば、さっき朝妃さんが話していた土佐カクテルってこの『一領金波(いちりょうきんぱ)』かい?何か人気みたいだけど」
写真には泡立つ薄い金色のカクテルが載っている。
「ええ。ビールベースのカクテルで甘くて飲みやすいんです。ホップの苦さが苦手な人にも好評ですよ。特に最近の二十代のお客さんは男女関係なくこのタイプのカクテルをオーダーする数が増えていますね」
「そうかあ、ビールが嫌いな若者が多いってニュースでもやっていたものなあ。時代の流れってヤツなんだろうね」
「こればかりは好みですから。ビールベースではジンジャーエールで割った『シャンデーガフ』や、レモンソーダで割った『パナシェ』、トマトジュースで割った『レッドアイ』も好まれていますが、柚子が出回っている時期ではこの一領金波の生果汁タイプが一番人気です」
「では私はそれを一杯貰います」
と、景臣が手を挙げた。
「おいおい、上杉君、大丈夫かい。大分回っているけど」
「平気ですよ、社長。未だこれだけしか飲んでいないですから」
よく見ると追加追加でもう三本も空けていた。それでも景臣は押し通した。
「それに歳と性別で余所ではなかなかカクテルなんて頼めるチャンスもなかったですから。前から興味はあったんですよ。だからオーダーを」
「分かった、分かった。じゃあ、もう今日はそれで最後に。ヨシ君、私にも一杯頼むよ。おっと、朝妃さんは忙しそうだね」
会のドリンク注文が多いのか、手が離せず未だあちこちと立ち回っている。
「大丈夫ですよ、武田さん。それならここで作れますから」
「え、ヨシ君が?」
「少々お待ち下さいね。先にガーニッシュ(カクテルの飾り)を仕上げます」
吉継はフルーツナイフで器用に柚子の皮を細くカットし、それをハートの形に整えると、マラスキーノチェリーにそれを差し込み、マドラー代わりのストローの途中にそれを飾り付け、瓶ビールからピルスナーグラスに泡を壊さないように半分静かに注いだ。それからソーダを半分注いでストローをドリンクに差し入れ、七つ酢漿草(カタバミ)の家紋コースターの上に置いた。
「お待たせしました。長宗我部盛親のオリジナルカクテル『一領金波』生タイプです。最後に柚子の絞り汁を好みの分量だけ混ぜて下さい」
吉継はカクテルと同時に二つにカットして、絞りやすいように実に切り込みを入れた柚子とスクイーザー(レモン絞り器)を二つ差し出した。
「へえ、自分で絞るのかい、面白いね」
「出来合いの瓶の果汁でなく、生の絞りたてですから風味もフレッシュなんです。これも人気の一つです」
「ほう、これは絞る時に柑橘の良い香りも漂うねえ」と景臣は気に入って早速絞り汁をカクテルに入れてストローで混ぜてグラスを傾けた。
「くはあー、これはいい!もはやビールとは違うけどさっぱり甘い。人気があるのもうなずけるよ。病みつきになりそうだ」
「ふむ、上杉君の言う通り、確かに口当たりも爽やかだ」
信義は半分飲んだカクテルを眺め、しみじみと思い浮かんだ情景を語った。
「しかし一領金波とはよく名付けたものだね。死生知らずの野武士なりと有名な土佐の下級兵である一領具足が活躍し、四国の覇者となった長宗我部元親。彼の本拠地であった浦戸城に映える土佐の海はまさにこのカクテルの如く金色の波が輝いて見えただろう。だが、跡継ぎの盛親は関ヶ原で敗れ、所領は全て没収。波は打ってまた引いていく。金波とは美しいが長宗我部家の無常を感じるね」
「そうです。そのカクテルの名付け親の父さんも同じ風に語ってました。ガーニッシュのサクランボの赤は沈みゆく夕暮れの太陽だって」
「じゃあこのピールのハート型はカタバミの形だね。長宗我部の家紋の」
「はい。子孫が繁栄する縁起の良い植物です。この辺りでは見慣れませんが高知では有名な紋ですよ。母さんはその形から『長宗我部ハート❤盛り盛り』とか変な名前をこのカクテルに付けようとしてましたからね」
「………相変わらずおねさんのセンスは独特だね」
「そういえば長宗我部は岐阜とも深い縁がありますから、このカクテルには父さんも思い入れがあるみたいです」
「うん、元親の母も妻も美濃の斎藤氏だからね。つまり盛親にとっても母親が斎藤になる。しかし、その斉藤家の血筋は明智光秀に繋がっていて、光秀は信長の四国侵攻を巡って対立し、やがて本能寺の変を起こしたとする新説も近年唱えられたね」
「さすが関ヶ原街角案内ボランティアガイドを兼任している武田さん。お詳しい」
関ヶ原では駅前観光交流館を拠点として観光客に道案内をするガイドを春から秋の間常駐させている。信義は協会の中でもトップクラスの歴史知識を有していた。主な業務が施設内においての案内係であるので、史跡の場所さえ分かっていれば事足りるのだが、それでは遠方から楽しみに訪れたお客さんに申し訳ないと猛烈に戦国史を学んだ。それゆえに関ヶ原に関する武将の知識のみならず、戦国から幕末までの造詣も深く、観光に訪れた人から何か尋ねられたら即座に蘊蓄を披露するまでになっていた。
「休みの日だけ、ね。ヨシ君は中学生になったら夏休みにガイド体験をするの?協会の方は募集しているけど」
「いえいえ、店の手伝いもありますし、何より名前がちょっと」
「ああ、観光客にからかわれちゃうか」
「ん、からかわれるってどういう事です、社長」
景臣がその意味を問い質した。
「ヨシ君の苗字は小早川なんだ」
「え、あの小早川秀秋の?」
「あんな裏切り者とは一切関係ありませんけどね、ウチは!!」
吉継は力を入れて即座に否定した。
【おい、主、本人を前にしてその口舌はなかろう】
胸元の金吾が不機嫌に割り込んできた。
吉継は額に青筋を立てて返した。
【黙れ、この酒乱】
【何を申す。未だビールを一瓶空けたのみじゃ】
【こら、やっぱり上杉さんの酒の減りはてめえのせいか!】
「………あの、ヨシ君、平気かい?」
胸ポケットを見続けている吉継を心配して信義は声を掛けてきた。
「あ、いや、何でもありません。それよりこの盛親のカクテルですが、柚子以外で欠かせない物があるんです」
「おや、ソーダとビールと柚子果汁の他に何か入ってたかな」
グラスの中を確認する信義に「これです」と吉継はとあるメーカーの瓶ビールを置いた。
キリンのラガービールである。
「ラガーが?」
「いえ、酒の銘柄でなくポイントはラベルデザインです」
「ああ、麒麟だよね。空想上の動物で霊獣とされている」
「ええ、父さんが教えてくれたんですけど、実はキリンビールの前身であったジャパンブルワリーカンパニーの重役をしていたのがトーマス・グラバーなんです。その時代に創られたのがこの麒麟のデザインで」
「グラバー?あの幕末に暗躍したスコットランドの貿易商?」
「そうです。そのグラバーと繋がりがあったのが坂本龍馬です。この麒麟のデザインの基となったのは狛犬だとか太宰府天満宮にある麒麟の像だとか説が色々あるんですが、龍馬の名前から連想されたという伝説もあるんです」
「あー、なるほど。そういう関連性か」
「どういう関連性です?」
ここで景臣が首を傾げた。二人の応酬がさっぱり理解出来ない。
信義は言った。
「上杉君はグラバーの名前くらい知っているだろう」
「長崎のグラバー園のですよね」
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